堤敦朗さん
国連大学グローバルヘルス研究所(クアラルンプール)コーディネータ
堤敦朗(つつみ・あつろう):1975年生まれ。福岡市出身。国際基督教大学教養学部卒業後、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。保健学博士、医学博士。WHOテクニカル・オフィサーとして、インド洋大津波対応の他、災害精神保健ガイドライン作成等を担当。その後、JICAで初めての精神保健に関する長期専門家として、中国・四川大地震後の心のケアプロジェクトを統括。国連大学では、非感染症・精神保健・障害者の権利等に関し、持続可能な開発目標や仙台防災枠組など国連のフレームワークづくりに従事した。 |
Q. 堤さんが今どういったお仕事をされているのか教えてください。
一年の間に、自殺で亡くなる方はどれくらいいると思いますか。実は、世界で約80万人。これは、国際の優先課題である妊産婦死亡や紛争で亡くなる方よりずっと多い数字です。更に言えば、2人に1人は一生に一度は何らかの精神疾患を経験し、途上国では重篤な精神疾患をもつ方の80%が適切な治療を受けられていません。災害が起きると、この傾向はより強くなる可能性があります。このような統計をみると、精神保健は世界の重要課題の一つであるべきではないかと、多くの方が直感的に感じるのではないかと思います。また、復興のためにはこころのレジリエンスが必要ですし、平和構築も人々のこころの回復なしでは実現できません。つまり「こころ」というのは常に様々な問題の中心にあって、それなしでは何も成し遂げられないわけです。ですが、実際には、国際社会において精神保健はずっと陽の目を見ず周辺化されてきました。ですから、私のライフワークは、精神保健を世界の優先課題にするということなのです。
そのような中、今、大きなプロセスが終わったところなんです。2015年は、開発の世界において非常に大きな一年でした。1つは、3月に採択された仙台防災枠組の決定です。これは、今後2030年までの国際社会における防災をめぐるグローバル・フレームワークとなります。もう一つは、みなさんおなじみの持続可能な開発目標(以下SDGs)の採択ですね。これらが今後の国際社会の重要な枠組になります。
防災に関しては、仙台防災枠組ができる前には兵庫行動枠組が、開発目標に関してはミレニアム開発目標(以下MDGs)がありましたが、これらの中に精神保健や障害の側面は非常に限定的にしか含まれていないか、全く触れられていませんでした。ですので、新たなこの2つの枠組の中に精神保健と障害を含めるというのが僕らの大目標であり、そのために走り回っていたんです。ですので、2015年3月に仙台防災枠組、9月にSDGsが精神保健や障害を含む形で採択されてほっと一段落したところです。
Q. 採択された国際的な枠組を進めていくためには、今後はどのようなことが重要になってくるのでしょうか。
今後大事になっていくのは、精神保健やウェルビーイングの促進と、障害者の包摂とアクセシビリティーをめぐる政策をいかに実現していくかだと思います。今までは国際的な政策づくりが焦点でしたが、今後は現場での法の整備、そしてエビデンスに基づき害のない形でのプログラム作りや実施とその持続性の確保、それを担う人材育成といったところが焦点になると思います。国際機関に関しても、これまではニューヨークやジュネーブなどの本部ベースの活動が多かったのですが、今後は国事務所や各国政府とより密接に仕事をしていくという流れになると思います。そのための資金の確保も重要な課題です。
同時に、精神保健を測る指標の確立という、非常に難しいけれども喫緊のタスクがあります。自殺率が一つの案として提示されていますが、個人的にはもちろん自殺率は一つの大切な指標になりうるけど、それのみを指標とするのは十分ではないと考えています。イスラム教の国や地域などでは、自殺を罪とするところもありますし、多くの文化においてスティグマもありますから、実数が出てきにくく、モニタリングが非常に難しい。例えば、私が勤務するマレーシアでは自殺は犯罪で、自殺率も世界的にみると低い。ただ現地の専門家は、睡眠薬を飲んで車を運転しての自殺が多いのでないかと言っているんです。しかし、その場合も、統計上は自殺ではなく交通事故死となってしまうんですね。このあたりは、まさに文化や国の政策などが複雑に絡み合って、国連らしい議論になりますね。
Q. 堤さんは精神保健をSDGsに含めるという過程の中で何をされたのでしょうか。
結局、国連の仕事は、いろいろな積み重ねだと思うんです。いろいろな数字を使ってSDGsに精神保健を入れることが大事だということは、様々なステークホルダーが言っていたのですが、口に出したから入るというわけではなくて、実際には、外交のプロセスに適切に乗せないと実現は難しいわけですよね。何が大事かというと、国連や加盟国がその課題の重要性を認識し、国連総会などの場で議論をできるように持っていく必要があるわけです。
