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自然災害時の緊急支援
〜物流と軍民協力・日本とフィリピンでの活動を通して〜

近藤篤史

「国際仕事人に聞く」第16回では、「国際仕事人に聞く」第16回では、国連世界食糧計画(WFP)(※語句説明1)ご勤務で、現在東京大学在籍中の近藤篤史さんに、WFP物流担当官/軍民協力調整官として2013年11月にフィリピンで猛威を振るった大型台風30号(ヨランダ)(※語句説明2)により被害を受けた被災地での緊急支援活動の模様をお話いただきました。近藤さんは2011年3月に発生した東日本大震災の際にも、被災地で活動をしておられました。「物流」と「軍民協力」の二つの専門分野をお持ちで精力的に活動されている近藤さんに、あまり報道されなかった台風直撃後の現地の具体的な様子から、国連としての物流支援と軍民協力、海外からの支援と国内の対応、被災地としてのフィリピンと日本の違い、緊急支援における課題、今後の展望等を伺いました。(2014年2月 於東京)

近藤 篤史(こんどう あつし) 1976年生まれ。大阪府出身。2000年海上自衛隊幹部候補生課程により海上自衛隊に入隊。ヘリコプター・パイロットとして、日本近海での哨戒監視活動等に従事。勤務のかたわら通信教育で2005年近畿大学法学部法律学科卒業(法学士)。2006年12月海上自衛隊退官(最終階級1等海尉)。オーストラリア政府から2008年度のエンデバー奨学金を受賞し、ニューサウスウェールズ大学大学院にて法学研究科修了(国際法・国際関係学修士)。2009年春季にニューヨークの国連事務局フィールド支援局にてインターンシップを経験(本ホームページ掲載)。同年、採用ミッションにより国連世界食糧計画(WFP)勤務となり、スーダン・南ダルフール地方で物流担当官に就任。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、緊急援助チームの一員としてスーダンから日本へ派遣され、約4ヶ月、岩手県全域と宮城県の北部における物流支援等に従事。2011年11月、本部ローマの物流局航空科へ異動、入札及び契約業務に従事。2013年4月から休職、東京大学公共政策大学院に入学、現在に至る。



近藤さんが大型台風30号(ヨランダ)の被災地で活動することになった経緯を教えてください。

過去の勤務経験と人との繋がりによるもので、遡ると東日本大震災(※語句説明3)での勤務がきっかけと言えます。

2011年当時はWFP物流担当官としてスーダンのダルフールで勤務していましたが、元自衛官だったこともあり、日本政府との繋がりを期待され、東日本大震災発生後、一時的任務派遣という枠組みで緊急援助チームの一員として、4ヶ月間日本に派遣されました。そこでは、被災地の状況調査、WFPとしての活動計画や岩手県全域・宮城県北部地域の担当として物流支援及び食糧援助を行いました。

この度のフィリピン派遣は、震災当時の対自衛隊及び対地方自治体との調整・交渉業務への評価、さらには私の元自衛官としての知見をフィリピンの被災地で役立てて欲しいという同僚からの要請によるものです。台風ヨランダによる被害発生時、私は休職中であり大学で研究している身でしたが、一時的に職場復帰しフィリピンへの赴任要請を受けました。しかし、連絡を受けた当時、日本ではフィリピンにおける被害状況が部分的にしか報道されていなかったこともあり、私自身全容を把握していなかったというのが正直なところです。


フィリピンで行われていた他国からの緊急支援の状況やそれを受けるフィリピン側の対応を教えてください。

被災地への外国からの支援において、資金や物資援助だけでなく人的援助としての緊急援助隊を含む軍隊等が派遣されることがしばしばあります。台風の被害を受けた2013年11月8日以降、アメリカ、オーストラリア、カナダ、インド等、各国の援助隊や軍隊が被災現場に派遣されてきていました。一般的には、発災後72時間が生命を助けられる時間だと言われており、より多くの人命を救助するために、より多くの人手が必要です。また、その72時間を過ぎると人命救助はより困難になるため、少しずつ人命救助から復旧活動にシフトしていきます。

例を挙げれば、アメリカ軍は被災直後から現地に入り、人命救助に重きを置いた支援方針であったため、およそ2週間後の11月24日にはほぼ全軍が現場から撤収していきました。他方、日本の自衛隊は米軍の撤収と入れ替わるかたちで被災地入りし、物流支援やインフラ等の復旧活動に従事していました。また日本からは、国際協力機構(JICA)による医療活動も行われました。

