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ハジアリッチ・秀子さん
国連開発計画(UNDP)開発政策局貧困グループ・ミレニアム開発目標(MDG)支援チーム
UNDG/MDG政策ネットワークマネージャー 

 

ハジアリッチ秀子(はじありっち・ひでこ):1992年同志社大学卒業。2000年フィリピン大学にて国際学修士号取得。米国コンサルタント会社勤務などを経て、JPOとしてUNDPボスニア事務所に赴任。その後、UNDPイラク事務所の勤務を経て、2007年9月より現職。

Q.国連で働くようになった経緯を教えてください。 

家庭の事情からフィリピンに住むことになり、そこで大学院に進学しました。フィリピンでは日常生活の中で経済・社会的な格差を目の当たりにし、次第に開発の仕事に興味を持つようになります。国連に入る前は米国のコンサルティング会社で働いていたのですが、フィールドで開発の仕事に関わりたいと思いJPOに応募したところ採用され、国連開発計画(UNDP)のボスニア事務所にガバナンス・プログラム担当として4年半赴任しました。

Q.JPOで赴任されたボスニアではどのようなお仕事をされたのですか?

当時ボスニアでは、緊急援助から開発へと国際支援の段階が移行していた時期だったので、様々な仕事に携わることができとてもおもしろかったです。また、上司も同僚もユーモアのセンスがあり、それでいてとても有能な人達でしたから、周りの人材にも恵まれました。ストレスがたまってきたときほど冗談が飛び交って、笑いながらみんなで乗りきっていたのをよく覚えています。  

ボスニアでの最初の仕事は、国連機関間の合同計画の立ち上げでした。最初はジェンダー・チームの連携を任され、そこでまず始めたのが、ボスニア政府に対する男女平等法の草案作成支援とアドボカシー活動でした。草案の採択後にはその施行のための国連合同プログラムを作成しました。例えば、国連人権高等弁務事務所(OHCHR)では判事の研修を行い、UNDPではジェンダーに取り組む組織開発を担当するというように、各機関で必要な支援を分担しました。 

また、国連機関間の合同計画の一つで、人権の促進に基づいた地域開発計画も担当しました。これは(当時)UNDPとOHCHRの初めての合同計画でしたが、OHCHRは法律の観点から、UNDPは政策の観点から物事を見ていましたので、同じ国連といえども随分と機関間で手法が違うことを実感すると同時に、そうした違いのおかげで計画がより充実し包括的なものになりました。 

また、若者人材育成のためワークショップや記者会見などいろいろな取り組みがされていましたが、イベントの開催ばかりが目立ち、どこか若者がイメージづくりのために使われているだけのような気がしていました。そこで政策レベルの議論を通して、政治の舞台にまでよい影響がでるように、もっと組織立って若者の政治参加を促進するため、ボスニアのサラエボ大学の中に多民族構成のシンクタンクを立ち上げました。日本政府、UNDP、ソロス財団、ボスニア政府、 サラエボ大学の協力を得て事業を進めました。  

このシンクタンクの初代代表とは、一緒にコンセプトを練りに練り、資金調達に歩き回りました。実は先日、このシンクタンクの初代代表がボスニア国連大使に任命され、とても嬉しかったです。彼は私より数歳も若いんですよ。組織化されたシステムからボスニアの若者の中にリーダーシップが生まれ、それが実際にボスニアの外交や政治に活かされていることを知り、つくづく関わってよかったと感じました。 

ボスニアでの任務終了後はイラクへ赴任し、地雷と農業・貧困削減のプログラムに取り組みました。 

Q.イラクではどのようなお仕事をされたのですか? 

地雷対策を担うイラク政府の担当部局の能力強化のため、イラク人の人材育成を支援する仕事を任されました。政府の要望を基にワークショップを企画し、戦略計画なども担当し、非常にやりがいのある仕事でした。この時の上司は、長年イラク問題に関わってきた人でしたので、毎日とても勉強になりました。イラク北部では世界保健機関(WHO)との合同計画を立ち上げ、イラク政府やNGOと相談しながら計画を練り、日本政府の支援を得て実施しました。 

また国連児童基金(UNICEF)と一緒に地雷被害者の対策計画を練ったりもしました。イラク南部のバスラという地域で、地雷のための人道NGOの立ち上げ支援をしたのですが、ボス二アと同じ枠組みをつかってもうまく機能するまでには時間がかかりました。地雷というと撤去作業ばかりに視点が行きがちですが、イラクのように資源(人・金・時間)が非常に限られていたケースでは、医療施設や学校からというように、優先順位を決めて取り組むことが大切でした。 

当時のイラクでは政府関係者が誘拐されることが多々あり、実際カウンターパートの政府関係者が誘拐されることもあって、会議や研修で会った後の別れ際に「また会えるとよいね」なんて言われ、本当に会えなくなるかもしれないと思うととてもつらかったです。 

Q.ニューヨークの本部では現在どのようなお仕事をされていらっしゃるのですか? 

