サイト内検索



第24回
小川 真吾さん
(特活)テラ・ルネッサンス

第23回
鈴木 泰生さん
UNICEFジンバブエ事務所

第22回
宇治 和幸さん
UNDPアジア太平洋センター

第21回
山田 千晶さん
ラオス事務所
ADRA JAPAN

第20回
本田 容子さん
WFPアフガニスタン事務所

HOMEフィールド・エッセイ > 第25回




第25回 清水 育子 さん

国連児童基金(UNICEF)ブルンジ事務所
教育プログラム担当官


しみずいくこ 京都生まれ。筑波大学国際総合学類卒業(国際開発学専攻)。スタンフォード大学教育学部にて修士号(International Educational Administration and Policy Analysis)取得。米州開発銀行ワシントンDC本部に勤務後、ドミニカ共和国のハイチ国境ダハボン州にて、同銀行の総合農村開発パイロット・プロジェクトに携わる傍ら、ダハボン市でハイチの子どもを対象としたノンフォーマル教育活動を実施。その後ケニア西部にて、特定非営利活動法人HANDS(Health and Development Service)のコミュニティヘルス活動に従事。2008年1月よりUNICEFブルンジ事務所の教育セクションにてEducation Programme Officer(JPO)として勤務中。児童労働、移民・難民問題と教育の関連性に関心。http://www.ikukosh1.blogspot.com/

 

ブルンジの首都ブジュンブラに着任して9ヶ月になる。ナイロビからたった一時間、と思いきや、乗っていた便は直行便ではなく、ルワンダの首都キガリを経由して、飛行機が一機もない空港に到着した。最近「ブルンジはどう?」と仕事仲間のブルンジ人によく聞かれるが、愛着はしっかり湧いたものの、この国のことを知っているようで知らない気が強くする。首都の事務所勤務で行動範囲が限られており、五感を通じてこの国の深みを理解する機会が十分でないと感じているためだろう。それでも在留邦人二人の一人として、このフィールド・エッセイを通じてブルンジの一面を知ってもらうきっかけになれば嬉しく思う。

1.ブルンジという国

ブルンジは1962年にベルギーから独立したが、多数派フツ族と少数派ツチ族間の争いが絶えず、これまで多くの難民・国内避難民を出してきた。ブルンジ政府とフツ族反政府勢力との停戦合意が結ばれて2年が経過したが、同勢力の元兵士の武装解除・社会統合のプロセスは完了しておらず、今年に入ってからも武力衝突、手榴弾攻撃等が数件起こっている。UNDPの人間開発指数は177カ国中167位(2007年)、一人当たり国民平均年間所得が100米ドル、人口830万の内陸国である。

ちなみに警備員の平均月収は30ドル。公務員のそれが100-200ドルと聞く。最近の食糧価格上昇、そして一般物価上昇は、ブルンジの人々の基本的な生活環境を一層圧迫している。我が家の警備員は3人とも大学生兼ブルンジで一握りのサラリーマンであるが、彼らが前払いを頼んでくるときの理由は、大学の学費を納めるため、姉の薬を買うため、一番最近では田舎の妹に新学期のノートを買うためだった。すべて輸入に頼っているノートの値段は去年の2倍弱に腫れ上がり(紙100枚のノートが90円)、現金収入のない家庭で、どうやって子どもにノートを買うことができるのだろうか、と思わされる状況である。

2.ブルンジの教育事情

以前ブルンジで働いていたカメルーン人のUNICEF同僚が、ブルンジで最も印象深かった教育現場の光景として、以下のように話してくれた。

「出張で行った地方で、子どもたちが大きな石を持って歩いていたんだ。どうして石を担いで登校するのかと思っていた。学校に着くと、木の下で、子どもたちがさっきの大きな石に座って授業を受けていた。」

隣国でも珍しくない光景かもしれないが、これが私のブルンジの学校教育を理解するうえでの軸となっている気がする。国が内戦状態にあっても、ブルンジの人々は社会の安定を願いながら、教育への価値を失わなかった。小学校教育は6年間だが(義務教育ではない)、2005年に無償化され、現金収入のない家庭の子どもたちがいっせいに学校へ出向き、就学率は一気に上がった(2004年の56.2%から2006年には72.4%)。裸足でも穴だらけの服でも、子どもたちは学ぶ意欲とともに学校にやってくる。

