第46回 小林哲子さん
独立行政法人国際協力機構 (以下JICA)
青年海外協力隊(JOCV) タンザニア、ムトワラ州、ネワラ中学校理数科教師
いつも近くで支えてくれた同僚と
小林哲子(こばやしてつこ)、群馬県出身。新潟大学工学部福祉人間工学科卒業。大学4年時に、JICA青年海外協力隊を受験し合格。 卒業後の翌年2012年1月からタンザニアへ派遣された。ムトワラ州のネワラ中等学校で、2014年1月まで理数科教師として活動している。
ある中等学校の数学の時間にて
「マダム!goodって書いて!日本語のgoodも書いて!名前も書き忘れちゃだめだよ!」
数学の練習問題を解いた生徒たちが、次々私に呼びかける。私は赤ペンでせっせと解答にチェックをしていく。全問正解したノートには、goodと“良”、そして彼らの名前をそえて。赤ペンを持っていない生徒がほとんどの教室で、私の赤ペンチェックは彼らにとって価値のある、頑張ったという大切な証拠になっている。
教室には黒板の前から後ろまで、70人弱の生徒が、椅子を引く隙間もないくらいぎっしりと机を並べて、所々でこぼこの黒板の板書をノートに写す。赴任当初、タンザニア人の聞き慣れない名前や、見慣れない顔の見分けが全くつかなかった。生徒の名前を覚えたかったのと、理数科科目の苦手意識でノートさえ開かず、ペンも握ろうとしない生徒の問題を解く意欲向上を目指して始めた、“顔と名前一致作戦”。机と机、机と壁に挟まれているような列の真ん中に席がある生徒は、通路側の席をかき分け、飛び越えてノートを見せにくる。
よかった、問題を解く意欲向上につながった。作戦成功。以前より問題を解く意義を見出せているのかもしれない。でも本当は、解答を間違えてgoodと書いて貰えなかった生徒がそれ欲しさにもう一度挑戦する背中に、goodを貰えた時のきらきらの笑顔に、そんな純粋な姿に私の方が喜びを感じ、原動力にしているのだ。
赤ペンチェック中
300人対1人から200人対1人に
中央アフリカ東部、インド洋に面しケニアやルワンダなど7カ国と国境を接し、キリマンジャロやセレンゲティ国立公園など人気観光地を多数有するタンザニア。JICAタンザニアの教育分野の協力の一つである青年海外協力隊派遣で、タンザニアの南東部に位置し、モザンビークとの国境を眺望できるネワラ中等学校で、理数科教師ボランティアとして活動を始めてから1年3カ月経った。
タンザニアでは、2004年から中等教育開発計画が実施され、生徒の「学校へのアクセス向上」を図り中等学校新設が進められた。その結果、中等学校の数は増加し、就学率も2004年から2011年までで約6倍まで増加している。しかし、教師数はそれに伴っておらず、特に理数科教師不足が依然として解決できていない。そのため、人的支援及び質の向上を目的としてボランテイア要請があげられた。
ネワラ中等学校も例外ではなく、赴任当初は4学年、生徒600人弱に対して教師14名、内理数科教師は2人のみで、その不足を補うため私が理数科教師として派遣された。主な活動は、タンザニア人教師と同じ立場で教壇に立ち、毎日生徒に数学と物理を教えることだ。
毎朝7時半からの朝礼 後ろに写る建物は現在建設中の職員用のオフィス
乗り越えるべき壁で、盾になるもの
タンザニア人教師と同じ立場と言っても、私はタンザニア人でないことには違いない。その差を痛感し、乗り越えるべき大きな壁が言語と分かるまでに長い時間はかからなかった。しかし、この国の国語であるスワヒリ語を勉強し始めたのはタンザニアに来てからだった。“途上国の現場を自分の肌で感じたい!タンザニアの発展のために何か残したい!”。こんな熱い気持ちで夢見た場所に来たはずだったのに、同僚や生徒との会話の仕方が分からず、距離感が掴めず、どうして自分はここに居て、何ができるのか、無力さを感じずにはいられない日もあった。言葉が通じない異文化の中に身を置くということに、思っていた以上の大変さを感じた。
ボランティア要請内容の業務使用言語は英語だった。しかし、担当のForm1は小学校を卒業したばかりで、ほとんど英語が通じない。タンザニアの教育省は、東アフリカという流れの中にいる以上、英語が使える必要があると考え、中等教育からの使用言語は英語と決めている。そのため、教科書やシラバス、国家試験の問題、授業中の板書も英語である。
しかし、赴任当初に見せてもらった同僚の物理の授業では、板書は英語で書かれていたが、具体的な説明はスワヒリ語で行われていた。現実はそうしなければ生徒の理解を得ることはできないのだ。英語とスワヒリ語の板挟みについ苦笑いしてしまった。