ですので、仲間たちとまず取り組んだのは、加盟国や国連機関、NGOやその他のステークホルダーのためにUNDESA(国連経済社会局)とWHOによる共同文書を作ることで、「MDGsの達成のためには精神保健を優先事項として含めることが欠かせない」という政策文書を出すということをしました。また、それを受け、「障害と開発に関するハイレベル会議」のプロセスの一環として、UNDESA、WHO、国連大学、東京大学、マレーシア政府、NGOといった様々なステークホルダーと共同で、国連で初めての「開発における精神的ウェルビーイングと障害に関する国連専門家会議」をマレーシアで開催しました。その会議において、関係機関すべての合意のもと共成果文書を採択しました。
国連文章としては背景がカラフルで珍しい「開発における精神的ウェルビーイングと障害関する国連専門家会議」成果文書。目を向けられにくい分野に目を向けてもらうための工夫。視覚障害を持つ方のためにテキスト・バージョンも作成。デザインは日本のアーティストがボランティアで担当し、持続的な開発におけるこころの大切さを表現するために、公園に落ちている木の枝を拾って、それに絵の具をつけて絵を描いてくれたという (クリックで拡大)。
一方で、精神保健や障害をめぐる国連での議論には、アカデミアとの協力も欠かせません。ですが、精神保健や障害に関連するアカデミアにおいては、仙台防災枠組やSDGsなどをめぐる、プロセスや今後をめぐる詳細について、あまり知られていなかった部分があったように思います。ですので、学術界においてもこれらを知ってもらうために、精神保健をSDGsの要素としていく過程について、ランセット誌(The Lancet: 世界で権威のある医学ジャーナル)に今年は3本のコメントを載せたりして、国連とそれ以外のコミュニティーの橋渡しができればと、活動を行ってきました。
Q. SDGsの中に精神保健が入った時にとても喜んだというお話を伺いましたが、自分が働いていて楽しかったエピソードは何かありますか?
国連専門家会議を開いた際など、人種も、宗教も、機関も、立場も超えて、多くの専門家や実務家が集まり、一つの課題をめぐって議論している時にはすごく不思議な感覚があって、大変な一方、大きな幸せを感じて心躍りました。最近は議長を務めさせていただくこともあるのですが、共同議長がずっと一緒にやってきた仲間だったりして、とても感慨深くなることがあります。ただ、会議が始まってしまうと、そんな感慨を味わう余裕はなかなかなくなり、もうジェットコースターのようで、緊張して張り詰めています(笑)。また、その国連専門家会議に精神障害や知的障害を持つ方に来ていただいたことは忘れられないですね。小さな声で、ご自身の人生のストーリーを話してくれました。会議の参加者はみんな吸い込まれるように聞き入っていました。国連専門家会議では初めてのことだったかもしれません。
Q. 途上国において精神保健はどれだけ認識されているのでしょうか。
やはり、途上国における精神障害へのスティグマや差別はとても大きな問題です。手かせ足かせをされたり、檻に閉じ込められたりといったことがまだ残っている場所も沢山あります。学校や地域から追い出されたり、家族や子どもを持つことを否定されたり、性的暴行を受けたり、殺されてしまうことさえあります。精神障害をめぐる人権意識は、様々な国においてとても大きな課題です。
災害時の精神保健の重要性は、段々と認識されつつあるように思いますが、昨今は、それと関連して別の問題が生じることもあります。というのは、いわゆるベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)が満たされない状態で、エビデンスに基づかない心理的介入プログラムが現地のニーズや状況を顧みずに提供されていることがしばしばあるんです。例えば、シリアの紛争現場に行って、寝るところも食事もままならないところで、「さあグループ・カウンセリングしましょう」というのは意味がないし、危険です。
本当に必要なことは、あらゆる人道支援・開発支援の隅々に、人間の感情や精神保健への配慮を行き渡らせること、そして、人々が自ら不安や恐怖や憎しみから回復していくことができるように文化やコンテクストに合わせて持続的に支援すること。そして、精神疾患をもち、医療や社会的支援を必要とする人々に、エビデンスに基づいたサービスを持続的に提供できるシステムを構築することです。そして、精神障害・知的障害をめぐる物理的・心理的、そして情報を巡る障壁をなくし、包摂的でアクセシブルな社会を作ることなんです。
Q. 堤さんが開発の世界に入ったきっかけを教えてください。
僕は1975年生まれですが、小学生時代がまさにイラン・イラク戦争の頃だったんです。出身である福岡市の公立小学校では、8月9日が平和学習のための夏休みの登校日だったんですね。そして、ほとんどの小学校は、修学旅行で長崎に行っていました。ですので、わりと戦争などについて考える機会もあり、漠然と「戦争は怖いものだ」と感じていました。また、思春期の頃には明石康さんや緒方貞子さんがテレビに出ていらっしゃることも多く、国連の活動を目にしやすい時代でもありましたし、そこで日本人が活躍していることに誇りと憧れをもっていましたね。
