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第41回 帯刀 豊さん  

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) 
バスラ/イラク フィールドオフィサー

帯刀 豊(たてわきゆたか):東京都生まれ。一橋大学法学部。英国エディンバラ大学法学修士(LL.M.)。英国オックスフォード大学難民学修士。銀行勤務(東京銀行-現東京三菱UFJ銀行)、外務省経済協力局出向、アジア経済研究所開発スクール、旧ユーゴスラヴィア戦犯法廷インターン、UNHCRインド、ダルフール/スーダンを経て、2009年初より現職。

 

1.はじめに
イラク南部、チグリス、ユーフラテス両河が合流する地点にあり、人口およそ200万人(イラク全人口のおよそ6%)を有するイラク有数の人口密集地、バスラ州。古くは航海の拠点として栄え‘アラビアンナイト’の舞台ともなりました。イラク南部はまたウル、ウルク、ラガシュといった世界最古の都市文明の遺構を有し、「文明のゆりかご」とも称せられます。歴史ファンなら涎垂の地、それがバスラの一面です。

輝かしい古の歴史に比し、バスラの最近は非常に苦しいものでした。イスラム教シーア派の拠点であるバスラは、スンニ派のサダム政権下で冷遇・抑圧され、サダム政権崩壊後の宗派間抗争ではシーア派の拠点として闘争の場となり、また占領軍である英軍・米軍とシーア派民兵サドル軍との戦闘下、多くの家屋、学校、病院などの生活拠点が破壊されました。多くの少数宗派(スンニ派やキリスト教徒など)に属する者はバスラを離れ、隣国や国内の他地域へと逃れ、また逆にシーア派の者が他の地域からバスラへと逃れ、難民、国内避難民となりました。

難民、帰還民、国内避難民の住居

私が2009年初、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のフィールドオフィサーとして、また2003年のUNHCR撤退以来初の常駐外国人スタッフとしてその地に降り立ったバスラとはそのようなところです。赴任以来1年半が経過しますが、その間、日々、様々に印象深い経験をしました。以下では、バスラにおけるUNHCRの貢献について最初に簡単に触れたうえで、私自身がバスラで実際に経験し興味深く思ったことを、特に日々のオペレーション環境とそのチャレンジに焦点をあてて取り上げてみようと思います。

2.UNHCRとバスラ
2003年、バクダッドで多くの国連職員が爆発の犠牲となって以来、UNHCRは他の国連人道機関とともにイラク国内のオフィスを閉鎖しました。UNHCRが再び常駐の外国人スタッフをイラク国内に送り込むのはそれから6年後の2009年になってからです。私はその一人としてバスラに赴任しました。現在、UNHCRはバスラ以外に、首都バクダッド、及び北部のエルビル、キルクーク、モスルに外国人スタッフを常駐させています。

UNHCRは難民、帰還民、国内避難民、及び無国籍者の保護(プロテクション)を旨とする国連機関です。UNHCRのバスラ・オフィスが管轄するイラク南部諸州(Basrah、 Missan、 Thi-Qar、 Qadissiya、 Muthannaの各州)では、約18万人の国内避難民(イラク全域で約150万人)、約5千人の2009年に帰還した帰還民(同15〜20万人)、および約千人の難民(同3〜4万人)が統計上存在します。‘統計上’と留保したのは、これまで治安の問題や厳しい移動の制限からこうした数字を裏付ける手だてがなかったからです。

破壊され、再建中の建物

さて、UNHCRはこのうち特に保護・支援を必要とする者につき、法的サポートや物資支援を行っています。法的サポートとしては、戦乱を逃れてきた国内避難民、難民、及びかつて戦乱を逃れ今再び故郷へと戻った帰還民につき教育・医療などの公的サービスが正当に受けられるよう、地元政府に働きかけ必要なサポートを行うとともに、政府への登録やIDカード取得に付随する様々な障害(例えば、逃れてきた地域に書類を取りに戻る困難や書類の消失、政府側のIT技術の不慣れや人手不足による深刻な登録作業の遅れ)を取り除くことに努めています。物資支援としては、そうした公的サービスへ未だアクセスできず劣悪な住環境に置かれている国内避難民、難民、及び帰還民に対し、シェルターの修理・建築、水の供給の確保、及び生活必需品(プラスチックシート、毛布、敷物など)の配布を行っています。その他、少額(5千〜1万USドル)のコミュニティ・ベースのプロジェクト(例えば、女性の権利教育や衛生教育事業)を地元のNGOに任せ、その能力育成を計っています。

