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原田 宗彦さん
国連事務局PKO局コソボ担当

原田宗彦(はらだむねひこ):愛知県奥三河出身。早稲田大学(社会科学)卒業後、ロンドン経済政治大学院(LSE)で国際関係論ディプロマ修了。アジア・アフリカ研究所(SOAS)、ジュネーブ高等国際問題研究所(IU HEI)それぞれで修士号を取得。LSEで国際関係論博士課程にすすむ。国際機関等でインターンやコンサルタントをした後、1999年よりJPOとして、国連訓練調査研修所(UNITAR)ジュネーブ本部に勤務。2002年より、国連東ティモール支援ミッション(UNMISET)事務総長特別副代表 特別補佐官。2004年より、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)官房長室 政務官。2006年より現在まで、国連平和維持活動局(DPKO)本部にてコソボ・デスクを担当。

Q. 国連に興味をもったきっかけと勤務するまでのいきさつを教えて下さい。

間接的なきっかけとして思い浮かぶのは、母親が熱心なカトリック信者であったことから、幼い頃に、東京四谷のイグナチオ教会へ連れていかれていたことです。日常的に外国人神父様から、エルサレム周辺を含む国際情勢や人道問題の講釈を聞いていたことが、海外の出来事を身近に感じはじめる契機でした。また、叔父らに衆議院の外務常任委員として外交問題に深く携わった者がいたり、財団法人アジア学生文化協会を設立し主宰した者がいたことも影響として大きかったと思います。

私が大学で勉強していた頃はちょうど、湾岸戦争を機に国連の役割が見直されていた時期でした。カンボジア、旧ユーゴスラビア、ソマリア、そしてルワンダなどの危機に対する国連の役割が議論され、緒方さんや明石さんなど日本人国連職員の先輩方が活躍されていたとき。自分も国連で働きたいと憧れを抱きました。国連職員になるための手引きを見ると、修士号が必要だということだったので、外国語で勉強すれば一石二鳥だと思い、大学卒業後すぐに海外の大学院に進学しました。その後、ジュネーブ安全保障政策センター(GCSP)や、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連人権高等弁務官事務所(UNHCHR)、国連ボランティア(UNV)連絡事務所などで、インターンやコンサルタントを経験しながら、97年にJPO試験を受け、99年1月からジュネーブに本部のある国連訓練調査研修所(UNITAR)で働きはじめました。

Q. 国連でのこれまでのお仕事を教えてください。

UNITARでは主に、各国外交官や国連事務局職員を対象とした予防外交に関する研修について、企画、資金調達、実施、評価などのプロジェクト・マネジメント業務を担当しました。UNITARで通算3年半、研修をアレンジする間、次第に私自身も実際に現場で経験を積まなければいけないと感じるようになります。様々な研修受講者と巡り合う中、後に国連東ティモール支援ミッション(UNMISET)の事務総長特別副代表(DSRSG)に就任することになる長谷川祐弘氏にも出会いました。

運良く2002年より1年半、彼の特別補佐官として東ティモールでの現場経験を積む機会を得ると、雑用からサブスタンスまで、あらゆる仕事をこなしました。当時、長谷川UNMISET副代表は、UNDP代表と国連の常駐代表も務められていたので、私は補佐官として、国連機関との調整、法整備支援や行政官支援、災害管理調整など、彼の仕事の全般をサポートし、あちこちの現場に足を運びました。忘れもしない2002年12月4日の暴動では、私が滞在していたホテルが焼かれ略奪に遭ったこともありました。

そうした東ティモールでの現場を経験したのち、ジュネーブのUNITARの元の仕事に戻ってくると、まるで1年半前に時が戻ってしまったように感じました。自然に、公募ポストを見てまたPKOミッションに応募するようになり、半年後には、コソボのUNMIK(国連コソボ暫定行政ミッション)の官房長室政務官として着任し2年4か月務めました。

UNMIK官房長室では、各部署から事務総長特別代表や副代表に提出されるあらゆる書類を精査するのが、私の毎日の仕事でした。特別代表の台所とも呼べる官房長室にこもり、机に山と積まれた書類をさばきます。ミッションの政策が反映されているか、関連部署と調整がとれているか、文章が適当であるか、そうでない場合は訂正をするなど、文書を精査する日々。(ネイティブ・スピーカーが必ずしも、流暢な英語を書けるとはかぎらないことを知りました。) また、NYに本部のある平和維持活動局(DPKO)との連絡調整を主管し、予算編成や採用など管理調整業務も担当しました。

