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山口 靖世さん
国連児童基金(UNICEF)パブリック・アライアンス・資金調達部

Q. 国連を目指したきっかけと、国連に入るまでの経緯を教えてください。

山口靖世(やまぐちやすよ):東京生まれ。津田塾大学学芸学部英文科卒。国際法律事務所に勤務の後、米国のモントレー国際大学院公共政策学部に留学して修士号を取得。卒業後、UNOPS東京事務所で主席アシスタントとして働き、JPO試験に合格。UNDCPウィーン本部、ミャンマー事務所でのプロジェクトオフィサーを経て、UNICEFニューヨーク本部に移り、現職。2005年、UNICEFスリランカ事務所で津波被害者の援助活動に携わる。

カトリックの学校に小・中・高と通っていたのですが、教鞭をとっておられたシスター達が途上国での奉仕活動に携わっていたこともあり、幼いときから私たち生徒も、マザーテレサの活動を映画で見たり、カンボジアの難民救済の募金活動をしたり、またアフリカの子どもたちと文通をしたりしていました。こうした学校での教育や活動を通じて、世界では同世代の子どもたちが貧困、紛争、災害などで苦しんでいるという状況を知り、その人たちのために自分も何かしたい、できるのではないか、と漠然と考えていました。外の世界のことをもっと知りたい、経験したいという思いから、中学生になってからは英語を積極的に学びました。

大学では、英文科で主に異文化コミュニケーションを勉強しました。異国や異文化の人とより深く分かり合い、お互いのメッセージをより効果的に伝え合うにはどういうツールが必要か、ということを学びたかったからです。学部卒業後は2年間、国際法律事務所で日本人および外国人弁護士のアシスタントとして法的文書の作成補助、翻訳等の仕事をしました。このとき初めて、様々な国の人たちと同じ職場で、同じ目標に向かって仕事を成し遂げる醍醐味を味わいました。

本格的に国際開発について学ぶ機会をねらっていた法律事務所勤務2年目に、ロータリー奨学金をいただきアメリカの大学院に進むことができました。公共政策学部で国際開発政策や非営利組織のマネージメント等を学びました。大学院1年目の夏に、United Nations International Drug Control Programme(UNDCP:国連麻薬統制計画 )ラオス事務所でインターンとして働く機会を得ました。このときの経験が国連への就職を真剣に考えるきっかけとなりました。麻薬の原料となるポピーをつくって売ることで、家族のために必要なお米をぎりぎり買えるか買えないか程度の収入を得、貧困に耐える農民の姿と、麻薬問題の根底にある搾取を目の当たりにしました。この人々の基本的ニーズを充たし、麻薬に依存しないで生計を立て、持続可能な開発と生活向上を実現するにはどうしたらよいのか、そしてラオス政府や各国政府、国連を含めた国際機関やNGOなどは彼らのために何をすべきか、より身近な問題として考えるようになりました。

大学院卒業後JPO試験を受け、結果待ちの間、UNOPS(国連プロジェクト機関)東京事務所で、主席のアシスタントとして8か月ほど働きました。その後無事合格通知をいただき、JPOとして2年間UNDCPのウィーン本部で勤務することになりました。

Q. 大学院で学ばれたことと実際に勤務されて感じたことに違いがありましたか?

大学院に入りたてのころ、国際開発学をどの角度から学ぼうかと考えていたときに、麻薬統制としてのHuman Capacity Developmentに強い関心を抱き、研究することにしました。きっかけは、コロンビア出身の友人の「麻薬問題に解決はない」という言葉でした。麻薬の生産農民が貧困に苦しみ搾取される一方、売買の過程で麻薬の価値が雪だるま式に大きくなっていき、世界中の若者を中毒に陥れ、また国際的な犯罪、武器の売買などのための巨額の資金を生み出す。その需要と供給の悪循環に解決方法はないし、誰も何もできないのだと。あまりにも簡単にそう言いきる友人の言葉に衝撃をうけ、また本当にそうなのだろうかと疑問を抱きました。また、麻薬問題が生産国(主に途上国の)農民の開発問題でもあるという視点を得ました。そこから、各国政府や国際機関が麻薬問題と生産国の開発にどのように取り組んでいるかに焦点をあて、UNDCPラオスでのインターンシップの経験と大学院での勉強を通じて、需要と供給の悪循環を断ち切る方法のひとつとしての、human development:人間開発のアプローチの重要性を学びました。麻薬生産に頼らず自立して生活するための代替農作物生産と、水田開発や二毛作による米など自給自足の推進、医療、保健、教育へのアクセス、また道路や発電所の建設などを通じてBasic Human Needsを満たしていくことや、主に女性の自立と能力開発を促すマイクロクレジットを供給するなど、農民自身と彼らのいるコミュニティの自助能力を高め、持続可能な開発を支援していくことが麻薬の生産/供給を減らしていくことに有効であることを、ラオス、タイ、ボリビア等のケーススタディーを用いて卒業論文で取り上げました。

