第6回:久木田 純さん
国連児童基金 プログラム・ファンディング・オフィス勤務
久木田純(くきたじゅん):福岡県生まれ。1978年、西南学院大学文学部外国語学科英語専攻卒。九州大学大学院教育心理学修士。大学院博士課程在籍中にJPOに合格、UNICEF駐モルディブ事務所に赴任。UNICEF東京、ナミビア、バングラデシュ事務所に勤務した後、2002年よりユニセフ・ニューヨーク本部の事業資金部上級事業資金担当官。 |
私は高校卒業の頃から“人生計画表”を作っているのですが、国連をキャリアの選択肢の一つとして考えたのは大学2年生のときです。国連職員は一番遠いビジョンでしたが、もっとも自分の価値観や理想に近いものでもありました。
なぜ国連職員だったかといえば、人との出会いや仕事を通じた勉強によって自分の成長を図る、また、自分の人生を通じて世界の存続と発展に貢献する、という私自身の二つの目標が両立できると思ったからです。
学部では、文学部外国語学科で言語学や異文化コミュニケーションを勉強していました。当時は冷戦の時代で、国と国の誤解や意見の相違が対立を生んでいると考えられた時代でしたから。ただ、大学4年生の時に初めて東南アジアを訪れ、誤解の問題だけではない、経済や貧困、紛争という問題を意識しました。
Q.国連に入るまでの経歴を教えてください。
国連職員になるため、語学・修士号・職務経験を身につけてJPOに合格することを目標としました。そのころ、外務省編の「国連職員への道」というガイドブックを読むと、文学部専攻では国連職員になれないと書いてあったんですよ。大学院では社会心理学を学ぼうと考えたのですが、学部での専攻が異なるため、まず研究生として院に入りました。大学の非常勤でフルブライト交換教授の通訳をして英語に磨きをかけつつ、教育学と心理学を勉強し、結局3年かかって大学院に入学しました。
この間、人類学、社会学、日本民俗学などの方法論も学び、同時にシンガポールへの留学を含め、開放直後の中国、貧富の格差著しいインド、難民や開発問題に揺れる東南アジアなど、何度もアジアを旅し、途上国の抱える問題に接してきました。
私が大学院で勉強したのは、分配公正についての実験社会心理学的研究という分野で、世界の富の分配と人々の公正感、それと人間の能力やニーズの関係を研究しました。博士課程の2年目にJPO試験を受け、卒業前についにUNICEFモルディブ事務所に赴任することになりました。インターナショナルスタッフは私の上司にあたるオフィス代表者と私の2人で、現地スタッフは4〜5人いるだけの小さなオフィスでした。1年目はモニタリングを担当し、船で島を巡って、予防接種の実施や薬の使用状況などを調べ、保健や教育支援の効果や問題点などを報告していました。
2年目に、仕事上の転機が訪れます。上司の異動のため10か月間、代表代理を任されたのです。ちょうど5年に一度のカントリープログラムを作る年で、自分の仕事に加えて現状分析・プログラム作り・人事・予算など国別事務所の運営のすべてを担当することになりました。開発の原則をいつも考えながら判断を下していくという経験が非常に勉強になりました。
Q.これまで一番印象に残ったのはどんなお仕事ですか。
現場で途上国の人々のエンパワーメントに関わっている、という実感があるときですね。1989年、アパルトヘイト政策で植民地支配されてきたナミビアで、国連独立移行支援グループ(UNTAG)のもとでユニセフの仕事をしていたころ、停戦後の初めての選挙が行われました。選挙結果を今か今かと待ち受けていて、ついにラジオから「スワポ(独立派)勝利」のニュースが流れてきたときに、現地スタッフが、喜びのあまり道路に飛び出して踊りだしたのです。その姿を見て、「彼らはこれから自分たちの力で、自分たちの手で国を作っていくんだな」ということを感じて、とても感慨深かったです。白人に植民地支配され、経済格差もあった。それでも、新しい国をつくるという人々の意思が表されたわけですね。