イラク南部は油田に恵まれ、2010年3月の総選挙を経て、近く治安さえ落ち着けば経済的に大きな可能性を秘めた土地です。UNHCRはそうした近い将来の可能性を念頭に、経済活動からの恩恵や資金的に潤った公的機関からのサービスから漏れつつある国内避難民、難民、及び帰還民にセーフティーネットを提供し、その劣悪な生活環境の底上げを行い、更に一時しのぎのための支援ではなく、より長期的にどう生活を安定させたいのかを彼ら自身に問い、帰還、或いは今住んでいる場所での再定住の手助けをしているのです。

3.チャレンジ
(1)軍隊の生活
私はフィールドオフィサーの肩書でバスラに着任しましたが、実際にはまずフィールドワーク以前の課題、つまりバスラにフィールド・オフィスを立ち上げ、オフィス設備を整え、他の外国人スタッフを招き入れ、組織とオペレーションの両面からフィールド・オフィスをマネジメントすることを任務としてきました。2003年以来、私がバスラに赴任するまでの6年間は、クウェートにいる外国人スタッフが、在宅で働くイラク人現地スタッフに対し、電話やメールで仕事の指示をし、報告を受けていたのです。現在は、私の他に、2名の外国人スタッフ(フランス人とアルジェリア人)が12名の現地スタッフとともにバスラ地域内で仕事をしています。

‘バスラ地域内’とはいうものの、残念ながら実際には治安上の理由から、フィールド・オフィスはバスラ市街ではなく、2〜3km四方の広大なバスラ空港敷地内の一角に設けられた米国拠点(正確には嘗てのUS Regional Embassy Office、現在はUS Provincial Reconstruction Team−PRT)に居候している身です。居候のために実際に米国と覚書を調印しているのは現地DPKOミッション(UNAMI)ですから、UNHCRは居候から居候させてもらっていることになります。(決して安くない利用料を払ってですが。)

米軍のプロテクション・フォースに守られ、4畳半程度の広さで簡素なベッドと机、衛星TV、トイレ・シャワー付きの部屋に住み、肉とポテトフライを主とする(変化の乏しい)アメリカ式の食事(但し禁酒)、対照的に豪華すぎるスポーツ・ジムなど、その住環境は米軍の兵隊の嗜好に完全に合わせられています。衛星TVで流れるのは毎日、野球にアメフトにバスケ、ハリウッド映画にCNN、FOXTVです。オフィスとしてはPRTの敷地の隅に2、3のプレハブのコンテナが、現在バスラに常駐しているUNHCRとUNAMIにあてがわれているのみです。

フライト待ち

100余名を数える米軍関係者に交じってほんの数名の常駐国連スタッフが活動するにあたって、移動の際のエスコートや米軍輸送機(C-130)の利用、メディカル・クリニックの利用や車の整備、会議室、その他米軍設備の借用など、多くの面で米軍のサポートに頼っているわけですから、彼等と親密かつ良好な関係を保つことはいわば死活問題と言えます。いわゆる‘民軍連携’ですが、これがなかなか、“語るに易く行うに難し”です。人道支援者が言うところの“状況と裨益者に応じた柔軟な対応”は、彼等に言わせれば“無計画・無規律”ということにもなります。例えば、1週間前にPRTへのエスコートを依頼した10名のイラク人訪問団に前日、緊急の必要からわずか1名追加しようとしても、軍隊の統制上の理由からなかなか受け入れ難いこともあるようです。また、スタッフの福利厚生の充実は“気持ちの弱さと甘え”ということにもなります。例えば、国連にあてがわれる予定のコンテナに窓の無いことに気づき、昼か夜かも分からない環境で働くことの精神衛生上の害を説明しても、軍隊では、“その一部で働く者がいちいち光の加減で時間を知る必要はない”ということになります。どうもなかなか話がかみ合わないといったところでしょうか。

