第159回 水田愼一さん 国連ソマリア支援ミッション官房長室統合分析チーム長代行

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プロフィール

水田愼一(みずた・しんいち):東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、外務省入省。北米第一課を経て、米国ニューヨーク大学大学院にて政治学修士号取得。帰国後、同省東欧課、南東アジア第二課でコソボ、東ティモールの紛争解決や復興支援に従事。大臣官房総務課を経て外務省退職。同年、株式会社三菱総合研究所に入社し、平和構築をはじめとする外交・経済協力政策、通商政策の調査研究・コンサルティングに従事。同社在籍中、東京大学総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程修了(博士(国際貢献))。2011年同社退職。同年、国連アフガニスタン支援ミッションの空席公募に合格し、統合分析政策ユニット情報分析官に就任。国連リベリア・ミッションを経て、2014年11月より現職。

Q. 途上国の平和構築分野に関心を持ったきっかけは何ですか。

実は、外交官試験に受かるまで海外旅行にすら行ったことがありませんでした。特に親戚に外交官や国連職員がいたというわけでもありません。おそらく影響を受けたのは、小学生の頃に読んだ「永訣(えいけつ)の朝」という宮沢賢治の詩です。この詩は賢治が生涯病弱だった妹とし子の死にゆく姿を詠ったものですが、その中でとし子の言葉として「今度は自分のことばかりで苦しまないように生まれてきたい」という思いが詠われています。この詩を読んで、自分は不自由なく五体満足に生まれてきたのだから「人のためになることがしたい」という気持ちを持つようになりました。

高校時代は、国際政治の激動の時代でした。ベルリンの壁が崩壊して、冷戦終結が宣言されて。そこで国際関係に興味を持つようになり、「世界」と関わるということと、幼少の頃から抱いていた「人のためになる」ということが結び付いたんですね。そこで世界を見ると、大きく2つの問題がありました。1つは「貧困」の問題、もう1つは「戦争と平和」の問題。

貧困という問題を考えたとき、どう考えてもこの世界から格差がなくなるとは思えず、着地点が私にはよく見えませんでした。他方、仮に経済格差があっても他の部分で満たされることがありますが、それも生命あってのこと。戦争と平和の問題とは人間の幸福を実現する上で最も重要なのではないか、戦争がなくなれば平和の基本が築かれるのではないか、と考えました。そこで、理系から文系へと進路を変更し、大学入学後は世界を視野に入れて働くため、留学もできる外交官を目指すことにしました。

Q. 外務省・民間シンクタンク・国連と、それぞれ異なる立場で感じたことをお聞かせ下さい。

○外務省

外務省では、最初北米第一課というアメリカ合衆国との政治関係を主に扱う課に配属され様々なことを学びました。その後ニューヨーク大学に留学。政治学を専攻し、紛争関係を中心に勉強しました。日本の外交官として関わっていく紛争問題はやはり北朝鮮問題であろうと考え、修士論文では北朝鮮について書きました。大学院修了後は本省に戻り、東欧課に配属されました。コソボの空爆が終わりかけている時で、地域課の観点からコソボの戦後復興に日本としてどう関与するか、というところから紛争問題にリアルに関わり始めました。

その後、南東アジア第二課に配属され東ティモールを担当することになったちょうどその頃、東ティモール紛争が勃発しました。自分が配属されたのが1999年8月31日。その前日にまさに独立の是非を問う住民投票が行われたのです。そして東ティモールで投票結果が発表された後、独立反対派が暴動を起こし紛争状態に。安保理決議が出され、オーストラリア軍派遣、国連平和ミッション設立決定という一連の過程を本省で担当することになりました。実際に紛争後数か月たった東ティモールに足を運んだり、現地で2か月間日本政府事務所長としてPKO(国連維持活動)ミッションや現地暫定政府とのやりとりを行ったりしていました。そうしているうちに、こういった仕事にやりがいを覚えるようになりました。

外務省での仕事は、外交の現場に携わることができ非常に楽しいものでした。しかし、当時外務省がスキャンダルで世間の注目を集めていた時期で、大臣官房総務課不祥事調査チームに配属になり、外務省の不祥事の調査に関わることになりました。私けっこう不祥事の調査の才能があったみたいで(笑)、どんどん不祥事案件が出てくるのですが、若手ががんばっても上が身内をかばったりする。十分な自浄作用や責任能力が欠如している状況を目の当たりにし、一度官僚組織を出て、違う組織で働いてみる必要があると切実に感じました。そこで外務省を辞めることを決意しました。

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○民間シンクタンク

もともとシンクタンクには大学時代から興味がありました。正しい政策判断には正しい情報が重要であるという思いがありましたし、物事を調査したりすることがもともと好きでしたので。ただ、不祥事問題でお金のルーズさで嫌な思いをしましたし、公務員は生産性を考慮せず長時間労働を強いられ、自分が何のために働いているのかわからなくなることもあったので、きちんと働いた分だけ稼ぐことがより明確な営利の企業にいきたいな、と考えていました。営利企業で政策的に近い、というと必然的に選択肢があまりなくて。その時タイミングよく三菱総研が海外関連の中途採用を募集していて採用していただきました。
 
政策シンクタンクといっても、やはり営利企業という意味では、国際貿易や知財など専門や紛争と関係のない業務も沢山しました。しかし、ある程度働いてプロジェクト・マネジャーになると、仕事を選べるようになるのでアンゴラやアフガニスタン、スーダンの調査など、外務省やJICA(国際協力機構)をクライアントとして紛争問題に関連した委託調査などを行いました。また、対外発信という分野があって、外交分野で積極的にメディアに寄稿したり、講演を行ったりしました。