また、大好きだった祖父がハワイ出身でその血が流れているからなのか、将来は国際的な方面に進みたいなと漠然と思っていました。そういうこともあり、教育への関心を経て、ハンセン病をめぐる差別や精神障害への人権侵害などに興味がでてきたのです。また、災害への関心がでてきたのもその頃です。一つのきっかけは、単身赴任をしていた父親が阪神淡路大震災で被災したことでした。無事だったんですが、数日間連絡がとれなくて。
実は1995年の阪神淡路大震災は、日本の精神保健分野でもとても大きな転換をもたらした出来事でした。それは、PTSD(Post-Traumatic Stress Disorder: 心的外傷後ストレス障害)をはじめとする災害後の精神保健の学問的概念がより本格的に広く知られるきっかけになったからです。日本の精神保健の専門家や海外のNGOや大学が、神戸を中心に、精神保健サービスやプログラムを実施するのを見ていました。
一方で、海外からいらしたグループの中には、日本の文化をあまり理解せずに配慮が足りない形で精神保健支援を行ってしまう人たちもいました。海外から突然神戸にやってきて日本の被災者に矢継ぎ早に心の痛みをえぐるような質問をして、数日後に消えてしまうといったこともあり、そうしたことが一つのきっかけになり、援助や精神保健支援の倫理が問われるようになりました。善意に基づいていたとしても、害のある支援ではいけない、ということを強く教えられた気がします。
大学卒業後は、半年間パキスタンのペシャワールにおいて、ペシャワール会というハンセン病患者支援をしているNGOにお世話になりました。多くの人は、病気になると、親や友達がお見舞いに来てくれたり、優しくしてもらえることが多いのに、ハンセン病の場合は、感染するとスティグマや誤った知識のせいで、家族や地域から縁を切られてしまったり、社会から疎外や差別されてしまうことが多いんですね。そして、彼らの精神保健は、当時素人だった私にでも目に見えるほどとても厳しい状況にあったんです。日本でも、患者さんたちや元患者さんたちは隔離された生活を余儀なくされていたんですよね。そうした実態の中で働かせてもらい、社会的に疎外されている人たちの精神保健、そして尊厳の回復と、社会側が変えねばならないことというのが一番の関心となり、大学院に進んで研究を行いました。
Q. 博士課程修了後はどうされたんですか。
運よく空席公募で採用されてWHOに入り、2004年のインド洋大津波の頃、災害精神保健のガイドライン作りを担当しました。その後、今後世界でやっていくためにももっと日本での研究や国や市町村レベルの行政の現場をしっかり学びたいと思い、日本の研究所などで4、5年働きました。その間に、国連のコンサルタントをしたり、新潟中越地震の際には半年間新潟に派遣されて行政支援や県庁との共同研究をしたりしました。本当によい経験をさせていただいたと思っています。
Q. 中国、成都ではどのようなお仕事をされたのでしょうか。
2008年に四川大地震が発生し、約9万人の方々が亡くなったんです。日本政府は、緊急援助隊を派遣して救助活動を行ったわけですが、日本の緊急援助チームは遺体を毛布にくるみ、敬礼をしてから移動させるといったことをされていたんですね。そうした亡くなった方への弔い方や敬意のはらい方が中国で報道されたそうです。
そのようなこともあり、日中の首相級会合で、JICAを通し、5つの分野で協力することになったのですが、ハード面での支援だけでなく、こころの側面にも取り組もうという話になり、精神保健システムづくりのプログラムがJICAで初めて作られることになりました。システムづくりといっても、まずは当事者の話を聞かなくては始まりませんから、本当に現場には何度も行って話を聞かせてもらいました。貧困地域の村から中央官庁まで、あらゆるところに行かせてもらいました。成都にある四川省の地方政府庁舎の中にオフィスをもらい、隣の部屋にカウンターパートがいるという恵まれた体制でした。本当に現場の経験は勉強になりました。そして、現場の助けとなるような世界の枠組を作れたらと思い、国連システムに戻ったんです。
Q. 国連での枠組づくりと現場、それぞれのよさはどこにあるでしょうか。
ペシャワールや四川で現場を経験していたので、国連で政策や枠組の議論をする時に、それによって現場がどう変わるのかを想像しやすかった、という点がまずあると思います。ずっと政策だけをやっていたら持てない視点だったかなと思いますし、自分が頑張るモチベーションにもなりました。現場では、どうしても今生じている問題を解決することが当然求められますし、でも、誰かがそれをやっている間はいいけれど、その人がいなくなってしまうとまた問題が元に戻ってしまうようではよくない。現場で実践してみてうまくいったことは、例えば制度化するなどして、人が変わっても良い効果が続いていくような仕組みにしていくことが必要ですよね。逆に政策や枠組を作る人には、間接的でも被益者が誰で、各分野でどのような具体的な影響があるのかといった具体的なイメージがもてないと、いろいろと難しいんじゃないかなと思います。