実際にUNDCPの現場で働いて感じたのは、大学院で学んだ理論は必ずしも実際には当てはまらないということです。たとえばミャンマーでは、代替生産を奨励しても、地元の農民やコミュニティーの新しいことへの抵抗感、自然環境・地理的条件から定着が難しい、農民が得られる利益に大きな差がないため、再び慣れ親しんだ麻薬栽培に戻ってしまうといったことがありました。また、ひとつの地域で成功したことが別の国でうまくいくとは限りません。政治、文化、気候風土等、それぞれ背景が違う中で、多様性と現地のニーズを柔軟に考慮したプロジェクトが必要です。解決方法に公式はありません。だからこそ、努力を続けていかなければならないというやりがい、使命感を感じました。

Q. UNDCP(国連麻薬統制計画)でのお仕事について教えてください。

UNDCPウィーン本部では、当時ケシベースの麻薬を大量に生産する東南アジアの「麻薬の黄金三角地帯」を含めた6か国で、麻薬の生産、使用、そして輸送を統制するプロジェクトの運営管理の補佐とモニタリングおよび各国事務所へのサポートを担当していました。本部でしたので、各国の現状や多様性が把握できて全体像を見ることができました。人と知り合う機会も多く、国連での最初の職場としてネットワークを築く上でもたいへん恵まれた環境にあったと思います。JPOの2年目が終わるころ、現場ではどのようにプロジェクトが運営されているのか最前線で見て経験したいと思い、JPO3年目として延長していただいてUNDCPミャンマー事務所へ赴任しました。

ミャンマーは当時世界1位、2位を競うケシベースの麻薬の生産国でした。政治的にも難しい国で、厳しい軍事政権下で人々の生活に多くの制約・制限が加えられていた上、国内に137ものエスニックグループが共存し、国内や国境地帯での紛争が常にあり、多くの人々が様々な形の貧困に苦しんでいました。北東部にあるシャン州のワ族は長い間反政府の立場をとって独立国家を打ち立てた部族であり、ミャンマーの80%の麻薬はそこでつくられていました。UNDCPはそのワ国に存在する唯一の国際機関でした。わたしは、そのワ国の農民をターゲットにした麻薬代替開発プロジェクトのプロジェクト・オフィサーとして、当時の首都ヤンゴンとワ国を行き来して、資金調達、運営、モニタリング、評価、そして報告書作成等に携わっていました。麻薬統制についてのワ族とヤンゴン政府との交渉、また両者の仲介などがUNDCPの重要な仕事のひとつでしたが、交渉には苦労することが多々ありました。ワ族は私たちが普段行うような交渉・契約という習慣がなく、あるときは紙に書いたものは意味がないと言ったり、今日合意したことが明日になると違ってしまったり、ということもありました。ヤンゴン政府の汚職も問題でしたが、政府高官でさえ月給が当時約17ドル程度であり、賄賂に頼り、また麻薬による影の国家収入源を完全に断ち切れない社会的背景を目の当たりにしました。

身の危険を感じたこともあります。交渉の場で、入るべき資金が入ってこないことに怒ったワ族の高官に当たる人が銃を発砲し、私の後ろに立っていた同僚の頬をかすったのです。また、ヤンゴンとワ族の王国との移動も苦労しました。王国は、ヤンゴンから180キロほど離れた険しい山奥にあります。1時間のフライトに加えて18時間のドライブでようやくたどりつくのです。大雨の時には、土砂崩れで道がなくなってしまったり、車が土砂にうまり、助けを求めて1日暗闇の中で待っていたりしたこともあります。でも、わたしは素晴らしいチームにめぐまれました。事務所の代表や、プロジェクト・コーディネーターをはじめとして、現地のスタッフ、ミャンマー人の医師や看護婦、学校の教師、農業指導者、みなが農民の能力開発のために決してあきらめることなく、日々真剣に取り組んでいる姿に励まされ、啓発され、この人たちと一緒に頑張りたいと思ったのです。

