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片山 久美子さん
国際人事委員会(ICSC)

 

片山久美子(かたやま・くみこ):京都市出身。京都大学文学部在学中に米国イースタン・ワシントン大学に留学し卒業、インディアナ大学院にて経済学修士号取得、ボストン大学にて同博士号取得後、ベル研究所で5年間勤務。博士履修中に国連競争試験合格、98年にレバノンESCWA勤務、その後ジュネーブUNCTADを経て03年から現職。

Q. いつ頃から、またどうして国連を志すようになったのでしょうか。国連に入るまでの経歴、国連で勤務することになったきっかけを教えて下さい。

私は京都市の出身で、子どもの時から絶対に職を持つなという教えのもとで育てられました。両親は保守的で、女は結婚して家庭を守るものであり、女が手に職を持つと不幸になると信じているようでした。ピアノを練習しだして上達すると、ピアノの先生になろうなどと思いもしないようにすぐに止めさせられましたし、算盤も一緒で、段を取ったとたんに、止めるようにプレッシャーがかかりました。

中学、高校生になって、いわゆる職を持ってはいけないのなら、ボランティアの仕事を探そうと考え始めました。やはり何かの形で社会に貢献したいと思っていたのですね。高校時代には医学部に行こうと思いました。お医者さんだったらすぐに貢献の効果が見られるのではと思ったからです。アフリカなどの無医村で小児科の医師になるという夢。でも大学入試の直前になって両親から医学部を受験するのに猛反対されました。理系を目指して理科や数学などもずっと勉強していたのですが、文学部なら行かせると言われ、それだけの理由で文学部に入学したのです。文学部で智恵と教養をつけて、なるだけ早くお見合いにこぎつけるというパターンを、両親は願っていたようです。

大学に入ってからも仕事をしたいという夢は捨て切れずにいました。通訳になれば、一日2〜3時間位仕事をして、育児にも負担がかからないだろうと考えて、それで会話の英語力をつけようという動機で米国に留学する計画を立てました。でも、これも両親に反対されました。米国は危ないから留学するなら英国にしなさいと。この時点では私も自立心がしっかりついていて、両親ばかりに頼っているのではなく、日本の大学に在学中にアルバイトをして自分で資金を貯め、休学して米国に行きました。途中から両親の方が折れて、経済的に助けてくれましたけどね。最初は一年だけこちらの大学で英語の勉強をして同時通訳になって帰国する予定でしたが、大学の方から普通の授業も履修してもよいという許可が出たので、京都大学の単位をこちらの大学の単位として認めてもらって、国際関係の学位を取得して卒業しました。

卒業後にインターンシップを通じて国連に初めて来ましたが、この6か月の間に、同時通訳になるよりは専門的な知識を深めるために大学院に進むことを考えだしました。これまでは一応両親が経済的に助けてくれていたのですが、一年の約束が二年になり、もう帰ってこないとだめだと言われたので、一度帰国しました。この時に休学していた京都大学を卒業しました。

米国留学中に、女性でも仕事を持ってよいのではないかという考えに目覚めてしまったので、また大学院入学のために米国に戻ってきました。国連でのインターンシップを通じで、世界の貧しい国の状況に直面したとき、人間いろいろあるけどやはり食べることが基本だと思いました。それで、専門は経済に絞って大学院での勉強を始めました。

Q. お父様とお母様どちらが厳しかったですか?

父のほうが厳しかったのですが、母親も保守的な面では同じで、手に職を持ったらだめだと信じていましたね。女は不幸になるって。私が医学部に進むのに猛反対だったのは、妻として、母親としての責任の上に、医者という職まで背負う必要がないという意見だったのでしょうか。両親はもともと、女の子は高校卒業してさえいればよいという考えでした。なので、私は、自分で生活費を稼ぐという計画はまったくありませんでした。大学へ行っても、そのあとは結婚してボランティアで働くことを考えていたのです。女が職を持ってはいけないという考えに疑問を持ち始めたのは、米国に来てからです。

