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長瀬 慎治さん
国連ボランティア計画(UNV)東京事務所

 

長瀬慎治(ながせ・しんじ):愛知県出身。米国オハイオ大学大学院で政治学修士号を取得。その後帰国して大学の事務職員として勤務後、2001年4月にUNVとして国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)に参加。2002年には同じくUNVプログラムオフィサーとしてUNDPサモア事務所に勤務した。2005年7月より「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーン事務局にて勤務、2007年4月より現職。

Q. 国連で働くようになった最初の機会はなんでしたか。

2001年の1月にUNVとして東ティモールの国連暫定行政機構(UNTAET)に派遣されたのが国連と関わるきっかけでした。その前は、アメリカの大学院で政治学の修士を取ったあと、帰国して大学の事務職員をやっていました。それが、ある年の年初に事務局長に呼び出されて、翌年は契約更新はしないと言われて、泣く泣く就職活動をしたのです。この大学では留学生の受け入れの仕事をやっていましたから、その関連の仕事を探したり、NGOの空席にも応募しました。結果は全滅。そんな中、当時特別募集をしていた東ティモールでの国連ボランティアのポスト(住民登録)に応募し、本当に運良く採用となりました。これが最初の国連との関わりです。大学から契約終了を言い渡されてから1年がすでに経過しており、暗い正月を過ごした直後に来たオファーでしたから本当に嬉しかったです。国際政治学の批判理論に興味を持って勉強していたので、国家の主権や統治権が及ばない土地に実際に立つことに、特別な興奮を感じていました。

当時は2002年の5月の独立に先立つUNTAETの活動の一環として、まずは住民登録、そして憲法制定議会の選挙、そして大統領選挙、独立というプロセスを目の当たりにしました。道という道には国連のマークのついたクルマが走り、白塗りの軍用ヘリコプターが飛び交っていて、PKOの現場を実感しました。苦労して頂いた仕事だったし、これしかないし、もうあとがない、この中で実績を挙げて自分のキャリアを築いて行くしかないんだと思いました。与えられた貴重な機会を大事に過ごしていきたいと思いました。気合いも入っていました。

最初に与えられた仕事は東ティモール人の住民登録でした。世界中から集まった約200名の国連ボランティアが東ティモール全土に散らばって、一人ひとり住民にインタビューして、住民登録用に設定されたラップトップ・コンピュータに個人情報を入力し、ウェブカメラで写真を撮影し、登録カードを発行する、という作業をやりました。約3か月で85万人の住民全員を登録しました。僕自身はディリ(首都)の西隣のエルメラ県にいて、約15,000人を登録しました。単純な作業を週6日、3か月続けましたが、エルメラの住民15,000人、一人ひとりと対峙しましたし、この作業が次に続く選挙のデータになり、独立へとつながるわけで、責任感を持って真剣に取り組みました。

活動環境は非常に厳しかったです。電気がないので、各村に発電機を持ち込んで事務所を設営して作業を行いました。住民登録を開始したのが、雨季の真っ最中の3月で、倒木で道路が遮断され目的地までたどり着けないということもよく起こりました。それに加えて、住民登録が始まるわずか2日前にPC、発電機を含む住民登録用の装備が手元に到着し、急遽トレーニングを行って公式開始日に間に合わせました。でも登録初日まで準備が実質的に間に合わなかったので、登録所を開けるかどうかさえ直前まで決められませんでした。10名いた9か国出身のUNVの住民登録チーム全員で話し合い、まずは半分の登録所を開け、なるべく早くすべての登録所を稼動させるように体制を整えていくという結論に達しました。初日は徹夜で準備しました。無線で予定通り半分の登録所が業務を開始したことが知らされてほっとして、沐浴をしに帰ったことを覚えています。

