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佐藤 純子さん
国連事務局広報局・ダグハマーショルド図書館

 

佐藤純子(さとうじゅんこ):東京女子大学史学科卒業後、日本でOLとして二年間勤務する。結婚を機に退職し、夫のニューヨーク駐在に随行する形で渡米、この間にロング・アイランド大学図書館学大学院にて図書館学修士号取得。その後、国連事務局のダグ・ハマーショルド図書館のライブラリアンとして28年と4か月を国連で過ごす。2008年4月末を持って円満退職予定。今後は早稲田大学などで後進の指導に当たる予定。

Q. 国連では図書館学をご専門にされていますが、そこにたどり着かれた経緯を教えて下さい。

大学は東京女子大の史学科(アメリカ史)を出たのですが、そのころは学生運動が盛んな頃で、東京女子大学は全共闘の活動の拠点の一つでした。3年生の時に学校が完全に閉鎖されたので、半年間はぜんぜん学校に行けず、1970年に日米安保条約が署名されてからようやく復学して、やっとのことで卒論を書いて卒業しましたね。だから今でも、私たちは最も勉強してない学年だなんて言われるんですよ。あの頃学生運動に加わらないと、ノンポリだとか思想がないとかって罵倒されましたね。でも、ほんとうに思想がなかったので参加しなかったんです(笑)。

大学の友人たちは、私は卒業したら腰掛けでOLをしてお見合い結婚で子どもを産んでというパターンだと思っていたようです。卒業後は日本の会社のOLを2年間ほどやり、大学時代に知り合ったいまの夫と25歳の時に結婚して同時に仕事も辞めました。でも辞めた理由というのがいまでは信じられないようなことなんですよ。というのはそこが父の友人が社長をしている会社で、父が「結婚後、辞めないと格好悪い」って言うんです。私は仕事はおもしろいと思っていましたが、父の友人の手前、辞めないわけにもいかず、退職後はしばらく「専業主婦」をやりました。

はじめてアメリカにやってきたのは1976年です。その前年から夫が当時勤務していた会社のニューヨーク駐在員になったので、その年に呼び寄せられた形です。そのころは私は20 代後半でした。来てみるとけっこう暇で、加えて駐在員の奥さんどうしのつきあいもすごく退屈だったものですから、その暇を有効に使うために大学院にでも行こうかと思いました。そこで思いついたのが「図書館学」を学ぶことでした。日本ではあまり知られていませんが米国では図書館学は大学院から始まる学問です。それで夫の会社があったロング・アイランドのナッソー郡に、ロング・アイランド大学・パーマー図書館学大学院(Parmer Graduate School of Library)というのがあったので、そこに行くこととしました。

ちなみに,なぜ図書館学だったかというと、夫の会社のアメリカ人社員の奥さんでライブラリアンだった方がいて、その方がとても格好よかったからなんです。ほら、日本では図書館の司書ってあんまり冴えない感じでしょう。その方にお話を聞いたら、10年専業主婦をやってそのあと修士を取ってからのお勤めであるとのこと。そのころはまだ日本では学部を卒業後にすぐ修士課程に進むのが主流でしたから、この方のことはたいへん印象に残りました。そして自分も勉強するなら図書館学をやってみてもいいなと思いました。

実は私は子どもの頃から勉強も学校もきらいだったんです。なぜか判りませんが校門を見ると暗い気持ちになる。それでも院に行こうと思ったのは、学位を取ること自体には魅かれたからでしょうね。それから、当時英文科卒がもてはやされている中で史学科を卒業したらとても就職がたいへんでした。ですから、最後にもう一つ勉強するとしたら仕事に直結したものがいいと思って図書館学を選んだということもあります。加えて、図書館学は経営学などと比べると卒業に必要な単位が少ないのです。勉強するのはこれが最後と思って死にものぐるいでやりましたよ(笑)。

もともと英語が不得意で英文科は無理と思って史学科に入ったくらいだったのですが、史学科ではことのほか英語の原書をたくさん読まされました。この経験から、英語そのものを学ぶのはつまらないけれども、手段としての英語を学ぶのはある程度しょうがないかなと思えるようになりました。でも院では最初不安だったので、1学期目は週に1科目だけ取って完璧に予習ができるようにし、2学期目は週に2科目、そして2年目からフルタイムの学生として勉強しました。この方法はよかったですよ。