基本的に各国軍は被災地に入る前に支援方針をある程度決めてきていると思います。援助隊の任務区分は、援助命令を出した時点である程度決められているはずで、緊急避難のような場合に限っては軍の指揮官が主体的に動く場合があるかもしれませんが、基本的には派遣決定時における政府の活動方針に従っています。すなわち、各国の軍隊の活動はその国民の意思・決断に基づく政府主導によるもので、軍人や部隊が個々に独立して主体的な活動をしているわけではありません。

他方、支援を受ける側のフィリピン国内の対応としては、政府のある首都マニラが中心となって緊急救命や人道支援を取り仕切っていました。マニラには、マルチ・ナショナル・コーディネーション・センター(通称MNCC)と呼ばれる多国間調整所が設置され、フィリピン軍主体の調整機能があり、その傘下に各国の軍隊が支援活動に参画しているという構図でした。しかし、一般的に、災害の規模によっては、中央への情報共有は困難で、遠隔地からすべてを取り仕切るのは現実的には不可能と言えます。そのため、中央政府だけでなく、被災した地方政府及び近隣の地方政府が自ら動いている状況が往々にして見受けられます。さらに、途上国が被災した場合においては、中央並びに地方政府の災害対応力が乏しく、状況によっては、派遣された外国の軍隊が主体的に支援活動を行う必要性がでてくることもあり得ます。フィリピン政府の対応力の評価は、一様ではなく、十分だと評価したところ、そうでないと判断したところと様々だったようです。


フィリピン国内の行政や地方自治体等の対応について教えてください。

東日本大震災の際、地方自治体が積極的に動いたのと同様、フィリピンでも地方自治体が軍隊等と共に主体的に動いているように見られました。建前上は、地方が中央に要請し、中央が取りまとめて対応するというシステムでしたが、外国人の視点においては、その対応力の評価は分かれるところでした。

例えば、台風で受けた実際の被害状況を自治体や国の統計局が出していましたが、その統計結果は、国と自治体で大きく異なりました。把握している情報が異なると、国や自治体が一元的に機能できません。情報共有するインフラそのものの整備が脆弱であると、活動にバラつきが出てきてしまいます。途上国ゆえの困難な局面も起こりえます。

全体を通して言えるのは、フィリピンの行政サービスは日本と比較すると家の隅々にまで行き渡っている訳ではなかったということです。しかし、その代わりにコミュニティ・ベースで人々の暮らしを補っている側面が多く散見されました。もちろん、行政サービスが足りないから、コミュニティが強くなったという反作用的な部分があるのかもしれません。ちなみに、フィリピンでは女性の社会的地位が男性とほとんど変わらなく、男女の雇用機会は極めて均等だと感じました。

コミュニティの活動が盛んであり、国際機関やNGOがフィリピン国内に多く常駐して活動していることからも、外からの援助に対して拒否反応を示さないような素地があったと考えています。


フィリピンの台風30号(ヨランダ)の被災地、タクロバン(※語句説明4)に赴かれた際、現地の人々の生活状況はどのようでしたか。

個々の家は倒壊し、公共の施設も構造の大部分は破壊され、立っているのがやっとの状況でした。そのような壊れた建物に、被災者は配給物資として配られたビニールシートを掛け、雨露をしのげる一時的な空間を作って過ごしていました。そういった空間に、家族もしくは友達同士で避難していたのだと思われます。東日本大震災の時のように「避難所」が設けられ、人々が一箇所にまとまって行動しているという印象は受けませんでした。これはおそらく公共施設の未整備によるもので、日本における「避難所」指定を受けた建物などがなかったことに起因するのかもしれません。

私が被災地に入った時点では、最も甚大な被害を受けたタクロバン周辺には、物資の行き渡りに関して随分と地域差があったように感じました。大きな街であるタクロバンでは、既に水、米、その他食糧も戻ってきている感じがあり、街全体としての電気の復旧はなかったものの、個別に発電機を購入し、自ら電気を作り、営業を再開したレストランも存在しました。しかしタクロバンの市街地から離れると、途端に食糧が減り、米やパンは届いていてもその他野菜や肉類等の生鮮食料品は皆無だったように思います。ただ、地方政府や各国軍隊からの救援物資には缶詰等も多く含まれており、生活に必要な栄養素を最低限含んだ緊急食品としてパッケージ化されており、直ちに栄養不足に陥るという危険性はないという印象を受けました。