東ティモールのPKOに参加して、与えられた条件の中でパフォーマンスを最高に持っていくためにはどうすればよいのかを学ばせて頂きました。また、毎週行われるUNTAETの地方事務所の会議にも参加して、世界中から集まったスタッフが、東南アジアの片隅の小さな農村で、その住民のために話し合いをして、働いているというある意味不思議な体験をしました。PKO自体の大混乱も体験しました。住民だけでなく、PKOのスタッフも毎日がサバイバルでした。自分のことは自分で守らないと生活していけない世界でした。そんな中、どんな仕事でもいいから現地でゲットして生き残り、東ティモールの独立を現地で迎えるという目標を当初たてました。結果として住民登録以外に、憲法制定議会選挙支援と住民登録の地方事務所の監督官の契約をいただくことができ、東ティモールの独立の日をディリで迎えることができました。失敗と挫折の人生の中でUNVが僕を拾い上げてくれた気がして、UNVが好きになりました。現地のUNV支援事務所も数百人のUNV一人ひとりにきちんとしたサービスを提供していました。

Q. 東ティモールの次は大洋州においででしたね。

はい。東ティモールから帰国して、次は開発の現場で働きたいと思っていました。運よくサモアのUNVプログラムオフィサーの仕事をいただくことができました。UNDPのサモア事務所で、サモア、クック諸島、ニウエ、トケラウ諸島のUNVのプログラム全体を管理・運営する要職でした。国連の現地プログラムの中でいかにUNVを活用していくか、その国のボランティアリズムをいかに促進していくかということが職務の中心でした。これには派遣された国連ボランティアの生活のサポートを含め、予算管理、全体の調整業務も含まれていました。直接ドイツのボンにあるUNV本部と連絡をとり、指示を受けると同時にUNDPの現地代表からも決裁を受け活動をすることになりました。支援対象国の閣僚級の方々とも直接話しをしなければならない立場にいきなりなってしまいました。サッカーのワールドカップの太平洋地域の予選がサモアで行われて、その開会式の来賓席にサモアの首相と一緒に座るなどという、信じられないことも起こりました。

サモアへの赴任当時はミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: 以下MDGs)を国レベルで普及していこうとしている時期で、UNDPはMDGsの採点係とキャンペーン・マネージャーの役割を与えられ、すべての活動がMDGsを中心に展開され始めていました。UNVは、サモアの国家開発戦略を中心として、MDGs、国連開発援助枠組み(United Nations Development Assistance Framework :UNDAF)そしてUNDPサモア事務所の重点支援分野を踏まえながら活動領域を見出すことになっていました。

サモアは「太平洋の楽園」と言われるように、人間の基礎的なニーズ(Basic Human Needs:いわゆるBHN)の観点からの貧困はありませんでした。したがって、サモア政府は貧困を「機会の貧困:Poverty of Opportunity」と定義し、国家や政府からのサービスやビジネスチャンスを享受できずに、社会の隅に追いやられているような人々に対して平等な機会を提供することを目標にしていました。UNVが注力したのは、サモアの村落地域の青年と青少年の障害者に対する支援でした。日本政府からの拠出金からなるUNVの日本信託基金から2年間で30万ドルを投資して、国際UNVボランティア2名、国内UNVボランティアを6名雇用し、サモア全土でコミュニティに入り込み、地元NGOと協力して、これまで社会参加を妨げられてきた農村部の障害者のエンパワメントを促進する環境づくりに取り組みました。

もうひとつサモアのUNVはUNDPと協力して、担当4島嶼国のICT分野の支援をしました。各国に国連ボランティアのICT専門家を配置し、技術的な能力の構築だけではなく、国家のICT政策や戦略の策定の支援にも携わりました。当時マレーシアにあったUNDPのAPDIP (Asia-Pacific Development Information Programme)やUNESCAP、UNVがホストをしていたUNITeS (United Nations Information Technology Services)とも連絡を取りながら活動を進めました。2003年12月10日にジュネーブで開催された「世界情報社会サミット(WSIS)」では、ジュネーブの会場とニウエのテレセンターをつないでICTについての討論会なども行いました。2001年の「ボランティア国際年」のフォローアップの国連総会の決議への支持を取り付けるためにサモア政府に働きかけたり、12月5日の「国際ボランティア・デー」の記念イベントを企画したりという活動もしました。赴任中にサイクロンにも遭いました。