しかしながら、小学校教育への需要拡大は、教室、教科書、教員等の供給側の事情を一層厳しくした。田舎の小学校に行くと、一クラスに120人、その半分は2人がけの机に5人で座り一冊の教科書を共有、のこり半分の児童は机がなく立っているという光景も珍しくない。また、教育のアクセス(「量」)が改善されても、「質」が大きな課題となっている。教育の質の指標である留年率と中途退学率を見てみると、2005年から2007年にかけて、留年率が29.1%から36.5%、中途退学率が4.9%から8.9%と上がる一方である。

3.UNICEFブルンジ事務所、教育セクションの活動

UNICEFブルンジ事務所には現在約20名のインターナショナル・スタッフと50名のナショナル・スタッフが勤務している。私が属する教育セクションにはブルンジ(3名)、カメルーン(2名)、マリ、ベニン出身のスタッフがおり、上記の背景のもと、以下の4分野において教育省とともに活動している。

  1. Policy Support for Basic Education: 教育政策(教育セクター計画)の策定
  2. Access and Equity to Basic Education:基礎教育の量的拡大と教育機会の公平を目指した、小学校教室建築、机・椅子・基礎的な文具等の供給、新学期(9月)のBack-to-school campaign
  3. Early Childhood Development:小学校前教育の普及(ブルンジで幼稚園に通う子どもは現在1.7%に限られている)、幼稚園教員の育成、親を対象とした啓発活動
  4. Quality Basic Education:教員育成マニュアルの開発、教育方法の改善、現職教員のキャパシティー・ビルディング、学校運営管理能力の向上、教育評価方法の向上

2つ目の柱であるAccess and Equity to Basic Educationのなかには、帰還民の子どもたちへの教育支援が含まれている。帰還民とは12年間にわたる内戦のためタンザニアを主とする隣国へ逃れたブルンジ難民・非法移住者を指し、2002年以降約44万人がブルンジに戻っている。去年暮れにタンザニア政府がすべてのブルンジ難民キャンプを2008年中に閉鎖すると表明し、2008年に入ってから約7万人がすでに帰還、おそらくあと8万人が戻ってくるといわれている。ここでは、教育機会への公正なアクセスという観点からUNICEFが教育省と協力している帰還民の子どもたちを対象とした教育支援に注目して、その活動内容、他機関との調整、課題と展望について述べたい。

4.帰還民への教育支援

ブルンジの内戦は、特に1972年と1993年に多くの難民を出した。1972年にタンザニアに渡った人々は、現在Old Settlementsと呼ばれる3つの居住地で地元の農業生産に貢献しながら生活を営んでおり、1993年にタンザニアに渡りUNHCRをはじめとする国際社会の支援のもと難民キャンプで生活する人々と区別されている。前者の8割はタンザニアで生まれたブルンジ人で、子どもたちはタンザニアの学校でスワヒリ語と英語で勉強してきた。2007年暮れのタンザニア政府の難民キャンプ閉鎖の決断は、1972年の難民たちに、タンザニアに帰化しタンザニア国民になるか、ブルンジに戻るかという2つの選択肢を与えることになった。約2割、4万5千人の人々が母国に戻る、或いは初めて母国の地を踏むことを希望し、この中には1万3千人の小中学生と、数千人の学校に行っていない子どもたちが含まれていた。

帰還民への教育支援体制が出来上がるまで

今年初め、UNICEFの教育セクションと緊急プログラムセクションは教育省、NGO、他国連機関と数回の議論の場を設けた。1993年難民キャンプと1972年Old Settlementsより2008年に帰還予定の計5万人強の学齢期の子どもたちにどのように教育機会を保障できるかを検討し、アプローチを定め、誰が何をできるかといった行動計画と予算を策定するためだ。またこれまで部分的・個々に存在していた帰還民への教育介入をより体系だった枠組みのなかで捉える目的もあった。帰還民のIntegration(社会統合)を促進するというブルンジ政府の方針に沿って、帰還民の子ども達をブルンジの教育システムの中に(再)統合するための行動計画が練られた。

