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全田良子さん

国連人口基金(UNFPA)ニューヨーク本部・Change Management and Business Continuity

(変更管理および事業継続)部 上級顧問

 

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全田 良子(ぜんだよしこ):台湾のアメリカンスクール、上智大学比較文化学部を卒業後、ニューヨーク州立大学バッファロー校にて政治学修士を取得。日系銀行のニューヨーク支店で半年勤務後、1980年にJPOとしてUNFPAのニューヨーク本部で勤務開始。アジア課にて3年間勤務後、中国、タイ、ジンバブエ、インドネシア、カンボジアのフィールド事務所で17年間にわたり、家族計画とエイズ対策を中心とした開発事業に従事。ジンバブエとカンボジアで事務所代表を務める。2003年にニューヨークに戻り、UNICEFのHIV/AIDSセクション、UNFPA西アフリカ課、UNDP国連開発グループ室、UNFPA戦略計画室を経て現職。

Q. 国連に勤務するきっかけについて教えてください。

小さいころから国連で働きたいと思っていたわけではありませんでしたが、小学生のときに男尊女卑の社会を感じたことがきっかけかもしれません。私が小学生のときには、男の子が女の子を呼ぶときには「全田」って呼び捨てにしていました。でも女の子が男の子を呼ぶときには「〜くん」って呼びましたね。それが頭にきて、自分は男の子を呼び捨てにしていました。また、食事のとき「おかわりどうですか」と言われたときに、男の人は「はい、ありがとうございます」と言えるのに、女の人は「いいえ、もう結構です」と言わなければいけませんでした。当時の国語の教科書に、それが男女の不公平であるという文章が載っていたのをはっきりと覚えています。

私は台湾と大阪のアメリカンスクールを行ったり来たりしていたため、二十歳で高校を卒業しました。大学は日本に行くことを決め、上智大学比較文化学部に進学しました。当時、上智大学比較文化学部は文部省の認可する四年生の大学ではなく、戦争が終わった後にGIたちに教育の機会を与えるために設立されたという事情で夜学でしたし、各種学校という取り扱いでした。ですから、友達も限られていましたし、正直言って自分の大学生活は普通の大学生とはかなり違っていたため、あまり面白くはありませんでした。

大学を卒業してすぐに大学院に行こうという気持ちはありませんでした。でも、日本の会社に入ってお茶くみして、お見合いして、結婚する、という生活は絶対に嫌だったんです。結局それで大学院に行くことにしたんです。でも、何になろうということはぜんぜん考えていませんでした。そしてちょうど大学院を終えるとき、外務省が国連職員をリクルートすると偶然耳にして、面接に行きました。幸運にもそこで採用されて1980年2月、25歳でJPOとして国連勤務を開始しました。その時の日本人JPOの男女の比は女性が10人に対して男性は1人くらいでした。

最初はUNDPの勤務を希望していましたが、「UNFPAに行きませんか」と代表部に誘われて、「それじゃあ、やってみます」ということで業務の内容をよく理解せずにUNFPAに入りました。私の大学院での専門は政治学でしたから、UNFPAの中心業務である公衆衛生は全く未経験でした。ですから公衆衛生の知識やスキルは、仕事を通じて一から勉強をし、身につけました。最近では特にエイズ対策に力を入れて活動していたので、この分野の知識と経験はあります。しかしエイズの分野は3か月毎に新しいことが発見されているので、今も前線で仕事をしている人たちには到底勝てませんけれどね。

Q. 現在なさっているお仕事と今までのお仕事について教えてください。

最初はニューヨークで勤務を開始し、以後は、タイ、中国、ジンバブエ、インドネシア、カンボジアの5か国をまわり、ずっとフィールドでプログラムの管理と運営に関わってきました。フィールドでプログラムの仕事をしていると、本当に「血湧き、肉踊る」という感じがします。自分でプログラムを運営し、自分で一つひとつ交渉することが楽しいんです。私は、開発の仕事は本部でできることはあまりないと思っています。ニューヨーク本部にはフィールドの事情を知らないスタッフも多いです。でも開発の仕事をするにはフィールドの経験が絶対に欠かせないと思います。

17年間のフィールドでの勤務の後、ニューヨークに戻りUNFPAの西アフリカ課の課長をやりました。現在はUNFPAの地域分権を進めるプロジェクトに関わっており、地域事務所の移転業務などを行っています。地域事務所の移転先候補が複数あるときには、公平な基準で比較をして移転先を決定しますが、基準ごとにポイントをつけ、候補先の都市に事務所が移転した場合の移動コストを計算したりします。

Q. 日常の業務において気をつけていることはありますか。

そうですね、裏表をつくらないようにしています。たとえば、ある人がそこにいたら言えないことは絶対にどこでも言わない。また本部では専門職員と一般職員、フィールド事務所では国際職員と現地職員の間で線が引かれがちです。そうならないように、どの立場のスタッフからも意見を聞くようにしています。

