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田 仁揆さん
国連政務局・南アジア担当チーム長

 

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田 仁揆(でん・ひとき):ジャパンタイムズ報道部記者を経て1988年国連事務局に奉職。事務総長室政務官、政務担当事務次長特別補佐官、東南アジア担当チーム長を経て2007年から現職。コーネル大学大学院卒。東京都出身。

Q. ジャパンタイムズ報道部記者から国連職員へ転身されたきっかけを教えて下さい。

私はアメリカの大学で政治学や国際関係学を専攻したこともあり、将来的には国連のような場所で働きたいという希望を持っていました。ただ国際機関に就職するためには実務経験が必要なこと、又修士課程を終えた当時のアメリカの経済状況が非常に悪く当地での就職が厳しかったこともあり、一旦日本に戻りました。そして、英語力と国際関係の知識を生かせる職場ということで英字新聞であるジャパンタイムズに就職し、足かけ10年報道記者として働きました。専門は主に政治外交問題で、特に国連や日中、日米問題については力を入れて取材をしました。一例を挙げれば、1985年に当時の中曽根総理に同行し、ニューヨークで開かれた国連の創立40周年記念総会を取材しました。

国連に奉職する直接のきっかけは、外務省の記者クラブ―通常「霞クラブ」と呼ばれています―に常駐していた時に、ある外務省の方から「田さん、国連で働いてみませんか?」というお誘いをいただいたことでした。現在でも国連事務局の日本人職員数は通常予算分担金の比率から割り出す国籍別の「望ましい職員数」に達しておりませんが、当時も邦人職員数は適正レベルをかなり下回っており、外務省としてもいろいろ努力されていたのだと思います。そんな折1985年に日本人を対象とした国連競争試験が東京で行われることになり、良い機会だと思い受験したわけです。当時の競争試験は「政務」分野に関して言えば一般常識及び国際情勢、国際関係の知識等について問うもので、英字新聞記者という仕事柄ある程度こうした問題について英語で書く習慣が身についていたこともあり、幸いなことに合格することができました。 

ところが翌年合格通知が届いた頃には、国連自体がアメリカの分担金支払い拒否等もあり未曾有の財政危機に陥り、総会決議でその後の職員採用が2年間凍結されるという異常事態に見舞われてしまいました。私の場合は仕事を持っていたので余り影響はありませんでしたが、合格した人の中には採用凍結解除を待てなかった人もいたのではないでしょうか。結局私へのオファーが来たのは1988年春。事務局に赴任したのが1988年夏ですから、その時点で競争試験に合格してから3年近くが経っていました。そしてあれから今年の夏でもう22年、時の経つのは本当に早いものです。 

Q. 国連にご関心を持ち始めたのはいつ頃からですか?

ジャーナリズムは社会的影響力もありますし、何より誰よりも早く物事を知る立場にいられるということは私にとって非常に魅力的でした。しかしジャーナリストの使命は事実を正確に報道することにあり、自ら政策を作っていくことではありません。私の中にはいずれ政策立案にかかわりたいという思いが漠然とあり、又国連憲章が掲げる大きな目的のひとつである「戦争のない平和な世界を創っていくこと」に微力ではあっても貢献したいという強い思いも持っていました。ですから国連競争試験受験への誘いを受けたときに、やってみようという気持ちにすぐになれたんだと思いますね。

それから、これは子どもの頃の体験になりますが、当時はまだ至る所に太平洋戦争から帰還した傷痍軍人の方がおられ、戦争の悲惨さを自ら感じたものでした。又当時の日本はまだまだ貧しく、学校給食に国連児童基金(ユニセフ)から支援された米や脱脂粉乳等が出たものでした。国連は決して万能ではありませんが、こうした経験をとおして私達の世代の人間には国連へのある意味での「信奉」みたいなものがあり、それが原体験として国連に奉職する道を選んだ私の中に生きていたのだと思います。

Q. ジャーナリストとしての経験は国連でどう生かされましたか?

新聞という媒体は紙面が限られています。特に英字新聞はリード部分に一番大事なことを持ってきて、下の方は切られてもいいように記事構成をします。ジャパンタイムズ時代に私はこのことを叩き込まれましたが、それが国連に来てからも非常に役立ちました。と言うのも、国連では物事を簡潔明瞭に書くということがとても大切で、かつ求められるからです。もちろん国連の文章には長く読みにくいものもたくさんあります。しかし、日々の業務のなかで自分の意見や分析を上司に伝える場合には簡潔明瞭な文章は必須です。なぜなら役職が上の人になればなるほど忙しく、5枚も6枚もの報告書を読む時間はないわけですね。私は政務局の一員としてキャリアを積んできたこともあり、様々な文書を事務次長や事務総長に提出する機会は今でもかなり多くあります。特に事務総長は忙しいので、重要な案件でも文書一枚、長くても一枚半に抑えなければならず、如何に簡潔明瞭な文章を書くかに常に苦心しています。ちょっと逆説的になりますが、長い文章を書くということはそう難しいことではなく、むしろ一、二枚に正確な情報を盛り込む事のほうが難しいのではと思います。そういう意味で英字新聞記者として正しい語彙の使用、文章構成等の訓練を受けたことは、今振り返ってみると国連で働く上で大変有益だったと思います。

