国連ハビタット(国連人間居住計画)福岡本部・本部長補佐官
星野幸代(ほしの・さちよ):東京都出身。小・中学校時代を米国ニューヨークで過ごす。日本郵船株式会社定航部、モルガン・スタンレー証券会社投資銀行部および人事部勤務の後、国連地域開発センター兵庫事務所における契約業務やホームレス自立支援事業を経て、2004年より国連ハビタット福岡本部に勤務。イラク担当専門官としてイラク復興事業に従事したのち、現在本部長補佐官。神戸大学大学院 総合人間科学研究科修士課程修了(専攻:都市政策)。 |
Q. 小・中学校時代を米国ニューヨークで過ごされたとのことですが、そのことはその後の人生にどのように影響しましたか。
ニューヨークには父の仕事の関係で行きました。渡米時期が小中学校時代ということもそうですが、なにより当時の時代背景の影響を大きく受けたと思います。1970年初期は、今なら技術力の代名詞の日本企業の台頭もなく、まだ世界における日本の評価は低かった時代ですので、当時のアメリカでも、小学校でも、日本はまだある意味では侮蔑の対象でした。特に子どもは差別の表現もストレートでしたが、例えば勉強をがんばって、一つでも得意なものを持つようになると、クラスメートは私たちを自然と認め、受け入れてくれるようになりました。
日本人であることを個性として捉えながら、いろいろな人種や考え方の中で幼少期を過ごしました。特に当時の経験からは「人はいる場所によってマイノリティにも多数派にもなる」ということを感じました。日本で生活をしていると、日本の中でのモノの見方が当たり前のように思えますが、ニューヨークのように多様な人種と多様な価値観が集う場所では、それは多様性の中の一つに過ぎない。価値観の違いには正解も間違いもなく、多様性の中でうまく調和して違いを尊重していくことが大事なのだと肌で感じる経験ができたことは大きな財産だったと思います。特に、現在のように多国籍チームの中で仕事をするようになって振り返ると、より実感しますね。
Q. 以前は民間企業で活躍されていましたが、国連で働くようになった経緯やきっかけを教えてください。
結婚後の20代から、私は民間の外資系投資会社で働いていました。40代までは国連職員になろうとか国連を志そうとか思ったことは一度もなかったんですよ。でも、きっかけはある日突然やってきました。1995年に起こった阪神・淡路大震災です。当時、私は仕事の関係で東京に住んでいましたが、夫が神戸に単身赴任しており、たまたま夫を訪ねて神戸にいました。そして震災に遭ったのです。私たちの家は一般家屋の倒壊被害が一番大きかった東灘区にあり、震災後は今までに見たこともない混沌とした風景が広がっていました。
国連で働きたいと思うようになったのには、震災後の復興プロセスを神戸市民として体感したこと、そしてそこで経験したことが直接の大きなきっかけになっています。震災後、私はすぐに東京に戻り、会社に辞意を伝えました。辞意を伝えに入った会長室のテレビの大画面では、ちょうど神戸の生田神社の鳥居が倒壊した場面が流れており、それを指差して会長が「きみはあそこに行くのかね?」と驚いて聞かれました。「今行く必要がある。復興した後の神戸に行っても後悔するような気がします」とお伝えしたら、温かく受け入れてくださいました。もちろん東京で仕事を続ける選択もできたのですが、自分のなかでそれは違うんじゃないかと思ったんです。
何をするという確信があったわけではないのですが、神戸に戻らなければいけないと強く感じました。当時は大阪から神戸までの線路が一部倒壊していましたので、線路の砂利の上を歩きながら神戸に戻りましたね。そして数年間ボランティアとして神戸の復興に携わりました。神戸の経験から本格的に都市政策を学びたいという想いが生まれ、37歳のときに神戸大学大学院総合人間科学研究科に入学しました。勉強漬けの毎日でしたが、震災の4年後に神戸に開設された国連地域開発センター防災計画兵庫事務所で、自然災害後の復興や、防災計画のプロジェクトにも従事しました。これが国連との最初のご縁です。そしてこれを機に、大学院を修了後、国連ハビタット福岡本部の仕事に応募しました。