地域間の差はあったものの、赴任最後の1週間においては、タクロバン郊外でも肉や野菜等の青空市場が集落のところどころで再開され、町のマーケット機能が戻ってき始めていると感じました。そして、衣類等については、被災者自ら壊れた家屋の中を探して、洗濯してから着ているという印象でした。当該地域の気候は高温多湿のため、夏用の衣類だけで十分でした。

治安面に関しては、被害当初タクロバンでは被災民による窃盗や強盗が多発したため、地方政府によって夜間外出禁止令が出たそうですが、タクロバン郊外や諸島地域は見る限り平和に過ごしている印象を受けました。村長の指示に従って議会職員らがリーダーシップを取り、統率が取れていたようです。


フィリピンで携わられた支援の一つ、軍民協力の詳細について教えてください。

本来の私の職域は物流担当ですが、時と場合によって軍民協力の仕事もしています。フィリピン派遣時は主に軍民調整官として被災国、WFP並びに派遣された外国軍隊との間を取り持つ仕事をしました。休職中の私に白羽の矢が立ったのは、自衛隊の派遣が判明した後のようで、結果的に災害発生から3週間後の2013年11月29日に被災地に入りました。その時には既にWFPの軍民協力官2名が現地に派遣されており、彼らが外国の軍隊と物資援助の調整業務をしていました。

指定された勤務地はタクロバンでしたが、初めの3日間はマニラの多国間調整所に入り、タクロバン地域で展開している他国軍の活動などの情報収集を行いました。その後12月末までの約1ヶ月間、被災地レイテ島とサマル島におけるフィリピン軍を含めた各国軍隊と支援物資の配給・割り当てなどの調整業務を行いました。 各国軍の活動内容の把握はWFPが組織的に行うわけではありませんが、WFPの軍民調整官が各軍の調整官(リエゾン・オフィサー)にどのような支援を行う予定なのかを聞いて回ります。リエゾン・オフィサーはフィリピン政府と自国の軍隊との間の調整を担い、WFPの調整官はリエゾン・オフィサーを介して調整を行います。

WFPの軍民調整官は各国の体制を見て、各国軍の支援の方向性、支援期間及び内容等の把握に努めなくてはいけません。例えば、建設だけを支援するエンジニアだけで構成された工兵部隊もあり、どの部隊がWFPの活動に支援できる能力があるのかを把握しておかなくてはいけません。


ご自身の専門であり、フィリピンで行われたもうひとつの支援、物流の詳細について教えてください。

WFPの使命は、食糧が足りていない地域に分配していくことです。物流担当官の仕事は、食糧を流通させる方法を考え、実行することです。組織の活動は分業が基本です。どの地域にどの食糧をどれだけ必要かとの情報をもらい、それを運べる方法を探し出します。民間業者に配送を依頼する場合は、運送契約を別の担当官が結び、それを受けてマネージメントします。事前の食糧がない場合には、購買担当の職員が必要な食糧を購入し、その購入物の搬送方法や実際の供給方法を、公共インフラを考えながら、物流網を構築していくのが物流担当の仕事です。

例えば物流で港を使う際、軍隊が占拠していて使えない港もありますし、ポート・オーソリティーといって都市の港湾を管理運営する公企業的な運営組織のようなものがある港もあるので、それに応じた調整を行う必要があります。

ちなみに、WFPには組織所有の船や飛行機等の交通手段や物流資源がありません。そのため、その都度競争入札にかけてサービス供給者を決定していく仕組みを取っています。必要な資源を近辺で調達するか国際的に調達するかどうかも考えなければいけません。安全面、費用、配送の早さ等の基準を審査した上で、1社に絞り契約を締結します。

現地スタッフが一連の流れを全て実施しているわけではなく、WFPローマ本部の職員が後方支援をしています。私もローマで勤務していた頃は入札業務に携わっていました。現地でWFPのロゴをつけたトラック等が走っていることがありますが、それは業務契約を結んだ会社の車両であることが往々にしてあります。

