「移民のガバナンス:アメリカを事例として」
第113回 国連フォーラム勉強会
日時:2017年5月30日(金)19時00分〜21時00分
場所:コロンビア大学ティーチャーズカレッジ図書館3階 ラッセルホール306
スピーカー:大井由紀氏 (南山大学 外国語学部・英米学科 准教授)
■1■ はじめに
■2■ アメリカの移民政策の変遷
■3■ 移民がどう排斥されていたか
■4■ 国際機関と「人の移動」、そしてアメリカ
■5■ 1950年代から現在
■6■ 質疑応答
■7■ さらに深く知りたい方へ
本勉強会は「移民のガバナンス:アメリカを事例として」と題し、南山大学准教授の大井由紀さんをスピーカーにお迎えして、アメリカの移民政策の19世紀後半から現代までの歴史的展開と傾向と、移民をめぐるグローバル・ガバナンス、特に国連の中で移民関連のトピックがどのように扱われてきたのかをお話を伺いました。
最初に、1860年代の奴隷制の廃止後、低賃金労働者の需要増を受けて移民が増えたことをうけ、政府が規制に乗り出した経緯から、その後移民政策を進める中での論拠が社会の道徳的規範から、移民の保護、そして国家主権へと変わっていったことを時系列に沿って、関連する法令とあわせて分かりやすくご説明いただきました。その後、現在のアメリカ社会が直面している問題について出生地主義の是非とテロ対策の観点から取り上げていただきました。
さらに、第二次世界大戦後の余剰人口問題対策を契機としてグローバルなガバナンス体制が設立されたこと、そのなかで主要な資金提供国であるアメリカの意向が現在の複数の国際機関が「人の移動」に関する問題を分担するというガバナンス体制を決めるのに影響を及ぼしたことをご説明いただきました。移民政策は国の歴史やアイデンティティに関わる重要かつ複雑な問題であり、グローバル化が進む社会において避けては通ることのできないテーマで、今後も議論を尽くしていくことの必要性を実感する勉強会となりました。
質疑応答では、特定の国籍出身を対象とした移民政策について、移民政策実施の上での司法と行政の関係、移民送り出し国の政策、学問分野としてのアジア系アメリカ人研究の発展の経緯など、幅広い議論がなされました。
以下の議事録の内容については、所属組織の公式見解ではなく、発表者の個人的な見解である旨を、ご了承ください。
トランプ政権下の現在の傾向は決して新しくない。100年ほど前のアメリカと似ている点もある。ただし必ずしも初めから移民に対し民族差別的ではなかった。歴史をさかのぼると南北戦争後の再建期では人種による垣根を乗り越えようとする傾向もみられた。それは、アメリカで重要な祝日の一つとなるサンクスギビングデー(感謝祭)を描く当時の絵などにも表されており、様々な人種がディナーテーブルを囲む風景などはその当時の社会的な雰囲気を示している。そのような背景で1868年にアメリカと中国との間で結ばれたバーリンゲイム条約は両国間での移動の自由を許可した。
ただし予想以上に清からの移民が増え、7年後の1875年には売買春の防止を一つの理由としてアメリカ政府はペイジ法を制定、アジア系の女性が排斥対象となる。背景には、南北戦争後に奴隷制が廃止され、鉄道建設や農業・金鉱で働く低賃金の労働の需要が増えたにもかかわらず、労働が奪われることを懸念した主にアメリカ西部の住民の反対が高まったことであった。1881年になると、バーリンゲイム条約の修正条約としてエンジェル条約が結ばれた。この条約により、アメリカは一定の期間であれば清からの移民の入国を拒否できる権限を持つようになった。その背景には、人種差別・暴動に対する移民の苦情を受け、清政府がアメリカに安全の確保や犯罪者の取り締まりを求めると、米政府は人数が多すぎると保護しきれない、数を増やさないのであれば保護する、というやりとりがあった。
エンジェル条約の批准を終えるとまもなくアメリカは10年間の入国と帰化を禁止する排華法を成立させた。しかしアメリカ政府が期待したほど移民の数は減らなかった。そのため、政策は厳格化していくことになった。1888年に実施されたスコット法では、一度国外に出た中国人はアメリカへの再入国が認められなくなった。これに対し、清政府は明らかな人種差別だと反対した。しかし、アメリカ政府は清政府からの合意を不要とし、独断でスコット法を制定。当時この情報が広まるのに時間がかかったため、国外に滞在しているチャイニーズの中には、知らない間にスコット法が設立されたため、アメリカに再帰国できなくなった人びとが多数いた。さらに1892年に新しく導入されたゲアリー法では清からの移民は居住証明書が必要となり、不携帯の場合は不法移民とみなされることになった。このように、チャイニーズに対する規制は一層厳しくなる。