図書館員というのは、たくさんの本の内容を短い時間で把握して要約する能力がもとめられます。また、ある研究のためにほんとうに必要で役に立つ文献を100の中から短時間に20に絞るような能力も求められます。つまり最終的には、目的に応じて本の選別・選択を行うことが業務ですから、図書館学校にいる間だけでも一つの科目で1学期間に最低100冊から200冊くらいの本に目を通したのではないでしょうか。国連の図書館に入ってからもそれは同じで、国連文書になにが書いてあるのか(主題分析:index)を判断し、主要なトピックを5から20個くらい選び出す。時には、100ページ以上の文書もあります。Reviserの仕事をしていた時は、場合によっては1日に100文書くらい目を通す場合もありました。もともと私は「早読み」で、じっくり読むのは苦手。英語でも訓練すれば「ななめ読み」ができるんですよ。そういう意味で、この仕事は私にはピッタリ合いました。

Q. なるほど。では国連に就職されたきっかけはどのようなことでしたか?

79年に大学院を卒業したら、それと入れ違いに夫がコロンビア大学の経営大学院に社費で留学することになって、私は留学生の妻という立場になりました。しかし当時アメリカ人のMBAを取る人は奥さんが働いていて学費や生活費を捻出しているというパターンが多かったので、たまに大学院の集まりがあると「修士も持っていてどうして働かないの?」と不思議がられました。一方、私はE1ビザで夫の家族として駐在していた形でしたので、法的にも米国で働くことはしたくてもできなかったわけです。

それがあるときビジネススクールのパーティに行ったら、夫のクラスメートのご主人で、国連で働いているという中国の方と知り合いました。お互いに知っている人がいなかったので隅っこで話が弾んだんです(笑)。やはり同じようなことを聞かれて仕事はいまはしていないと答えたら、国連にも図書館があることを知っていますか、採用に地理的配分というのがあるので、日本人なら絶対に優先的に採用されますよと言って、国連の履歴書(P11)を持ってきてくれたんです。おせっかいな人ですよね。まだ競争試験がない時代の話ですが、ダメモトだと思って書いて出しました。これが79年の6月頃の話です。

そうしたら1週間もしないうちに国連の図書館から、すぐに面接したいという電話が日本語でありました。当時図書館には160人前後の職員がいたのですが、そのうち日本人はただの1人。それで日本政府からも国連の人事局からも図書館で日本人を採用せよという圧力があって、そのたった1人の邦人職員の方から電話があったというわけです。あとから聞いたのですが、日本からの応募はあるけれども面接のための旅費は出ない、そこでNY在住の日本人からの応募だったのですぐに面接となったそうです。なんと面接そのものもその方が日本語でされ(!)、終わった時にすごい会話がありました。

(職員)「佐藤さん、英語はできますか?」

(佐藤)「いや、得意ではないですけど。一応米国の大学院は出ました。試しますか?」

(職員)「うーん。いや、いいです。多分だいじょうぶでしょう」

おそらく国連事務局の採用面接が日本語だけだったのは私だけではないでしょうか(笑)。ともかく、2、3日後にはその方が人事局宛に推薦を書いてくださいました。

しかし3か月経っても音沙汰がなかったので、コロンビアの友人たちにもそりゃあダメだと言われ、別の職を探すことにしました。当時、コロンビア大学の東アジア研究所所属の図書館は日本語と中国語の蔵書の豊富さで有名で、また著名な日本人の司書がいたので、相談したら翌年から来ませんかということになりました。ところが12月頃になってまた電話があり、コロンビアの学生が国連の図書館を受けたら落ちてしまったので、その学生を1年間採用することになったということ。ああ残念と思っていたら、今度は12月の終わりに国連から採用することになりましたという連絡があったのです。

そのときは、1年で日本に帰ると思っていたので、契約は1年にしてほしいと言ったら、「何があるか判らないんだし、せっかく国連が2年の契約を出すと言ってるのだから2年でサインしなさいよ」と人事の人に言われて、結局2年でサインしました。そうしたら、夫がMBA取得後、3年間ニューヨーク勤務となりました。その間に私は定期契約と恒久契約の中間の契約(probational)になっていました。夫はその3年のニューヨーク駐在が終わった時に結局会社を辞めました。夫はそのあと自分で会社をつくってニューヨークに住み着いてしまいましたから、私もこうやってここにいるんです。わりとすぐ国連からは恒久契約をもらいましたよ。4月いっぱいで退職ですが、結局国連には28年と4か月いました。