このフィリピンでの緊急援助活動においては、以前からWFPが活動していたミンダナオ島に備蓄米が存在し、被災地に融通できるだけの量があったため、それを配送しようという方針でした。しかし、食糧はあるのに運ぶ方法がないという物流ギャップが存在し、当初行き詰まっていました。このギャップを解決するため物流担当官が現場に入りましたが、民間の物流資源が不足していたことと、台風でトラックや船など輸送手段が損壊したことが重なり、他国の軍隊が所有する船や飛行機に頼らざるを得ませんでした。国連は中立性と公平性を保つ必要があるため、基本的に軍隊の装備品を使えないことになっています。しかし、今回の状況のように民間の物流資源がない場合、最終手段として軍隊に頼らざるを得ない時もあります。このような状況を規定する国際法として、オスロ・ガイドラインそして軍及び民軍資産に関する(MCDA)ガイドライン(※語句説明5)が存在します。

タクロバン以外の地域では、WFPと連携しカナダ軍とオーストラリア軍が米を配給しました。タクロバン周辺は、撤収前のアメリカ軍と、イギリス軍、カナダ軍、日本の自衛隊が米の配給を行い、また、フィリピン海軍との共同作戦により、サマル島沖の諸島に対し米の配給を行いました。現地の複雑な地形や海域を熟知しているフィリピン軍による輸送は非常にスムーズに行うことができました。具体的には、備蓄米をタクロバンから倉庫と空港があるギワン(※語句説明6)まで車両で運搬し、ギワンの仮置き場に保管し、その米をフィリピン軍の小さな船に乗せて物資が届かない近辺の小島に配給しました。島の周りは珊瑚礁によって遠浅であるため、フィリピン軍の船は遠くでいかりを下ろして待ち、船底の浅い島所有の小さな船に米を乗せてピストン輸送を行いました。


東日本大震災の際の支援活動経験も踏まえて、受入国としてのフィリピンの印象、日本の印象を教えてください。

受け入れ国としてのフィリピンは非常に支援しやすい国と言えると思います。ハード面では、インフラ整備等課題がある反面、ソフト面では非常に良い印象があります。何が良かったかというと、フィリピン人の高い言語能力、そして、人々の非常にオープンで協力的な点です。村長、町長、知事が英語でコミュニケーションが取れるということは、外国からの支援を受ける上で業務が円滑に進みます。また、国連の認識度や信頼度が高いためか、市長や町長等の行政の長に直ぐに会うことができます。また、不足の物流資源について話すと、市長から軍隊に連絡してくれたこともあり、大変協力的でした。マニラに国連機関のオフィスがあったことも大きいと感じています。日頃からオペレーションをしているため、緊急事態においても、早い対応ができたのだと思います。

東日本大震災における対応との違いはそうした部分だと思います。東京だと英語を話せる人は多いですが、地方だとやはり英語でのコミュニケーションは難しいのではないでしょうか。私は日本人ですから、東北に派遣されても自治体の行政官と日本語でのやり取りに問題が起こりませんでしたが、日本語を話さない外国人ではそういうわけにはいきません。ハード面が整っている日本においては、コミュニケーション力のようなソフト面に弱い部分がある気がします。しかし、その理由の一つには、これまで日本が国外からの直接支援を必要とするような状況をあまり経験して来なかったという幸運な状況があるのだと思います。

フィリピンにおいては、支援を受けることがより身近で国連機関やNGOに対して一般的な認識があります。またコミュニティ・レベルでの助け合いの精神が根付いているところも異なります。さらには、女性の知事や村長が多く、女性の社会参加が広く受け入れられている社会であるため、他を受け入れる素地ができているオープンな社会と言えるのだではないでしょうか。

ハード面において補足すると、ライフラインの復旧の差が挙げられます。日本は非常に早いですが、フィリピンでは時間がかかります。私がいた11月後半から12月末の1ヶ月間、結局タクロバンの電気は復旧しませんでした。そのため、発電機を個人が用意し日々の生活を営んでいる光景を目にしました。平時において、電気は国の隅々まで通常行き渡っているのですが、今回のような緊急事態においては、発電機を動かす燃料も不足しがちで備蓄不足によりすぐに売れ切れになっていました。

