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平林 国彦さん
国連児童基金 東京事務所副代表

平林国彦(ひらばやしくにひこ):1994年筑波大学で医学博士号取得。1994年から1998年まで国立国際医療センターに勤務後、インドネシア、キルギスなどでJICA専門家として勤務。2001年にWHO短期コンサルタントとしてベトナムに勤務。2003年から2006年8月までユニセフ・アフガニスタン事務所に勤務、2006年8月から9月までレバノン事務所の保健栄養部・臨時チーフ。2006年9月からユニセフ東京事務所、シニアプログラムオフィサーに就任。

Q. 平林さんは心臓外科医でもありますね。まず、なぜ医師を目指されたのか経緯を教えてください。

医師を目指した理由は二つありました。ひとつは「価値ある仕事をしたい」ということです。研究者になるか医者になるか迷った時期もありましたが、直接的に人を助けられるというのが大きい理由で医者を選びました。もうひとつの理由は「自分で自分を治せるようになりたい」ということでした。医者というのは究極の専門職で、ある意味、人を合法的に傷つけることができてしまいます。わたしは、自分で自分自身の手術ができる位の一流の外科医になりたいと思いました。そして、外科医のなかでももっとも難しい分野に取り組もうと思ったのです。わたしは脳外科と心臓外科から誘いを受けていて、たいへん熱心だった脳外科を選んで書類を提出したのですが、先輩が脳外科につけた丸印を消して心臓外科に変えてしまって、気がついたら心臓外科になっていました (笑)。

でも心臓外科に入ってとても良かったと思っています。心臓というのは非常に単純な組織で、筋肉でできたポンプです。生きている間は動いている。非常にシンプルな物理の原理で動いている臓器です。わたしは6年間病院で働いて、スタッフをまとめるチーフレジデントになりました。その後、大学院に行って人工臓器の勉強をしました。主たる専門は子どもの先天性心疾患でした。複雑な心臓障害にたいして、いまは移植という技術がありますが、当時はその手段がなかったので、非常に複雑な手術をしなければなりませんでした。

しかし、その手術が成功すると、子どもはあっという間に良くなるのです。術後3日目には歩いているくらいです。そして、社会貢献ができるようになる。先天的に心臓に異常のある病気は100人にひとりと言われていて、そんなに珍しいものではありません。比較的軽症で異常はあってもそのままなんの治療も必要としないものもありますが、非常に重症で生まれてすぐ命に関わる状態におちいるものもあり、そのような疾患では、非常に専門性が高い手術が必要である上に、成功するためにはチームプレイも必要とされます。命を救うという目標に向かって、みんなが一丸となって結果を出す。そして結果は1か0でものすごくはっきりしている。0になった時は間違いなく手術は失敗です。そのかわり、成功すれば子どもはあっという間に良くなる。そういうところが魅力的で10年間ほどこの仕事をしていました。

Q. いつ頃から、なぜ国連に興味を持たれたのですか?

心臓外科医の仕事を始め10年ほど経った頃、その後の人生の方向性について悩む時期がありました。まず、思ったことは、心臓手術はスーパードクターが行うべきだということでした。もし、わたしが手術して95%の成功率で、ほかに99%の成功率の医者がいれば、迷わず後者に手術してもらうべきであり、そこはプロフェッショナルとして妥協すべきでないと思いました。自分自身はベターではあったかもしれないけれど、ベストではないと思っていたのです。

そこに人生の転機が訪れました。1994年1月のニューヨークタイムズに掲載された一枚の写真が私の人生を変えたのです。それは当時、内戦と飢饉に見舞われていたスーダンで小さな女の子が禿鷹に狙われているように見える写真でした。これは世界から大きな反響を呼び、ピューリッツァ賞も受賞したこのカメラマンは3か月後に自殺してしまいました。わたしはこの写真を見て、必ずしも自分は心臓外科医である必要はないと思いました。できれば、こういう子どもを助ける仕事がしたいと思ったのです。そしてある夜、布団を敷きながら妻にその話をしたところ、「あなたが正しいと思うなら、その道に進んでみたら」と言われ、よし、やってみるかということになったのです。

実はその頃、博士論文を提出済みで、指導教授からは4月からも大学に残れと言ってもらっていました。さっそく翌日、教授に相談しに行ったところ、その教授も、「それはとてもいいね」、とまたあっさりと理解を示してくれたのです。そして途上国での仕事をどうやって探したらいいのかまったく見当もついていなかったわたしのために、国際医療センターで働いている同級生にその場で電話をかけてくれました。そしてその2日後に面接を受けることになりました。