Q. 国連ハビタットの活動とご自身のお仕事について教えてください。
国連ハビタットは、人の居住環境を改善するためにできた機関です。1976年に第1回国連人間居住会議という会議がバンクーバーで開催され、人が適切な住まいを得る権利というのは、教育を受ける権利、健康に暮らす権利と同様、基本的な人権であるということが認められました。
世界には途上国を中心に自然災害、紛争、絶対的な貧困など様々な理由から適切な住まいを得られない人々がたくさんいます。国連ハビタットは、そのような人たちの状況を国連の力、国際社会の支援をもって解決しようという目的で、1978年に国連総会によってケニアのナイロビに設立されました。アジア太平洋地域を管轄する地域本部として1997年に開設された福岡本部の主な活動内容は、スマトラ地震・津波などの自然災害やアフガニスタンなど紛争の後の復興事業、貧困に苦しむ人々への支援、スラム改善事業、都市環境管理や都市行政に対する技術協力・提言など、多岐にわたっています。
私は現在、本部長補佐官として福岡本部の様々な活動やプロジェクトに従事していますが、採用された当時はイラク担当専門官でした。イラクはアジア太平洋地域事務所の管轄外ではありましたが、日本政府から復興への大きな資金援助がありましたので、同国の復興が始まるにあたり、事業担当専門官が必要だったという経緯があります。
当時、2003年のバグダッド国連事務所爆破事件の影響で、イラク人以外の国連職員がイラクに入れない状況でした。そのため国連ハビタットもヨルダンとクウェートに事務所を置き、遠隔でイラク復興事業を行いましたが、当初は送金のシステムもなく、インターネットもなかなか繋がらず、携帯電話もろくに使えない状況で、イラクとのコミュニケーションなどを含めたいへんな状況が続きました。そうした中でも、ハビタットは住宅やインフラ、200数十校の幼稚園と小中学校、40校の大学を再建しました。
私は現地に入れなかったので、修復の様子は送られてきた写真を通して確認したのですが、学校で楽しく授業が行われている写真などを見たときはとても嬉しかったですね。また現地の皆さんが口を揃えて「私たちは日本のような復興を遂げたい」と言ってくれたこともたいへん嬉しかったです。それから、当時事務所があったサマワでは日本の自衛隊も復興支援をしており、自衛隊の任務終了後に事業を引き継いで完了させたこともありました。これは現地の住民感情を考慮するととても大切なことで、支援半ばで帰ったと思われないためにも連携できて良かったなと思います。
Q. イラク復興事業では特にどんなところに力を入れましたか。
まず幼稚園と小中学校の修復に取り組んだのですが、その理由は学校に通える児童の数を早期に回復したかったため、また多様な価値観と共存することの大切さについて幼少期に学校で学ぶ機会を得ることが、長期の平和プロセスにおいて重要だと感じられたためです。また、高等教育機関の再建においては、一日も早くイラクの明日を再建する若いエンジニアや子どもたちを教える教育者に巣立ってほしいという想いで、教育大学や工科大学を主に選んで再建を行いました。学校が安全な場所であって初めて生徒たちは学校に戻ることができます。ですからまずは建物を用意し、そこに先生を呼び戻すことで、イラクの子どもたちへ教育機会を提供するきっかけをつくることに力を入れました。
Q.阪神・淡路大震災でボランティアとして復興に携わった経験から、復興のプロセスにおいて不可欠だと感じたことがあれば教えてください。
私が大事だと感じたことは二つあります。それは「復興する側の人間が当事者意識を持ち復興に取り組む」ことと、「自分たちでできることの限界を知る」ということです。復興にあたっては、まず住民一人ひとりが「どんなまちをつくりたいか」を明確にイメージし、その復興を自分たちの手で成し遂げる、という強い想いを持つことが大切です。またそれをする中で、自分たちができることの限界も認識し、受けるべき支援、専門家などに任せるべき領域などが見えてきますので、目標に向かって自分たちでイニシアティブをとりながら、どれだけ外部と連携して進めることができるのかが大事だと思います。外部からの支援はあくまでも復興を果たす上での知恵、道具、ヒントであり、最後はその達成に向けて動く「住民力」にかかっていると思っています。