当時アメリカは女性に対し道徳的清純や自己犠牲を求めるヴィクトリア朝的価値観を持っていた。ペイジ法は、たんにアジア系移民の排斥だけでなく、売買春というヴィクトリア朝的価値観に反する行為を行う移民の排斥も意図されていた。次の排華法は、移民の保護を表面的な理由として成立し、やがては人種差別を明らかに正当化するゲアリー法まで展開していった。ゲアリー法は連邦最高裁で合憲性が問われた。チャイニーズ側は人種差別・憲法違反を主張したが、逆に平時であったとしても政府は危険分子から国民を守る義務があるという考えが僅差で多数派となり、結局、人種差別・違憲という主張は負ける。
特定の人種を排斥する動きが最高潮に達したのは1924年の移民法改正だった。アジア系の人種を対象とする「帰化不能外国人の入国禁止」が定められる。当時、帰化の重要な条件の一つに「白人か黒人であること」があった。そのため、「白人とは誰か」ということが焦点化された。帰化を望むアジア系(西アジア・南アジア含む)は、身体的特徴・アメリカへの同化・宗教・生活スタイル・血統等を根拠として「白人性」を主張したが、帰化をめぐる諸裁判を通し、1924年までの段階で、「白人とは、アメリカ社会が『白人』と常識的に認める人びと」という結論が出された。この移民法改正では、国籍別割当制度も導入され、東欧・南欧系の移民が対象となり入国可能な人数が制限されることになった。
ゲアリー法の結果清からの移民が減り、それを補うように日本と朝鮮半島から一時期移民が増えるが、じきに入国が制限され、その代わりにフィリピン(1898年の米西戦争でアメリカの支配下となる)とメキシコから移民が入ってくる。アメリカの第二次世界大戦への介入からまもなく実行されたブラセロ計画は農場などで働く季節労働者をメキシコから確保するのが目的であった。しかしながらアメリカとメキシコの間で存在する生活水準の違いのため、非正規移民の数が急激に増え、1950年代には100万人規模の強制送還が実施された。この頃の越境移動の流れが現在まで続いている。1965年には移民法が改正され、国籍別割当制度の廃止と共に優先枠の設定が定められ、人種的な差別は法律上廃止される。
近年は非正規移民をめぐる問題がクローズアップされているが、それは、アメリカ的信条(理念を共有すれば誰でも「アメリカ人」になれる、という考え)を制度的に支える出生地主義を揺るがしている。非正規移民が出産する「アンカーベイビー」の増加(10人に1人と言われている)や、米軍が拘束したタリバン兵がアメリカ市民権をもっていた(アメリカで生まれた中東系の人物で、幼少期のみアメリカで過ごした)ことから、出生地主義を変更すべきだという主張が高まってきている。とくに9.11のアメリカ同時多発テロ事件以降、移民問題と安全保障とのつながりが深まるなか、「アメリカに忠誠を誓えない・誓わない可能性のある人に国籍を与えるべきか?」という課題に対し、世論は紛糾している。
現在人の移動に関する問題を扱っている主な国際機関はおもに国際移住機関(IOM)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際労働機関(ILO)である。しかしその他にもUN Woman、国連食糧農業機関(FAO)、国連児童基金(UNICEF)、国連環境計画(UNEP)、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)、国際農業開発基金(IFAD)、国連経済社会局(UNDESA)、国連地域委員会(UN Regional Commissions)など多様である。
国際機関にとって「人の移動」がイシューとなったきっかけは、第二次世界大戦にあった。戦後、住まいを失った人びとや故郷を負われた人びと、植民地開拓などで移動した人びと、そして難民が多数いるなか、失業率は当然高まった。こうした状況下で、人びとが共産主義圏(東側陣営)に魅力を持つことを懸念するアメリカにとって、これは重要な課題であった。このように、戦後の「人の移動」問題は、戦争によって引き起こされた人口過剰・難民が出発点にあった。これに対応するため、1946年に国際難民機関(IRO)が設立された。ただし、問題は一時的なものと思われていたため、その活動は期限付きであった。
