草苅康子(くさかり・やすこ):山形県村山市出身。亜細亜大学国際関係学部卒業、米国コーネル大学大学院国際開発修士号取得。大学卒業後、政府系調査機関調査研究員(東南アジア諸国)、青年海外協力隊村落開発普及員(マラウイ)、政府開発援助機関調査研究員、開発コンサルタント、JICA専門家(エリトリア)、UNDPガーナ事務所プログラムオフィサーとして開発の実務と研究に従事。2009年より現職。大学院在学中にはUNDPカメルーン事務所にてインターンとして勤務。専門分野は、農村開発、持続可能な生計、キャパシティ開発等。 |
Q 国連職員を目指された理由は何ですか?
私の場合、「国連職員を目指した」というよりは、自分の関心分野や自分が貢献できることを追求していたら「国連職員になっていた」というほうがしっくりくるような気がします。これまで国際開発、なかでも農村開発という分野に、青年海外協力隊員・JICA専門家・調査研究員・開発コンサルタントなどの様々な立場で携わってきました。現場で農村開発に関わる過程で、国連の役割の重要性を再認識し、国連職員として、政府・NGO・企業・研究機関など幅広い関係者と連携しながら、総合的農村開発の一端を担ってみたいと思うようになりました。
ただ、国連職員になること自体がもともと最終の目標ではないので、もし今後もいい機会に巡り合えれば国連組織で活動し続けていくかもしれませんが、自分の専門分野で、他にもっと貢献できる場があれば、また違う組織で働いていくことになるかもしれません。
Q 国連開発計画(UNDP)から国連大学に移られたきっかけと、現在の仕事を教えてください。
UNDPガーナ事務所に勤務している時、主に北部ガーナの「持続可能な村落生計」と「人間の安全保障」に係る事業に取り組んでいました。それらの活動の中で、「ひとつの国連(One UN)」という形で様々な国連機関と仕事を一緒にする機会が多く、ガーナに拠点を置く国連大学アフリカ自然資源研究所(UNU-INRA)も協力を進めてきた機関のひとつでした。これは、包括的な村落開発や紛争予防に取り組む上で、様々な国連機関や組織とパートナーシップを築くことが不可欠だったためです。同じ国連組織でも、機関によって方向性や仕組みに違いがあり、調整もたやすいものではありませんが、それ以上に資金調達戦略・現場での包括的な支援・重複の回避と調和化をとおして相乗効果を実感することができ、やりがいを感じていました。
そして、UNDPガーナ事務所での勤務も3年を超え、そろそろ次のステップに移ろうと考えていた時、UNU-INRAの所長から、近々研究員(社会経済担当)のポストが空くので募集をかける、という話を伺いました。UNDPでは自分の専門分野に取り組みつつも、調整、ロジスティクス作業、予算管理など事務処理に費やす時間も多く、目の前に次々流れてくる仕事をこなしていく日々・・・。それはそれで楽しかったのですが、次はもう少し専門性を磨きながら自分が貢献できるポストはないだろうか、と考えていた時だったので、自分の大好きなプロジェクトに引き続き関わりながら、アフリカでのフィールド調査をとおして専門分野に取り組みつつ、より学びを深めることができるであろう国連大学の研究員、というのは願ってもいない機会だと思い応募することにしました。
現在も、持続可能な村落生計プロジェクトと人間の安全保障プログラムには引き続き関わっており、主に調査、訓練、発信分野の活動を担当しています。持続可能な村落生計プロジェクトは、UNDPガーナ事務所に赴任した2006年から立ち上げと実施に携わってきたプロジェクトで、それぞれの村がすでに持っている良さや強みを引き出しながら、農村コミュニティの当事者が自ら生計戦略を練って実施していくための支援を進めてきました。国連大学に移ってからは、よりフィールドに近い位置で、NGOパートナーや村の人々と共に調査・訓練の実施やツールキットの作成に携わっています。
人間の安全保障プログラムも、2006年にガーナに赴任した時から、北部ガーナで活動している国連機関が「ひとつの国連」としてすべきこと・貢献できることをみんなで議論し考えてきた中で、紛争予防と社会経済開発を包括的に推進しようという話が持ち上がり、立案から関わってきました。そして、UNDP、国連児童基金(UNICEF)、国連世界食糧計画(WFP)、国連食糧農業機関(FAO)、国連工業開発機関(UNIDO)、国連大学(UNU)の6つの機関でひとつの事業案を作成したものが無事承認され、日本政府が出資している国連人間の安全保障基金(UNTFHS)から約300万ドルの支援を受けました。このプログラムでは、ガーナ北部の紛争地域で、紛争予防から教育、農業、栄養、収入活動まで連関した幅広い分野の支援を実施していきます。国連大学は、ガーナの大学やNGOsなどと協力しながら現場での試みと変化を調査し、発信・共有・活用していくための活動を担当していきます。
これらのプロジェクトのほか、東京にある国連大学サステイナビリティと平和研究所(UNU-ISP)やアフリカと日本の諸大学と共に進めるアフリカ持続可能な教育(ESDA)プログラムで、総合的村落開発プログラムのカリキュラムづくりに参加したり、新しいプロジェクトの形成等に関わったりもしています。
Q 開発に関わる様々なお仕事をされていますが、きっかけのようなものはありますか?