Q. 注目されてこなかった分野を続けてこられた理由はどこにありますか。
あまのじゃくだからでしょうか(笑)。やっぱりめげずに精神保健に継続的に取り組めたのは、理解して一緒にやっていける仲間たちがいたからですね。僕の場合は国連本部で精神保健担当チーフをしていらした井筒節先生。大学院も一緒で、お互いなんとか助け合ってやってこられたというのが大きいです。また、田瀬和夫さんや伊東亜紀子さんなどが支えてくださったことも、本当にありがたかったです。大学院の教授も自分がやりたいと思うことを実践するのを支えてくれました。本当に人には恵まれてきました。
あとは、頑張ればなんとかなるんじゃないかという漠然とした思いがあったこともあります。地道に現場の本当のニーズをうまく言葉にして、それぞれのステークホルダーが理解してくれる形に翻訳し、共有すれば、自ずと結果がついてくるのではないかと。国連で使われる「言葉」は独特なところがありますし、独特なプロセスを経てものが決まっていきますので、これを理解した上で、うまく翻訳して形にしていく、できるだけ全てを国連で通じる言葉にして残していくということを常に意識してきました。
Q. やったことをすべて残していこうということは、どういうきっかけで意識するようになったのでしょうか?
例えば、日本の経験から学びたいと思っている国はたくさんあります。日本は神戸の震災も東日本大震災も経験している。だから各国は、日本の経験を学びたい。ですが、途上国を含む様々な国の人々が分かりやすい形でそれらを共有するためには、工夫が必要ですよね。言語の面でもそうですし、それだけではなくて経験を効果的に共有するためには戦略的に取り組まなくてはならない部分がある。
例えば、現場で頑張っている人たちの貴重で素晴らしい経験をどう伝えていくのか。伝えるためには、伝えてくれる人、受け取ってくれる人、彼らをつなぐノウハウ、それを保持するための場所など、いろいろなものが必要なんですよね。せっかくの様々な実践や知識が言語やその他の理由で共有できないということになると、日本にとっても世界にとってもとてももったいないですよね。特に国連においては、過去の文書が元となって、その積み重ねとして、次の文書がだせたりするんです。私たちが今目指していることは、例えすぐには達成できなくても、文書をきちんと残していけば、将来、それを土台に同じような思いを持った人たちが形にしてくれられるかもしれない。
今回の精神保健をめぐる国連での動きも、我々よりも昔に、様々なステークホルダーが積み重ねてくれた涙の結晶というか、基礎があったからこそ、達成できたことなんです。国連の独特な言語や文化をきちんとわかっている人はあまり多くないので、SDGsや仙台防災枠組に精神保健が新たに入るにあたって、そしてこれから実践していく中でも、過去の努力やコンテクストをきちんと理解できるようにしておくことは大切です。
具体的には、戦後まもなくできたWHOの健康の定義や国連が定めた健康権に加え、関連する国連決議や条約もコンテクストの理解と共に網羅しておく必要がある。過去のことを知った上で、同時に今と先を見て、積み上げていく必要があるんだと思います。SDGsや仙台に精神保健が含まれた流れに関しては、それを振り返った本を、僕と井筒先生と伊東さんと出版したばかりですので、お時間があればぜひ読んで頂きたいです。(末尾参照)
こういった内容の本を書く時にアーティストの人と話をすると、共感してくれるんですよね。好意的に写真や絵を提供してくれます。そういった力をもっと生かしていけば、新たに素晴らしいものが生まれそうですよね。
国連に限らず、日本は国際社会の中で大きな役割を担っている一員ですし、それぞれの立場で、経験や知識を形にして、素敵な形で世界に発信していけるととても良いと思うんです。グローバルというのは、別に海外に出て活動することだけでなくて、日本の地方都市においてもグローバルな活動はできるし、地方都市だからこそもっている知見も沢山ありますよね。
Q.精神保健の分野を広めていくにはどういうことが重要になってくるでしょうか。
仲間たちとは、これからは文化・芸術がとても大事になるだろうと話しています。辛い時に、本や音楽や映画がこころを癒してくれたり、勇気をくれたりしますよね。素敵な舞台を見た後に、意地悪な顔をしている人がいないように。それから、ビジネスの力も大きいですよね。やはり、国連だけでは当然アイディアには限りがありますし、民間セクターと一緒になってアイディアやノウハウを出しあえると、新しい力が生まれると思うので、話し合えるような機会をもっと増やしていけたら良いですね。ほかにも、若者、エンターテイメント界、芸術家などが興味をもってくれると良いなと思います。
Q.国連で働いている時の1日はどのようなスケジュールなのでしょうか?
