サイト内検索



第110回
持田 繁さん
国連アジア太平洋経済社会委員会

第109回
小田 大善さん
国連ボランティア

第108回
大井 綾子さん
国連開発計画

第107回
藤野 あゆみさん
国連工業開発機関
第106回
九島 伸一さん
国連事務局・広報局

全タイトルを見る⇒
 
HOME国連職員NOW! > 第111回

高橋 典子さん
国連工業開発機関(UNIDO)
特別企画局人間の安全保障調整ユニット・人間の安全保障担当官

 

高橋典子(たかはし・のりこ):広島県出身、上智大学法学部卒。(株)東芝にて電力プラント海外営業を担当した後、1994年 にJPOに合格し、UNIDO中国事務所にて投資促進、中小企業振興に携わる。その後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学修士を取得し、JICA本部と在外事務所(バルカン地域担当)で中小企業開発を担当。マニラにあるILO東南アジア大洋州地域事務所で企業開発専門官として勤務した後、2007年7月UNIDO本部に人間の安全保障担当官として着任。趣味は登山と山スキー。これまで、キリマンジャロ(タンザニア)、エルブルース(ロシア)、キナバル(マレーシア)、モンブラン(フランス)、マッターホルン(スイス)登頂。

Q. 国連で勤務することになったきっかけを教えて下さい。

大学卒業後、東芝で発電機の海外営業をしていた時に担当したブルガリアの水力発電所の案件が、後に国連で勤務するきっかけの一つになったのだと思います。その頃は冷戦の終結と共に共産党体制が崩壊した直後だったため、国は混乱しており、国民の生活も高いインフレ率で困窮していました。街を歩いても、誰一人として笑っている人がいなかったのが印象に残っています。商談相手の国営電力会社ですら会議室には裸電球一つで、交渉が夜遅くまで長引くような時は、値段をはじいていた電卓が光量不足で反応しなくなり使えなくなったのをよく覚えています。このような悲壮な状況下ですから、商談が無事まとまっても、達成感の中に罪悪感や後味の悪さが残ってしまいました。これが困窮している人達を、儲けや営利を考えず、中立的な立場で助けてあげることはできないかと考え始めたきっかけでした。

きっかけはもう1つあります。東芝に入社して5年が経とうとしていたこともあり、そろそろ活動する場所を海外に移して自分の力を試してみたいと思っていた頃のことです。社内で海外赴任を希望する社員のための選考試験に応募してみたところ、歳が若いからこれから幾らでもチャンスがあるという理由で採用されませんでした。今となっては知る由もありませんが、もしかしたら女性というハンデもあったかもしれませんね。その頃の日本の民間企業では、女性が海外出張や海外赴任をすることが何か特別なことのように扱われる風潮がまだありましたから。そんなこともあり、やはり自分の人生は自分で切り開くしかないと思っていたところ、たまたま締め切りの数日前にJPO試験の案内を新聞で目にし、徹夜で応募書類を書き上げて外務省に送りました。それがすべての始まりでした。

Q.最初に派遣されたのは?

JPOでは国連工業開発機関(UNIDO)の中国事務所に派遣されました。当初の任務は、図們江(とまんこう)流域開発案件付きの投資促進担当アソシエート・エキスパートだったのですが、受け入れ態勢の不備もあり、上司に相談してUNIDO中国事務所の執務を担当することになりました。その頃から“郷鎮企業”と呼ばれる中国の中小企業を育成するための政策提言プロジェクトに参加したり、北京と香港をつなぐ、中国中部の京九(けいきゅう)鉄道の敷設に伴う地域開発セミナーを開催したりと、仕事もかなり幅広くなっていきました。小さな事務所でしたので、とにかく何でもみんなで手分けをしてやるといった感じで楽しかったです。

途上国での仕事の経験はありましたが、最初は戸惑うことが多かったですね。開発援助の仕事も、海外での長期駐在も初めてでしたし、外国人だけの職場、英語でのコミュニケーションに加え、民間企業とは違う国連組織での勤務も新しい経験でした。高校時代にアメリカで生活していたこともあり、程なく新しい環境に馴染むことができましたが。勤務評定の「順応力」という項目がなぜか最高点でしたね(笑)。

Q.JPO後、UNIDOに戻って来られるまでにはどのような経緯があったのですか?