(2)Tウォール
Tウォールとは、高さ4−5m、幅2−3m、厚さ0.5−1mほどのコンクリートでできた壁で、横から見ると逆Tの字に見えることからこの名があります。Tウォールはオフィスのある空港敷地を隙間なく取り囲んでおり、その内側が移動自由なグリーンゾーン、その外側が移動を厳しく制限されるレッドゾーンとなっています。Tウォールはグリーンゾーン内部も複雑に仕分けており、ちょっとした迷路を形作っています。グリーンゾーン内のTウォールは、敷地内にロケットが着弾した場合(今では月に2−3回ほど)、その殺傷力を抑える効果があります。Tウォールを見てイラクを思い出す人も多く、その模型は土産物としてもよく見かけます。

Tウォール

さて、我々国連職員がこのTウォールを超えて、バスラの街や村を訪れるにはどうすればいいのか。まず米軍のエスコートを少なくとも1週間前までに予約する必要があります。ほんの数名の職員に対し、米軍の軽装甲車(通称‘HMMWV’)が4台用意され、エスコートします。HMMWVの上には兵隊が銃を手に半身を乗り出し、周囲を警戒します。もちろん、兵隊はみな米国国旗の付いた迷彩服を身につけています。兵隊に加え、職員1人に最低1人の国連の雇ったボディーガード(通称Private Security Detail−PSD)が付きます。加えて、最近ではイラク人武装兵士・警察が米軍に付き添います。こうして、街でイラク政府の役人と話すにしても、村で裨益者に話を聞くにしても、職員数名に4台の武装した軽装甲車と10名近くの兵隊と警察、及びボディーガードを引き連れていくことになります。その物々しさや煩わしさはひとまず置くにしても、この集団は米国の国旗を掲げていくことになるわけであり、イラクにおける米国の立場を考えた場合に、国連が米国と同一視されて、共に攻撃の対象になることは十分考えられ、ましてや裨益者を訪れるとなれば裨益者そのものを非情に危うい立場に置くことにもなります。気軽にTウォールを超えて移動ができない所以です。

逆に、会議や意見交換のためイラク人である現地スタッフや政府役人などを、Tウォールを超えてPRT内に招き入れるにはどうするのか。現在、2通りの方法があります。1つは、Tウォールの外にある、従って国連職員の移動の制限された場所である駐車場を集合場所として、米軍に送り迎えをしてもらうことです。この場合、予約は1週間ほど前までに、1回の送迎の上限は12名、送迎は時間厳守で会合に合わせたフレキシビリティはないなど、様々な制限があります。もう1つの方法は、単純に歩いてチェックポイントを通過して来てもらうことです。簡単そうに聞こえますが、これが実にイラク人に評判が悪い。まず、数か所のチェックポイントで数十分、体を隅々まで調べ上げられます。携帯、その他の電子機器は取り上げられ、取り戻すために後日またチェックポイントを訪れる必要があります。なにより、入口から米国の拠点に近づくことは、米国との関係を他の多くのイラク人の目に晒すことにもなり、そのことをイラク人は今でも非常に危険に感じています。米軍はイラク人の目には紛れもない占領軍であり、理由は何であれ、街の破壊を行った張本人です。米国を敵視するシーア派民兵の残党、またその影響下にある政治団体は、衰えたとはいえまだ南部の街でその影響力を維持しており、米軍、及び米軍とともに行動する者の行動に憎悪の目を光らせています。街で頻繁するイラク人同士の誘拐、殺人事件のいくつかはこうした憎悪の延長戦上にあるものです。UNHCRの現地スタッフは、米国との関係を疑われることのないよう細心の注意をもって行動することを余議なくされ、外国人スタッフは、そうした現地スタッフの懸念をなにより尊重します。