Q. 民間企業にもいらっしゃったのですね。

はい。修士が終わった時点で、まだ専門家として自分の意見を発言するのに自信がなかったのと、経済が専門分野だと修士号だけではなかなか留学生には職が見つけ難いと気がついて、博士課程に進みました。博士論文を書く間に国連の競争試験に応募してすぐに受かりましたが、空いているポストがなく、国連からの連絡がまったくありませんでした。ですから、博士号取得後は民間企業で仕事をすることとなりました。

そのとき、民間企業で仕事をするか、大学に残って教授になるかですごく悩みました。教授になるという選択肢もあってそれなりの魅力も感じたのですが、最終的には、自分は先生には向かないと判断しました。民間企業の方が将来いろいろなことを経験できる可能性があるのではと思って、ベル研究所(Bell Laboratories)を選びました。その頃は、ベル研究所は米国の電話会社AT&Tの一部で、多国籍企業の故、外国人の同僚がいて楽しかったです。私の仕事は研究が中心で、どのような消費者をターゲットにするか、どのようなプログラムを作ればより多くの顧客がAT&Tのサービスを使ってくれるかなど、データと統計を使ってマーケティング向けの提案書を作成していました。そこで重要視されたのは統計学の力ですね。その頃はメインフレームで厖大なデータを使って計算していました。

そこで5年間仕事をしましたが、いくら多国籍企業でもやはり米国人優勢で、課長や部長に昇格していくのは米国人でした。その後、KPMGという会社に移って、日本人としてのバックグラウンドを使える、コンサルタントの職に就きました。でも、もともと国連に行きたかったし、試験にも受かっていたので、突然97年に国連からレバノンに行けという連絡が来た時は、躊躇なく承諾しました。KPMGの同僚には、なぜお給料が大幅に下がるのに国連に行くのかって訊かれましたが、最初から生活力はあまり気にしないほうだったので、その面では私は全然問題なかったですね。

Q. 今のご専門である統計はどこで学ばれたのですか。

文学部出身なので統計はまったく学んだことがありませんでした。それでこちらの大学院で統計の知識が必要になった時に、どうすれば一番早く身につけられるだろうと考えたのです。私の答は、「教えればよいのでは」ということでした。博士課程在籍中に教育助手をしていました。教育助手として学部の一年生に基礎の経済か統計のどちらかを選んで教えることができるのですが、その時に統計だったら教えながら自分も学べると思ったわけです。さっそく夏休みに、学部で使っていた教科書を買って読んで、新学期から統計学を教えましたよ。米国の大学では、教授がジョークを使って一生懸命生徒を笑わせたりして教えます。この点が私が一番苦労したところです。特に統計は嫌いな生徒が多いうえ、冗談を言うにも私には生徒とも共通点がなく、どうやったら楽しませながら教えられるか困りました。それでも2年間教えました。

Q. 今なさっている仕事についてもう少し教えて下さい。

国際人事委員会(ICSC)は国連職員の人事や就職待遇条件を取り扱っていますが、私の所属している部門はその中でも特に専門的なことをやっています。国連職員のお給料は基本給と手当からなりたっていますが、基本給は任務のレベルさえ決まっていれば、どの職場でも同じです。ところが、上乗せの手当は職場によって変わります。例えば、ニューヨークやジュネーブとキンサーシャやナイロビでは、生活費が違うので、詳細な計算をして決めています。私は、各職場での生活費を調べて、その上乗せ部分を計算する部門にいます。

文句がいっぱい来ますよ。ニューヨークは家賃が高いですから職員はとても大変だと思います。皆さん高い家賃を払ってマンハッタンに暮らすか、片道1時間半かけて通勤されるか、苦しいところですね。同僚からニューヨークの手当ては何故こんなに低いのだと言われますが、計算の仕方が決まっているのでそんなに簡単に変えられないのです。