小中学生の頃から海外の社会文化や国際情勢に関心がありましたが、国際開発、特に農村開発分野における国際協力をライフワークにしたいと決意したのは高校時代のことでした。高校では山岳部に所属し、週末は山形の雄大な自然を堪能しながら田舎の良さを満喫していましたが、その一方で都会と比べ情報や様々な機会に格差があることや過疎化問題など地方特有の現状に対する問題意識を持ち始めたんです。
農村の長所・短所の両面を実感し始めていた、そんな時に出会ったのが、東南アジアから近所に「嫁いできた」女性たち。私の出身地である山形県村山市は過疎化が進んでいて、農家の長男のもとへ「嫁ぐ」女性たちを東南アジアや東アジア諸国から招くケースも多く、地域には外国出身の方がたくさん住んでいました。
ある時、市内に越してきた同年代、当時10代の女の子の家に遊びに行って話をしていたところ、嫁ぎ先ではかなり年配の夫も舅・姑も誰も英語を話せないし、彼女自身もまだ日本語が話せなかったから、言葉や文化の壁にぶち当たってたいへんだ、という話を打ち明けてくれました。自分と同い年の女の子が、自分の想像もつかない苦労をしていて、身近にそれを分かち合える相手がいない、という実情を知って、私は短絡的に「自分の村に帰ったほうが自分のためにもいいんじゃない?」と言ったところ、「いや、自分の村が抱える問題を考えたら、ここにいるほうがまだまし。自分がちょっと辛抱してでも多少なりとも仕送りをしたほうが田舎の家族にとっても幸せなんだ」と言うんです。日本の農村もいろんな課題がある。でも、若い子が自分を犠牲にしてまで救わなきゃ、助けなきゃ、と言っている途上国の農村の実態はもっともっと厳しいものなんじゃないか、と気付かされました。
このように海外の開発に関心を持ち始めていた時、新聞でインドシナ難民支援や途上国の開発をテーマにした日本国際ボランティアセンター(JVC)の座談会の特集記事を見つけました。国の枠組みに縛られずに、遠い国の出来事も、自分の隣人・友人のこととして捉え、問題が発生したらすぐ現地へ飛び、現地の人々と共に行動するいきいきしたJVC職員。その言葉一つひとつが心に響き、考え方や生き方に共感しました。そして、自分も「地球市民のひとり」という自覚を持って、自発的にそして人々と共に行動する生き方をしたい、と強く思いましたね。東京の大学に進学してからJVCにはボランティアとして通っていろんな活動に携わりました。
その他に大きな影響を受けたのは、高校時代に出会ったカナダ人の先生ですね。彼女は日本に来る前から国際協力や人権運動に熱心に取り組んでこられていた人で、すぐに意気投合し、雑談から国際開発まで、幅広い話に花を咲かせました。放課後に、経験豊富な彼女の経験談を聞いたり、「援助・国際協力」はどうあるべきか、依存を生まず、人々が望む開発を側面支援する上で留意すべきことは何か、といったことを議論したりしたことは、今でもはっきりと心に残っています。
このような出会いがきっかけで、国際開発に強い関心を抱くようになり、高校を卒業したら大学で開発に関わる勉強をして、将来は国際開発の道に進みたいと思うようになったんですよ。
Q 大学を卒業してからのキャリアについて教えてください。
大学を卒業して最初の仕事は、東南アジアの調査研究でした。内閣情報調査室の外郭団体である調査機関で、ベトナム、ラオスの政治経済・社会・外交の調査研究に携わりました。在学中からJVC等のNGOsでボランティア活動に取り組んでいましたが、国際開発の実務に生かせるような社会経験を積みたいと考え、この調査機関に採用予定の問い合わせをしたところ、ちょうど空きが出る予定とのことで面接に漕ぎ着け、結果的にその団体に就職しました。
そして、そろそろ現場に出たいと考え始め、青年海外協力隊の村落開発普及員に応募しました。ひとつの村にどっぷり浸かって村人と日夜楽しく仕事をする、というのも性格的には合っていると思ったのですが、「よそ者」の表向きの出番はできるだけ抑え、現場で主体的に開発を推し進めようとしている地元の人たちを、側面から支援するような仕事がしたいと希望したところ、マラウイのコミュニティ開発訓練校に派遣されることになりました。同校では、マラウイ全国の農村で活動する政府のフィールドワーカーを対象にしたコースで、農村コミュニティの長所や課題、人々の声や参加を引き出すための社会調査法の授業を担当したり、フィールドワーカーが必要としている情報を吟味してまとめたリソースブックの執筆・発行に取り組んだりしました。マラウイでの3年間の体験をとおして、村落開発には包括的な視点が必要だと実感して、幅広い分野の知識や技術・専門性を高めるために大学院に進学することにしました。