 

Q. 現場を二か所経験されたわけですね。

ええ、でもそのあと日本に帰ってきました。5年ほど現場を回ってきたので、しばらくは頭を整理するためにゆっくりしようと思い、湘南の海岸沿いを走ったり、いろいろな開発関係のセミナーやトレーニングのプログラムを受けたりしてました。ちょうどその頃、2005年の7月ですが、NGOのあいだで「ホワイトバンド・キャンペーン」という運動が始まりました。知人から、急激な業務拡大のため事務局を手伝ってくれる人を探しているという話があって、8月から「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンに参加させて頂くこととなりました。

それまで僕は日本のNGOで活動した経験がありませんでしたので、まずは日本のNGOについて勉強させていただくというスタンスで、無償で「ほっとけない」の事務局のお手伝いを始めました。結局それから2007年の3月まで事務局長の補佐や代理までさせて頂き、G8サミットに向けての新しいキャンペーン企画にも加わることができました。日本のNGO業界を牽引する方々や団体がキャンペーン実行委員会や賛同団体として参加していたので、直接のネットワークを短期間に持てたことはすばらしい経験でした。この2年間の経験が次の仕事のための大きな資産になったと言って過言ではありません。

ホワイトバンドは中田英寿さんや坂本龍一さんなどの有名人の協力のおかげで、約450万本売れ、ある意味で社会現象となりました。その分メディアへの露出も高く、いろいろな批判にさらされましたし、「カラーバンド・ブーム」なんて取り上げられ方もしました。一日に100件くらいの問い合わせがあり、緊張と興奮の毎日でした。このホワイトバンド運動は、日本で一般的な貧困削減のための募金や慈善活動とは少し違って、世界の貧困問題の解消のためのアドボカシー(唱道)活動でした。一般市民にも注目されたNGOによるキャンペーン活動の中では日本では初めての試みで、ある意味実験的な側面が多くありましたが、その注目度と世界的な成果では、キャンペーンの成功事例としていろいろなところで言及されることになりましたし、この時の遺産は5月末に横浜で開催されるアフリカ開発会議(TICAD IV)や7月のG8洞爺湖サミットをめぐる市民社会の活動に確実につながっていると思っています。今年1月のダボス会議で、英国のブレア元首相が福田首相に対してアフリカ開発の問題について質問した場面をテレビで見たときは感動しました。2005年のグレンイーグルス・サミットから始まったこの世界的な市民社会運動が脈々と続いており、目標だった洞爺湖サミットが確実に視野に入るようになったんだと思いました。

Q.そしていよいよUNVに戻ってこられたわけですね。

2006年の10月くらいに公募が出て、これに応募しました。それまでも、世界的なホワイトバンド・キャンペーンの共同議長のクミ・ナイドゥという人はCIVICUSという市民社会組織の世界的なネットワーク団体の事務局長でもあるということもあり、CIVICUSと緊密な協力関係にあるUNVとはたびたび連絡を取っていましたし、自分が国連で働くならこのポストに可能性があるのではないかという感触がありました。「ほっとけない」の方が非常に忙しかったのですが、ぎりぎりに応募書類を提出しました。

採用された時、以前国連ボランティアをしていた時にお世話になった人たちの多くはまだUNV本部で勤務しており、またサモアの当時のUNDP駐在代表がUNVの事務局次長になっていましたので、みなさん歓迎してくださいました。いまだに本部への出張がかなわず多くの人たちとは未だ顔を合わすこともできずにいるのですが。