Q. 事務総長室政務官、政務担当事務次長特別補佐官時代の仕事について教えてください。

私が国連に入った当時の事務総長はペルー出身のデクエヤル氏で、私は事務総長官房で政治総会担当事務次長(Under Secretary General: USG)の補佐官になりました。当時はまだ冷戦が続いており、国連としても目立った働きができない時代だったのですが、私は総会の全般について事務次長を補佐する仕事、それから国連に登録しているNGOとの連絡・調整の仕事を主に担当していました。その後1992年にエジプトのブトロス·ガリ事務総長が就任すると、冷戦が終結したこともあり、国連の平和と安全分野での役割に対する期待が一気に高まり、総会や事務総長を中心に、国連の機構改革、つまり、どうしたら国連がもっと世界平和或いは世界の経済・社会発展に貢献できるかということについての議論が活発に行われました。

こうした国連への期待の高まりは、1992年に断行された国連の機構改革につながり、ガリ事務総長の下事務局の機構が大きく五つの局に統合されました。その一環として、それまで幾つかに分散されていた政務関係の部署も再編統合され、平和と安全の問題全般を担当する政務局が誕生したわけです。そういうわけで、私は事務次長の補佐官として新しい政務局の立ち上げにも関わりました。ガリ事務総長は学者で卓越した理論家であり、氏が「Agenda for Peace」の中で提唱した予防外交、平和維持、平和創造等の理念は現在でも国連が取り組んでいる平和と安全の仕事の大枠を形作っていると言えるでしょう。

私の補佐官時代は12年に及びますが、この間政務担当事務次長を補佐し局内の人事・予算などにも関わりました。この経験は私に局全体の動きを大きく眺める機会を与えてくれ、そこで実感したことは、国連のような組織で生きていくには優れた専門知識に加えて、組織管理能力を併せ持つことが大切だということです。そういう意味では補佐官時代には良い経験を積ませてもらったと思っています。

Q. 現在のお仕事について教えてください。

現在はアジア局で南アジア地域を担当しています。国で言うと、北はネパールから南はモルディブまでの6か国をカバーしますが、今はネパールにおける政治ミッション(UNMIN:United Nations Mission in Nepal)をとおしての和平プロセスの促進, スリランカの内戦終結に伴う国民和解の促進等に関わる仕事をしています。ネパールでは選挙を経て新しい政権が誕生しましたが、現実には国軍と人民解放軍(マオイスト軍)が併存しています。ですから、この二つの軍をどう統合して一つにしていくか、新憲法制定と並んで、和平プロセスを定着させるために緊急な課題です。また、スリランカでは25年続いた内戦が昨年終結しましたが、国民和解という課題は依然として残されており、多数派を占めるシンハリ族と少数派のタミル族、イスラムの人々の和解実現の為、政務局だけでなく、人道問題調整部(OCHA)や国連開発計画(UNDP)など国連システム全体が一丸となって取り組んでいます。

その他にも、モルディブやバングラデシュのように一見平和に見える国々にも、さらなる民主化の問題があり、特にモルディブは高級リゾートという側面が強調されますが、実際には一党単独政権が30年にわたって国を支配してきたのです。それが2008年11月に初の複数政党による大統領選挙が行われ、続いて2009年5月に総選挙が行われました。こうしたプロセスを経て、モルディブは今まさに民主化移行への階段を登り始めたところなんですね。国連政務局では、現地に事務所があるUNDPやその他の国連機関と協力して、民主化の定着を促進する活動をしています。2008年、2009年の選挙の際には、私も国連政務局が派遣した選挙監視チームのリーダーとして現地に入り選挙のモニタリングを行いました。

Q. これまで一番思い出に残った仕事は何ですか。

私が事務次長補佐官からアジア局に移ったのは2000年で東南アジアを担当しました。その当時一番深く関わった国はミャンマーです。ミャンマー問題はアメリカ、ヨーロッパ、日本 そして中国、或いは東南アジア諸国連合「ASEAN」でも関心が高く、ミャンマー担当の国連事務総長特使に任命されたマレーシアのラザリ大使と一緒に約3か月に1度はミャンマーの当時の首都ヤンゴンとニューヨークの往復、それから関連緒国の首都を飛び回りました。やはりその中でも一番思い出に残っているのは、2002年の5月に当時自宅軟禁されていたアウンサン・スーチー氏の解放を国連として実現できたことです。

交渉を行う上での国連の役割は、あくまで当事者間の対話をお手伝いすることであって、国連が何かを押しつけるということは基本的にありません。ですから、国連の調停機能を利用して成果を生み出すことができるかどうかは、当事者間にその意志があるかどうかで決まります。当時のミャンマー政府には国連との関係を大事にしようという思いがあり、国連としても政府とスーチー氏双方との対話を促進させ、国民和解のお手伝いができたことが、スーチー氏の解放に繋がったのだと思います。残念ながら、その後ミャンマー軍政内の政変で対話路線は頓挫し、2003年の3月にスーチー氏は再び軟禁状態となってしまいました。