自分がフィールド事務所の代表をしていたときの話ですが、土曜や日曜も仕事に来るスタッフがいました。しかし週末出勤や残業が日常化しているということは、そのスタッフの能力が低いか、上司である私のスタッフ管理能力が低いかのどちらかを意味します。ですから、週末出勤や時間外の残業は基本的には推奨しませんでした。夏の暑い時期、週末にスタッフが子どもを連れてクーラーのある部屋に涼みにきたり、子どもをコンピュータで遊ばせたりするのは微笑ましい光景ですけれどね。

個人的には業務上のポリシーがひとつあります。組織の規則はもちろん守らなくてはいけませんが、規則の解釈には幅があっていいと思っています。自分自身の利益のために規則を柔軟に解釈することは決してやってはいけませんが、相手政府やその活動のために規則を最大限に柔軟に解釈することは良いと思うんです。

Q. 今後はどのようなお仕事をしたいとお考えですか。

退職まであと4年しかありませんが、来年に下の子どもが大学に進学したら、もう一度フィールド事務所の代表をやりたいと思っています。西アフリカのガーナ、ナイジェリア、ギニアビサウ、ブルキナファソ、シエラレオネ、リベリアあたりの地域が希望です、なぜなら一番援助が必要とされている地域だからです。フランス語圏も行ってみたいんですが、フランス語は英語ほど得意ではないので、少し難しいかな。

Q. 国連職員として求められる能力やスキルは何でしょうか。

今までいろんな人と仕事をしてきて感じるのは、人間性が基本的に求められる資質だと思います。潔癖であるということが国際協力や開発の仕事をするのに最も必要だと感じます。開発に関わる人に誠実さが欠けていると、どんなに良いプログラムでも投資した資金や時間に見合った成果が出ませんし、説明責任が欠如し、汚職などになることも多々あります。ですから、ともすると能力重視になりがちな国連の人材採用においても、今後はもっと人間性を重視していくべきではないでしょうか。

アドボカシーやスピーチ、管理能力はある程度まで教わって身につけることができますが、潔癖さ、誠実さなどは教わって身につくものではないと思います。特に事務所代表、部署のチーフ、組織のトップなど人の上に立つ人にとっては、誠実さや品格は最も大事な資質です。

しかし、ある程度のいい加減さも必要なのかもしれません。組織で昇進しようと思えば、私みたいに思ったことをはっきり言ってしまう頑固な性格は災いします(笑)。

Q. 国連で働く魅力はどこにあると感じますか。

自分は偶然この仕事に出会いましたが、人のために何かできることにとても感謝しています。自分の性格や境遇にも合っていたと思います。家族計画、性と生殖に関する健康、女性の地位や婦人問題など、UNFPAの業務分野は自分自身も身近に感ずる分野なのでいっそうやりがいを感じることができたんだと思います。

一方で、国連では転勤が前提になることが多いので、配偶者がいる場合の転勤には常に心理的な負担が伴います。また配偶者が国連職員ではない場合、配偶者の労働ビザは容易には取得できません。国連の福利厚生はまだまだ改善すべき部分があると思います。

Q.いちばん思い出に残っていることは何でしょうか。

ジンバブエでの生活でしょうか。初めてのアフリカで、初めての事務所代表としての勤務で、赤ん坊を連れての赴任でした。家の敷地が2エーカーもあり、日本で言うと中学校のグラウンドくらいありました。テニスコート2面、プール、ジャングルジム、ブランコ、コテージ、貯水池、ガレージ。それにマンゴーやアボカド、クワの木もたくさん生えていました。敷地で子どもが遊んでいても、目が届かないくらい広いんです。「ごはんだよ」という声も届きません。仕事の充実さに加えて、このようにのびのびとした環境で家族との充実した時間が過ごせたことが思い出深いです。

カンボジアのプノンペンでは移動式の性病クリニックを運営しました。信じられないと思いますが、カンボジアでは10歳くらいの女の子にも性病が見つかるんですよ。クリニックでの検査代は無料ですが、薬代は有料にしていました。無料だと1日か2日だけ使って症状が少し良くなりかけたところで、使うのを止めてしまう傾向があるからです。小額でも有料にすると薬を最後まで使ってもらえるんです。

有森裕子さんがUNFPA親善大使としての初仕事でカンボジアに来られたこともよく覚えています。彼女自身が運営するNGOもカンボジアで活動していましたし、事務所代表である私が日本人であるということもあってカンボジアに来てくださいました。エイズ末期の患者がいるホスピスを有森さんやテレビ局の人たちと一緒に回りました。彼女も同行のテレビ局の人たちも、それぞれにエイズを目の当たりに見てかなり動揺していました。

最初に一緒に仕事をした同僚に、「結果を出すためには個人的な感情は家に置いて、仕事に対しては常に冷静に判断しなければいけない」と言われたことを覚えています。今でもその通りだなと思いながら仕事をしています。子どもが売春のために人身売買され、孤独なエイズ末期の患者がいる、という状況で仕事をするには、「かわいそう」という気持ちを持っても、そこで終わっては何の意味もありません。冷静にかつ実務的に仕事を進めなければなりません。やらなければならないことはやらなければならないんです。たとえば、宗教上は避妊が認められていないカトリックですが、シスターにお願いして教会の外にコンドームを置いてもらうなどという冷静な判断と実務的な交渉が必要だということです。

