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前田優子さん

クメール・ルージュ特別法廷支援機関(UNAKRT)・広報官

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前田 優子(まえだ・ゆうこ):兵庫県出身。日本大学芸術学部でジャーナリズム専攻後、1988年、神戸新聞社入社。1997年、米国ミシガン州立大学でジャーナリズム修士号を取得し、州内の夕刊紙キャデラック・ニュース社で記者。その後、カンボジア・デイリー紙で記者・経済担当デスクを歴任、2002年、プノンペンでレイプ犠牲者支援プロジェクトを立ち上げる。のち、国連ボランティアとして西アフリカのリベリア・ミッションで広報官をつとめ、機関誌等の出版編集に携わる。英国ブラッドフォード大学で平和学の修士をおさめた後、2009年7月より、現職。

Q.国連職員になる前はカンボジアで英字新聞記者として働いていたそうですが、カンボジアとの関わりについて教えてください。

「カンボジア」は、私の人生の岐路において、なぜかよく出てくる所縁のある地です。例えば、大学時代にジャーナリズムを専攻していたのですが、将来の進路について、テレビ業界にするか新聞業界にするかで悩んでいた時期がありました。そんな時、カンボジアのポル・ポト時代の殺戮を描いた映画『キリング・フィールド』を観、強い衝撃を受けました。ニューヨーク・タイムズ紙の米国人記者とカンボジア人助手を軸にした物語で、私は彼らにいわゆる「記者魂」を感じ、私の人生はこれしかないと確信しました。そして、いつかジャーナリストとして国際社会に出て、記事を書きたいと思うようになりました。大学を卒業後、地元・兵庫の神戸新聞で6年近く記者として働きましたが、それからミシガン州立大学のジャーナリズム学科に修士留学したのも、そうした思いがあったからです。

ミシガン州立大学で修士号を取得したあとは、地元の夕刊紙キャデラック・ニュース社で1年間記者として働きました。本当はそのあともアメリカの新聞社で働き続けるつもりだったのですが、研修ビザから就労ビザへの切り替えがうまく運ばず、2週間通告で退去せざるを得ない状況に追い込まれました。日本に一旦戻ることになりましたが、日本にまっすぐ戻るのはもったいないので、マレーシアやシンガポールなどを回ってから帰国することにしました。そして、古巣の神戸新聞と深い縁のあったシンガポールの通信社を訪ねた時に、偶然にもまた「カンボジア」に出会ったのです。それが『カンボジア・デイリー(The Cambodia Daily)』という新聞でした。

『カンボジア・デイリー』は、バーナード・クリッシャーという幼少時代にナチスから逃れてアメリカに移住し、のちにジャーナリストとなった人が、1993年に創刊したカンボジアで初めての独立系英字新聞です。私はミシガン州立大時代に課題ペーパーの一つで「戦争とジャーナリズム」について調べたことがあって、その時にクリッシャー氏の新聞創刊の記事を目にしました。それを読んだときに、ジャーナリストとして途上国でこうした平和貢献もできるのか、面白いことをやっている人がいるなと深く印象づけられ、そのあともずっと覚えていました。だからシンガポールで『カンボジア・デイリー』紙を実際に目にした時には、強く何かの縁を感じましたね。そこで、志望動機をしたためた手紙と職歴書、作品群をカンボジアに送って採用を願い出たところ、クッリーシャー氏は東京在住とのことで、私の願書は東京に送り返されました。というわけで、カンボジアの英字新聞社の採用面接にもかかわらず、私は東京で面接を受け(笑)、しばらくしてカンボジアへ渡航することになりました。

今振り返ると、『カンボジア・デイリー』で2年半働いた経験が次に進む大きなステップとなりましたね。なぜなら、ジャーナリズムの世界に身を置きながら、カンボジアのために、民主主義の発展のために貢献することができたからです。自分の思い描いていることと、クリッシャー氏が『カンボジア・デイリー』として具現化していることがよく似ていたこともあり、彼からは大きな影響を受けました。また、私はカンボジアの経済開発記事を担当していたので、現地の国連機関へ取材する機会も数多くありました。そうしたことから、国連との関係でいうと、日々の取材を通してその存在を身近に感じるようになり、日常的な存在になりましたね。