Q. 今までのお仕事で一番印象深かったことは何でしょう?

UNDCPミャンマー事務所で、麻薬撲滅・HIV予防のキャンペーン「マラソン against Drugs」を実施したことですね。ミャンマーは当時、ケシベースの麻薬の大量生産国であるとともに、特に若者の間での麻薬使用の問題が深刻化していて、一本の注射器を何人もの若者の間で使用して麻薬を注射することでHIV/AIDSに感染するケースが確実に増えていました。主に現地の私企業やNGOから資金をあつめ、ヤンゴンの町中にポスターをはり、ビルボードを立て、政府、NGO、若者グループ、ロック歌手、テレビスター、モデル、宗教団体、私企業、学生などの参加者が、私たちがデザインした“マラソンagainst drugs”“Stop Drugs”と書かれたおそろいのT-シャツを着てマラソンすることを通じて、とくに若者の間の意識向上を図るものでした。楽しかったですよ。公共部門・民間部門の違いを超えて、みんなで一緒に力を合わせてキャンペーンを成功させました。これほどたくさんの団体が協力してキャンペーンを行ったのはミャンマーで初めてのことでした。当時HIV問題は社会的なタブーであり、統計を取ることや政府と公に話をすることも難しい状況にあった中、このマラソンのキャンペーンでは、夏の暑い日にたくさん汗を流して、普段軍服の政府高官がT-シャツに半ズボン姿で自ら走ってくれたのです。

このキャンペーンは、自分でアイデアを起こし、プロジェクトとして立ち上げて、計画から資金調達まで全部任せていただきました。政府のカウンターパートや、他の国際機関やNGO、私企業やマスコミ、芸能人とのネットワークを広げて強めていくことができました。テレビでも活動が放映されて一般の人々の関心が高まり、資金もキャンペーンをカバーするには十分集めることができ、大成功でした。こうしたミャンマーでの経験が、現在のユニセフでの仕事の原点にもなっていると思います。

Q. ユニセフでは現在どのようなお仕事をされているのですか。

ユニセフが現在世界191か国で行っている特に子どもと女性を中心とした緊急援助と開発の活動のために、政府からの資金調達を行っています。スカンジナビア諸国、特にノルウェー、フィンランド、アイスランドを担当しています。ユニセフと資金拠出国の優先分野と政策の共通項を見つけて、資金協力のための協議、橋渡しをしていく仕事です。協議のために拠出国やニューヨークの本部でさまざまな会議を実施したり、拠出国の要求や資金・プログラムに対する質問に効率的に対応したりすることも重要な仕事のひとつです。協議後、資金をより早く各国事務所に提供し、拠出国との合意に沿ったかたちで資金が使われ、拠出国の支援の結果を報告できるようにモニターする責任もあります。現地での各国事務所の資金調達のための支援や、拠出国との資金協力の合意書の内容や文言の校正等について各国事務所と拠出国政府に助言・提言もおこないます。

Q. お仕事の上でご苦労されていることはありますか?

着任したてのころは、拠出国とのコミュニケーションの仕方に戸惑いました。私の担当するスカンジナビアの国々はノルウェーの2位(2005年)にはじまり、トップ20に入るくらい大きな拠出国なのですが、多くの資金をユニセフに与えている分要求も高いのです。あまりに直接的にものを言ってくるのに傷ついたこともあります。ミャンマーでは言いたいことの3分の1を言ってちょうどいいくらいだったのが、スカンジナビアの国々との交渉ではより直接的に、端的にはっきりといいたいことを伝える必要があります。逆に、オープンでフレンドリー、仕事上の階級やタイトルにはこだわらず平等な立場で意見を述べる文化という良さもあります。現在では、スカンジナビア人とのコミュニケ−ションのコツが分かり、日々の仕事を通じて拠出国と信頼関係を築け、具体的に資金協力という形で自分の交渉の結果を出せたことがとても嬉しかったです。信頼関係を築くには、相手国の政策・視点やカルチャーを十分に理解して相手に合わせたコミュニケーションをすることが大切です。拠出国や世界中のユニセフの事務所で働く同僚と交渉、協議、問題解決を毎日ともにしていくなかで、自分のコミュニケーション能力の幅を広げていけることは大きな喜びでもあります。学部で学んだ異文化コミュニケーションが実践で役に立っているとも思います。私は「ひとベース」の人間なんです。人と人とのふれあい・関わりが、生きる喜びや自分の成長のための新しい視点を与えてくれ、自分を豊かにしてくれると考えます。そういう意味で、この仕事が自分に合っているとも自負しています。