国連ハビタットでも、復興事業を実施するにあたっては、必ず初めに住民たちがどういうまちをつくっていきたいのかをしっかり聞いてから、その声を軸に支援をしていくようにしています。また、支援金が国や自治体を介在するのではなく、支援対象の住民(住民組織)が直接受け取れるようにしています。このような手法をとることで、住民たちの当事者意識を掘り起こし、住民を主体にした、住民の手による参加型の「まちづくり」を実現するのです。
国連が主導してものごとを進めるのは簡単なのでしょうが、それでは本当の意味での自立復興にはつながらない。なので、まずは当事者である住民たちが復興への課題を洗い出し、支援金の使い道とともに復興の優先順位を決めるということが大事だと考えています。私たちが支援するのは、そのような住民組織の運営や合意形成の進め方、住民行動計画の作り方、また実際の工事作業等の技術指導などです。
とはいえ、支援地域によってその背景は様々ですので、その場に応じた最大の配慮が必要です。例えば、イラクのように独裁政権しか知らない人々は、自分たちの希望通りのコミュニティをつくっていくという経験がありません。ですからまずはその意識づけと住民同士の話し合いを重ねるところから始めます。また、イスラム圏の一部では女性は男性の集まりの場には参加しづらいといった状況もありますので、女性だけの話し合いの場をつくるなど、公平にみんなの意見を吸い上げることができるように配慮します。人数が多い場合は意見が纏まらないので、代表制を取り入れて少数単位の意見を集約し、各代表同士が最終的に話し合いを通して復興への優先順位を決定していくようにします。
復興のプロセスにおいても、私たちは「モノづくり」だけでなく「人づくり」を通じて人々の意識を高め、自立を促し、居住環境を改善していくことを主眼に活動しています。再建の際、地元業者の選定や透明性のある資材選びなど、ノウハウを伝授しながら一緒に進めていくのですが、この手法なら復興における住民たちのオーナーシップを引き出すことができます。このようなプロセスを経ることで、住民たちのコミュニティへの帰属意識を高めることができますので、復興事業終了後も住民が住民によるまちづくりを続けていけることになります。一見すると手間がかかるようですが、つくり上げたものを長期的に大事にしていくようになるなど、結果として良いものができてくるのです。
Q. 現在のお仕事について少し教えてください。
本部長補佐官として、本部長(注:野田順康さん、国連職員NOW!第52回にご登場)のサポートに加え、福岡本部と地域との連携を深める活動や、大学との共同研究などを行っています。また、日本政府支援事業である環境技術協力事業というプロジェクトも担当しています。これは日本の環境技術を活用してアジアの環境課題を解決するという事業で、日本の中小企業や自治体が持っている自律・持続的な技術、安価で途上国にも移転しやすい技術・ノウハウと、アジア都市のニーズとのマッチングを行い、水・衛生・廃棄物・エネルギーなどの分野の課題の改善に応用するというものです。これらを国連ハビタットの「水と衛生チーム」や「都市と気候変動事業」といった部門と連携しながらアジア各地で実施しています。
まだ事業を開始して2年目ですが、すでに複数のマッチングが成功し、いくつかの事業が立ち上がりました。例えば、モンゴルのウランバートル市では、急速な都市化や人口増加により既存の下水処理施設の処理能力がパンクしていることが問題となっていましたが、ウランバートル上下水道公社の社長が、納豆菌群をセメントブロックに組み入れ水質浄化を行うという技術に強い関心を示し、その後モンゴルでパイロット水質浄化事業が実現しました。また、福岡市のNGOが持つ段ボール・コンポスト(堆肥)ノウハウは、ネパールで紹介された後、同国バグルング市でまず300世帯に導入されました。その他のパイロット事業も成功しており、現在も発展を続けています。