Q.英字新聞記者から国連ボランティアへ転身されたきっかけを教えて下さい。

カンボジアで働いた後、家族の事情などがあり日本に戻ることにしました。2年近い日本滞在期間中、翻訳等で小銭を稼ぎながら社会貢献活動などを積極的に行っていましたが、プロフェッショナルの仕事はしていませんでした。そこで、家族の問題が落ち着いたら何かしたい、外に出ようと思い、国連ボランティア(UNV)にロスター登録をしました。いつになるかはわからないけれど、準備だけは怠らずにいようと思ったからです。それで、しばらくして声がかかったのが国連リベリア・ミッションでの仕事です。初めてのアフリカ勤務でしたが、日本を離れるタイミングとしてもちょうど良かったので、オファーを受けることに決めました。それから、UNVとしてリベリアに着任したのは2005年1月のことです。

Q.リベリアでのお仕事について教えてください。

国連リベリア・ミッション(以下、UNMIL)では、広報部・出版課の広報官として、ニューズレターや雑誌など出版物の発行を任されました。着任して初めて、国連がこれだけ大きい広報の仕事をやっていることを実感しましたね。「インタビューをして記事を書く」という仕事自体は新聞記者時代の延長線上にありましたが、そのニュアンスや取材対象が大きく異なります。基本的にはジャーナリズムでの経験が活かされましたが、一つの事象に対して新聞記者として外部からクリティカルな視点で記事を書くことと、国連の広報担当として内部からポジティブな視点で記事を書くことの違いを学びました。UNMIL広報部内には、ほかにプレス課、ビデオ課、ラジオ課、アウトリーチ課、現地のメディアの人材開発を行うメディア開発課などがあり、常時100名ほどのスタッフが在職していました。これはかなりの大所帯で、国連本部・広報局の縮小版と言えると思います。

リベリアでの生活環境は厳しかったけれど、UNMIL広報部での仕事は充実していて、本当に面白かったです。何よりも、平和構築というミッション自体に惹かれました。UNMILがリベリアに初めて派遣されたのは2003年ですが、1989年から2003年にかけて起こった2度の断続的な内戦の結果、国は荒廃していました。そのような中で、全国民にとって希望の光のような選挙が2005年11月に行われ、国連開発計画の元アフリカ局長であったエレン・ジョンソン・サーリーフ氏が大統領に選ばれたのです。

アフリカ初の女性大統領誕生―この歴史的瞬間を目にしたのが、私のリベリア着任後1年目の終わり。そして、彼女が大統領に就任して手腕を発揮する1年目が、私にとってはちょうど在職2年目に当たりました。この戦争で疲弊しきった国が、いつ戦争状態に戻るかわからないような状態の中で選挙を行い、国づくりを行っていく。彼女の活躍を間近で見ながら、国が復興していく過程を追っていくことが面白くて仕方なかったですね。特に、サーリーフ大統領がどのような施策を行っていくかに興味もありましたし、取材対象としても惹きつけられました。

とはいえ、もちろん実際の取材では彼女そのものを追うわけではなく、UNMILの活動がどのように現地の人々に役に立っているのか、また、どのような結果をもたらしているかについて取材を行いました。それも、よくある「私たちはこんな素晴らしい仕事をしています」という広報の仕方ではなく、より活動の結果を重視した取材です。新聞ならば恐らく批判するだけであろう課題についても、その活動の結果と抱えている課題を、将来どのように解決していくのかに焦点を当てて記事を書きました。

ジャーナリストにも色々とタイプがあって、スクープを掴むことに情熱を燃やす人もいれば、人に読み込ませる記事を書くことに喜びを感じる人もいます。私は、UNMILでは『UNMIL FOCUS』という雑誌に読み物としての特集記事を数多く書いていたのですが、それもすごく面白かったですね。取材をして読み物を書く楽しさ、そして、自分の取材が国づくりの役に立っているという喜び。その両方を満たすことができる絶好の職場だったと思います。ですから、いつでもアンテナを張って、取材対象を探していました(笑)。

結局、UNMILには丸々2年いました。でも、徐々に体力の限界を感じるようになり、それ以上の延長は行いませんでした。国連の勤務地別の危険度でいうと、リベリアは上から2番目で、常に自宅軟禁か職場軟禁という状態です。活動が常に制限され、自由に動けないということが特にきつかったです。例えば、取材に行くときは事前にセキュリティについても調整を行いましたし、勤務地の首都から地方へ行くときにも事前に移動許可とセキュリティの許可を得る必要がありました。首都モンロビアにいる時は国連の公用車で比較的動けましたが、それ以外の地域へは自由に行くこともできません。また、夜間12時以降は外出禁止で余計にストレスが溜まりましたね。オフィスはプレハブですし、電気もジェネレーターしかない。電気が走らないから今日は水がないとなれば、水汲みから始めるしかありません。Occasional Recuperational Break(ORB)注1)が6週間に一回ありましたが、あれで国外に出られなかったら、もう無理でしたね。ORBからリベリアに戻ってきた日はまだ余裕があるんです。それでも3日位経つとぴりぴりし始めて、6週目前はもうびりびり(苦笑)。同僚の離職率も比較的高かったのではないでしょうか。2年間リベリアで勤務したので、少し休憩が欲しいと思いました。