Q. いまはどのようなお仕事なのでしょう。また、いちばんやりがいを感じることはなんですか?

外務省、JICA青年海外協力隊事務所、国内ボランティア組織、国際機関、大学等、国内のUNVのパートナーとの連絡・調整、新規プログラム・案件の発掘、国内広報・啓発活動、そして毎年約100名派遣される邦人国連ボランティアの送り出し等の業務を行っています。昨年からは広島大学平和構築人材育成センターが外務省から委託され実施している「平和構築人材育成パイロット事業」に参画しています。このプログラムの海外実地研修の国際機関派遣はUNVを通して行われています。

やりがいというか、常にチャレンジですが、日本においてパートナーの方々を始め多くの方々にUNVの活動方針、そしてボランティアについて伝え、理解していただき、ご支援をいただくことが、僕の仕事の大きな課題です。UNVは特に日本ではボランティア派遣組織、つまり国際ボランティアを使った技術支援というイメージが強いのですが、最近は平和や開発をより効果的に実現するためにボランティアは実質的な役割を持っているという「開発のためのボランティアリズム:V4D (Volunteerism for Development)」という概念を中心に活動を展開しています。支援の対象となる人々がサービスを受けるだけでなく、その国の開発や平和のプロセスに参加すること。その結果として目標がより効果的に達成されること。ボランティアは地元市民参加促進の1つの有効な方法であること。これを支援するために、各分野の専門家である国連ボランティアは世界中から毎年約8,000名が選ばれ、約130か国で活動している。つまり国連ボランティアだけではなく、ボランティアという活動形態自体を開発や平和の実現のプロセスになくてはならないものとして融合していこうという考えをより多くの方々に理解していただき、ボランティアの派遣だけではなく、ボランティアリズムの促進のための支援や協力をいただきたいと思っています。

Q. 日本で一般的に言う「ボランティア」と「国連ボランティア」は違うのですか?

国連ボランティアというのは、平均年齢が37歳で、基本的には25歳以上、最低2年以上の職務経験のある様々な分野の専門家やプロフェッショナル(なんらかの職能を持った人)に限られます。そして世界中の国連組織の活動の枠組みの中での活動になりますから、ボランティアのほんの一部の領域でしかありません。ボランティアというのは、(1)その活動の対価としてお金をもらわないこと、(2)その活動が個人の自由意志に基づくもの、そして(3)その活動が社会全体の利益に寄与するものであると定義されています。ですから、ボランティアという言葉自体はもっと幅広い視野を持っているし、日本で普通に考えられている活動よりも広い意味があると思います。その意味で、もう少し世界的視野でボランティア活動というものを見れば、日本でもさらに活動範囲が広がる可能性があるような気がするのです。

日本ではUNVがしゃしゃり出るまでもなく独自の活動を展開されているボランティア団体が数多くありますし、個人でなさっている方々もたくさんいる。阪神淡路大震災では全国からたくさんのボランティアが緊急・復興支援にかけつけ、「ボランティア元年」と呼ばれたように、ボランティアに対する関心も高まっています。しかし一方で日本の社会全体としてボランティアという活動に対しては「自分の善意の気持ちから困った人たちを助けるのがボランティアだ」、そしてその行為をひけらかすことは偽善であるという、ある意味で画一した価値意識が潜在的なボランティア人口の動員を妨げているような気がします。

しかし、一つの社会全体が発展・変化していく過程において、もちろん政府や地方公共団体が請け負って提供されるサービスがあるわけですが、それらが完璧に市民のニーズに答えられるわけではありません。ましてや社会が変化しているときにはなおさら政府がその変化に対応できるとは限りません。そうした中でできてくる、いわゆる社会のニッチ(隙間)は、やりたい、やりたくないに関わらず、誰かがやらなくてはならない部分として存在しているわけで、そうした隙間をいかにして埋めていくかということを考える必要が出てくると思います。

