宮澤 尚里さん
国連プロジェクト・サービス機関(UNOPS)駐日事務所代表
宮澤尚里(みやざわなおり):愛知県出身。ロンドン大学大学院東洋アフリカ学院(SOAS)環境開発研究科修士号取得、Ph.D. Candidate。日本企業で3年間環境課題に取り組んだ後、2000年から2001年までは国際連合大学の環境と持続可能な開発プログラムのリサーチャーとして東南アジア・東アジアにおける環境ガバナンス事業の運営・調査に携わる。2001年から2005年までADRA東ティモール事務所所長、国際開発センター東ティモール事務所代表等を経て、2004年よりUNOPSに勤務。 |
Q. どのような経緯でいまの仕事にお就きになりましたか?
大学生の時にNGOのボランティアで一か月ほどフィリピンに行って、植林活動、保健活動をしたことがあります。その時に、ネグロス島の現地のNGOの方々と一緒になって活動をして、開発には難しい複雑な問題があると感じ、もっと深く関わりたいと思ったのが、国際協力に関わるようになったきっかけです。というのは、スラムもサトウキビ畑もそうなのですが、表面上だけでは分からない複雑な社会構造がそこにはあり、そうしたものを解決しないと開発は進んでゆかないわけです。
それで、大学卒業後すぐに開発に携わることももちろん考えましたが、まずはビジネスの手法や技能も学ぶ必要があると思って、3年間は日本の企業で環境問題に取り組みました。そしてその後ロンドン大学大学院の東洋アフリカ学院(SOAS)に留学し、さらに環境と開発について学びました。その後は日本に戻り、国連大学で「環境と開発」プログラムについての仕事を最初はインターンとして始めました。この仕事の成果が3カ月後には認められ、職員として働く機会を得たのです。国連大学での仕事はとても充実していて、自分の専門知識と経験を活かすことができました。具体的には、東南アジアと東アジア9か国の環境ガバナンスについてのプログラムを調整し、そこから得られた知見や教訓をまとめ研究し、出版する仕事をしていました。
でも、その後どうしても現場での経験を積みたくなり、国際NGOであるADRA(Adventist Development and Relief Agency)の仕事で東ティモールに行く決意をしました。東ティモールではその後国際開発センターの仕事も頂き、またディリにある同国唯一の国立大学で環境学を教える機会も得たので、結局3年半駐在しました。最初はちょうど独立紛争が終わった頃で復興が国際社会の主眼でしたが、滞在中に次第に開発に焦点が移ってきたため、私の仕事も内容が変わっていきました。
特に後半は、国連人間の安全保障基金によるコミュニティ開発事業「AMCAP(Ainaro and Manatuto Community
Activation Project)」に携わることとなったのが今の職につながっていきました。この事業ではUNDPが実施機関、UNOPSが実施のパートナーを務めていて、再び国連の仕事に強く興味を持ったのです。そして、UNOPS東京事務所のポストがインターネットで公募に出された時に応募して、採用されたという経緯です。
Q. いまのお仕事はどんなことでしょう。UNOPSは国連の中ではやや特殊な位置づけですが、どのように説明されますか。
主な仕事は日本政府とUNOPSの海外事務所をつなぐ橋渡しの仕事です。具体的には、日本政府とパートナーシップを組み、事業運営や調達案件の調整を担当します。地域的にはアフリカ、アジア、中南米、中東などを幅広くカバーしていて、さらに案件の分野としてもインフラ、ノンプロ無償資金協力から地雷や環境まで様々な課題に及び、さらに最近では「クールアース・パートナーシップ」という気候安定化のための新たな資金メカニズムに関する案件にもセネガルで関わっています。
そもそもUNOPSは、他の国連機関や国際機関が事業を行う場合に、その実施(オペレーション)の部分を担当することが仕事です。つまり、全体的な計画を立てるのは国連機関ですが、それを現場で形にするためには人を雇ったり物資やサービスの調達を行ったりということが必要になってきますから、その部分をUNOPSが独立採算制で担っているというわけです。調達の仕事の約8割は役務の調達、つまり事業の運営に従事する専門家やコンサルタントを探し出して契約を結ぶことです。
そのような仕事ですからもちろん大変なこともたくさんあります。でも、この仕事をしていておもしろいことの一つは、現地調達を国際調達と並行して行うことによって地元の中小企業の活躍の場をつくることができるということです。国際競争力が限られている地場産業にとって、国際入札を勝ち取ることは容易ではありませんからね。