私がJPOに採用された時は修士号は必須条件ではなかったので、修士号のないままJPOになったのですが、UNIDOに入ってみると、修士号はもとより博士号をもっている人も珍しくなく、このまま国連に残るのならまずは大学院に行かなければならないと痛感しました。同時にUNIDOでの仕事は経済学の素養が必要とされることも多く、法学部出身の私はエコノミストとの技術的な議論についていけないこともあったので、大学院では経済学を勉強することにしました。開発分野のキャリアを目指す人のための奨学金が外務省から給付されたので、ロンドンの大学院に2年間留学し、経済学の修士号を取得しました。

大学院卒業後は、個人的な理由もあり、日本に戻りJICAに就職しました。中小企業振興分野のジュニア専門員として本部(旧工業開発調査課)に3年間、バルカン地域の中小企業振興担当企画調査員としてウィーン事務所に2年間勤務しました。UNIDOのJPO時代に強く関心を持った中小企業振興というテーマに、今度はJICAという二国間援助機関でさらに深く広く取り組むことになりました。特に本部では、個々の開発調査プロジェクトの企画・実施のみならず、中小企業振興分野における様々な援助手法について調査報告書をまとめるなど、専門的にやり甲斐のある仕事に恵まれました。また、「JICA開発課題に対する効果的アプローチ(中小企業振興)」を共同執筆したり、JICAを代表して国際機関主催の会議やセミナーに出席・発表したりする機会にも恵まれました。この時は中国、インドネシア、タイ、南アフリカのプロジェクトを担当していたので、しょっちゅう出張していましたね。

JICAのウィーン事務所に赴任してからは、ウィーンを本拠に、担当国だったボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ、マケドニア、アルバニアを行ったり来たりして、中小企業分野の新規案件の発掘及び形成に力を入れていました。たった一人で現地に乗り込んで、政府関係者、大学・研究機関、民間企業、企業団体、援助機関などを周って話を聞きながら、案件を練り上げていくんです。JICAの場合、移転する技術も投入物も日本のものに限られるという制約がありますが、逆に日本のバイとしての比較優位を考える作業は楽しかったですね。またこの仕事を通じて、何でも一人でやる自信と度胸がついたと思います。日本における開発援助人材の育成はJICAの役割の一つですが、このお陰で多岐にわたる実務経験を積むことができ、とても感謝しています。残念ながら、この人材育成という部分が国連では欠落しているので、「人を育てる」JICAで働くことができたのは非常に幸運でした。

JICAの任期が終了し、このままバイでやっていくかマルチに戻るか迷いましたが、40代を目の前にしてこれが最後のチャンスだと思い、再び国連に戻ることに決めました。JPOになってからというもの、数年毎に勤務地と仕事内容がくるくる変わっていたので、初めて国連の正規職員ポストを意識し始めたのもこの頃です。様々なポストに応募しているうちに、厚生労働省が拠出している国際労働機関(ILO)日本人テクニカルオフィサーと呼ばれる制度に合格し、フィリピンにあるILO東南アジア大洋州地域事務所に企業開発専門官として赴任しました。JICAの時と同様、中小企業振興分野における技術移転案件の形成と実施を担当しましたが、フィリピンというお国柄もあってか、企業振興とはいっても自然災害や紛争に係わる業務が多く、想像以上に苦労した案件もありました。ILOでの1年間の任期も終わろうという頃UNIDOから採用通知を受け取り、マニラからウィーンに赴任して、現在に至っています。JICAの任期終了後に国連への転職活動を開始したので、正規職員ポストを獲得するまでに丸々2年間かかったことになります。

Q.二国間援助機関と多国間援助機関両方で働かれた経験から、どのような違いがありますでしょうか?