2年近くが経ち異動を考えているときに、本部の臨時空席ポストに応募し、筆記テストとフランス語のインタビューを受けて、昨年秋にDPKO本部に異動しました。本部との連絡調整で面識があったことが功を奏したのかもしれません。最初はハイチを担当する予定でしたが、コソボ・チームが手薄になり、すぐにコソボ・デスクを担当することになりました。

 


Q. 今なさっている仕事はどのようなことですか。また、今後はどのようにキャリア・アップされていきたいと考えてらっしゃいますか。

コソボ・デスク・チームは、本部からUNMIKに対して政策の助言や様々なサポートを行っています。現在、コソボの地位協定がNYの安保理で協議されているため、新たな動向があれば、随時DPKOの幹部や、現場のUNMIK、そしてウィーンに所在するアティサリ国連特使事務所にも報告し、必要な連携をはかります。また、UNMIKの人事政策の立案にも携わっています。平和維持活動(PKO)ミッションはどこも空席率が問題になっていますが、UNMIKも同様です。その上UNMIKでは、コソボの将来の地位が決まり、ミッション自体が必要なくなると予測する傾向にあったので、将来の不安を抱え、他のミッションに移ってしまう職員が急増しました。

しかしUNMIKは、他のミッションとは異なり、コソボの暫定行政を委任されている、いわゆる「政府」であるので、コソボの将来の地位が決まった場合には、コソボ政府とEUへの権限移譲の最後の日まで職員が必要です。そこで人事政策として、残留のための総合政策(retention package)をつくり、職員が最後まで任期を終了し、国連システムに残らない場合には、現行のスタッフ・ルール内で金銭的な報償を与えることにしたり、他のミッションでの雇用機会の仮保障を与えたりするなどのインセンティブをつくりました。最近は効果が出てきたのか、職員の空席率も下がりました。

私が本部で働くようになり半年ほどたちましたが、2年くらいはいて、本部の仕事をこなせるようになりたい、組織のメカニズムを学びたいと思っています。本部では、特に安全保障の分野において、国連の主役は加盟国、特に安保理メンバーであると痛感しています。我々「政務官」は、現場の状況を加盟国に伝えたり、安保理の動きを現場に伝え、幹部または事務総長に事務局としてとるべき方向を提言するというもの。あくまで政策を決定するのは、安保理メンバーなのです。本部ではそうした政治の世界の現実を目の当たりにしているので、今後は国連が実行力をもてる開発や人道支援の分野にキャリアを広げていくことや、もしくは、日本側から国連をサポートする仕事も視野に入れていきたいと考えています。

Q. 国連で働く魅力はなんでしょうか。また、これまで一番思い出に残っていることは何ですか。

様々に異なる国籍や宗教・文化を持つ人と一緒に働くことで、いろいろなことを学べるのが魅力です。異なるからこそ、学ぶことも多いのです。

国連を目指して、初めてジュネーブに着いたときに、独り教会に立ち寄ったことがありました。すると神父さんが、「この教会にはサダコ・オガタも所属している、きっとあなたを守ってくれますよ」と話してくれ、たいへん感動したのを覚えています。実際には、緒方先生には教会で直接お会いしたことはないのですが(私は真面目ではなかったものですから…)、とても印象に残っています。

また、一番思い出として心に残っているのは、東ティモールでの仕事です。私にとって、初めての現場経験で、初めてのPKOミッション。無我夢中で働きました。同僚とのチーム・ワークもよかった。一方で、暴動も経験しました。東ティモールという国に対する特別な感情は、今でもあります。一日も早く平和になってほしいと願います。


Q. 国連に入って一番たいへんだったことは何ですか。

UNMIKで官房長が不在だった約5か月間、冗談にも私が官房長を代行をしなくてはならない羽目になりました。そういうときに限って、ルイス・フレシェット副事務総長(当時)がコソボに視察に来るというのです。たいへんなプレッシャーを感じながら慎重に準備をしました。しかし、副事務総長の宿泊先について、ロジ担当者から勧められたホテルを手配すると、当日、水の出ない朝がありました。副事務総長から特別代表に「朝、シャワーを浴びられなかった」と苦言が渡り、イェセン・ピーターセン特別代表から私に何故あのホテルを手配したのかと質され、冷や汗をかいたことがありました。