Q. 東ティモールで一番楽しかったこと、たいへんだったことはなんでしょうか。
紛争の直後でしたから状況は目まぐるしく変化していましたが、国造りにしっかりと関わることができたことには大きなやりがいを感じました。市場の復興、学校や孤児院の再建設、元兵士の社会統合、環境管理、植林事業、中長期的なコミュニティ開発など、様々な仕事をして、それらの成果が徐々に現れてくるのを感じることができました。その中でも印象に残っているのは、やはり人間の安全保障基金で実施したAMCAPでしょうか。事業の初期段階でかなり時間がかかり、5年間の長期プロジェクトですから成果がすぐに出るというものでもありません。地元の人材育成を行ったり、自助グループ支援という新しい手法を取り入れるなどの工夫をしました。
自助グループというのは10人前後の地元の男性、女性や若者からなる集まりで、これをコミュニティ開発の基幹としたところ、軌道に乗るまでに時間はかかっても、うまくいくことがわかりました。50年後のコミュニティの目標と計画を立てているグループもあるんですよ。「自分はもうその頃にはいないだろう、でも子どもたちにはこうして欲しいっていう希望」が出てくるんです。紛争後の社会ではコミュニティの絆を深めることはとても難しいと思いましたが、こうして人々の内側から自信が回復してくるのを見ると、大きなやりがいを感じました。
Q. 紛争直後から復興段階にかけて、どのような変化にお気付きになりましたか?
紛争の直後は、約80%のインフラストラクチャーが破壊され混沌とした状況で、人々が心に傷を負っていて、前向きに何かをしよう、進んでいこうということになかなかならなかったような気がします。ですからその頃は、プロジェクトについても無理に前に進めるということを敢えてしませんでした。実際、話をしていて突然紛争のことを思い出して激昂する人もいましたし、毎日私たちの事務所に生活の問題等、相談に来る人もいました。
それが2002年に独立を目前にしてしばらく経つとだんだん変わってきました。人々の中にこの国を軌道に乗せて行かなければならないんだという意識が生まれ、国際的な支援も急速に増えてきたことから、状況がどんどん良くなっていきました。道路はできるし、学校は建つし、まるで映画を早送りで観るような変化が実際に起こったのです。私もディリの近郊で1週間に一度ほど「定点観測」をしていたのですが、著しく風景が変わっていくのが分かりました。
他方、その後国際社会が一気に撤退したために、再びこの国にはとても大変な時期が訪れました。経済的にもそうですが、外部の人材などが撤収してしまったことによる制度的な能力不足はとても深刻だったと思います。2006年にも暴動があり、まだまだ様々な問題が山積していますから、一つひとつの問題について支援して行きたいと思っています。
Q.仕事をしていて危険だと思った瞬間は?
一見安全だと思った時に事件が起こったことが何度かありました。事務所で勤務していると突然異臭がして、近くで暴動が起こって煙が上がっていたのに気がつき、すぐに避難したこともありました。この時も暴動の噂は色々とあったのですが、正しい情報を入手することが難しく、起こってみるまではわかりませんでした。また、アイナロ県の山の中にもプロジェクト事務所を構えていたのですが、やはり夜は危険で、国連の車両に乗っていて道路で止められ襲われそうになった同僚もいました。そういう意味で、セキュリティの管理には本当に常に神経を巡らせていましたね。それから、アイナロでは日常の水も水道がなかったので雨水をバケツに貯めて使っていたことがありましたよ。
また、治安がなかなか良くならない中でも状況がどんどん変化していって、かつプロジェクトが進まなかった時が試練だったと思います。ちょっと進んだかと思うとまた何か別の問題が起きる、その繰り返しでした。それでも現地のペースに合わせないと事業はうまくいきません。そんな中でどのように対応していくかを学んだような気がします。
Q. 東ティモールに戻りたいと思いますか?
戻りたいです。東ティモールでは特別な経験をさせてもらいましたから、特別な想いがあります。その後、何がどのように変化しているかも知りたいですし、今後も長く関わっていきたいと思います。独立を決定した国民投票から2009年でもう10年になるんですよ。そこで何がどれだけ達成できたのか、ぜひ見せてもらいたい気がします。
今後、将来的にはどのような仕事をしたいと思いますか?