UNDPのMDG支援チームの主な役割のひとつは、各国連機関が提供する政策を調整し、それらの政策支援に一貫性を持たせ、国連システムが一体となってMDGsに関わる国連の地域事務所を支援できる体制を整えることです。このためには、国連開発業務調整事務所(The UN Development Operations Coordination Office: UNDOCO)  の助言と支援に基づいて仕事を進めていく必要があります。「One UN」と言いながら、各機関が一緒になって地域事務所を支援していくのはなかなか難しいことです。誰もが国連機関間の調整は必要だと言いますが、自分が実際調整「される」のは嫌なのです。 

調整の基本は、いかに相手にオーナーシップを持ってもらえるよう接し、神輿を担いでもらうかにあります。特に国連機関間のリーダーシップは、相手に「この事業に関わることで自分たちの仕事の効果がもっと期待できる」とか、「自分たちの仕事がもっと多くの人に理解される」など、利点を見てもらえないと失敗です。また、みんなに参加してもらえるように仕向けて行く必要があるので、時間もかかりますが、とても面白い仕事ですよ。自分よりもシニアレベルの他機関の人々と一緒に仕事をする機会が多く、いろいろと学ぶことが多いです。  

それから政策策定支援となると、現場で一番嫌われるのが机上の理論、学術的すぎることを言う人です。どんなに洗練された素晴らしい政策のアドバイスでも、実際に現場の背景を理解していないと役に立ちません。ですから私たちの仕事では、その国の歴史や根底にある問題点を噛み砕き、それを政策提言に反映させることが重要になってきます。おそらく私が現在のポストに就けたのも、ボスニアとイラクで現場を経験し、政策策定支援の背景を多少現実的に理解できていたからかもしれません。 

現在は、政策ネットワークのこの先2年間の運営計画の作成に取り組んでいます。この案は採択されつつありますが、採択されれば、各国連機関に対してとりわけ政策提言にかかわる人材を確実に配置するよう要求していけます。いまでは2年でなく、3年間の運営計画にすればよかったと後悔しています。 

また、国連機関の中では私はまだまだ若年ですので、どうしたら各機関の上層部に実際に行動を起こしてもらえるような依頼の仕方や提案をしていけるかと常に考えます。一人先走りしては誰もついてきませんから、ほかの人達のアイデアを尊重し、オーナーシップを感じてもらいながら、同時に実際に参加を促して仕事を進めていくことが重要です。他の国連機関の人々からも信頼され、正直に話ができる関係づくりに時間をかけることも必要です。 

Q.現場と本部のお仕事の違いはどんなところでしょうか?

現場では、受益者の方たちや、政府関係者と連絡が取りやすいのが魅力です。一方、現在私が関わっている本部での仕事は、各関連機関との調整にも時間がかかりますし、成果がなかなか目に見えないのが難しいところです。特に私の取り組んでいるMDGsは一定の期限までの目標達成を目指しているので、現場での事業と政策レベルの支援の微妙なバランスが必要です。小さい事業ばかりをやっていても国全体を動かすような成果にはなかなか結びつかないので、どのレベルで、どのくらいの規模の支援をしていくのかしっかりと考える必要があります。 

また私の仕事の対象は後発開発途上国なので自然とアフリカ諸国が多くなりますが、同じアフリカでも、ひとつの成功例が他の国でうまくいくとは限りません。各国の背景をよく理解し、ミクロとマクロの両手法のバランスと具体的な実行方法を考え、最終的にどのようにしたら国全体の取り組みに高めることができるかを常に考えなければいけないところが、現在の本部での仕事の難しいところです。 

Q.今後挑戦していきたいことは何ですか? 