Q. 今後の展望を聞かせてください。

フィールドに戻りたくてうずうずしています。ユニセフは186か国にオフィスがあって、全世界で活動が展開されています。各国事務所、地域事務所に権限が置かれていて、もっとも現場主義的な機関のひとつですので、現場での経験を積んでいきたいです。2005年には半年間、プランニング・オフィサーとして、ユニセフ・スリランカ事務所で津波被害者の援助活動と資金の再計画、モニタリング、評価のための指標づくり、また現地での資金調達や活動報告書の作成等の仕事をしました。とてもやりがいがあって、現地の子どもたちや被益者と直接接し、彼らのニーズとそれに応えようとするユニセフの活動についての理解と共感がより深まり、仕事の幅もひろがりました。今後は特にこれまで行ったことのないアフリカで、ユニセフの緊急援助と開発の現場でスリランカで携わったようなプランニングの仕事をしたいと思います。

Q. 日本が国連で貢献できることは何でしょうか?

資金的な貢献は十分高いので、人的貢献を高めていくべきだと思います。職員の質は高いのに、国連で活躍する職員数はまだまだ少ないですよね。日本には、経験・知識・能力を兼ね備えた人材がたくさんいるのに、どうして国連で活躍しないのだろうといつも疑問に思います。

まず、国連そのものが日本の一般の方にきちんと知られていないように思います。日本の新聞やテレビを見るたびに世界のニュースはたったこれだけかと驚きますが、日本人がグローバルな意識を持てるような、世界で起こっていることに関心を向け、リアルに、身近に感じられるような社会的環境が整っていないように感じます。世界の中での自分、という観点を持てるような社会と環境づくりが必要です。コミュニティ、政府、教育機関などが協力して、一般の人々が地球規模問題にふれられる機会を増やす、特に若者を積極的に海外に送り出す支援が必要だと思います。それが国連への人的貢献にもつながるのではないのでしょうか。

Q. 地球規模問題に関わっていこうと思う人々へメッセージをお願いします。

世界の中の自分、自分と世界との接点を見つけて、それを自分のものにしてください。何でもいいのです。このグローバル化が進んだ現代、自分と周りのものと、必ず世界との接点があると思います。たとえば私は花が大好きなのですが、先日バラという花はもともとアフガニスタンが原産国であることをひょんなことから知ったのです。そこから、アフガニスタンとはどんな国であって、どんな歴史があり、どんな人々の手を通して今こうして自分の目の前にあるのだろう、とバラというひとつの花からアフガニスタンについての関心と興味が果てしなく広がります。自分の興味のあることから世界との接点を見つけていってください。

また、世界の人々がどのような思いを抱き、どのような生活をしているのか、見て感じて体験するために、あらゆる機会を貪欲にとらえて、実際に現地に行って実態を見ることが大切なのではないでしょうか。

最後に、実体験を意味のある経験にしていくためには、高い言語能力が必要です。言語の習得に加えて、コミュニケーション力を高めてください。社会的文化的背景の異なる相手と効果的に分かり合っていくための能力、お互いが幸せになれるウィンウィン(共益)の関係を築ける力です。国連職員になると、いろいろな国でいろいろな人々と仕事をしていかなければなりません。どんな背景の人とも柔軟に対応できる能力、様々な経験を通じて、適応性、柔軟性を養うことが大切だと思います。


(2007年 5月2日、聞き手:富田、国連事務局PKO局インターン。幹事会、国連職員NOW!フォーカルポイント、写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会、コーディネーター。)

 

2007年5月28日掲載


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