また、水の衛生面では、蛇口から出る水道水は飲むことができないため、私も派遣される前に水をたくさん持って行くように注意されました。WFPが展開する現場には水を十分確保していたため困ることはありませんでしたが、各国の軍隊もかなりの水を持って現地入りしていたので、彼らからの融通があったのかもしれません。特にアメリカ軍の物量は圧倒的で、簡易テントと簡易タンクを支給し、支援のスピードもその及ぼすインパクトも強大だったと思います。島では滑走路がないため、日本で話題になっていた積載容量が大きいオスプレイ(※語句説明7)も物資配給で活躍していました。

その他、東日本大震災と今回のフィリピンを比較するなら、決定的な所は原発事故の有無ですね。東日本大震災の場合、原発事故の全容が不透明であったため外国の支援機関は随分と支援を躊躇していたのだと思います。


今後の緊急支援活動に必要だと感じられたことを教えてください。

私は、軍民協力を最終手段とする考え方を否定するつもりはありませんが、もっと早い段階からの意思の疎通・情報の共有はあってしかるべきだと思っています。八方手を尽くして、他に手段がなくなってから軍隊にアプローチをするのではなく、「備えあれば憂いなし」という観点から、より柔軟性のある関係性を築くことが必要だと思います。しかし、一方で軍隊の特性もよく認識しておく必要があります。軍隊はその政府と国民が最終決定権を持っているので、被災国側が要望は出せますが、その最終決定権は外国政府にあります。このため、軍隊は融通が利きづらく、迅速な対応には向いていないという性質を知っておくのも重要だと思います。

そして、災害対応への早さは、いかに外国支援機関が現地の機関と連携できるか、支援機関への理解度がどれほど現地にあるか、という点が重要です。現地が国連機関のことを認識し、またどういう活動をしているかを知っているだけでも、国連機関にとっては動きやすくなると思います。緊急事態に陥った際、被災国側では国連や海外の軍に要請できるような土壌づくり、併せてその機関の特性の把握が必要だと思います。逆に支援機関側はまず現地に初期の段階から人を送り、現場を知ることが重要です。


日本のように国際的な支援を受け入れた経験が乏しい国において、国連や海外からの支援について理解を深めるにはどのようなことが必要だと思いますか?

日本の場合、政府や行政が国民の安全や災害に対して多大な責任と権限を保持しており、地域コミュニティがあまり育っていないことや外国機関への理解度が低い傾向があります。システムとして、自己完結している感はありますが、その自己完結能力さえも奪われるほどの災害が発生した時には、外側からの支援が必要になるという理解が必要だと思います。原発問題においても、自国のみの知見では不十分なため、国際原子力機関(IAEA)を交えての対応でしたが、おそらく現地の自治体も事前にはそこまで想定していなかったのではないでしょうか。災害が発生した後でも、自分たちで対処できる能力は残っているということを前提に災害対策の計画が作られているようですが、その対処能力さえも失われた状態に陥った際は外部に頼らざるを得ません。そのため、国連等の海外の組織を理解し、それらへの対応能力を高めること、また、海外からの援助を受け入れために必要な知識をコミュニティで備えることは必要だと思います。


今後近藤さんが取り組まれたい研究テーマやお仕事などあれば教えてもらえますか?

他の国を支援する際は客観的に見ている部分がありますが、日本のこととなると、まるで自分のことのように考えてしまい、過大な期待や逆に厳しい目を向けてしまうことがあります。日本を自衛官として内側から、また国連職員として外側から見てきて、自分が感じる日本の改善点に関し、何かをしたいと常々思っていますが、それをどのような方法で実行に移すのか未だ模索中です。そんな思いがあって、現在WFPを休職し、東京大学で勉学に勤しんでいます。将来的には今後も国連での勤務を続け、これから社会を支えていく若者に対し、私の経験を伝えていきたいと思っています。政治に入ろうと思ったりもしますが、そればかりは自分の意志だけではどうにもできないですね(笑)。細かい自分の専門分野を見つめ続けるというよりは、今携わっている「物流」と「軍民協力」を二本柱として色んな分野に携わりたいと思っています。

海外にいると日本への愛が目覚めてくる気がします。日本食が恋しくなったり、時間通りに来るバスや電車に感動したりします。しかし、残念ながら日本に帰って来てがっかりすることもあります。過去10年ぐらい期待と失望の繰り返しです。完璧というよりは、良いところをより良くすることを目指していきたいです。私の子ども達が大きくなった時代も日本は繁栄していてほしいと思っています。