マラウイから帰国後、JICAの海外長期研修に応募したところ選考に通ったので、その翌年からの進学で渡航費や学費等を拠出していただけることになりました。留学に出発するまでの約10か月、日本国際協力センター(JICE)で政府開発援助(ODA)の調査の仕事に従事した後、米国のコーネル大学大学院に進学しました。コーネル大学大学院の国際開発プログラムは農村開発の分野に強く、カリキュラムに柔軟性があるので、包括的な農村開発に必要な幅広い分野の研究ができるという点、さらに、途上国での現場経験が入学の必須条件だったので、途上国で様々な経験をしているクラスメイトと共に勉強や議論ができるという点は、私にとって魅力的だったんです。
Q 大学院卒業後のキャリアを教えてください。
コーネル大学で修士号を取得後は、民間の開発コンサルティング企業で農村開発や平和構築分野の業務に携わりました。具体的には、アジア・アフリカ間で農村コミュニティ開発の知識・経験を共有して開発につなげるための南南協力プログラムに携わったり、JICAの専門家としてエリトリアの除隊兵士社会復帰プログラムで主に女性除隊兵士の職業訓練や社会復帰のための支援に取り組んだりしました。
このコンサル企業に応募したのと同じ時期にJPOにも応募していたのですが、コンサルタントとして働き始めて数か月経った頃、JPOの合格通知が届きました。会社のほうでは次の面白そうなプロジェクトの話が始まろうとしている時だったのでちょっと迷ったのですが、包括的な開発に携わっていく上で、国連での経験はきっとプラスになると思って国連という選択肢へ踏み出すことにしました。そして、派遣機関や派遣国に向けた検討ややり取りを経て、UNDPガーナ事務所に派遣されることになり、3年4か月の勤務の後、昨2009年にUNU-INRAへ移って現在に至ります。
Q 学生時代に力を入れたことはありますか?
大学時代は、学内では海外事情を研究するサークルに所属し、学外ではNGOsのボランティア活動をしたり、現場から戻ってきた実務者による報告会や勉強会に参加したりと、学内外を問わず、国際開発分野について学んだり活動したりしていました。また、学内では学友会中央執行委員会で女性初の役員を務め、国際協力・国際交流の推進や他大学・外部組織との交流などに力を注ぎました。大学院の時は、マラウイに里帰りしてフィールド調査を行ったり、UNDPカメルーン事務所でインターンシップをしたりもして、机の上での勉強だけでなく、開発の現場の実情を学びながら経験を積んできました。
Q アフリカの現場での勤務が8年を超えるとのことですが、途上国では普段どのように過ごしていますか?
どの国に赴任しても、どのような立場で派遣されても、自分の態度やライフスタイルは大きくは変わりませんね。常に協力隊員の時のような、現地密着型生活を楽しんでいます。現地でないと体験や習得できないものがあるので、その機会を逃さないように、積極的に現地の文化や言葉を覚えることも楽しんでいます。
休みの日は、友人や同僚らと食事や飲みに行ったりする他、サッカーが好きなので、観戦したり自分もプレーしたりもしています。2008年にガーナでアフリカ杯が開催された時はスタジアムに通って盛り上がっていましたね。あ、でも、裸足でビーチサッカーをやり過ぎて、同じ足の爪が4度はがれてしまったので、完治するまで自分でプレーするほうは当分おあずけですけど。
ガーナでは、私が今まで滞在した他のアフリカ諸国と比べるとライブコンサートのような娯楽が意外と少ないのですが、他の国では朝までコンサートやクラブで踊り明かすこともよくありましたし、カメルーンでは伝統舞踊団に所属して伝統ダンスの特訓をしたりもしていました。どこに赴任しても、その土地それぞれの楽しみ方を見つけて過ごしています。
Q アフリカ3ヶ国でマラリアを経験したり南アフリカで強盗に遭ったりしたとのことですが、今までのお仕事でたいへんだったことはありますか?
現場と事務所のタイミングがずれ、これでいいんだろうか、いったい何が最優先事項なのか、と疑問を抱いた経験ですね。多くの関係機関との調整、会計年次のサイクル、事務処理の官僚的プロセスなど国連側の事情と、社会文化的な年間行事や気候・農業の年間サイクル、状況の緊急性など農民側の事情の間でズレが生じることがこれまで何度かありました。国連という組織で働く中で、現場のリアリティを反映させて効率的に進めることは決して容易ではないということ、そして、システムを改善していくためにはかなりの時間やエネルギーを要することも実感しました。
Q 逆に良かったことは何でしょうか?
