PSPでの気づきとその経験の活かし方
(西尾萌波)
私がこのプログラムで得た1番の気づきは、至極当たり前のことかもしれないが、「先進国も、かつては途上国だった」というものである。今まで私が国際協力に対して抱いていたイメージでは、支援される側とする側には大きな隔たりがあった。経済状況も、文化も、人々の暮らしも、その違いにばかり目をやっていた。しかし、このプログラムの中で、実際に協力の現場に携わる国際機関や現地機関の方々のお話を聞く中で、かつては日本も、他の先進国もパプアニューギニアと同じように水道も道路も無い「途上国」だったのだというごく当たり前のことに気付かされた。もちろん、地理的条件や慣習など国による違いはある。しかし、例えばパプアニューギニア独特のコミュニティー形態だと言われているワントクも、相互扶助の村社会と形容の仕方を変えれば、かつては日本を含む多くの国に普遍的に存在していたのだ。
そして、放っておけば資本主義の力に押されて、パプアニューギニアもかつての日本と同じような発展の道を辿ることになるのだろう。しかし、地球全体で見れば、日本が高度経済成長期を迎えた時とパプアニューギニアが経済成長をとげようとしている今ではあらゆるものが変わっている。かつての日本とは違い、パプアニューギニアには経済成長と同時に人権を尊び、多様性を尊重し、環境に対しても配慮することが求められている。犯してきた数々の失敗に対する教訓を活かして、先進国が途上国をサポートし、より良い発展の仕方を共に模索していかなければこれは実現できない。また、パプアニューギニアのような途上国ががむしゃらに経済成長に投資すれば、地球全体としての資源が足りなくなるという現実的な事情もある。国際社会がこれまでに合意してきた普遍的な原則を全ての国が守り、全ての国が力を合わせて共通の課題に対処していかなくては、グローバル社会全体が危機に直面してしまう。だからこそ、国際機関を仲立ちとして多くの国が一国の発展をサポートし、介入することが必要になる。
このようなマクロな視点で見れば国際協力は一見正義だが、現地に降り立てばその負の側面も多く目にする。外国資本が集中投資された首都と政府の手さえ行き届いていない地方の格差。それに伴う治安の悪化。破壊された自然。人々のつながりからこぼれ落ち、政府の扶助も得られぬままホームレスと化す人々。そして私たちはマクロとミクロのギャップに驚き、戸惑い、国際協力というものの正当性や必然性に疑問を投げかけることを迫られる。
実際、その疑問に対する絶対解は存在しない。国際協力に携わる方々も、日々自身の行動の正しさを問い続けている。
本プログラムを通じて得たこの難題に対する多種多様な視点や考え方をどのように収束させ、自分のものとして取り入れて行くか、そして自分のフィールドで今後その視点をどのように活かして行くかは、参加者それぞれに委ねられている。しかし、いずれにせよ、年齢も性別も職業も全く異なる人々に意見をぶつけ、ぶつけられ、現地を訪れて自分の五感をフル活用して実際を目の当たりにし、これらの問いについて考え続けた経験はそれぞれにとってかけがえのないものとなったであろうことだけは間違いない。