IROがその任期を迎えようとしているとき、一時的とみられていた人口余剰・難民問題はまだ終結していなかった。そこで、どのように、誰が、問題解決に当たるかがイシューとなった。戦前より、人の移動を扱う機関としてILOがあった。ILOは、移住労働者を含む労働者の権利を推進する機関として1919年に設立されていた。戦前からこうした役割をもっていたため、第二次世界大戦後の人口問題には、ILOが対処すべきだとILO自身及び国連は考えた。これは、ILOの役割や権限を拡大するものだった。
いっぽうアメリカは、どのように「人の移動」のグローバル・ガバナンスにかかわってきたのだろうか。戦前からあった難民問題に対して米政府は、ヨーロッパと協力して取り組む姿勢を対外的・対内的にみせるため、政府間難民委員会(Intergovernmental Committee on Refugees)を1938年に設立していた。第二次大戦中、アメリカは引き続き厳格な移民政策を国内でとっていたものの、難民や強制的に移住させられた人びとが増えるにつれ、また、ナチスドイツによるユダヤ人迫害から逃れてくる人びとが増えるにつれ、資金のあるアメリカが対策をとらねばならないという圧力が強まった。こうしてアメリカが予算の半分を出す形でIROを設立し(ただし、国連加盟国であっても共産国は加入できなかった)、ヨーロッパからラテンアメリカへ移住促進・難民保護にあたることになった。また、「難民」ということばが、従来のような特定集団(例:ユダヤ人)ではなく、迫害されている人びと(とくに共産圏から)すべてに用いられるようになった。
IROがその任期を終えるにあたり、アメリカは、後継機関が権限を拡大させることをおそれていた。とくに権限拡大を主張していたILOを警戒した。そこで、IROの役割(移住促進と難民保護)を分割し、過剰人口の移住奨励・援助(移住者の交通手段の手配・受け入れ国との交渉等)は政府間暫定委員会(PICMME)に、難民の法的保護は高等難民弁務官(UNHCR)に託され、ILOの役割は従来通り移住労働者の権利保護に限定された。PICMMEはやがて、3回名称の変更を経て、現在の「国連移住機関(IOM)」になる。こうして、「人の移動」をめぐるグローバル・ガバナンスは、一つの責任機関に集約されず、分割されることになった。
戦後すぐの段階では、余剰人口が最大の問題とされ、実際にICEM(1952年、PICMMEはICEM= Intergovernmental Committee for European Migration に名称変更)が扱った移住者は難民以外が多かった。しかし、ヨーロッパにおける人口過剰と高失業率は、移住促進と経済成長によって解消され、移民に関する国際的関心は1990年代まで低調だった。その間移民受け入れ国では、移民コミュニティの共生、移民第二・第三世代の成長、移民労働者の搾取やハラスメント、権利などが問題として浮上し、各国がそれぞれの国内問題として対処する形になっていた。つまり、第二次世界大戦直後のように、グローバルに協調して取り組む必要性は解消されたといえる。他方、難民問題は「グローバルな問題」として残り続けた。共産圏からの難民やインドシナ難民をはじめ、冷戦下で難民が発生したためである。これを受けて、UNHCRの役割が注目されるようになっていった。
1990年代になると、「人の移動のガバナンス」は新たな局面に入った。冷戦崩壊によって新たな移民・難民の発生、移民のセキュリタイゼーション(安全保障の問題と結びつけられること)、女性移民の増加、EU域内での人の移動の自由化などを受け、ふたたび「人の移動」が国内問題だけでなく、国際的なイシューとして注目を浴びるようになった。また近年は、メディカル・マイグレーションも目立つ現象である。これは、発展途上国からOECD諸国に医師や看護師が移住する現象を指しており、南北格差を深刻化させる要因の一つに挙げられている。9.11以降になると、「人の移動」は安全保障、テロとの戦いとも関連のある課題ととくにみなされるようになっていく。
こうしてふたたび、「人の移動」は一国ではなく、グローバルな協調が必要とされるイシューとなった。このような流れを受け、近年、UNHCR、ILO、IOM以外のさまざまな国連諸機関や国際組織が「人の移動」をめぐる問題に、現在取り組むようになっている(国連人権高等弁務官事務所、国連事務総長によるGlobal Migration Group設置、国際赤十字赤新月社連盟など)。
参考文献:
- Castles, Stephen, Hein De Haas & Mark J. Miller (2013). The Age of Migration, fifth edition. New York: Guilford Press.
