第22回 宇治和幸さん
UNDPアジア太平洋地域センター
プログラム・スペシャリスト
うじかずゆき エール大学疫学・公衆衛生大学院卒業。一般企業勤務や大学での研究職を経て、現在UNDPアジア太平洋地域センター(在スリランカ)のHIVと開発専門チーム所属。
はじめに
「Human Trafficking」(邦題:「ヒューマン・トラフィック」)という映画をご覧になったことがあるでしょうか?人気ドラマ「24」でおなじみのキーファー・サザーランドの父親ドナルド・サザーランド主演のハリウッド映画です。
この映画は人身取引の実態を実に巧妙に描写しています。なぜ、そしてどのようにして女性や少女が人身取引犯罪組織の手中に落ちてしまうのか?どうして被害者の捜索は困難を極め、人身取引犯罪者の検挙・有罪確定が難しいのか?こういった人身取引問題における複雑性と残虐性を非常に上手く表現している作品です。
フィクション映画ですが、実際に発生する人身取引のシナリオに基づいているため、リアリティがあります。映像で理解する人身取引は文章を読むよりはるかに強烈な印象を与えます。 まだご覧になってなくて人身取引問題に興味のある方は、 年末年始の映画鑑賞リストに入れてみてはいかがですか? 約3時間と少々長いですがオススメです。
さて、前置きが長くなりました。なぜこの映画の話をしたかというと、その中でHIV感染が判明する人身取引被害者が登場するからです。本エッセイではアジアにおいて深刻な問題である人身取引とHIV/エイズの関係について取り上げたいと思います。
人身取引とHIV/エイズの状況
アメリカ国務省が2007年6月に発表した報告書「Trafficking in Persons Report」によると、全世界で毎年約80万人もの人々が人身取引の被害に遭っていると推測されています。人身取引は闇犯罪であるため正確な統計が存在せず、各機関によって推定値にも大きな幅があります。
前述の報告書によると被害者の約8割が女性、約5割が子ども(18歳以下)であり、これらの数値を元にすると被害者の約4割が少女という恐ろしい構図が浮かび上がってきます。人身売買の目的は多岐に渡り、強制結婚や強制労働などが含まれますが、この数字から多くの被害者、特に少女などは性的搾取の対象となっている可能性が高いことが推察できます。
アジアは世界でも有数の人身取引発生地域であり、年間被害者数は30万にものぼると推測されています。アジアにおける人身取引は深刻な貧困・開発問題と密接に関連しています。
例えば、インド人権委員会によって行われた研究[i]は人身取引と貧困問題の関係を浮き彫りにしています。同研究はインドで最大規模のもので、被害者はもちろん、売春宿経営者、風俗店利用者、警官から人身取引犯罪者に至るまで人身取引に関わる約4000名を調査対象としています。
同研究によると調査した921名の女性・少女被害者のうち、6割はインド社会の根底に生きる不可触賤民と言われる下級カーストや指定部族(scheduled tribes)の貧困層出身であり、被害者の7割は読み書きが全くあるいはほとんど出来ないという結果が出ています。被害者の8割は虚偽の仕事や結婚斡旋により人身取引の罠に陥っています。
また、約4割の被害者が肉親や親戚を含む家族が人身取引に介入した(金銭受領など)という驚くべき事実も露呈しています。これは、日々の暮らしに困る困窮者が金銭的オファーに弱いということに乗じた卑劣な手法ですが、貧しさ、教育水準の低さや人身取引に関する情報の欠如がこういった悲劇を招いてしまいます。
何とさらに驚くことに、被害女性・少女(有効対象者数561)の約2割4分が以前に人身売買の被害者として救出されており、そのうちの約8割は過去に2回以上も救出された経験がありました。そして、人身取引の繰り返し被害者の8割が人身取引の罠に何度も陥ってしまった理由として「地元で働き口がない」ことを挙げています。
HIV/エイズに関しては、国連エイズ合同計画によると現在全世界で約3200万人がHIVに感染しており、アジア地域においては約480万人のHIV陽性者がいると推定されています。アジアはアフリカに比べ感染率、感染者数ともに低いですが、世界第3位のHIV陽性者人口を持つインドを抱え、日本を含む多くの国々で徐々に、しかし着実にHIV感染が進行しています。
特に、同性愛者、麻薬静注者(注射器を使って麻薬を静脈へ注入するため、注射器の使い回しによって感染する場合が多い)、セックスワーカー、移住労働者における感染は深刻な場合が多く、最近では少女や主婦などを含む女性の感染が増加してきています。
人身取引とHIV/エイズは共に、社会で最も弱い立場にある人々を襲っているのです。
アジアにおける人身取引とHIV/エイズの関係
社会的脆弱者を襲うことに付け加え、アジアにおけるエイズと人身取引のあいだには深い関連性があります。まずはいくつかのデータを紹介します。
