藤野 あゆみ(ふじの あゆみ):東京都出身。国際基督教大学教養学部語学科卒業、同大学院で行政学修士号(国際経営専攻)を取得。1988年に国連工業開発機関本部でJPOとして採用される。2年4ヶ月勤務した後、1990年より正規職員。本部において女性と開発課、人的資源開発課、中小企業開発課に勤務、サハラ以南アフリカを中心に中米、南アジア地域の中小企業開発の技術援助担当。ルワンダ、ブルンジ、コンゴやアフガニスタン、スリランカ北東部等の紛争(後)地域復興支援にも従事。2006年10月より、現職。 |
Q.国連に入ったきっかけを教えてください。
私は覚えていませんが、小学生の頃に母親に外国で仕事をするにはどういう学校に行けばいいのかと聞いたそうです。アメリカで画家をやっていた大叔母の影響もあったのかもしれませんが、その頃から単純に外国で働いてみたという憧れはあったと思います。高校生のときには、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)が世界中の高校生を対象に主催したスタディ・ツアーに参加してヨーロッパへ行き、UNESCO本部でその活動を聞いたりだとか、日本人職員の方に会い、いろいろお話を聞いたりして、国連はこういうところなんだ、なんかいいな、と思いました。
国連職員も面白そうだなと具体的に思ったのは、大学院に入ってからです。当時の大学の先輩方や教授陣には、国連関係で仕事をして帰国された方などが多くいらしたので、国連に関することを勉強する機会や、実際に働いた方からお話を伺う機会が多くありました。
海外で働くには修士をとらないといけないということで、大学卒業後は大学院へ進学しました。ところが、大学院を卒業した後に夫の仕事の関係でウィーンに行くことになりました。ウィーンの現地語はドイツ語ですが、当時は一般企業に就職するだけのドイツ語力はありませんでしたので、ウイーンにある国連機関に的を絞ってウィーンの日本大使館(当時)に定期的に履歴書を送っていました。
しかし、当時国連は新規採用を凍結しているときで、ポストがあっても入れないという状態でした。専門機関は例外でしたが、当時はウィーンにある専門機関は国際原子力機関(IAEA)だけで、他の国連機関はUNIDOと国連社会開発部署でした。JPOのポストで旧ユーゴスラビアだったらあります、と言われましたが、そうすると、いくら飛行機で一時間半の距離でも、家族別々に暮らさなければいけなくなります。そういう訳で、初めはUNIDOで2、3か月などの短期コンサルタントとして事業調査の下調べをしたりしていました。
そうしているうちに、日本大使館の人事担当官から電話がきまして、最近UNIDOが専門機関になって人手不足なので、本部でJPOを受け入れているということでした。女性の地位向上に関連した職務内容が出てきていますが興味がありますか、と聞かれました。その後、電話でのやりとりがあり、2日後にUNIDOの担当部署の課長に会いに行き、その数日後には、すぐにでも来てください、と言われました。本来なら履歴書を送ったり筆記試験を受けたりと手順がありますが、私はコンサルタントとして既に働いていたので、TOEFLも専門知識に関する筆記試験も免除でした。数日前に担当部署の課長にお会いしたということで正式な面接もなく、履歴書を提出してくださいとだけ言われました。そういうことで、最初に課長に会いに行ってから2か月ほどで採用が決まり、JPOとして国連に入りました。これは、ものすごく例外的だったと思います。JPO終了後は4か月の延長をもらい、正規職員になりました。
Q.大学のときにあった国連のイメージとはどんなものでしたか?