面接では「途上国では心臓外科の技術は役に立たないのではないか。何ができると思うのか」と聞かれ、「窓拭きならばできます」と答えたら、「その答えが気に入った。明日から来なさい」と言われました。そして、一日目には本当に窓拭きをやらされました。嘘のような本当の話です。自分を試されたのだろうと思いますが。海外で学んだことも、国連で働こうと思ったこともなかった自分でしたが、とにかく、このようにして国連への道が開けたのです。

Q. どのようにしてキャリアを築かれたのですか?

まず、最初にボリビアの子ども病院で働くことになりました。英語があまり通じない国だと聞いてはいましたが、何とかなるだろうと思って行ったら、見事に誰も英語を話せませんでした。わたしはスペイン語はまったくできなかったのですが、病院で使う用語はほとんど専門用語なので実はあまり難しくありません。そして、病院では基本的に現在進行形しか使いません。笑い話になりますが、病院でスペイン語を使いこなしている自分は天才なのではないかと思ったこともあります。しかし、一歩、病院の外に出ると、過去や未来の話がまったくできないためにコミュニケーションを取れない自分に気付いてとても驚きました。

この病院で学んだことは他にもたくさんあります。まず、何かを教えに行こうとすると、その3倍のことを逆に教えられるということです。自分が持っているものはもちろん貢献できましたが、そのインパクトは決してい大きくないといことも悟りました。教えることより、逆に何かが学べるということが面白くて、その頃から自分の専門性にこだわらす、さまざまな分野で働いていました。例えば、勤務していたのも心臓外科ではなく新生児室でした。心臓の悪い子どもはそれまで数多く診てきましたが、心臓の悪くない未熟児のことはよく知りませんでした。それでも自分が夜勤の際には何かしないといけません。しかも、大抵の患者は「遅すぎる」状態で病院に担ぎ込まれてきます。そして病院にアクセスできる患者の数も「少なすぎる」のです。一人の命を助けるのは本当にたいへんなことだとつくづく実感しました。

次に、病院から出てコミュニティに入るべく、JICAの仕事でインドネシアに2年間赴任しました。そこでは保健センターと地域のコミュニティを繋ぐ仕事をしていました。地域のネットワークは非常に大事ですし、病院や保健センターも大事です。しかし、地方では予算がおりて来ず、人材も不足しているため、やりたいことができませんでした。もっとマクロなレベルで政策を変える仕事をしないと効果が上がらないと痛感させられました。

そして、次に、主に中央アジアの国々の中央政府にたいして保健政策のアドバイスをする仕事を得ました。特にウズベキスタンの保健省は非常に人数が少なく、そのような小さな中央政府でも、効率的に仕事をすれば、さまざまな政策が実行可能であることも学びました。やりがいがありましたし、ある程度の手ごたえもありましたが、今度は、いくら政策を変えてもそれが地域レベルで実現されなければ意味がないということに気付かされました。やはり政策から現場まですべてのレベルに関わらなければならないという問題意識を持つようになりました。

ちょうどその頃、政策にも関わり、地方政府とも仕事をし、地域コミュニティともコンタクトがあるユニセフはいい組織だなと思っていました。しかし、当時は求人募集もあまり目にしなかったせいか、入りづらいイメージがあり、自分がユニセフで働くということは考えていませんでした。たまたまUNDPのミッションが来日した際にHIV/エイズに関わる仕事の求人募集をおこなっていたので応募してみたら、当のUNDPからは梨のつぶてであったにも関わらず、なぜかある日ユニセフから連絡がありました。来日中のユニセフ・アフガニスタン事務所の所長が自分の履歴書に興味を持っていて会いたがっているというので、面接に行きました。JICAの仕事で以前、アフガニスタンの保健戦略に関わっていたことがあったので、それで興味を持ってくれたのかもしれません。当時、アフガニスタンはタリバン政権崩壊直後で、保健省に出向して仕事をしてくれる人を探しているということだったので、すぐにその話を受けることにしました。

アフガニスタン保健省では、世界銀行から120億から130億円の資金援助を得て、開発の遅れている地域に保健サービスを拡充するという仕事を割り当てられました。若くてやる気のある保健省員と一緒にプロジェクトに関わり、非常に面白かったですね。アフガニスタンは治安が良くないなどいろいろな障害はありましたが、20年以上に及ぶ内戦の後にやっと始まった国づくりに携わることができたため、自分で煉瓦を積んでいるという実感があり、とてもやりがいを感じました。そして、そのプロジェクト終了後もユニセフの保健栄養部長の職を得てアフガニスタンで引き続き仕事を続けました。