そのほか、また官房長が不在のときに特別代表が交代することがあり、新任代表用に着任プログラムをつくり、各部署からの概況説明や要人との会談などのスケジュールを組みました。神経を使う責任の重い仕事でした。

Q. 東ティモールとコソボの2つのミッションを経験されていますが、どのような違いや共通点を感じられましたか。

コソボのUNMIKには各国政府からの出向者が多く、ミッション内に各国間の政治的軋轢がありました。出向者が多いと、忠誠心は国連ではなく自国政府にそれぞれ向かうため、必ずしも組織としてうまく機能しないことがあります。それに比べ東ティモールのUNMISETでは、出向者が少ないぶん政治性はそれほどなく、チーム・ワークも良かったように感じます。また、本部に対する態度が異なり、東ティモールのUNMISETは本部を仰ぎながらコミュニケーションを緊密にとる一方、コソボのUNMIKはやや唯我独尊的な政治文化であったのが対象的でした。

東ティモールとコソボの一番大きな違いは、東ティモールは「統合ミッション」ですが、コソボは「ハイブリッド統合ミッション」−つまり、EUのOSCEが副代表としてミッションの一部を形成していることです。また、国連コソボ・チームはPKOミッションから少し距離を置いています。EUと国連とのハイブリッド統合ミッションの試みには美点も欠点もあり、今後その是非について再検証される必要があると思います。

Q. 平和維持活動の分野で日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。

コソボの地位協定の例を見ても、安全保障の分野では最終的に政策決定を下すのは加盟国の政治レベルの話となり、国連の事務方レベルではどうしようもできないことがある。そのようなとき、日本が安保理に入っていれば違うのにと、やはり思ってしまいます。"Working together" ということは、責任を共有して政策過程に参加するということ。国連の平和維持活動には、かなりの日本国民の税金が流れているのにもかかわらず、現状は、その政策決定過程には口を出せず、請求書だけを受け取り支払っています。これは、普通に見てもおかしいと思う。常任理事国の拒否権は大変な特権で、国連の芯である部分が、実は一番民主的でなく現在の国際政治経済勢力を反映していません。是非とも、安保理の政策過程に常に日本も参画できるようになってほしいと思います。

また、私だけでなく平和維持活動局にいれば皆さん感じることだと思いますが、もっとこの分野で日本の警察庁や防衛省の方々と一緒に働けたらと願います。平和維持活動部隊への防衛や警察分野での日本の貢献度が上がれば、自然に国連でもミッションの政策に参画する日本人政務官が必要になる。平和維持活動局にも日本人の方々が数名いらっしゃいますが(DPKO本部で、米国44人、EU諸国77人に対し、日本人は8人)、政策立案に携わる人材は、ほとんど見受けられないようです。日本も各国に並んで自衛官や警官が平和維持活動に貢献をし、存在感を高める必要がある。今の日本は、「お金を拠出しているのだから日本人を雇ってくれ」というアプローチだけれども、平和維持活動部隊への貢献を増やし、国連のほうから日本人を探しにくるような状況になってほしいです。

Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている人に贈る言葉をお願いします。

私自身、帰国子女でもなく日本で生まれ育ってきたのですが、一般的に日本人は正攻法で国連を目指す人が多い。お決まりのコースに申し込むだけでなく、遠慮せずに積極的に人との関係をつくって、メールで履歴書を送ったり、ミッションに申し込んだり、フィールドを直接訪れたりすれば、そこから道が開ける可能性もある。失うものは何もないのですから、アイディアを使って果敢に挑戦してみるといいと思います。そうすればどこかで必ず目に留めてくれる人や、引き上げてくれる人が出てくる。各国の国連職員の中には、現場で活躍し、早いスピードで昇進して、部長クラスで本部に乗り込んでくる人もいらっしゃいます。国連で働きたいのならば、日本人もぜひ、さまざまな経路から挑戦していくといいと思います。言うのは簡単なのですけどね…。

(2007年5月18日、聞き手:藤澤有希子、外務省在スーダン大使館政務班専門調査員、幹事会。写真・編集:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)

2007年7月23日掲載

 


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