学部の時は専門が語学(異文化間コミュニケーション)でしたので、その方面から国際機関には興味はありましたが、国連というものにはっきりとした考えはあまりなかったと思いますーつまり一般の人が持っているイメージ以上には。
私が大学を卒業して就職しようとした時代は、女性は就職して結婚してというのが普通でしたし、女性がプロフェッショナルとして働くことに対して閉塞感がありましたので、女性が大学を卒業して留学したり、ましてや修士をとって企業に就職というのは、世間一般の常識ではまず考えられませんでした。でも、私自身は、女だからという考えにはすごく反発感を抱いていました。私の育った家庭環境は、女の子だからこうしなさいっていうのはありませんでしたし、 母親もやりたいことがあるならやりなさい、と言っていました。幸いにして大学時代(学部も大学院も)、周りの友達や先輩先生方もそのような考えにはとらわれていなかったので、自然に勉強したことを活かして日本の外で仕事をしてみたいと思うようになりました。
大学院の専攻は国際経営の方面だったので、最初はずっと銀行かビジネスに関わって外国に出るつもりでいました。国際機関に興味はありましたが、そこに就職するという意識はあまりなかったと思います。ところが、世銀やUNDPなど実際に国際機関で仕事をした教授や先輩方の話を聞くたびに、性別・国籍に関係なく仕事が出来るのなら面白そうだなと思いました。そこで、国連で仕事をするにはどうするのかと思っていろいろ調べると、外国語はもちろん、さらに何らかの専門知識や技術があり、少なくとも修士の学位が必要ということがわかりました。
ですから、「女の子が大学院なんかに行ってどうするの」というより、「それがないと始まらないんだ」とわかった時は衝撃的でしたが、同時にすごく新鮮でした。違う世界があるんだなあと。今ならばいろんな情報もありますし、一般の人のかなり意識も変わってきて、選択肢も増えていると思いますけれども。その当時は、アメリカなどでいうと、男女平等や女性の社会進出などが話されていたときでしたので、国連もそれと同じように「自由に」見えた部分があると思います。
Q.今はどんなお仕事をされていますか?
バンコクの地域事務所の所長ということで、名前だけは偉く聞こえますが、実際はAからZまで全部やっています。この事務所は、タイを中心にミャンマー、ラオス、カンボジア、そしてマレーシアで活動をしています。担当国の組み合わせがなかなか面白くて、タイ、マレーシアのような中進国がある一方、カンボジア、ラオスといった後発開発途上国(LDC:Least Developed Countries)もあり、そしてミャンマーのような特別な問題を含んだ国もあります。国の発展レベルや国情も大きく異なるので、押しなべて何というのは難しいのですが、UNIDOの仕事の内容から言うと、最近は主に工業開発におけるエネルギーと環境、そして貿易の分野での技術援助を行っています。エネルギーと環境というのは大きな分野ですので、切り口はたくさんありますが、工業開発機関として工業分野をいかに環境に優しくし、社会貢献できるかということに重きを置いています。
例をあげると、タイなどでは紡績工場や化学工場で、どれくらいエネルギーを節約し、より効率良く生産できるかなどの技術支援を行っています。気候変動における温室効果ガス排出の代表的部門はエネルギー、運輸交通、そして工業生産セクターです。生産技術や過程を改善し、温室効果ガスを削減できるようにする為に、途上国の政府や民間セクターに情報を提供し、国情に合ったやり方を模索する手伝いをするということでしょうか。
貿易の分野では、開発途上国の工業製品がEUやアメリカなどの市場に入っていくために必要な国際取引における新しい基準や規制に関する情報交換を行います。また、実際にどのようにしたら、新しい基準に従った商品を生産し、輸出できるのかなどの研修や訓練なども行っています。これが、後発開発途上国(LDC)だと、国際レベルで競争するまでの工業ベースが国内で発達していないため、国際基準を満たすための支援以外に、国内の工業ベースを強化するための技術支援もしています。
それから特にASEANやメコン地域を中心とした 南南協力(South-South Cooperation)も大きな課題のひとつです。ひとくちに工業発展といっても、人やモノの動きが激しいこの地域ではCross-Boarderの視点なしには国の発展はありません。
Q.特に印象に残っている仕事はありますか。
1994年のルワンダ虐殺のあと、UNIDOは1997年に中小企業(SME: Small & Medium Enterprise)推進事業を始めました。その事業で行った最初の現地出張は今でも忘れられません。活動を始める前の事前調査で、1日に3、4つの村を約一週間かけてまわり、村長や村人に会って調査をしましたが、とにかく大人の男性に会いませんでした。出てくるのは、女性、子ども、それから年をとって腰がまがって動けないようなお年寄りばかりでした。ツチ族とフツ族の民族紛争で、男性は殺されたか、逃げたか、牢屋に入れられたため村にはいないということでした。