また、同じくナミビアで、首都から1200キロも離れた村で参加型開発のモデルプロジェクトを3年かかって作ってきたのですが、そのプロジェクトを去るときに、地域の人が何百人も集まって私のお別れ会をしてくれたことも印象に残っています。朝、私のところに大きなヤギを2頭連れてきて「これを夕方までに料理してご馳走するから」と。あと、“タテ・クキタの歌”(現地の言葉でミスター・クキタの意)という歌を作って、子どもたちが歌ってくれました。私の功績をずーっと称えて「後はもう大丈夫だから心配するな」という内容で。そのときはじーんときましたね。女性のグループ、井戸掘りのグループ、植林のグループなど、そのときに作ったグループの人たちからも言葉をもらいました。その人たち自身がこれからコミュニティーを支えていくのだということが印象深かったです。
Q.現在のお仕事について教えてください。
マルチ(国連機関、世界銀行など)、バイ(担当は日本と韓国)とUNICEFとのパートナーシップとファンディングの担当をしています。
仮に、世銀が社会開発プログラムを行うための資金をUNICEFに対して提供したとします。UNICEFは政府とのパートナーシップを基盤として結果重視でプログラムを進めますが、世銀は契約を基盤として会計上の説明責任を重視します。そのようなアプローチの違いに折り合いをつけながらUNICEF以外の機関からの合意をとりつけ、プログラム管理、会計、監査等のシステムを整えることが仕事です。
たとえば、監査については、世銀は独立監査をしなければならないが、国連は外部の監査を受け入れてはいけないシステムになっている。そこで、世銀との間で「国連の内部・外部監査システムは十分に高い水準にあるので、国連の監査を世銀としても認めます」という文書合意をとりつける、といったことです。
開発を進めるためには「途上国のエンパワメント」と「先進国からの資金・支援の増加」の両輪が必要です。私はどちらの仕事にも関わって両方を動かしたいと考えています。
Q.国連で日本ができる貢献についてはどうお考えですか。開発の分野でいえばODAを効果的にMDGにつなげるということでしょう。少なくとも20%を“基礎”社会開発に使ってほしい。また、現在のインプット中心でなく結果中心のアプローチにODAの構造を変換していくことも大切です。
平和構築の分野でいえば、日本は武器輸出をしていない大国であり、そういう国が国連の中でリーダーシップを発揮することが大切だと思います。世界の武器輸出を終わらせ、紛争を予防し、人間の安全保障を高めると同時にその資金を開発へ回すことができれば、世界を変えていくような貢献ができる。日本が安全保障理事会の常任理事国を目指すとき、そのポストを得て何をしたいのかをもっと明確にするべきです。日本ならではのユニークさが求められます。日本の国益は重要だと思いますが、日本の主張が世界の利益にもつながるような何かを訴えていかなければ、世界からの支持は得られません。
Q. これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。
3つありますね。1)自分の価値観を明確にする、2)計画を立てる、3)旅をする、ということ。自分の価値観については、自分の人生で何を問題とし、何を達成したいかを明確にしていくことが必要です。自分なりの信念、使命感ですね。国連は時間のかかるキャリアパスですし、高い価値観を要求するところでもありますから。
また、計画も必要です。国連職員には「コミュニケーション能力(語学力)」「専門性」「職務経験」が必要ですので、それぞれ3〜4年かけるとしても、大学を出てから10年前後かかります。能力を伸ばすための計画なしにはそれを達成することは難しいでしょう。また、自分の人生の価値を達成するにも一生を見渡す長期的で具体的な計画とその定期的な見直しが必要です。
最後は、問題に接するために旅をするということです。世界の中でも問題のあるところ、途上国へ行ってほしい。ウルルンの旅ではないですが、複雑な実情を知ると同時に感情レベルの理解をしてもらいたい。この問題を解決しなければという思いが、価値観の形成にも影響を与えますから。
価値観が明確で、意欲旺盛な日本人に、是非国連に入ってきてもらいたいと思います。生物の進化の過程と同じように、人類も、多様性がないと生き残れないと思うんですよ。多様性を確保しながら共存していかなくてはいけない。その意味で、日本人的な発想や価値観というのは大切にすべきだと思いますし、同時に、異なる価値観を理解して協力できるような人に、国連職員になってもらいたいと思います。
(2006年7月5日、聞き手:谷、写真:田瀬)
2006年8月2日掲載