ある統計によると、ネパールからインドへ人身取引された少女の平均年齢は80年代半ばでは14〜16歳だったのが、約10年後には10〜14歳に下がっています。この傾向を同時期のインドにおけるエイズ患者数の推移を示すグラフ(図1)に重ね合わせてみると、2つの現象に関連がある可能性が見えてきます。
(図1:80年半ばから90年半ばにおけるインドのエイズ発生数の推移)
これは、インドでエイズが蔓延するなかで、性産業において性的経験が少なくHIV感染のリスクが低いと考えられる低年齢の少女を客が求め、その需要を犯罪組織が汲み取ったという可能性が考えられます。
またハーバード大学による最近の研究[ii]によると、性的搾取を目的とした人身取引から救助された287名のネパール女性・少女について調査したところ38%でHIV感染が確認されています。更に、15歳未満で人身取引の被害にあった少女においては61%(33名中22名)がHIV陽性でした。年齢の低い少女ほどセックスワーカーとして強制労働を強いられる期間が長く、売春宿での滞在は毎月3?4%の割合でHIV感染率を押し上げていました。
アジア途上国における人身取引の原因を探ってみると、女性・少女をHIV感染の危険にさらす要因と非常に似ていることに気づきます。
例えば貧困、政治・社会・経済・法的な女性差別とそれを助長する価値観や慣習、家庭内暴力、レイプなどの性的暴力、女性の性や生殖に関する自己決定権の欠如、そして女性の経済的自立を阻む社会環境の存在などが挙げられます。これらの要因は女性が自ら決定する能力と権利を奪い、彼女らをどんどん弱い立場へと追い込んでゆき、社会的脆弱者を狙い撃ちするかのごとく発生する人身取引とHIV感染の危険性を増長するのです。
更に、HIVに感染した、または人身取引の被害にあった女性・少女たちには同様の社会制裁が課されられる点でも両者は似ています。「汚れた女」として強い偏見と差別により家族・コミュニティから見捨てられ、暴力・暴言のターゲットとなり、人間としての生活と尊厳を否定される場合が多くあります。先に人身取引の繰り返し被害者の8割は仕事がないことが繰り返し被害の理由だと述べましたが、残り2割の多くは自分の家族からの受け入れ拒否を理由にています。
アジア途上国で蔓延するこういった社会環境は、多くの女性と少女をHIV感染ならびに人身取引の危険へと曝し、その被害者となった暁には彼女らの人間らしく生きる権利を奪っているのです。
プロジェクト
こうした現状を鑑み、UNDPアジア太平洋HIVと開発プログラムは南アジアにおいてHIVと人身取引に特化したプロジェクトを2003年から2006年6月まで実施しました。同プロジェクトは日本の「人間の安全保障基金」の支援のもとに、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、バングラデッシュの南アジア5カ国を対象としたものです。
同プロジェクトは人身取引対策とHIV/エイズ対策の有機的統合という今までになかった新しいアプローチを提唱しました。前述のように、アジア途上国におけるHIV/エイズと人身取引は多くの類似点があるにも関わらず、両者を人間の安全保障と人間開発の観点から包括的に検証し、対策を講じることは行われていませんでした。
また、人身取引対策では通常3つの「P」([1] Prevention(予防)、[2] Protection(被害者保護)、[3] Prosecution/Punishment(犯罪者告発・処罰))が柱となっていますが、そこにもうひとつのP=People-centred (人中心)を加え、従来は主に刑事司法の観点から取り組まれがちだった人身取引問題において人権と人間開発を中心に据えました。こういった今までになかった新しい方向性と方策を提唱し、広範囲にわたるパートナーと共にその礎づくりを目指したのが同プロジェクトの最大の特徴です。
このプロジェクトの重点分野は人間の安全保障基金の根幹を成す「保護」と「能力強化」です。
「保護」においては、狭義的には人身取引・HIV感染防止そして被害者の救助・保護や人権擁護。広義的には、女性に差別的な法律、政策や慣習など彼女らを脆弱な立場へ追い込む社会構造を検証しその変革を促し、「保護環境」を整備するための活動支援。
「能力強化」については、女性・少女が出稼ぎしなくても済むように重点地区における雇用創出や職業訓練の実施や、人身取引被害者が売春行為で犯罪者として逮捕・監禁・強制送還されるのではなく、被害者として支援を受けられるために弁護士や警察、裁判官などへの啓蒙・啓発・能力向上などの支援を行いました。
同アプローチに賛同した南アジア各国の約30のNGOと共同で、政策提言や地域・国・コミュニティレベルでのアドボカシー、NGOや政府の能力強化、弁護士・警察・裁判官や国境警備隊などへのトレーニング、研究・調査、ならびに草の根における女性の経済的自立およびエンパワーメント活動の支援などを実施しました。