最初は、外国人珍しさに生徒も静かにしていたものの、日が経つにつれどんどん騒がしくなっていった。生徒への指示が伝わらない。コミュニケーションが取れない。クラスコントロールもできず、簡単な計算さえ理解させられない自分が悔しかった。
生徒の理解を得られない私は、彼らにとって“先生”ではなかったのかもしれない。教師経験のない私は途方に暮れていたけれど、教室の中で同僚の教師が助けてくれるわけではない。
スワヒリ語が使いこなせない日本人にタンザニア人は一体何を求めているのかと悩む日もあった。しかし、現地の人に私が求められていること。それは、教師不足が問題のタンザニアの教育現場で一人の教師として教壇に立つこと。そして、日本で受けてきた質の高いと言われている教育をタンザニアの生徒に還元すること。これだと感じた。
生徒が数学や物理を楽しいと感じ、理解するには、まず私がスワヒリ語の壁を乗り越える地道な努力しかないと考え着いた。しかし、国家試験も見据えて英語の理解も見逃すことができないのも現実だった。
Form1の教室 70人弱の生徒が黒板のすぐ前から後ろの壁までぎっしり座って勉強している
「初等教育から高等教育、大学まで一貫して日本語で勉強できるっていいね。」
そんな言葉を一緒に働いている同僚教師から言われた。
ここタンザニアでは、中等教育から授業言語は英語になる。生徒もまた言語という大きな壁にぶつかっているのだ。初等教育に比べて学習内容も難しくなるのにも関わらず、目にするのは英語だらけの板書のみ。それだけでは英語を理解して、内容を自分なりに解釈するのは難しい。
問題の意味さえ分かれば解けるような数学の問題も、英語が苦手ゆえに的外れな解答を書く生徒。英語への苦手意識が先行して他の教科への学習意欲が湧かない生徒。学習内容と言語との二重の壁を生徒は乗り越えなければならないのだ。
タンザニア教育省の考えが間違っているとは思わない。英語教育に力を入れずして英語の能力は上がらないだろう。世界のグローバル化の大きな流れの中で、比較的治安もよく、多くの国境を接し、インド洋に面する天然資源や観光資源が豊富なタンザニアは、今後さらに様々な国の多くの人と交流が当たり前になる日も来るだろう。そんな未来を考えた時、英語を使いこなす能力は必要になってくると思う。ただそこに、長い時間と、大きなギャップがあることを無視するわけにはいかない。
赴任した頃よりもスワヒリ語に慣れた今、授業では、内容理解を優先してなるべくスワヒリ語での説明に挑戦している。でも英語に慣れてほしいという願いを捨てているわけではない。少しでも生徒に英語に慣れ親しんでもらおうと、同じ配属先に派遣されているアメリカ人ボランティアのピースコー(Peace Corps:米国平和部隊隊員)[1]と、放課後にEnglish Clubの計画を立てた。ネイティブスピーカーに触れられる機会を生徒と同僚に逃して欲しくなかった。
しかし、生徒は放課後に学校周辺を清掃する義務があるため、時間を作ることはできないという同僚の反対や、体調不良が原因でピースコーがアメリカに帰ってしまい、この計画は中止した。そんな風に良いと思って始めようとしたことでも、上手く行かないことの方が多い。現在は、日本の生徒と英語で手紙交換をやり始めた。英語でのコミュニケーションの第一歩と異文化理解に少しでも繋がって欲しいと思っている。
タンザニアの田舎町の生活
私の配属先のあるネワラは、主要都市ダルエスサラームから約600km、州都ムトワラ市から約150km離れている小さな田舎町という代名詞がぴったりの平和な町である。
主要都市と州都からの主要な道も未舗装路の区間が残っている。この町周辺のインフラは整っているとは言い難い。ネワラの市街地を少しでも外れれば、電気はなく、きれいな水を何キロも離れた貯水池に汲みに行く家がほとんどである。そういう場所にほとんどの生徒は住んでいて、両親は現金収入が不安定な農家を営んでいる家庭も多い。市街地の一部や学校には電気が通っていて、貯水池には水道パイプが繋がっている場所もある。しかし、ムトワラ市から送電される電気は、どこかで雨が降ったり、風が強かったり、原因不明などで度々停電があるような不安定な状態である。
美しい朝日を浴びる生活の基盤、水タンク
このような環境で、生徒の健康・学習環境・現金収入面・家族の教育に対する理解を満足に得られている家庭は一体いくつあるのだろうと疑問に思う。3割の生徒は病気だったり、家の都合だったり、学校への納金が遅れたりなどの理由で、出席率は7割程度である。少なくとも学校に来ている生徒は、生きることに精一杯ではないかもしれないが、“生徒がのびのび学べる良い環境”にはまだ長い道のりだと感じている。