国連に戻った今、JICAの良さを自分なりに表現すると「和気あいあい」でしょうか。成果は一人で出すものではなく、みんなで力を出し合って出すものという雰囲気があると思います。国連は個人単位で仕事をやることが一般的なので、例えば、「私のプロジェクトでは・・」と発言してもおそらく反感を買うことはないと思いますが、JICAでこれを言った時には同僚に「そういう言い方はおかしいんじゃないのか」と指摘されました。JICAと国連の文化の違いを思い知った一件でした(苦笑)。

それから、JICAでは開発という課題に対して真摯な人が多かったように思います。悲しいことに、国連には途上国への技術移転を実施することが主要な活動であるにもかかわらず、途上国への赴任を希望しない職員が数多くいるような気がします。そう考えると、残念ですがすべての人が開発問題に取り組みたくて国連に入ってきている訳ではないのかもしれませんね。

Q.今はどのようなお仕事をなさっているのですか。

人間の安全保障に関わる活動全般の政策立案及び事業調整が、私の所属する人間の安全保障調整ユニットの業務内容です。このユニットは2006年に新設された部署ですが、UNIDOはこれまで「国連人間の安全保障基金」のプロジェクトを数多く実施しており、人間の安全保障分野における知見と実績はかなり蓄積されていると思います。一方、「人間の安全保障に対するUNIDOのアプローチ」という政策ペーパーを作成しているのですが、UNIDOの加盟国の中には「人間の安全保障」という考えを導入することに難色を示す国もあり、なかなか難航しています。UNIDOが今後も引き続き人間の安全保障を推進していこうとするならば、何とかこの局面を打開する方策を考えなければならないと思っています。

Q.将来はどのような分野でキャリアアップされていくおつもりですか?

そうですね、開発業界に入ってからというもの、ずっと起業家支援や中小企業振興分野の技術援助に従事してきたので、今後もこの分野を中心に仕事を続けていきたいと思っています。現在取り組んでいる人間の安全保障の考え方は、開発問題に取り組む上での1つのアプローチだと自分では理解しています。従って起業家支援や中小企業振興分野の技術移転においても、このアプローチを取り入れることは、大いに意味のあることではないでしょうか。

Q. 国連で働く上で苦労されることはありますか?

これまではどちらかというと援助の現場にいることが多かったのであまり感じなかったのですが、国連機関の本部というのは非常に政治的なところですね。現場にいた時は、文化、人種、言葉などが全く違う人たちが、同じ目的にために力を合わせて何かを成し遂げる、というのはなんて素晴らしいことだろうと思っていましたが、本部にいると自分はちょっとナイーブ過ぎるかなと反省することも多いです。出身国の政治的目的のために画策しているような同僚を見てしまうと、正直ちょっとげんなりします。

Q.国連で働く魅力はなんでしょう?

勉強しようと思えばいくらでも勉強できる環境が整っていることが、自分にとっての国連の魅力でしょうか。どんな仕事に取り組むにしてもかなりの下調べが必要になりますし、自分さえその気になれば、知的刺激に溢れていると思います。

Q. 一番思い出に残っている仕事はなんですか?

国連とはまったく関係ないんですが、中学最後の春休みにアルバイトをした、広島県の山奥のビデオ組立工場での経験は忘れられません。時給は340円位で、同じ歳位の女の子たちがマイクロバスに乗せられて、山間の工場に通っていました。ベルトコンベアを取り囲むようにそれぞれが担当位置について、毎日朝から晩まで同じ作業をするんです。私は電動ドライバーで何箇所かのビスを締め付ける担当でした。3月だったので、工場は寒くて手がかじかんでいたのを覚えています。この仕事を通じて思い知ったのは、このように単調な肉体労働を一生続けることは、どんなに大変な苦労だろうかということです。開発の仕事で途上国の工場を視察するときも、工場で働いている労働者の姿が昔の自分と重なったりします。UNIDOという工業開発分野の専門機関で働く今の自分にとって、非常に貴重な経験でした。