Q.現在のお仕事につくまでの経緯を教えてください。

UNMILでの勤務を終えた後、特に就職のあてはありませんでした。ただ、サーリーフ大統領のもとで得た2年間は強烈な印象として残っていたので、それを消化するプロセスが必要だと感じました。そこで、当時、東京の国連大学で開講されていた1か月間のインターナショナルコースを受講することに決めました。それから、平和学についてもっと学びたいと思い、英国ブラッドフォード大学の修士課程へ1年間留学。大学院を2008年12月に無事卒業し、さて就職だと思っていた矢先に、現在のカンボジアでの空席情報を偶然見つけたのです。国連機関への赴任までは少なくとも半年かかりますが、空席に応募してから、4月にカンボジア・オフィスとの電話インタビュー、ライティングテストを経て、6月頃に合格通知をいただきました。それで、2009年の7月に再び、今度は国連職員として、カンボジアへ渡ることになりました。

Q.現在のお仕事について教えてください。

カンボジア特別法廷(ECCC)の広報官の仕事について話す前に、まず、ECCCについて簡単に説明しますね。ECCCはポル・ポト派クメール・ルージュ政権下で起こった国際刑事法・人道法上の犯罪を裁くために、カンボジア政府と国連が共同で運営を行っているハイブリッド法廷です。国連側はクメール・ルージュ法廷支援機関(UNAKRT)と呼ばれており、ニューヨーク国連本部・経済社会局(DESA:Department of Economic and Social Affairs)のプロジェクトの一つです。したがって、国連の「機関」でもなく、国際刑事裁判所とも異なります。特別法廷では、裁判部の判事も事務局の職員も、すべて国連側とカンボジア側の両方から成り立っていて共同で作業を行っています。給料体系や財政も二本立てで、とても複雑なシステムだと言えます。

広報部に関しては、UNAKRTの広報部ではなくECCCの広報部内にカンボジア人職員と国連職員がいます。広報部長はカンボジア人で、部員もカンボジア人が多数を占めますが、実際には少数の国連職員が中心になって運営を切り盛りしている感じで、法廷事務局次長兼UNAKRTコーディネーターの指示のもとカンボジア側広報部員と共同で働いています。広報部の国連職員は私を含めて2名だけで、もう一人はリーガル・コミュニケーション・オフィサーという肩書きでスポークスマンを兼任しています。その他に国連側のコンサルタントとインターンが一人ずつで、部全体としては10名程度です。

ところが、リベリアの時と比べて規模が小さくても、広報として担っている仕事の幅は変わらないので、一人ひとりが幅広い業務を担当しています。広報部での主な仕事は、アウトリーチ、制作・出版、メディア関連の業務、ドナーや市民社会組織などとのリエゾン業務などですが、それら全てを10人でカバーしているわけです。私自身、以前は出版を担当するだけでよかったけれど、今はそれ以外の担当も増えました。

アウトリーチを例に挙げれば、海外からゲストが団体で来た場合には、そのツアーやブリーフィングを行いますし、リエゾン業務では関連NGOとの会議、VIPの訪問プログラムの立案・調整などすべてを担当します。出版でいえば、月刊ニューズレターの制作を担当していますが、リベリア時代と比べると「書く」という部分が減って、特集記事を書く時間はほとんどなくなりましたね。これは、本格的な編集出版まで手が回らないためです。これに加えて日々の活動では、予算案や勤務予定表の作成、広報部の月刊報告書の作成、法廷内でのコミュニケーションを促進させるため、判事たちとの間で定期的に情報共有の会議も行っています。

その他に、アメリカ、イギリス、EU、オーストラリア、ドイツ、日本、フランスの6か国1地域で構成される“Friends of Court”と呼ばれる任意の主要ドナーグループがあるのですが、グループの各国担当官レベルと情報共有会議を立ち上げました。その調整と議長役を行うのも担当業務の一つです。ECCCは絶えずメディアに晒されているわけですが、ドナー側からすれば、例えばカンボジア政府要人による政治介入の疑いやカンボジア職員の汚職問題などが国際メディアで否定的に取り上げられれば敏感になりますよね。彼らはドナーである本国政府に報告する責任がありますから。広報部としては、まず彼らから懸案事項を聞き、どのようにポジティブな報道を引き出せるかについての方法論について協議したり、分かりづらい法廷の司法プロセスについて説明、理解してもらいます。もちろん機密事項は教えられませんが。