バスラにいながらバスラは遠く、Tウォールは見た目以上の高さで我々を取り囲んでいます。

(3)遠隔操作
遠隔操作といっても爆弾の話ではなく、イラク人現地スタッフとの日々のやりとりについてです。(2)で触れたように、Tウォールを隔てて内と外にいる外国人スタッフと現地スタッフとが同じ場所で顔を突き合わせて働ける機会は限られており、すぐ近くにいながら日々、仕事の指示や報告はむしろ携帯電話やEメールによる‘遠隔操作’に頼ることが常です。現地スタッフは2003年来6年以上もの間、こうした環境の下で働いてきました。

オフィスと電話で連絡

しかし、インフラが未整備のままのバスラにおいて携帯電話やEメールがいつも安定的に使える訳もなく、残念ながらこうした職場環境は、外国人スタッフの目の届かないところにいる現地スタッフの一部に非生産的なインセンティブを与えることにもなります。要は手抜きやさぼりです。ひどいケースになると、副業を持っているということもあります。そもそも、実際に現地スタッフがどこにいて何をしているかについて正確に知る術はありません。現地スタッフ同士で悪意の申し合わせでもあれば尚更です。発信機能付きの携帯電話を持たせるとか、スカイプなどによるTV電話で毎日連絡を取り合うということも考えられますが、いずれにしてもこういった小細工は、真面目に働いている現地スタッフと外国人スタッフとの信頼関係を著しく損ないかねません。現地スタッフ同士の相互チェックについても、これは多分にイラク人的な考え方に依るのでしょうが、現地スタッフは職場の友人の不手際や不正を指摘し、糾弾するということをなかなかよしとはしません。彼らは互いの‘助け合い’をより重視します。お互いの批判は職場での軋轢につながりかねず、また様々な政治的・伝統集団的なしがらみが絡みあうバスラの現実において、現地スタッフの安全を脅かすことにもなるのです。

結局、現実的な方策としては、現地スタッフ各々に対しほぼ週単位で明確な仕事の目標と時間の枠を設定し、その達成をもって実働の証拠とすることになります。外国人スタッフとしては、日々、携帯電話を片手にPRT内を動きまわり、12名の現地スタッフに指示を与え、報告を受け、時に叱咤激励します。もっとも軍事演習上の理由から米軍がPRT内の携帯の電波を予告なしにブロックすることがままあり、その時はもうお手上げですが。

4.まとめと雑感
イラクにおいてUNHCRの裨益者が置かれた状況はそう目新しいものではありません。戦乱で破壊された家屋や学校、病院。戦乱を逃れた人、また逃れた地から帰る人を正確に把握、登録し保護することの難しさと現地政府による対応の不足と遅れ。宗派間抗争により未だに一部にくすぶる紛争・差別の火種。こうした要素は特にイラクでなくても今日、世界中の多くの場所で目にするものです。しかしUNHCRがイラクで置かれたオペレーション環境は非常にユニークなものであると言えます。これまで私が、オペレーション内容そのものよりもオペレーション環境について多く触れてきたのもそのためです。自分のスタッフと会議ひとつ持つだけなのに、どうしてこうも時間と神経をすり減らさねばならないのか。仕事の手を休めてTウォールのわずかな隙間に見える空を見上げながら時々ふと、自分が油で満たされたプールを泳いでいるような、なんとも重苦しい、もどかしい感覚に襲われることがあります。

人道支援者が、まだ紛争‘後’とも言えないような治安の不安定な地域で活動を始めてから随分な月日が経ちます。PRTが広範に展開し人道支援者が軍隊と寄り添っているという点で今日のアフガニスタンもその典型ですが、今後ますます、人道支援の場においていわゆる‘民軍連携’の機会は増えていくのでしょう。しかしその道程は決して平坦ではないように見受けられます。例えば、私がイラクで経験した状況にも多くの無駄、誤解、セキュリティ上の懸念、その他諸々の改善の余地が認められます。人道支援者がセキュリティを蔑ろにすることなく、しかし必要十分な程に迅速、広範、かつコミュニティのより近くで活動できるためにはどうしたらいいのか。そのあり方を探ることが、私が自分自身に課した今後の課題です。

外国人スタッフと共に

(2010年6月4日掲載 担当:高浜 ウェブ掲載:柴土)

 


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