さきほど申し上げたボランティアの定義の2つめの「自由意志」というのは、日本では「自発性」と普通は訳されています。でも個人的にはこの言葉はなにか内面から湧き上がってくる道徳性のようなものを感ぜずにはいられません。自分の心の中から自然に湧いてくる使命感が重要視されるような。もちろんそれらが、ボランティア活動を特別なものにするし、付加価値を与えるものなのですが、それがあまりにも崇高なものだとそこにたどりつくまでに疲れてしまいませんか?活動の動機は人それぞれじゃないですか。それについて議論するより、その仕事の内容や質の方が大切ではないかと。「自発性」というのもむしろ「人に命令されない」くらいの意味で理解しておけば、もう少し気軽に参加できるのではないでしょうか。ボランティアがやらなきゃいけないことはそこにある。それにその動機が何であれ、自分の能力を使うことに合意し、実行することができるか、それがボランティアリズムなのではないでしょうか。

Q. UNVの名誉大使の中田武仁氏が4月に勇退されましたね。

今言ったような事を15年間、国内外で訴え続けてくださったのが、中田大使でした。1993年4月8日にご子息の厚仁氏が国連ボランティアとしてカンボジアのPKOでの選挙支援活動の途中に殉職して以来15年、ご子息の遺志を継いで、国連ボランティア名誉大使のお仕事を続けてくださいました。今年の厚仁氏のご命日に御勇退され、当日国連大学本部ビル内のウタント国際会議場で勇退式典を開催しました。僕が2003年にサモアでUNVのプログラム・オフィサーをしていたときに中田大使のミッションをホストさせていただきました。2001年の東ティモールPKOでの選挙支援の時には厚仁氏と共にカンボジアのミッションに参加していた方々にもお会いし、僕も厚仁氏のV(ボランティアリズム)の遺志を継承するんだという気持ちで仕事に取り組んでいました。サモアでの中田大使のミッションの最中に元UNTAETのSRSGだったセルジオ・デメロ氏の訃報が飛び込んできました。大使のミッション最後のスピーチの前に参加者全員で黙祷をささげたことを憶えています。そんな経緯もあって、勇退式典ではなるべく多くの方々に中田大使のお話を聞いていただきたかったし、これまでの功績を讃えるために出来る限りのことはしたいと思っていました。式典には2月に就任したばかりのフラビア・パンシエーリUNV事務局長も来日し、多くの方々に感動したというお言葉を頂戴いたしました。UNVの東京事務所は2人でまわしているのですが、UNDP東京事務所とUNUの方々に本当に温かいご協力をいただき無事終了することができました。

Q. これからのお仕事の展望は?

仕事を与えられていることに感謝しつつ、その時点で自分に与えられた仕事を誠意をもってやっていきたいというのが自分の願いです。また現場に戻ってみたいとも思います。特にアフリカでは仕事をしたことがないので、言ってみたいです。今年の冬にタンザニアに旅行に行きましたが、その環境の厳しさを実感しました。日本の生活の快適さに少々慣れすぎてしまったという感じがあります。

Q. 世界に貢献しようとしている人たちに対してメッセージはありますか?

すべての人がなんらかの形で世界に貢献しなければならないと思います。その貢献の方法のひとつとしてボランティアを理解していただきたいと思います。そして長い人生のほんの少しの時間でいいので実際にボランティアをしていただきたいと思います。生活のために培った専門性や独創性をほんの少し必要としている人達のために無償で提供していただきたい。その経験は人生を豊かにしてくれると信じています。そして、ボランティアをしていない時も、ぜひボランティアを支援・応援していただきたいと思います。偉くなったらなおさらです。国連の中でもUNVをサポートしていただいている方々は必ず出世しています。

Q. 週末は何をなさっていますか?

NGOの主催のイベントやシンポジウムには、これまでお世話になってきた方がたくさんいらっしゃるのでなるべく出席するようにしています。あとは掃除、洗濯(笑)。それから、多摩川近辺に住んでいるのでなるべく長い距離を走ることにしています。また、ジャズが好きなので、東京のジャズ・シーンを満喫させてもらっています。


(2008年1月10日。聞き手と写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター)

2008年7月7日掲載

 


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