一つこれだけをやりたいというものを決めているわけではなく、若い内は様々なことにチャレンジしたいと思っています。東ティモールの仕事も、ある仕事だけをやりたいと思って行ったわけではなく、行ってみたらいろんな仕事に恵まれたということだったんです。
現場と本部の関係でいえば、この二つをつなげていくような仕事ができればと思います。例えば現場で得られた経験や教訓を本部の政策に十分に活かしていく、これはとても重要なことだと思います。実は今も東ティモールでの経験を記録にしたり発表させてもらったりしていて、自分の経験を伝えるという作業をしています。
Q. ご家族は宮澤さんのお仕事にご理解がありますか?
夫とはロンドン大学で知り合い、東ティモールにも一緒に行きました。夫も国連職員ですが、一緒に行った分、喜びも苦労も分かち合うことができてとても良かったと思っています。熱帯病で死にそうになった時も一緒でした。私達夫婦が尊敬するある人から、「若い内はなるべくフィールドに出た方がいい、結婚しているならなるべく一緒に出た方がいい」、ということを言われて、それを実践したことが自分にとってはとても良かったと考えています。
Q. 日本ができる貢献とはどのようなことだと思いますか?
本当にたくさんの分野があると思いますが、特に途上国から期待されることとして、日本は例えば建築をはじめとする技術力の国だと評価されます。それに、歴史も興味を持たれる点だと思います。戦後に立ち上がって復興した日本の経験はアジアではとてもよく知られています。その経験を復興を必要とする世界の他の地域で何らかの形で活かしていくことが、日本が貢献できる分野ではないでしょうか。
それから、日本人は「和」を大切にして協調性のある支援を行うことができるという強みがあると思います。例えば、東ティモールに派遣されてきた自衛隊の人たちも、地元の村々の伝統や文化にしたがって、酋長さんたちに挨拶をして、地鎮祭等を行って、それから建設工事に入っていったんです。こうした配慮、和を重んじながら進めてゆくというやり方は国際協力の場面でもとても大きな強みだと思います。現場では地元の人達への敬意と、「助ける」というよりも「協働」というスタンスが重要と感じました。
Q. これから国際協力に携わりたいと思っている人たちにメッセージをお願いします。
ぜひ大きなビジョンを持っていてほしいと思います。目の前の仕事は大変なこともありますが、それを乗り越えて3年後、5年後、10年後、そして東ティモールのコミュニティグループが計画したように50年後を考え、その時にどのような社会になっていてほしいのか、どこを変えていかなければならないのかという視点を持っていることが大切です。
私自身は環境問題には以前から取り組んできました。環境は長い時間がかかる課題ですが、今努力をしておかないと次世代に引き継ぐべき環境は破壊されてしまいます。日本は環境に関して技術も知識も高いものを持っています。そうした叡智を長期的視野に立って、人間と環境が共生できるような社会を実現するために活用できます。
それから、特に若い世代の方には、若いからこそ貢献できることがある、ということを伝えたいです。東ティモールに日本の学生が来て、ボランティアとして環境キャンペーンを企画したことがあります。学生達が行ったのは地道なごみ掃除、そしてごみ問題を喚起するための寸劇でした。日本から来た学生がドロドロになりながらあまりにも一生懸命にごみ拾いに取り組むものですから、これが現地の学生の共感を得るようになって、いつのまにか一緒にやるようになったんです。そして、一緒に活動した東ティモールの学生たちはNGOを立ち上げ、環境教育等を行い、ごみ問題に長期的に取り組むようになりました。また環境キャンペーンを行った一つの場所である市場の商人達も学生たちの活動に影響されて自らゴミ箱を作り管理を始めるようになりました。これはそれまでトレーニングなどが成果を上げなかった難しい状況を、日本の若い世代が彼らならではの方法で変えた大きな例です。学生達が来なければこのような変化は起きなかったでしょう。その時、年代や経験に関わらず、それぞれの立場でのそれぞれの貢献の方法があるのだなと思いました。
Q. 週末は何をなさっていますか?
書くのが趣味なんです。東ティモールのこと、自分の仕事のことなど、時間がある時にまとめています。
(2008年3月26日。聞き手と写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネータ。同席:古市美奈、法政大学にて国際政治学を専攻。)
2008年6月29日掲載