Q. これまでに苦労したことはありますか。

早い時期から事務所代表をさせてもらい、前半戦は順調なキャリアを進んでいたと思います。実際、フィールドでずっと仕事をしたいという気持ちがありました。ところがカンボジアに行ってから上の子どもが言語学習障害であることが判り、それで次の移動ではニューヨークに帰りたいという希望を出したんです。

そんな理由でカンボジアの後にニューヨークへ戻ってきたんですが、あいにく、UNFPAでの適当なポストがありませんでした。それで国連児童基金(ユニセフ)本部HIV/AIDS部署で一年間働き、その後またUNFPA本部に戻り西アフリカ課の課長を二年間しました。

カンボジアで4年勤務した後にようやくニューヨークに戻ってきたときには、自分のことをよく知る上司や、自分を評価してくれていた人たちはすでに引退をしていました。今思えば、カンボジアを2年ほどで離れてニューヨークに戻るという選択肢を考えるべきだったかもしれません。ニューヨークで自分の希望する仕事やポストに就けなかったことに対して、自信を失ったり、鬱になったりすることもあり、当時はキャリアと家庭の両立にとても苦労しました。一方、子どもの教育環境はずっと良くなりましたし、子どもも順調に成長してくれましたから、ニューヨークに戻って良かったとは思っています。

Q. 休日はどのようにお過ごしですか。

裁縫をやったり、息子たちや友人たちと一緒にギャラリーやオペラ、映画や野球の試合に行ったりもしますが、食べることが大好きなので、料理をして家族一緒に食卓を囲むことで休日は終わってしまいます。料理は以前から好きで、高校を卒業した時に料理学校に行こうと本気で考えたくらいです。しかし母に「学問から一度離れるとまた始めるのはとても大変ですよ。とにかく一度は大学に進学しなさい。大学を卒業して、それでも本気で料理をやりたいと思ったら料理を勉強しなさい」と言われて、一般の大学に進学しました。母にはまんまと騙されました(笑)。

Q. UNFPAは公衆衛生が主な分野ですが、在職中に経済学を学ばれたのはなぜでしょうか。

私はニューヨークで勤務していた時期にはニューヨーク大学大学院で経済学を履修し、その後1年間休職してオックスフォード大学大学院で経済学を学びました。経済学を通して、開発に対する理解をより深めることができました。あえて仕事の主分野ではない経済学を学んだのは、開発の基は経済だと思ったからです。UNFPAやUNICEFなどの人間開発分野の人たちは、経済が人間開発に与える影響をもう少し理解するべきだと思います。経済が良くならなければ、社会部門は決して良くなりません。経済がひどいのに教育や保健衛生部門が整っていくということはほとんどありません。社会部門の中でも、いちばん大切なのは教育だと思います。教育がなければ避妊具ひとつも正しく使うことができませんからね。

Q. 国連の仕事をしていなければ何のお仕事をしていたと思いますか。

何になっていたかはちょっと分かりませんね。大学生のころ父の会社が倒産したことがあって、そういうことのない仕事を選んだという経緯はあります。だから国連でなくても、毎月安定した収入が入ってくる仕事に就いたと思います。好きな料理でプロとして仕事ができていたら素晴らしかったとは思います。しかし「本当に好きなことは趣味としてとっておいた方が楽しめるかもしれないですよ」と母に言われたことがあり、いまでは本当にそうだったかもしれないと自分でも思います。言い訳じゃありませんけど、だから料理は趣味以上にはなっていません(笑)。すごく上手にできたと思うときもあるし、大失敗のときもあります。マナガツオの味噌漬けは大得意なんですが、この間つくった銀だらの西京漬けは大失敗でした。

Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている人にメッセージをお願いします。

日本人はアジアで仕事をしたいという人が多いようですが、西アフリカに目を向ける人が多くなってほしいと思います。というのも、アジアやラテンアメリカは援助の問題ではなくなっています。問題はその国の中での貧富の差、経済や金融発展のターゲットが一部の特別階級だけに向けられている事情にあります。また、これらの国々の中にはすでに世界市場から必要な資金等を得ることが可能な国もあります。一方、西アフリカは、世界でいちばん開発が遅れていて、英語圏もさることながら、特に仏語圏は外部の援助をいちばん必要としているところです。現在でも女性の識字率が10パーセント程度の国がいくつもあります。そういうニーズのあるところに行くのが本来のあるべき姿だと思いますし、環境の厳しいところでは、やったらやっただけ仕事のやりがいも倍になります。

最後になりますが、みなさんが開発の仕事に関わるとき「何かをやってあげている」と思っていませんか。自分たちがどんなに恵まれている環境で生まれ育っているかを忘れずに、「お手伝いをさせてもらっている」という謙虚な姿勢で、多くの人に開発の仕事に関わってほしいと願っています。

 


2010年6月21日、ニューヨークにて収録
聞き手:芳野あき、太田徹
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:鈴木智香子
ウェブ掲載:陳 穎

 


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