まず教育を受ける「場所」を一時的にでも増大する必要がある。すでに小学校一教室の平均児童数は86人、この先10年、毎年1500の新しい教室が必要とされているなか、帰還民の子どもたちの入学・転入は供給側にさらなる負担となる。また帰還民の中には教員が数百人含まれているとの情報があるが、彼らの免許切り替えの手続きはどうするか。さらに、言語の問題がある。タンザニアの教育制度のもと学んできたOld Settlementsの子どもたちは、ブルンジの小中学校で使われるキルンディ語とフランス語の壁にぶつかる。親は子どもを学校に送るだろうか、校長は受け入れるであろうか、学校に行っても留年・中途退学が続くのではなかろうか等の懸念事項が挙げられた。「いつ、何人の難民が、どの州に帰還するか?学齢期の子どもは何人いるか?」という情報が不十分なことが、具体的な行動計画策定を難しくした。UNHCRブルンジ事務所およびタンザニア事務所、UNICEFタンザニア事務所の協力を得て可能な限りのデータを収集した。

活動内容

教育支援活動計画の骨組みが出来上がったのは5月末だった。既にブルンジ政府と複数援助機関の間で、帰還民の生活再建への支援の枠組みは存在し機能していたが、教育分野に特化された支援の必要性が共有されたのはこの頃だった。テンポラリーな教室建設には主にEUや2国間援助機関が資金援助、教育省の州事務所がコミュニティ参加を得て実施; 基本的な文具の配布はこれまで通り供給はUNICEF、配布は難民が国境を渡って最初に通過するトランジット・センターで活動しているUNHCR、GTZ、Croix Rouge(Red Cross)を通じて続行; タンザニアで小学校に行かなかった9-14歳の子どもには国際NGOが「キャッチアップ(追いつき)・プログラム」を実施; 特別なカウンセリングが必要な場合のPsychosocial(心理社会的)支援は現地NGOが実施; 言語の障害があるOld Settlementsからの帰還民の子どもには、UNICEFと教育省がフランス語とキルンディ語、そしてライフスキルの7週間集中プログラムを試行的に実施; 中学生の転校手続きならびに教員の免許に関しては教育省内に設置された委員会と教育省の各州事務所が行うという体制で現在活動が実施されている。

活動例:言語およびライフスキル集中プログラム

タンザニアの学校に通っていた小学校中学年以上の子どもに対しては、フランス語とキルンディ語そしてライフスキルの7週間集中プログラムが夏休みの時期を利用して試行的に実施された。Old Settlementsからの帰還民の9割が集中している2州において、約1,000人の子ども達が教育省州事務所によって登録され、同2州から選ばれ集中研修を受けた計40名の教員が指導にあたった。UNICEFが全面的にサポートし、食糧はWFPが提供した。キルンディ語は家庭内で話されていたため読み書きの強化で済んだが、フランス語は初めて触れる言語で、7週間で習得できることは限られており、プログラム受益者の特に高学年の子どもたちからは、「新学期から学校に行けるのか」という不安が多く聞かれた。また教員のなかには、「ここにいる子ども達の殆どが留年・中途退学するだろう」という悲観的な見方をするものも僅かにいたが、UNICEFは、本プログラムの目的は7週間で言語を取得することだけではないことを強調した。生まれて初めて母国の地で生活をスタートする子ども達に必要なのは、言語能力だけではない。日本でいう「生きる力」、ライフスキルが必要である。このライフスキル(ブルンジでは市民教育と呼ばれる)の授業では、難民の権利、教育を受ける権利、他文化理解等のテーマに触れ、帰還民の子ども達が少しでも心の準備ができるクッション的な環境を提供し、ブルンジの学校への移行をファシリテートした。 http://www.unicef.org/infobycountry/burundi_45682.html

活動例におけるチャレンジ

この言語およびライフスキル集中プログラムを通して、いくつかの壁にあたった。まず受益者の登録がスムーズにいかないこと。これは帰還民の家族が、UNHCRの情報に含まれている第一転居地から別の場所に移動してしまうからである。特に1972年にブルンジを離れた帰還民は所有していた土地が他者に占拠されていることが多く、定住先が不安定である。またフィールド(現場)に行かないと見えてこないことが多くあることを改めて痛感した。例えば朝晩の気温差が大きいマカンバ州では、毎朝10数名の子どもが体調の不良を訴え、中にはマラリアにかかる子どももいた。急遽教育省より保健省へ、近くの病院にてサービスを受けられるよう要請がなされたが、10数名の病気の子どもを4km離れた病院まで運ぶためのミニトラックのガソリン代が予算に含まれていない。また子どもが寝泊りしている中学校の寮で水不足が起き、衛生面で問題が出るためトイレットペーパーを支給できないかと問い合わせがくる。たかがトイレットペーパー・・・でも三社見積もりは必要である。本プログラムのように緊急対応として短期間で計画・実施される場合でも、セキュリティの許す範囲でフィールドに出向いて受益者の声を聞きながら柔軟に対応していくことが必要だと再認識した。