Q. 28年あまり国連においでになって、一番思い出に残っていることはなんでしょう。

いちど日本人国連職員の有志で「国連人」という雑誌をつくったことがあるんです。私は編集委員会の代表をしたのですが、なるべく勤務時間中にはしないようにしていたものの、やっぱり仕事の最中に印刷屋さんから電話がかかってきてしまったりしてずいぶんひんしゅくを買いました(笑)。仕事外の活動を奨励していた上司も最後には「また国連人かー!、お前は仕事をしているのかー」と切れるようになってしまいました(笑)。そのころの編集委員には、言い出しっぺの石原直紀さん(現立命館大学教授)、川端清隆さん(現政務局政務官)、山本一太さん(現参議院議員)、大崎(富田)敬子さん (現ESCAP勤務)などがおられ、伊勢桃代さん(現日本国連協会理事)には顧問になってもらいましたが、とてもいい思い出でした。

この「国連人」には国連職員や外交官、メディアの方など多くの方が寄稿され、ずいぶん新聞などでも話題になったんですよ。でも、私が編集長をやった第2号で力尽きてしまいました。私自身もいそがしくなってしまったし、誰もそんなたいへんな仕事を引き継いでくれる人はいなかったんです。創刊号は1993年、第2号は1994年でしたが、まだインターネットはなくてちょうどワープロが出始めた頃で、電子的にファイルを交換することもできなかったので、結局手書きの原稿やワープロのハードコピーを印刷屋さんに入稿するような作業でしたね。とにかくあれはたいへんでした。でも、国連もそのころはのんびりしてましたから。だれか第3号をつくってくれる方、いませんか?

Q. 逆に国連にいて一番難しいと思ったことはなんですか?

けっこう昇進ってたいへんでしたね。それも、P3(中堅)からP4(初級管理職)になるときが一番たいへんだったかもしれません。特に図書館はP3とP4のあいだで職員数がすごく違ったりして、数少ないP4のポストを取るのもたいへんですが、取ったら取ったで今度はならなかった人との関係が難しかったりして、とても気を使いました。逆にP5(課長級)になる時、比較的楽でした。競争相手はどんどん定年退職で辞めていくわけですから、今度は年齢の勝負になってきて若い方が有利だったりします。いま国連事務局では日本人のP5の層が厚くなってきていると聞いていますから、その意味では時間さえかければD1(次長級)D2(部長級)の幹部職員も出てくるのではないでしょうか。

Q. 28年の間に国連がよくなったところ、悪くなったところはありますか?

先ほども言ったように、私が入った頃は国連はとてものんびりしていたんです。多分いまの70%くらいしか働いていなかったと思います。例えば160人いた図書館がいまでは100人以下です。現在その人員でこなす業務は明らかに当時より増えていますし多角化しています。特に図書館ではいま、途上国との関係で電子媒体と紙の媒体の両方を用意していく必要がありますからね。でも昔はおもしろかったですよ。一般職の職員が職場で副業としてどこからか仕入れてきた宝石を並べて売ったりしてましたから。いまは倫理規定などもあって、とても考えられません。

Q . 退職された後はどのような人生を計画されていますか?

もともと定年後は日本で、と思っていましたが、夫はこちらで永住権と自分の会社を持っていてぜんぜん引退する気はなさそうなので、私も永住権をとることにしました。国際機関に長く勤めると米国の永住権を取得するのは比較的容易なのです。永住権を取得するまでは移動の制限もあるのでニューヨークにいることが多いと思います。取得後は日本と米国で半分くらいずつ過ごす生活になると思います。とりあえず今年の夏には早稲田大学大学院のアジア太平洋研究科で国連文書についての集中講義をします。私には「国連文書」という専門があるので、もしほかの大学などでもこのことについて教える機会があれば、やっていきたいと思っています。

Q . グローバルな課題に取り組みたい、世界に飛び出したいと思っている人々にメッセージはありますか?

ぜひ飛び出して下さい。国際機関で働いて下さい。私はほんとうに28年間楽しかったです。世界中の人たちと働ける、そんな機会なんてめったにありません。国際機関に入るためにはその選考基準に合うような専門分野を勉強することも大事ですが、一つ付け加えるとすれば、図書館学のような受験する人の数が少ない分野は注目してもよいと思いますよ。政治や経済、人権分野に比べるとぜんぜん倍率が違いますからね。

(2008年4月23日。聞き手:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。富田玲菜、国連日本政府代表部専門調査員。写真、加藤里美、フリージャーナリスト。)

 

2008年4月28日掲載

 


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