今携わっているUNDG/MDG政策ネットワークは、これまでにはなかった調整の取り組みなので、これをあと数年でしっかりと立ち上げてから、次のステップに行きたいと思っています。将来は他の国連機関でも働いてみたいですし、最終的には現場志向なので、いつかフィールドにも戻りたいですね。 

Q.今までのお仕事の中で、楽しかったことや印象に残ったことはなんですか? 

一番印象に残っているのは、ボスニアやイラクでの現場経験でしょうか。イラクではWHOと共同で犠牲者支援事業を立ち上げました。NGOや政府関係者とニーズ評価などを一緒に考える中で、地元の人と意見を出し合い、一緒になって一つのものをつくっていることが日々の大きなやりがいでした。またボスニアでは、クロアチア系、セルビア系、ボスニア系の民族が一緒になって地元の観光を促進する事業を行いました。この観光促進プロジェクトには、もともとあまり協力的でない地元の政治家も、民族を越えた協力をしなければ観光市場を促進することは難しいということを理解してくれたのです。こうした社会では観光はとても良い復興の切り口だと思いました。実際、多くの地元のスタッフがこの事業をとても喜んで応援してくれたのを覚えています。 

Q.MDGsについて日本が貢献できることはなんだと思われますか?

私は「日本国内でのアドボカシ―」だと思っています。MDGsは期限付きの計画なので、みんなで切迫感を持って支援をしていく必要があります。日本は、昨年度第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)のホスト国を務め、成功に終わりましたが、この波に乗って、日本の市民一人ひとりが「世界には基本的なニーズを満たすことができない人がどれだけいるか」を理解し、自分達の税金がそれらの人達に貢献していることをもっともっと知ってほしいですね。  

昨年から続く世界的な不況に伴い、石油価格の高騰や食糧危機などMDGs達成に向けた問題点はいろいろとあります。それでもみんなが意識してMDGsに取り組めば、2015年までには目標を達成できると思っています。またこれからは、MDGs終了後にどのようにフォローアップをしていくのかも考えていく必要があります。 

Q. 世界の問題に関わろうと思う日本人にエールをお願いします。

朝元気に仕事に出かけて行っても、夕方無事に家に帰ってこられるかわからないイラクのような国にいる人たちにとっては、国連の存在は非常に小さいと思います。国連のできることはまだまだ限られている、といった謙虚な認識に立った上で仕事をしていくべきということです。紛争後あるいは紛争のまっただ中にある国の中では、国連に対して怒りを持ち、失望している人たちさえもいるという状況をしっかりと理解し、受け入れる必要があります。実際、現場にいくと国連の存在は本当に小さいと感じることが多々あります。各国連機関は、もはや個別に動く余裕もあまりなく、こういった時代こそ、もっとしっかりと調整された政策提言への支援の必要があると思います。 

今後国際協力の分野で活躍を目指す若い方々には、現場の中で、地元の人が直面している問題の中に飛び込み、自分には何をできるのかを常に考えながら仕事をするのが良いスタートだと思います。日本人は概して思いやりがあり、現地の語学も進んで学び、地元の人と同じ目線で意思疎通しようと努力しますから、地元の人にもたいへん好かれます。この現場感覚をもっと利用して、まずはフィールドでがんばってみてください。現場では本部では任されないような責任のある仕事も入ってきますし、それが後々キャリアアップにもつながると思います。国連に対する問題意識を持つことも大切です。 

また国連は短期雇用の世界ですから仕事の安定性はありません。しかし安定感がありすぎると組織の中に埋もれてしまい、個人としての底力がなくなってしまうので、緊張感を持ちつつも自分自身に対して常にチャレンジしていくには、国連はとても良い職場だと思います。 

Q.ご家庭とお仕事のバランスはどのようにとっていらっしゃるのですか? 

JPOで赴任したサラエボで夫と出会って結婚しました。典型的なボスニア人で冗談ばかり飛ばしているので、とても4年間にわたるボス二ア戦争を経験したとは思えないほど陰りのない人です。昨年初めての子どもを出産し、いま 1 才になりますが、子育ては仕事とは違うエネルギーを使うので、仕事から疲れて帰宅しても家で子どもの世話をすることはまったく苦にはなりません。子どもができたことでオンとオフがはっきりするので、かえって仕事と家庭の両立がうまく行っています。 


(2009年2月13日、聞き手:芳野あき、コロンビア大学公共政策大学院。幹事会で本件企画担当。写真:田瀬和夫、国連人間の安全保障ユニット課長・幹事会コーディネータ。ウェブ掲載:津田真梨子)


2009年5月3日掲載

 


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