「自分たちは貧しいから外からの支援がなければ開発は進められない」と、あきらめモードで受け身になっていた人たちが、自分たちの能力や可能性に気付いたり自発的開発を進める手法を学んだりするプロセスをとおして、短期間で自らたくさんの目標を達成し、現場でその成果を自信いっぱいで話しているのを聞くと、嬉しくなりますね。例えば持続可能な村落生計プロジェクトでは、コミュニティの人々自身がクリニックの設立と運営、教室の建設と教育向上活動、清掃活動や野火事防止キャンペーンなどなど、住民自身がやろうと定めた目標に向けて、関係者を効果的に巻き込みながら自発的に進め、成果を上げている数々の例に触れてきました。元々農村の人たちはやる気も能力もあって、ちょっとしたきっかけを得たり必要な技術を習得したりさえすれば、自発的で持続的な開発が促進されていくんだ、ということを、期待以上に証明してくれるコミュニティに接することで、いつも元気づけられています。
それから、立案や調整、資金調達まで、時間と労力をかけて進めてきた人間の安全保障プログラムが正式な立ち上げに漕ぎ着けた時も感慨深かったですね。昨年末、副大統領の熱意のこもったスピーチの最後にプログラム開始が正式に宣言された時、紛争地域の代表の方たちや政府・NGOsの代表の方たちが総立ちで大きな拍手を送っていました。その会場で自分も立ち上がって力強く拍手をしながら「ああ、多くの人たちの知恵と力を合わせて立案を進めてきたプログラムが、関係者の共感を得ながら今、始まるんだ」、という実感がわいてきて、みんなでここまでやってこられてよかったな、実施のほうも是非とも成功させたいな、という思いを新たにしました。
Q 国連で働くことの魅力は何でしょうか?
ひとつの見方や考え方に偏らず、世界全体で目標達成に向かうための「手段」・「場」として、国連は重要であると感じます。様々な専門機関も設けられているので、「ひとつの国連」としてより包括的な開発に向けた協力を進めていくことで、国連の可能性はさらに広がると思います。個人レベルでは、職場で多様な国籍の同僚たちと日々仕事をする中で、公私ともども家族のような絆が生まれたり、様々な背景の人と普段接する中から学び自分の視野を広げたりできるのも魅力だと感じますね。
Q 今後のキャリア展望についてはいかがでしょう。
これからも農村開発が核になっていくでしょうね。人間の安全保障のように、現場の実情を学びながら柔軟に活動範囲を広げていくことはこれからも心がけていきたいと思いますが、今後のキャリアにおいても、総合的な農村開発とそれに向けたキャパシティ開発にこだわり、取り組み続けていくつもりです。
そして、現場で活動が円滑に行われるように村レベルでの支援を行うだけではなく、農村開発を効果的に進めるための環境、政策、制度、枠組みと現場の実情をつなぐための仕事にも取り組んでいきたいです。途上国の現場は刺激も学びも満載でやりがいがありますが、機会があれば国際機関の本部や地域事務所で働いてみるのもおもしろいかもしれない、と考えています。
長期的には、原体験をとおしてずっと心に残っている「日本の農村と世界の農村をつないでお互いに学び合い、良さを伸ばしていくための機会をつくるお手伝いをする」など、これまで培ってきたネットワークや経験を生かして、何らかの形で日本の農村にも関わっていきたい と思っています。
Q 最後に、グローバルイシューに取り組むことを考えている人たちに贈る言葉をお願いします。
世界で、現場で、何が求められているか、人々の声に耳を傾け学ぶ姿勢と、その中で自分が貢献できることは何かを考えることが大切だと思います。例えば、国連をひとつのブランドや憧れのゴールとして捉えて、「格好いいから国連で働いてみたいけど、何を勉強したいか分かりません」と言う人にしばしばお会いすることがあります。でも、形に憧れているだけではなく、本や経験者のお話、現場での話し合いや観察などをとおして、グローバルイシューの実態や影響、可能な解決策について考察し、それを実現するためにはどう関わるべきなのかを考えた上で、取り組んでいくほうがいいのではないかな、と思います。
国連を含め、組織・ポジションは機会を与えてくれるけれど、その機会を有効に活用・満喫できるかどうかは自分次第。仕事は与えられるものと思って待っているだけでなく、自分にできることは何か、このような人や組織と協力すれば実現できるのではないか、というのを見極め、巻き込み、実行していく意思と行動力も大切だと思います。
2010年1月7日、東京にて収録
聞き手:唐澤由佳
写真:田瀬和夫
ウェブ掲載:岩崎寛央