忘れてはならないのは、教師も同じ環境で暮らしていることだ。ダルエスサラームで働く旦那と離れ、まだ生まれて1年半の子どもと一緒に暮らしながら、働いている同僚もいる。家には家事や子どもの面倒を世話してくれる人はいるものの、その人がいなくなったり、家族や自分自身が病気になったりなどの理由で、授業をしない教師も少なくない。
また、教師の人事権は政府が握っているため、全国各地出身のタンザニア人が教師として働いている。都会生まれや生活環境が良いと言われている北部出身のタンザニア人にはここの生活が辛いと感じる瞬間もあるだろう。贅沢だ、気持ちが弱いと言われればそれで終わりかもしれない。しかし、“便利で楽な暮らしがしたい”と思うのは誰でも抱く気持ちだと思う。都会との差が大きく、生活環境が厳しいことが、教師の仕事をきちんとこなさなくても、それを許してしまう習慣に影響を及ぼしていることは認めなければならないと思う。
きちんと自分の授業をこなし、生徒のノートをチェックして放課後の補習を行うしっかり者の教師も勿論いる。しかし、学校に居ても生徒に教科書とチョークを渡して、「ここを板書しておくように。」で終わりの教師も珍しくない。そんな同僚たちに、スワヒリ語というツールと1年3カ月で創り上げた信頼関係を用いて何かできればと思っている。まだ何も行動できていないが、何ができるか模索する日々を送っている。
さぁ、面白い授業をしよう
朝7時から掃き掃除で生徒の学校は始まり、8時から14時半まで40分の授業が9コマ続く。その間の休憩時間は20分と10分のみである。その短い休憩時間で、栄養バランスが整っているとは言い難い、揚げたキャッサバやウジ(とうもろこし粉のおかゆ)で空腹を免れる。お金のない生徒は、それらでさえ口にできず、お腹をすかせながら授業を受ける。
生徒が運動着に着替えて体を動かす授業はない。生徒が怪我をしても学校で治療してくれる先生もいない。
どんな場所でも、自分たちの住む場所の未来を創っていくのはそこに住む子どもたちである。現在のタンザニアは、子どもたちが安全に教育を受けることができ、それを吸収して、さらに国の発展に繋げていける段階である。しかし、政治的に改善されつつある課題でも、まだまだ現場レベルで改善されていない。タンザニアの教育環境をより良くするには見直さなければならない面がいくつもあるだろう。今後さらに、自分たちが直面している問題を認識し、環境や習慣に負けず、現場で実行し少しずつ改善していく人間が必要なのだ。人やモノやお金を、現場レベルで考え、それらがきちんと還元されるようにマネージメントできる人間が必要だと感じている。
彼らの独特な感覚を発揮して、アフリカらしさ、タンザニアらしさ、ネワラらしさを大切にできるような。それには生徒の好奇心・創造性を刺激するような、質の高い教育がかかせないと思う。私が感じたことに直接すぐには結びつかないかもしれないが、未来を背負っている子どもたちに、分かりやすい数学と物理っておもしろい!と思わせる授業をすることが私の最優先課題である。
カルメ焼きの実験ではしゃぐ生徒たち 普段の授業で「実験」と呼べる授業はほとんどない
最後に
タンザニア南東部名産のカシューナッツの木が並ぶ未舗装の赤土の道。いつもはバスで通る道を、自分の足で歩いてみた。視線の高さが人の高さになり、景色が違って見えて嬉しくなった。この道を歩き慣れている人との挨拶や会話が温かくて楽しい。
ここで大切にしていることは、現地の人と同じように配属先の一員となり、現場レベルの具体的な課題と向き合い、現地の人の生の声を聞くこと。近い距離、同じ目線、同じリズムで。
今後は、日本であれ、他の国であれ、どこのコミュニティの中に入ってもこの経験で得た感覚を生かしていきたい。限られた範囲に、歩く歩幅とスピードで小さな足跡しか残せないかもしれないが、耳をすまし、目を大きく見開き、目の前に居る人が必要とし大切にするような証拠を残せる人間になりたい。
そんなことを心の真ん中に置きながら、タンザニアの未来に願いを込めながら、今日も生徒のノートに赤ペンチェックをする。
生徒との一枚 恥ずかしがって写ってくれない生徒もたくさん
訳注
[1]Peace Corps(米国平和部隊隊員):アメリカ政府が途上諸国へ隊員を派遣し、現地の開発計画に貢献することを目的とする長期ボランティア派遣プログラム。隊員は相手国の要請で派遣され、主に教育、農業技術、公衆衛生、地域開発に携わる。
(2014年7月14日掲載、担当:花村百合恵ほか、ウェブ掲載:田瀬和夫)