- Elie, Jerome (2010). “The historical roots of cooperation between the UN High Commissioner for Refugees and the International Organization for Migration.” Global Governance 16(3): 345-360.
- Karatani, Rieko (2005). “How history separated refugee and migrant regimes: In Search of their institutional origins.” International Journal of Refugee Law 17 (3): 517-541.
- Lee, Erika (2016). The Making of Asian America: A History. New York: Simon & Schuster.
- Newland, Kathleen (2010). “The governance of international migration: Mechanisms, processes, and institutions.” Global Governance 16 (3): 331-343.
質問:アメリカの出生主義はいつから?
回答:文言化されたのは1868年。ちなみに植民地時代アメリカを支配下に置いていたイギリス自体出生主義であった。
質問:中国・日本からの移民が排斥されたのに対し、のちフィリピンやメキシコから来た移民は排斥に会わなかったのか?
回答:差別はある。例えばある時期からメキシコ人は「白人」から「ヒスパニック」に国勢調査で分類されるようになる。
質問:フィリピンから最近増えている移民の背景とは?
回答:国内の開発・経済発展がうまくいっていなく、海外からフィリピンへの送金が経済の支えとなっている。海外労働者が英雄扱いされている状態。最近フィリピン政府は二重国籍を認めることにした。国籍を放棄し家族を海外に移動してしまうのを防ぐため。
質問:南アジア、インド・パキスタン系のアメリカへの移民の状況は?
回答:南アジアからアメリカへの移民の動きは主に1965年以降。近年はIT技術の技能を持った移民の数が増えている傾向。
質問:移民を同化させる政策などは?
回答:移民に英語や習慣を教える運動はあったが、中国系に対してはなかった。あったとすれば売春対象になった女性を助けることにとどまっていた。
質問:移民の定義とは?
回答:国連の定義では自国以外に1年以上滞在している人を指す。ただしUNHCR/ILOの間でも部分的に定義は異なる。定義が少々異なったほうが様々な状況下の人に対応できるので柔軟性の利点があるのかもしれない。実際には国外の滞在期間がわからないケースも多く、難民と経済移民の区別も難しい。最近は移民と国外駐在の区別も課題になってきている。
質問:アジア系移民についての学分領域がどう生まれたか?
回答:1960年代から発足。公民権運動に影響を受け、サンフランシスコで起こり、広まった「第3世界運動」が原点。それまで移民研究はほとんどアジア系に関心を払ってこなかった。
質問:研究者の人種構成は?
回答:3、4世のアジア系が多く、当事者でない白人の教授は少ないという印象。
質問:国家レベルでの移民政策では何が重要視されるべきか?
回答:個人的には移民の権利だと考える。移動しただけで人権が侵害されるのはおかしい。
質問:ヨーロッパとアメリカが抱える移民問題はどう違うのか?
回答:ヨーロッパは旧植民地からの移民に特別枠を与えていたため、その点で違いがあると思う。また、アメリカが「移民国家」というアイデンティティをもっていることも、移民への考え方に影響があると思う。
このトピックについてさらに深く知りたい方は、以下のサイトなどをご参照ください。国連フォーラムの担当幹事が、勉強会の内容をもとに下記のリンク先を選定しました。
● 国際移住機関(IOM)
www.iomjapan.org/
● 国連難民高等弁務官事務所駐日事務所(UNHCR)
www.unhcr.or.jp/
● 国際労働機関(ILO) | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/info/un/unsystem/specialized_agencies/ilo/
2017年12月6日掲載
企画リーダー:中島泰子
企画運営:原口正彦、天野彩佳、三浦弘孝
議事録担当:三浦弘孝
ウェブ掲載:三浦舟樹