また、広報部では一般の人々と法廷の橋わたし役としてアウトリーチに特に力を入れています。今、何のために法廷が開かれているかと言えば、ひとえにカンボジア国民のため。過去の傷の清算をするためにやっているのです。ですから、難しそうな裁判や司法プロセスのことを、アウトリーチを通してカンボジア国民に理解してもらうことが重要な鍵となります。

現在、特別法廷では4つの事件を取り扱っていますが、第一事件の裁判(元S21政治犯収容所所長に対する裁判)の時は、公判が77日間続きました。その間に法廷を訪れた人数は、メディア約3,000人を含めて3万1千人。法廷には傍聴席が482席ありますが、ほぼ毎回満席でしたね。それも7、8割方が一般のカンボジア人で若い人も多く、大学生も多く来訪しました。広報部として法廷傍聴用のバスを手配したのですが、それは深夜2時にバスに乗って早朝に法廷に到着してから、午後3時くらいまで傍聴。それからまた6時間かけて帰るという強行ツアーでした(苦笑)。だれど、そのインパクトは大きくて、まさに「百聞は一見にしかず」。『30年間待たされたがようやく真実が明かされる時がきた』、『本当にきちんと裁判が行われていてうれしい』という声を聞きました。若い世代のカンボジア人にとって昔の話なので、本当にあったとは信じていない場合もあるわけです。こうした様々な声を身近に聞くことができることが、広報の醍醐味と言えますね。

それからメディアの影響は大きいので、メディア・リレーションにも力を注いでいて、記者向けにはメディア・キットを用意するようにしています。『カンボジア・デイリー』や『プノンペン・ポスト』はよく取材に訪れますが、CNNやBBCなど国際メディアは絶えずECCCを取材しているわけではないので、大きな節目のニュースの時しか来ません。したがって、間違った内容を記事に書かれないように、資料を準備したり、事前ブリーフィングと記者会見を行って十分に背景や司法プロセスなどを説明しています。本当に10人でよくやっているなぁと、当事者ながら感心しますよ(笑)。

Q. これまで一番思い出に残った仕事は何ですか。

忘れられない仕事の想い出はいくつかありますが、リベリアでの選挙当日。この日は、本当に感動的でした。それまでずっと、UNMILが一般の人たちと一緒に選挙を作り上げていく過程を追いかけていたわけですが、どれ位の国民が選挙に参加してくれるのかは未知数でした。それが、選挙当日の朝5時半、まだ日が昇り始める前に長蛇の列を見た時――涙が出ましたね。広報官として「一人の一票が国を変える」というメッセージを伝えきて、それに人々が応えてくれたことが嬉しくて。投票するまでに何時間も待たなければならなかったのですが、暴動なども一切起こりませんでした。歴史の変わる瞬間に現場にいられたこと。しかも、選挙に関わる仕事をしてきて、それを現場で目撃できたことは格別でした。これがジャーナリストだったら、現場に来て取材をして書くだけです。でも、その時の私は一員として中にいられた。ジャーナリスト時代に、私は情報を右から左に動かしているだけで、輪の外にいることに常々物足りなさを感じていました。それが、この日やっと満たされました。

Q.国連に入って一番大変だったことは何ですか。

情報公開の線引きを行うことが難しいですね。ECCCの国際判事の多くは自国法廷での経験しかなく、今のように注目度の高い国際裁判を担当したことはあまりないと思います。ですから、一般国民向けの広報の重要性について十分認識していない場合が多々見られますし、そもそも一般に向けて広報する必要性などないと思っている人もいるわけです。でも、ECCCは戦争犯罪を扱っている国際化されたハイブリッド法廷で、国民和解や平和構築のためにも戦争犠牲者らに裁判の進捗状況を知ってもらうのは、とても重要な意味があるのです。ですから判事らに広報活動の重要性を理解してもらって、情報を共有してもらうための協力関係を構築する必要がありますよね。そこが、大変に難しい(苦笑)。