典型的な日で言うと、7時くらいに起きて子どもを起こし、お風呂に入れて、その間に妻が朝ごはんやお弁当を作ってくれます。8時半に娘を幼稚園に連れて行って、オフィスに着くのは9時半くらい。それからメールをチェックしますね。世界中の仲間たちとミーティングをしたりしつつ、午後は文書作成などアウトプットの作業に使うことが多いです。
会議は思ったより多くないですが、月に一度は国連各機関の垣根を越えた集まり(カントリーチーム・ミーティング)があるので、そうした会合に出席しています。例えば僕はマレーシアで障害に関する会議を立ち上げて議長もやっています。UNICEF(国連児童基金)からは子どもと障害に関する報告があったり、UNFPA(国連人口基金)とは障害を持った女性の出産についての勉強会をしたり、関連するプロジェクトの話をしたりしていますね。
国連は、ワークライフバランスがとりやすい職場だと思います。私も、自分で時間をコントロールできていると感じています。ただ国際会議の前などになると時差のある世界各国とのやりとりやインフォーマルな形での成果をめぐる交渉も続くので、不眠不休が続きますね。
Q.休みの時は何をされているのですか?
ほとんど子どもと遊んでいるかな。それから仲の良い友人家族などと美味しいものを食べに行ったり、公園に行ったり。仕事はできるだけしないように心がけていますね(笑)。3日間以上休みがあれば、どこかに旅行に行くことが多いです。
Q.国際的な方面で働きたい人にメッセージをお願いします。
どの分野に進むにせよ、人間と関わる以上、その根本には人々のこころがあるということを意識してもらえるととても嬉しく思います。人間は感情の生き物なのに、どうしても人のこころは目にみえないし、ついつい意識しないで議論しがちです。でも、私たちの行動のほとんどは、それは個人としてでも、開発などに関わるプロジェクトであっても、相手は人間なわけですから、こころや気持ちを持っているんですよね。だからこそ、当事者を巻き込んで、ちゃんと話をしながら、進めていくことが大切なんだと思います。ありとあらゆるすべての分野において、人のこころに気をくばるという視点はとても大切だと思いますし、今後は、国連や開発、平和等をめぐる分野においも、少しずつ注目されていくのではないかなと思います。
あとは、自分が情熱のもてる専門性を確立することも大切であるように思います。そしてそれがSDGsの中でどういう役割を担っていて、そのために自分はどういう貢献をしたいのかということを考えるとよいと思います。専門性の中身も大切ですが、それが世の中や人間との関係の中で、どういう位置を占めているのか、大きな流れの中で見てみることも助けになるように思います。
国連を目指しておられる方たちには、ぜひがんばってほしいと思います。国連で働くということが最終目標ではいけないと多くの人が言いますが、最初の入口がそういう目標でも間違いではないと僕は思っています。最初の自分の感情を大事にすることは良いことだと思います。きっとそこには何かの種があるように思います。国連で働きたいと思った人は、なぜそう思ったのか、自分がまだ気づいていない理由や情熱がどういうものなのか、ゆっくりみつけつつ、がんばってほしいなと思います。
人間は、どうしても大上段から、つまり演繹的に考えすぎるところがあるけど、演繹的に考えすぎると自分が何をやりたいのかよくわからなくなってきてしまうこともありますよね(笑)。僕も、大学1年生の時にニューヨークに旅行に行って国連本部を眺めた時に、「ここで働きたい!」という思いや憧れをもったんです。それでがんばれたというところもありますしね。だからぜひ。つらいことも多いですけれど、やはりエキサイティングで、とても魅力的な職場です。
2015年12月12日東京秋葉原にて収録
聞き手と写真:桑原未来、田瀬和夫
編集長:田瀬和夫
原稿起こし等:桑原未来、田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