Q. 仕事をするにあたっての一番の喜びや、国連で働く魅力とはなんですか。
そうですね、国連で働く喜びというより、この仕事をさせていただく一番の喜びは、自分が取り組んだ成果物がきっと誰かの役に立っているだろうと思えるところですね。私たちには最終的な受益者は見えないことが多いですが、それでもどこかで誰かの生活や健康の改善に役立っていると思えるところ。そこが民間企業にいた時との一番の違いだと思います。
Q. 星野さんの夢や目標をお聞かせいただけますか。
私自身、国連に入りたかったというより、こういう仕事がしたくて国連に入りました。そのきっかけとなったのは阪神大震災ですが、そのときに感じた三つのことが今の自分の基盤となっているように思います。一つ目は、震災で奪われた若い人の死を無駄にするような生き方はできないということです。例えば、神戸大学では留学生も含め40名前後の優秀な方々が亡くなられたのですが、生きておられれば、現在は第一線で母国と日本の架け橋となりご活躍されていただろう方々です。そのような命がある日一瞬にして絶たれてしまったのですから、純粋にこういった方々の死を無駄にする生き方はできないと思いました。
二つ目は、震災当事に私自身が被災者としていろいろな方にお世話になり、多くの方に助けられましたので、人生を通してその恩返しをしていきたいということです。ご支援いただいた一人ひとりすべてにお礼を言うことはできませんが、自分が支援できる立場になった時、支援を必要とする他の人を支援することで恩返しをしたいと思いました。ですので、これは今後も続けていきたいと思います。
そして最後に、都市災害には災害弱者といわれる人々がおり、被害の状況も復興の速度もその脆弱性により違ってくるのだということを実感したということです。それを是正するのは政策であり、私たちの取り組みの努力だと思うのですが、私自身まだその追求が足りないと感じますので、今後も勉強を続けていきたいです。
Q. プライベートではホームレスの自立支援活動などに携わっていらっしゃいますが、どのようなことをなさっているのでしょうか。
1990年初頭にイギリスで生まれ、日本では2003年に創刊された「ビッグイシュー」という雑誌があります。これは雑誌の販売といった仕事をホームレスの人へ提供することで、ホームレスの人々の自立を応援するという事業で、その事業の日本での立ち上げ、また福岡での販売立ち上げに携わりました。現在でも、雑誌の販売者となるホームレスの方の採用、面接から、販売に際してのサポートを行っています。歯をちゃんと磨いて、とか、お風呂に入って、などといった話もするのですよ(笑)。今は月に2回発行される日本版のために、英語版からおもしろい記事を選び、日本語に翻訳するというお手伝いをしています。
Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている人たちに贈る言葉をお願いします。
基本、あまりないですね(笑)。ただ、ひとつ言えることは、現在国連で働いておられる皆さんもそうだと思うのですが、皆さんそれぞれに、今の仕事にたどり着いた理由、きっかけ、関心、こだわり、というものがあり、今の皆さんがあるのはそのこだわりを忠実に叶えてこられた結果ではないかということです。ですので、アドバイスとしては、いま自分の中にあるいろいろなこだわりや関心について、今後も努力を惜しまず追求し続けてくださいということでしょうか。そうすれば、今は違う分野にいる方でも、最後は自分の中にある想いを実現できる場所にたどりつけるようになると思います。
2011年2月13日、福岡にて収録
聞き手:田中由佳
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:宮脇麻奈
ウェブ掲載:斉藤亮