 




【語句説明】
1. 国連世界食糧計画(WFP)
1961年設立。飢餓のない世界を目指して活動する国連の食糧支援機関。主に戦争や内戦、自然災害など緊急事態の発生した際に必要とされる場所に食糧を配給。緊急事態が過ぎ去った後には食糧で地域社会の荒廃した生活の復興を助けている。姉妹国連機関に、国際連合食糧農業機関(FAO)、国際農業開発基金(IFAD)等がある。
参考: https://ja.wfp.org/(日本語)

2. 大型台風30号ヨランダ
2013年11月4日午前9時、トラック諸島近海の北緯6度05分、東経152度10分で発生した台風。11月8日早朝にフィリピン中部に上陸したが、従来の台風のように上陸後に勢力は殆ど弱まらず、その間フィリピン中部の島々は強風と台風による局地的な低圧部による高潮に長時間襲われ、レイテ島のタクロバンを中心に甚大な被害に見舞われた。
参考: http://jphilnet.org/news/20131220_310.php(日本語)

3. 東日本大震災
2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖約130キロを震源に発生したマグニチュード9.0の巨大地震と、太平洋沿岸各地に押し寄せた大津波による未曽有の災害。地震の規模は国内観測史上最大。東京電力福島第一原発は津波で電源を喪失、原子炉の冷却が不能になり放射性物質を放出する重大な原発事故に。余震も頻発し、被害地域は東北を中心に北海道、関東などの広範囲に及んだ。
参考: http://www.47news.jp/feature/kyodo/news04/(日本語)

4. タクロバン
フィリピン中部、レイテ島北東部の海岸にある港湾都市。マニラの南東約580kmに位置している。台風30号ヨランダが街を直撃。海岸付近の住宅地が壊滅的被害を受け、多くの死傷者を出した。2014年時点で公式の死者数は6201人に上っている。台風直撃後、商店などで赤十字救援物資の略奪が横行した。地方政府は事実上崩壊し、ベニグノ・アキノ大統領はタクロバンに非常事態宣言を出した。
参考: http://sankei.jp.msn.com/world/news/131112/asi13111200320000-n1.htm(日本語)

5. オスロ・ガイドライン&軍及び民軍資産に関するMCDAガイドライン
自然災害地域における国連機関と軍隊との協力に関し、1994年に策定。公平・中立といった人道原則の尊重、民で対応できない場合の「最後の手段」としての軍の活用、原則非武装等が定められている。これに対し、PKOにおける協力を規定したものが2003年に制定されたMCDAガイドラインである。MCDAガイドラインの正式名称は、“Guidelines on the use of Military and Civil Defense Assets to support United Nations Humanitarian Activities in Complex Emergencies”。
参考: http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jindo/pdfs/oslo_g2007.pdf(英語)

6. ギワン
同国中部サマール島に南東部にある街。2013年11月8日、最大瞬間風速105mにも達したとされる大型台風30号ヨランダがこの街を直撃した。白い砂のビーチが続き、災害前は太平洋を見渡すリゾートとして知られていた。
参考: http://www.cnn.co.jp/world/35039833.html(日本語)

7. オスプレイ
ヘリコプターのような垂直離着陸機能と固定翼機の長所である速さや長い航続距離の飛行可という両者の利点を持ち合わせた航空機。回転翼を上へ向けた状態ではホバリング状態(空中で停止している状態)が可能となり、前方へ傾けた状態では高速で飛行することができる。通常の運用では、速度と航続距離の利点が活かせる固定翼モードでの飛行が多く、垂直離着陸モードでの飛行は全体の5%である。着陸できない場合でもホバリング状態で救難活動を行ったり、人員や貨物を降下したりすることができる。
参考: www.mod.go.jp/j/approach/anpo/osprey/mv22_pamphlet.pdf(日本語)

(2014年2月24日、東京にて収録。聞き手:木曽美由紀・慶應義塾大学法学部、瀧澤菜美子・社会福祉協議会、写真:近藤篤史さん提供、木曽美由紀、ウェブ掲載:羅佳宝) 担当:瀧澤、奥田、木曽、志村、鳩野、羅                      

2014年5月25日掲載

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