Q. 今なさっているお仕事は?

日本政府や国会議員などの政策決定者に対して、子どもたちが希望を持って生きられるような世界が実現できるように、さまざまな政策提言をしています。今、自分自身に対して掲げている課題は、日本の支援をアフリカの、特に子どもの死亡率が高く、平和の定着が必要な国々に重点を移すというものです。それも結果の出る支援ですね。結果というのは、わたしは個人的に、予防接種を受けた人の数ではなく、何人の命を救うことができたかではかるべきだと考えています。また、政策提言は、事実と結果さえ揃えばうまくいくかというと決してそうではありません。いかに組織として信頼されるか、やはり信頼関係がモノを言う世界です。本当の意味でのパートナーシップを構築することの重要性をひしひしと感じています。

Q. 実際に入ってみてからユニセフに対する印象は変わりましたか?

ユニセフには長所がたくさんあると思います。まず、先ほど申し上げたように、さまざまなレイヤー、レベルで仕事ができるということ。そして、次に、子どもという一点について、相手が誰であろうと同じことが言えるということですね。相手がドナーであろうと、保健省員であろうと、母親であろうと、宗教関係者であろうと、子どもを助けなければならないという共通の言葉で話せるということです。また、ひとつの地域に長く介入できるというのもユニセフの長所です。緊急支援でも、開発途上国でも、先進国でも、ユニセフの仕事は存在します。長くいるということはその組織の説明責任にも繋がると思います。

ただし、これはユニセフに限ったことではありませんが、国連には課題も存在すると思っています。わたしは2006年の夏、紛争中のレバノンに赴任したのですが、国連は治安上の制約があって、本当に援助を必要としているところに行けませんでした。だからこそ、国連は自分たちの限界を知って、国連以外のさまざまなアクターとの連携を図るべきです。市民社会を中心に据えて、ひとつの問題に一丸となって取り組む、それこそ”Delivery as One”の精神を持つ必要があると思います。

Q. 国連に対して日本ができる貢献についてはどうお考えですか?

日本的な価値観や資質といったものは国際社会でとても必要とされていると思います。国連に入るからといって、欧米的な価値観を持たなくてはならない、といことではないと思います。逆に、日本人のわたしがいることで自分のチームから感謝されることが多くありました。具体的には、例えば、相手の立場を考えて行動するといったようなことですね。それから時間を守るというようなことも含めて、仕事に対して真面目に取り組むという姿勢。このようなことは日本人ならばかなり普通に持っている価値観だと思います。普段持っているものを普段通りに出せば、日本人で良かったと感じることは多々あると思います。

しかし、一方、日本人の共通の弱みとして論理構築が不得意ということが挙げられます。このような弱みに対する取り組み方としては、その弱みを学習や能力向上で克服するか、あるいはその分野に強みのある他者と一緒に、チームとして機能することで補完していくか、の二択があると思います。わたしは、思えば常に後者ではなかったかと思います。そしてそのような国際社会への貢献の仕方もあり得ると思っています。もちろん、日本が目指すべきは、相手とともに考え、相手の立場にたって、相手のためになる協力を第一に考えるスタイルを持ちつつ、グローバルな視野を持って、リーダーシップを発揮できる人材を育てていくべきと思います。

Q. グローバルイシューに取り組む若者に、キャリア形成などについてアドバイスがあれば教えてください。

若いときに苦労するのはいいことだと思います。むしろ、若いときにしかできないことをやるべきだと思います。成功を社会的成功と考えるか、自分のプロフェッショナルゴールの達成と考えるかによって意見は異なるとは思いますが、わたしはどんな選択をしても人生に失敗はないと思っています。少なくとも肩書きにはとらわれることはありませんでしたね。

大事なのは自分のプロフェッショナルゴールを確立させることであって、国連で働くということはゴールではありません。ひとつの目的のためであればどんな組織にいてもいいと思います。キャリアの過程によっても、所属すべき組織は違っていいと思います。選択肢を持つということはとても重要です。日本のことに専念するのもいい。アメリカに行って世界の頂点に立つというのもいい。ただし、それになれなかったからといって落胆する必要はありません。時と場合によって、選択肢の目標を変えてもいいと思います。道は一本ではありません。むしろ寄り道をすべきです。ただし、自分のプロフェッショナルゴールは常に持っておいてほしいと思います。

(2007年5月24日、聞き手:林神奈、コロンビア大学国際公共政策大学院、公衆衛生大学院。幹事会事務局担当。写真:森口水翔、フリージャーナリスト。国連職員NOW!サポーター。)

2007年7月30日掲載

 


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