調査に行く先々で、一人の女性がたくさんの子どもを連れて家から出てきました。なぜか子どもたちは見かけも大きさもまちまちだったので、全員彼女の子どもなのかと聞いてみると、そうだと答えた女性もいる一方で、一人も自分の子どもではないという女性も何人もいました。自分の子どもは行方不明か殺されてしまったからです。しかも、それとなく聞くと、両方の部族の子どもたちが一つ屋根の下に暮らしています。何人かの女性に、なぜあなたの子どもでもないのに(あなた自身も生活は大変なのに)世話をしているのかを聞いてみました。彼女たちは、「だって私が面倒みなかったらこの子どもたちは死んでしまうし、この村も死んでしまいます。それはできません」と言っていました。あそこまで破壊が進み絶望的になると、民間レベルではツチとかフツとか言っていられません。彼女は村が死んでしまうと言いましたが、これは国と置き換えてもいいんではないかと思います。
当時は非常に部族間の争いが激しく、政府レベルではツチがフツを排除している状況でした。ですから、ツチとフツは分けて仕事をしないといけないという考えで出張に行きました。でも、実際に出張で現場に行き、そういう女性たちに会うことにより、援助の基本はこういう人たちを助けることなんだと思うようになりました。
国連は政府を通じて仕事をしなければいけませんが、やり方によっては、そういう人たちにより多くの援助を届けられるんじゃないかと思いました。政府の役人だけではなく、その国の人の声を聞き、どういう生活をしているのかを見ないといけないんだという想いが、国連で技術支援をする上での私の基本姿勢になりました。受益者と同じ目線とまでは言わなくても、やはり、なるべく現地の人の状況を知らないと援助っていうのはできないですよね。それが村の女性でも首都の大きな食品加工工場の持ち主でも。
寝袋を持って行くような出張も多かったのでそういうのは絶対に嫌だという職員もいました。援助機関で働いていても、仕事はいろいろあるので、そういう経験をしたくない人もいますし、しなくてもいい仕事はいくらでもあります。でも、そういう現場での経験があるかないかでは、まったく違うと思います。 こういう現場での経験は援助をする人にとっては一つの財産だと思います。
その後、ルワンダには、2008年9月に出張で訪れました。あの当時UNIDOが立ち上げたSME支援センターは、世銀が引き継いだ後、ルワンダ政府が国の予算に入れて現在は政府の外郭団体のような形で運営されています。UNIDOの事業で始めたことが、しっかり組織として独り立ちしていることは嬉しいかぎりですね。
Q.国連で働くことの魅力は何ですか?
いろいろな国の人といろいろな仕事ができるという意味では国連は面白いと思います。いろいろな人がいるから難しいと捉える方もいますが、私はいろいろな人がいるからこそ面白いのではないかという気がします。
例えば、日本人はこう、アメリカ人はこう、インド人はこうだとか印象がありますよね。大まかに言えば、国別の傾向のようなものはあると思います。でも結局は、その“人”だと思います。国連もひとつの大きな行政組織ですから、それなりに官僚的、政治的なところもありますが、どこの国の人でも、男でも女でも、その人がすごく仕事に対する姿勢がしっかりしていて優秀な人だと生産性も高く仕事もはかどります。私は、自分はこの仕事をこういうかたちでやりたいと計画し、育った環境も文化も全く違う、いろいろな国籍の人と一緒に対話をしながらやり通すことにやりがいを感じます。会議でも、いろんな人がいろんなことを言って収拾がつかないことも多いですが、対話をしながらある方向にことを持って行くというのは面白いですね。オフィスの会合で、プロジェクトの現場で、ひとつのテーブルに、数えたらいつも世界中から数カ国以上の人間が座っているというのはなかなかないですよ。
Q.国際社会で働くことを目指す人へメッセージをお願いします。
外国に住みたいでも、国連でこんな仕事をしたいでもよいですが、結構思い込み、というか自分はこうなりたいとはっきりイメージを持つことは大切だと思います。そうすることにより、そのために何が必要かがはっきりしてきて、それを実行に移すことで、必要なことが身に付いてくるような気がします。
外国語をしっかり使えるようになることも必要です。日本人は言葉のハンデがあるとよく言われますが、言葉は流暢さよりも、言いたいことをしっかり伝えられる能力の方が重要です。そして、そのためには自分の中に何をしたいのか、どうしたいのかという考えを持っていることが大切になってきます。あとは、開発途上国の援助に関わっていくのであれば、やはり一度は、現地に住んでそこで働くというのが一番良いと思います。現場での経験があるのとないのとでは、その後の仕事に対する姿勢や、やりかたがまったく違ってくると思います。
(2008年10月28日。聞き手:松浦彩、国際労働機関・アジア太平洋地域事務所所属。写真:吉田明子、国連事務局OCHA・アジア太平洋地域事務所所属、幹事会でネットワーク(タイ)担当。ウェブ掲載:岡崎詩織)
2009年7月5日掲載