Q. 国連に入って一番大変だったことは何ですか。

国連では書く力と話す力が非常に大事です。最近は英語力に関しては海外帰国子女の方とか、ネイティブとほぼ変わらない語学力を持つ日本人も増えてきましたが、私たちの年代は大学、或いは大学院に留学して英語力を磨くのが主流でした。職務を遂行できる語学力はあるけれどネイティブではない。一方で国連は第二次世界大戦の戦勝国によって設立された機構ですから、おのずから欧米出身者が事務局の中枢ポストに数多くおり、そういう人たちに伍して自分の考えを英語で的確にまとめて文章にする、又は話すということは常に苦労することです。他にも、国連は文化、社会背景の異なる様々な人々が集まる職場ですので、仕事の作法にしても日本社会とは違う方法が求められます。こと国連に関しては、何々局、或いは部や課といった所属組織という枠組みはほとんど意味をなさず、仕事をするには、自分でネットワークを作らなければなりません。

例えば、国連では面識のない人に電話をし、不在なので折り返してもらえるように留守電を残してもまず返ってきません。何故かと言うと、その人は私のことを知らないからです。ですから、まず仕事をするためには普段から関連部局の人たちと早めに顔を合わせて、ファーストネームで呼び合う関係を作ることです。勿論ギブアンドテイクは必要ですが、そうしたネットワークがあれば、後は電話一本で効率よく仕事ができるようにもなります。国連のような官僚組織で仕事をするには、どのような時どのボタンを押したらよいかということを理解することが大事であり、その為には自分のネットワークを構築し、かつ維持していく努力が必要です。退職などで職員の出入りはありますが、長くいればそれなりに人脈ができて財産となっていきます。これは国連の難しい側面でもあるし、面白い側面でもあると思います。

Q. 国連で働くことの魅力はなんでしょうか。

先にも触れましたが、私が国連に奉職した理由は、私達が住むこの世界を少しでも良くしたい、より良い世界にしたいと思ったからです。 この初心だけは今でも忘れないようにしています。もちろん挫折を感じることもありますが、たまたま機会を与えられて国連と言う場で働くことができたことは本当に幸せなことだと思います。国連憲章は “WE THE PEOPLE OF THE UNITED NATIONS” で始まりますよね。でも、現実はまだまだ国家主権が幅を利かす世界でPEOPLEが主人公ではありません。その意味で、第二次世界大戦から約65年が経ちますが、国連創設時に憲章に盛り込まれた理想には未だ到達できていないということでしょう。この理想の実現には、これからまだ50年、100年とかかるかもしれません。しかし、この理想と現実のバランスを上手く取りながら、創設当時の理想を少しずつ、しかし着実に形にしていくための活動を行っている点が国連の魅力とも言えます。


Q. 今一番ご関心を持っている分野/課題は何ですか。

先ほど述べた私の初心とも関わってきますが、今後国連がどのように変わっていくか、具体的には「人」を大切にする社会に今の社会をどう変えていけるのかということに関心があります。例えば、ある統計によれば、「朝目が覚めて、その日の食事を三度三度心配せず満足に取り、毎日を健康かつ平穏無事に暮らせる人」というのは世界中で僅か数パーセントで、残りの大多数の人は最低限度の生活も送ることができていないそうです。それが今の世界の現状です。ですから、私たちが今こうして毎日不自由なく生活できていることは、本当はすごく恵まれているんですね。これを当たり前のことだと思ってはいけない。私は主にアジア地域を長く見てきたのでアジアの経験に限られますが、南アジアに行けばそこに暮らしている人たちの多くは本当に貧しいし、基本的人権が尊重されていない国も多々あります。ですから、そういう人たちの生活の向上に関して国連がどのような貢献ができるかということにこれからも目を向けていきたいと思っています。

Q. 最後に、グローバルイシューに取り組むことを考えている人たちへメッセージをお願いします。

国連事務局の邦人職員数は理想的なレベルに達しておらず、日本は常に過小代表国(拠出金の割合に対して職員数が少ない国)です。ですから、若い方で国際政治や国際経済に興味がある人は空席公募に応募したり、国連競争試験を受験するなどして積極的にチャレンジしてもらいたいですね。日本人は一般的に人の話をよく聞くことができ、職場のコンセンサスを導いたり、部下の管理能力に秀でています。ですから、日本人は国連で仕事をするための基本的条件は比較的多く満たしていると言えるでしょう。あとは、日本人であるということから離れて「自分は地球市民の一人である」という観点から仕事をすることが重要です。また、国連では明確なビジョンを持つことも大切で、そこから違う意見を収斂させ、チームを一つの方向に動かしていくことは非常にやりがいがあります。これからの地球はあらゆる意味で、益々狭くなるでしょう。自分が地球の一市民であることを自覚して、日本の若い人にはどんどん国際舞台でチャレンジして貰いたいと思います。


2010年4月9日、ニューヨークにて
聞き手:田辺陽子
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:唐澤由佳
ウェブ掲載:由尾奈美

 


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