例えば、インドにおいてはセックスワーカー自身が運営する団体を支援し、彼女らが地元政府機関や顧客らと共同で未成年少女の売春や人身取引の被害を自ら監視・防止すると同時に、100%コンドーム着用のためのセックスワーカーや顧客向けトレーニングを行いました。
また、 人身取引対策に関わる機関へのHIVに関する理解と知識向上のための研修も行いました。人身取引に取り組む団体の中にはHIV/エイズに関する知識が不十分なため、被害者を更なる残酷な状況へと導いてしまうような場合があります。
例えば、冒頭で紹介した映画「Human Trafficking」の中で刑事が人身取引被害者にHIV感染の告知をする場面が出てきますが、これは個人情報の守秘義務の観点から絶対にあってはならないことです。特にHIV陽性者に対する強い偏見と差別が残るアジアにおいては、情報の漏洩は悲惨な社会制裁をもたらします。
通常救助された被害者に対してはHIVを含む性感染症の検査が行われますが、ここでも人身取引対策に関わる機関におけるHIV知識の有無が被害者のケアを大きく左右します。HIVは感染してもその結果が通常の検査(抗体の有無を調べる )では反映されない空白期間があります。そのため、きちんとした性交渉履歴調査を行わずにHIV検査を行ってしまうと誤診が生じ、早期における適切なケアや治療ができずに重大な結果を招いてしまう可能性があるのです。
人身取引では国境を超えるケースが多くあり、各国間の連帯は必須ですが、救助や保護など各国で人身取引対策に取り組んでいる団体間に有機的なネットワーク作りを促進しました。そして、HIVに感染してしまった人身取引被害者がHIV/エイズに関するしっかりとしたケアを受けられるように、HIV陽性者団体との協力体制構築も支援しました。
2003年には人身取引とHIVを通じた女性に対する暴力をテーマとした「南アジア女性法廷」を開催し3000人以上が参加し、各国のメディアによって同問題が大きく取り上げられました。2007年スリランカで行われた第8回アジア太平洋エイズ国際会議では、日本政府とUNDPの共同記者会見を開催し、本プロジェクトの研究成果の一部をまとめた報告書を発表しました。(写真1と2)
(写真1:日本政府・UNDP共同記者会見の様子)
(写真2:報告書 www.undprcc.lkよりダウンロードできます)
プロジェクト実施にあたっては、強い偏見と差別が存在するなかで、人身取引が売春やエイズと同一視され、被害者が更なる社会的制裁の犠牲にならぬよう細心の注意が払われました。約3年間実施された同プロジェクトによって342名の人身取引被害者が救助・保護され、約60万人の人々がプロジェクトの恩恵を受けることができました。
南アジアにおいては、人身取引およびHIV/エイズは政治的、社会的に非常にセンシティブな問題であり、両者の関連性についての理解は非常に乏しい状況です。本プロジェクトはその両方に、しかも同時に取り組むため、政府やコミュニティーの賛同と協力を得ることが困難な場合もありました。更には両問題、特に人身取引に関する信頼性有するデータの欠如がこれらの過程を一層困難なものとしました(前述のハーバード大による研究はアジアにおいて人身取引とHIVの関係を初めて科学的に検証したもので、2007年発表)。
今後の取り組み
上述プロジェクトで培った経験とネットワークを生かし、UNDPアジア太平洋HIVと開発プログラムでは引き続きHIV観点から人身取引対策への貢献を行ってゆく計画です。南アジアでは今年より始まったUNGIFT(UN Global Initiative to Fight Trafficking)、そして東南アジアではUNIAP(UN Inter-Agency Programme on Human Trafficking in Greater Mekong Sub-region)と共同で、人身取引対策におけるHIV関連問題に取り組みます。
[i] National Human Rights Commission of India. (2004). A Report
on Trafficking in Women and Children in India 2002-2003
[ii] Silverman, J.G. et.al. (2007) HIV Prevalence and Predictors of Infection in Sex-Trafficked Nepalese Girls and Women. Journal of American Medical Association. 2007;298:536-542.
(2007年12月29日掲載 担当:井筒)