例えば、手続法について一般向けに平坦な言葉で伝えようとすると、許可が下りなかったり。法律を勝手に解釈して簡略化して出してはいけない、と出版を禁止されてしまったこともあります。そうなると、私たち広報としては、一般向けにどうやって情報を伝えればいいのか、とジレンマを抱えることになるわけです。第1事件の裁判では、一般の人たちの期待に添えない判決が出ましたが、事前に裁判部が情報を提供してくれなかったので、メディアや一般の人々に納得のいく説明ができないこともありました。逆に、広報部の発言・出版物が法廷の公式な法的見解とみなされて、被告弁護団から裁判で異議申し立てに使われたことも何度かありました。判事ら裁判部が事前の情報共有に躊躇するのは、機密事項を守り、なおかつ間違った法解釈が流布するのを防ぐためなのですが、このジレンマはリベリアの広報部では感じなかったことです。まさに、法廷の広報官が抱く独特の難しさでしょうね。

それと関連して、裁判の仕組みや判決について一般の人々に理解してもらえるような土台づくりも重要な課題です。第一事件の最初の判決では有罪禁固35年の判決が出ましたが、違法勾留の賠償期間と未決囚期間を差し引くと19年になると分かった時、ある人がこう言いました――「被告は1万2000人以上を殺したのに、一人の死に対し半日しか留置所で過ごさなくていいのか。一般国民が一人でも殺人を犯せば終身刑だ。納得がいかない」と。もちろん、そういう解釈の仕方も理解できますが、広報官としては、一般の方に判決とその意義について理解していただけるように一から説明しました。それこそ、被告は有罪確定がでるまでは無罪なんですよ、ということから始めましたよ。広報部では、一般国民に「法」の理解を深めてもらえるよう努力していますが、カンボジアは司法制度や法の支配がまだ弱く、一般市民の理解との間に乖離があります。法廷の広報官として、その隙間を埋めるように情報を伝えて理解してもらえるよう、苦心しています。

Q.国連で働くことの魅力はなんでしょうか。

私の国連での勤務期間は長くはないですが、まず言えるのは自分の「理想」を語って、追いかけていい、というところです。例えば、日本の会社で「社会のために、平和のために働きたいんです」と語ったら、周りから恐らく心配されるでしょう(笑)。でも、国連では何歳になっても理想を追い求められるし、そうやって仕事をすることが当たり前。より良い世界を築くために、世界各国から集まった職員が知恵を絞って日々奮闘している。そんな場所は、国連のほかあまり多くはないでしょう。それに、PKO活動もそうですが、国づくりにゼロから関われるというのも魅力です。

Q.日本のカンボジア特別法廷の国連負担分に対する拠出額は第一位となっていますが、日本の貢献についてどう思われますか?

日本の資金面での貢献は素晴らしいと思いますが、やはり、人的な面でも貢献できるようになればいいなと思います。ECCCは判事を中心に欧米人が中心なので、運営の仕方がカンボジアの文化とは異なり、攻撃的に映ることもあります。カンボジア人は面子を結構気にするので、そうした文化的な違いが摩擦を生むこともあるんですね。それが日本人なら、「空気を読む」ことができるし、信頼関係を築きやすいので、いいチームが作れるはずです。ですから、日本人スタッフがもっと増えればいいなと思います。特に、ここはアジアなので、カンボジア人の同僚達にしても大変親日的で、受け入れてくれます。ちなみに、UNAKRTではインターンを募集中ですので、ぜひ法科大学院の学生さんなど、法律を学んでいる方々に来ていただきたいと思っています。

最後に、グローバルイシューに取り組むことを考えている人たちへメッセージをお願いします。

どんどん現場に出て行ってほしいと思います。国際問題に関心がある人は多いと思いますが、机上だけではなく、現場に行って活動して、肌で感じて、次に繋げていってほしいですね。私自身がそうでしたから。方法としては、インターンでも、ボランティアでも、スタディツアーでも何でもいいんです。ただ、現場に入り、現地の人と語り合って、そこから刺激をもらって、自分が知識として学んだものと現場の中で学んだ実技を実践レベルにまとめあげていくことが大切ですよね。政策レベルでの理解も重要ですが、特に若い人には、現場での経験をいっぱい積んでほしいと個人的には思っています。

注1)勤務環境の劣悪なフィールド・ミッションのスタッフに数週間ごとに与えられる療養休暇のこと


参考ウェブサイト

カンボジア特別法廷のホームページ
http://www.eccc.gov.kh

国連リベリア・ミッションのホームページ
http://www.unmil.org/

UNAKRTでのインターンの情報について
http://www.unakrt-online.org/06_recruitment.htm





2011年9月11日、カンボジア・プノンペンにて収録
聞き手:田辺陽子
写真:Soleak Seang
プロジェクト・マネージャ:田辺陽子
ウェブ掲載:陳 穎

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