あと、JPO時代に外国からの投資誘致の案件実施のため、北朝鮮に出張した時のことを思い出します。中国側から図們江にかかる細く長い橋(約500m)を渡って、陸路で北朝鮮に入国したのですが、橋のちょうど真ん中に国境線の真っ赤な太い線が引いてありまして、中国側から乗ってきた車は、その線の手前で私たちを降ろして帰ってしまったんです。こんな橋のど真ん中で置いてきぼりにするとは何事かと思っていると、向こう側に待機していた豆のように小さく見えていた北朝鮮の迎えの車が徐々に大きくなるにつれて、ホッとしたのを覚えています。この出張では金日成の隠し豪邸(?)が宿舎だったのですが、私のオフィスの4倍はある巨大で天井の高い大理石張りの四角い空間に小さなトイレがポツンと置いてあったのが忘れられません。落ち着かなくて困りました(笑)。一方で、村人は紙と木で建てられた家の窓の部分に、割れたガラスの代わりでしょうか、黒いビニール袋のようなものを貼って生活していたんです。朝鮮半島北部の冬は冷え込みが厳しいでしょうから、どのようにして冬を越していたのでしょう。

Q. たいへんだったこと、つらかったことはなんでしょうか?

フィリピンの反政府共産ゲリラの本拠地で、人間の安全保障基金のプロジェクトを形成した時のことです。案件の対象であった半島は、ゲリラ、農民、地主との間で農地改革を一因とする武力衝突も多く、非常に閉鎖的な地域でした。農民に安定した生業と収入を確保することよって、彼らの経済脆弱性を改善することが案件の趣旨でした。しかし私が実態把握調査のために現地を訪れた時に驚いたのは、ゲリラの影響下にある住民たちが、私たちに紛争や暴力の事実をひた隠しにしたことです。それでは案件の前提条件が成り立たなくなるので、この企画段階で非常に難航しました。結局この問題は住民に一人一人インタビューすることによって解決しましたが、紛争中に案件を形成する難しさを垣間見たような気がしました。

Q. 仕事の合間にはどのような活動をしてリラックスされていますか?

日本から連れてきた秋田犬のアキと山に行くことでしょうか。しばらく前まではかなり本格的な登山をやっていたのですが、今はアキがいるのでどうしても垂直より水平志向にならざるを得ません。でもオーストリアはスイスほど有名でありませんが、国土の6割がアルプスの山岳地帯となっているので、登る山には事欠きませんよ。

冬は山スキーに出かけることが多いです。かかとが上がるビンディングと、板の裏に滑り止めを装備した山スキー用のスキー板をつけたまま、急斜面を登っていくんです。山頂に到着すると、ビィンディングのかかとを固定し滑り止めを外して、真っ白な新雪に一気にドロップインします。気持ちいいですよ(笑)。

オーストリアは大抵のホテル、ペンション、山小屋、どこでも犬が一緒に泊まれるので、宿泊場所を探すストレスもありません。いつもは愛想の悪いオーストリア人も、犬を連れているだけで、相好を崩して人懐こく話しかけてきます。ただ将来現場での勤務となった時に、寒冷地仕様のアキを連れて行ける「暑くない」国を探すのが大変かもしれませんね(笑)。

Q. 国連で働くことを目指している若者にメッセージをお願いします。

私としては、「国連を目指す」という表現には違和感がありますね。国連ならば何でも良いということではないと思います。まずは、やりたいことがあって、それを実現できる場所がたまたま国連だったいうのが自然な流れではないでしょうか。ですから、まず自分が情熱を傾けられることを見つけてみてください。途上国開発の分野でいえば、その情熱を発揮できる場所として、二国間援助機関、多国間援助機関、民間コンサルタント、NGO、ボランティア等、色々とあると思います。国連は単にその中の選択肢の1つにしか過ぎないと思うのですが、いかがでしょうか?

(2009年6月11日ウイーンにて収録。聞き手:岡本愛実、UNIDOにてJPO。写真:田瀬和夫、国連事務局 人間の安全保障 ユニット課長、 幹事会・コーディネーター。ウェブ掲載:岡崎詩織)


2009年9月9日掲載

 


HOME国連職員NOW! > 第111回