データ収集の周期もまた職場によって変わります。国連本部は5年に一度包括的なデータを集めますが、消費者物価や為替の変動は毎月モニターし、手当額の計算のもとになる指数に反映させています。本部以外の職場の場合は、消費者物価指数の有無によって変わります。毎年データを収集しアンケートを取る場合と、2〜3年に一度集める場合とがあります。ただ、家賃に関しては、どの職場でも毎年データを集めています。先進国の場合、上乗金額は毎月更新していますが、フィールドの場合は4か月に一回更新しています。今の私の部署はこの計算しかしていませんが、結構忙しいので、国籍が違う15〜16名の人が所属していて、部署としては、国際人事委員会で一番大きいです。

Q. これまでで一番印象に残ったお仕事はどのようなものですか。

一つと言われると迷いますが、国連貿易開発会議(UNCTAD)にいる時に中小企業を対象にするプロジェクトに携わったことでしょうか。どうすれば中小企業の発展のために資金を回せるか、その対話を広げるためにウガンダでワークショップを開きました。スピーカーの選定や、参加者を効率よく募る計画といった戦略の部分に多くの時間を費やし、運営としては円滑に運ぶことができました。間接的ではありますが、こういうことを通して経済の知識を生かしていけるのだと実感し、この仕事に就いて良かったと思いました。

Q. 国連で働く魅力とは何でしょうか。

やはり第一は、いろんな国籍の人と仕事ができることです。同僚といっても皆さん考え方や経歴は多様です。共通点が無いから、自分の考えは一つひとつ地道に説明しなくてはなりません。それでも勘違いされることも少なくありません。大切なことは、説明しなくても相手に完全に分かってもらえるという妄想を抱かないことですね。そして、お互いを尊重し合うこと。ベル研究所やKPMGにいた時はいろんな国籍の人がいましたが、皆さん米国で教育を受けていたので考えが米国化されていたうえ、米国で働く限りは米国流でという前提が共有されていたと思います。そういった考え方は、国連にはまったくありませんね。

もう一つの魅力は民間企業に比べれば仕事と家庭の両立がしやすいという点です。もちろん国連の部署によっても違うと思いますが、私は今まで恵まれてきたと思います。国連は今女性の職員を増やそうという方針ですし、民間企業よりも両立できる条件が整っている気がします。例えば、大雪警報が出ているので急に学校が休校になるという連絡が入った場合に、子どもが家にいるので休むから、自宅から仕事をしますと上司に電話すれば、理解して許可をくれます。民間企業はここまで融通がきかないと思います。

Q. お二人のお子さんがおいでと伺っています。どのようにしてキャリアアップとご家族の両立をされてきたのか教えて下さい。

自分のプライオリティを持つことです。私は仕事も絶対大事だし、育児も絶対大事です。特に子どもと過ごす時間は大切。子どもと過ごす時間を少しでも多くするためにマンハッタンに住んでいるくらいです。子どもが学校から戻ってくる頃には仕事は終わらないので、ベビーシッターにきてもらっていますが、もし遠方に住んでいたらいくらオフィスを定時に出たとしても子どもとの時間はほとんどありません。そういう生活は私には考えられないですね。仕事もしっかりするけど、子どももなるだけ自分の影響で育てたいというのが私の願いなので、職場から歩いて帰れるところに暮らしています。自分にとって何が大切かはっきりしていれば、道は必ず見つかると思いますよ。

Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている後輩達にアドバイスをお願いします。

目的をしっかり持って、諦めないことです。そして積極的に自分から働きかけていくべきです。例えば、就職にしても、私は国連の試験を受けたのが91年か92年だったと思いますが、職員になったのは98年でした。試験に受かって合格の通知が来たからそのうち国連から連絡があるだろって思って待っていたら、音沙汰がありませんでした。自分から動きかけないと、待っているだけではだめですね。日本人は真面目で、おとなしいうえ受身でしょう。日本の社会ではこれでいいんですけど、グローバルな舞台で生きていくにはそれはだめですね。


(2008年3月7日。聞き手:三浦貴子、コロンビア大学国際公共政策大学院。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネータ)

2008年5月20日掲載

 


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