5.所感

上記の活動に限ったことではないが、緊急対応においては日ごろの準備、連携、柔軟性が活動の成功と持続性の鍵を握っていると考えられる。教育省の2008年の予算には、帰還民の教育支援活動が含まれていなかった。援助機関にしても2007年に来年度予算を具体化する段階で、2008年に戻ってくる難民の数は明らかではなかった。しかし緊急事態を予測して、即対応できる準備をしておくことは可能である。例えば緊急対応できるNGOと事前にMemorandum of Understanding(合意書)を結んでおけば、いざ緊急対応せねばならないとき通常の契約に必要なプロセスを短縮できる。データ収集では複数の機関と迅速にコミュニケーションをとらねばならないが、日ごろからのネットワークがあればよりスムーズに進む(今回、国連の日本人職員間の繋がりのお陰でスピードアップすることができ、ありがたく感じた)。また、UNICEF等緊急支援のための予算をアピールし確保するチャンネルを持っている組織が資金援助をする場合でも、政府(この場合教育省)のオウナーシップのもとで活動を進めていくことが大切である。

ここで述べた集中プログラムに参加した子どもたちは9月の新学期に小中学校に進んだことが確認されているが、この試行的プログラムに参加したのはOld Settlementsからの帰還民の子どもの一割以下である。試行的プログラムの評価と第2弾の計画を兼ねた会合が教育省、州知事事務所、UNICEFとNGOの間で来週予定されているが、依然「いつ、何人の(教育を受けていた)子どもが、どの州に帰還するか?」という情報は限られているため、計画できる範囲に限りがある。また2007年のUNHCRデータでは、すでに帰還した1972年難民の家庭の約半分は、帰還後子どもを学校に送っていないという結果が出ている。なぜ半分の家庭の子どもは学校に行かないのか?彼らをブルンジの教育システムへ(再)統合するための措置が検討されねばならない。

課題は多く残るが、紛争後の社会における教育の重要性は、ブルンジ政府の間で認識され、それに伴う行動が見られるようになってきた。土地や所有物をすべて残して母国に帰還した人々は、子どもの教育を保障することにより、自らの生活に対するオウナーシップを再確認することができる。こうした意味で、帰還民の教育支援は自助努力促進の一環である。また教育のIntegration(統合)は、社会統合に繋がる。これは学校に行く子どもたちに限られたことではなく、その家族も、学校運営や活動に参加したりすることで、地域社会に溶け込んでいくきっかけにもなる。そして帰還民への教育支援は、ブルンジの一般の子ども達へも波及効果を及ぼしうる。帰還民が多いコミュニティで教室が建設されたり、教員が特別な研修を受けることにより、教育の質の向上要素が生み出されるためだ。ブルンジの子どもが一人でも多く基礎教育を通じて「生きる力」を養えることを願い、そしてその一環に関われることをありがたく感じている。

最後に帰還民の子どもが習得したばかりのフランス語で発表した詩の一部を紹介したい。

Laisse-moi vivre? (Let me live)
Laisse-moi etudier (Let me study)
Laisse moi grandir dans mon pays? (Let me grow up in my country)

Je suis un enfant Burundais? (I am a Burundian child)
un enfant Africain? (an African child)
un enfant du monde? (a child of the world)

J’ai besoin de vivre dans mon pays? (I need to live in my country)
J’ai besoin de etudier le Kirundi et le Francais? (I need to study Kirundi and French)
J’ai besoin de grandir dans le paix ?(I need to grow up in peace)

Je suis un enfant Burundais? (I am a Burundian child)
un enfant Africain? (an African child)
un enfant du monde? (a child of the world)

(2008年11月26日掲載 担当:井筒 ウェブ掲載:柴土)

 


HOMEフィールド・エッセイ > 第25回