ただ、入社2年目の時にふと、「この仕事をしていると掘り下げて一つの関心を追求することはできない」と感じ、博士号取得推奨制度(学費の6割を会社が補助する制度)を利用し、社会人入試制度を通して東京大学の「人間の安全保障」プログラムに所属することになりました。「外務省を辞めて、シンクタンクで働いて、しかも大学院で勉強したいなんて、奇特な人もいるんだね」と山影進先生(当時東京大学教授)が興味を持ってくださったこともあり、このような勉学の機会を頂くことができました。紛争のことを掘り下げて勉強したいと思い、民主化と紛争の問題に光をあてて博士論文を書きました。

民間のシンクタンクで働いていたこともあり、当初は経済的なアプローチで平和構築の論文を書こうと考えたのですが、学術的な蓄積がその分野にないことと、自身が学士・修士も政治学だったことから、やはり博士そのものは政治学でいったほうがよいと考えました。他方、経済的な分野に対する関心は尽きず、また、会社に対しても堂々と大学院活動をするために、平和構築ってお金になるんですよ、ということを示そうと、「平和構築とビジネス研究会」を立ち上げました。研究会のテーマは、紛争後の国や途上国でBOP(Base of the Pyramid)と呼ばれる貧困層向けのビジネスに携わる会社や社会的責任の分野にも範囲を広げ、10回以上行いました。休日は家族と過ごしたりしていましたし、平日夜も結構遅くまで仕事をしていたので、論文執筆は出張中の乗換ラウンジで書き進めたり、隙間時間を見つけて書き溜めていく感じでしたね。

○国連

研究論文を書いていると、やはり現場に戻りたくなるんです。博士論文を書きながら現場に行きたいという気持ちを抑えていたんですが、博士号がいよいよ取れることになった頃、「現場で働きたい」という気持ちが高まり、紛争地という紛争地、様々なところにアプローチしました。しかしほとんど返事がない(笑)。唯一、アフガニスタンのミッションに申し込んだときは、3、4か月後に連絡がきて、突然3週間後のこの日のこの時間にインタビューだから、とか言われて。ちょうど出張先のムンバイのホテルからインタビューを受け、その後採用へ。こういった形でオファーされることは極めて稀なことですし、外務省の人事センターからも行ったほうがよいというアドバイスをいただいたので、悩んだ末国連に行くことに決めました。

その後、アフガニスタンで2年間働きました。その間もR&R*1で6週間に1度の頻度で出国するんですけどね。基本的にアフガニスタンのJAPU(統合分析政策ユニット)という組織は、ミッション全体の情報をすべて集約して、ミッションの活動環境に対する脅威を特定し、それについての報告をミッション・リーダーに報告します。現在、リベリアで行っているのは、収集してまとめた情報を週次で提供することです。緊急で情報提供したほうがよい場合は日次でも出しています。例えば、今はエボラ・デイリーという形で情報を出しています。

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Q. 情報収集において、言語で困ることはないですか。

現在、地域担当として、リベリアそのものよりも、シエラレオネとギニアとコートジボワールといった周辺国を見る仕事をしています。それらの国を見るには、フランス語で読んだ情報を英語で書くことになります。独学で一生懸命勉強したり、R&Rを利用してフランスの研修を受けたり、フランス人の同僚とお昼に話をしたりしながら、少しずつ上達させています。アフガニスタン時代も、現地語(ダリ語)は勉強しましたが、もう少し勉強すれば仕事の幅が広がったかもしれません。

Q. 現在のお仕事でやりがいを感じる瞬間について教えて下さい。

国連で働いてよかったなと思う瞬間は、多国籍で、多宗教の多様なバックグラウンドの人々が、同じ目標に向かって何かを紡ぎ合わせて生み出していく過程に「自分も参画できている」と感じる時です。確かに外務省は国際的な仕事を扱いますので、知的な面白さ、という意味では面白いです。ですが、そこで働いているのはすべて日本人ですし、同僚どうしで話すことは政策よりも次の人事(笑)。他方、仕事上多様な人々と一緒だと互いの異なる文化も尊重した交流ができる。そのような面白さを感じている限り、日本に戻ってきて仕事をしようとは思えないですね。

Q. 趣味(紛争地での余暇の過ごし方)は何ですか。

歴史小説やサスペンスなどの本を読むのが好きです。特に自分と同い年の伊坂幸太郎という作家の小説が好きです。最近は塩野七生の「ローマ人の物語」を読みました。また、リベリアにきてからはまり始めたのが、日本のドラマを見ること。アフガン時代も日本から日本の映画をダビングしてもってきて見たりしていました。普段仕事で英語とフランス語の活字ばかりなので、目で、耳で日本語を感じたいと思うんですね。

きっかけは、リベリアに移ったばかりの時に日本のニュースを見ていたら、半沢直樹ネタがあまりに多かったんです。もともと半沢直樹の作者の池井戸潤の本は好きだったのですが、ここまで話題になっているものを、見なければいけないと思って(笑)、1晩か2晩で一気に見てしまいました。一見しょうがないものでも、日本の最新の状況が伝わってくるのでいいものです。

Q. 紛争に向き合うお仕事はタフさが必要かと思いますが、それを支えるものは何ですか。

国連では、本部で終身雇用契約で採用されていれば、基本的に本部勤務で、現場には2年以内の期間限定で出るということもありますが、私はフィールド・ロスター*2から採用されているので、自動的に本部のポストに当てられることはありません。ただ、私は本部で働きたくて国連に入ったわけではないので、できうる限りミッションで働きたいと考えています。40歳になるまで東京を主な拠点として仕事をしてきて、溜めに溜めてきた紛争地への思いを今吐き出しているので(笑)、今さら3年程度紛争地に行ってもバーンアウトはしないです。

もちろん、最初にアフガニスタンに赴任したときは正直言って精神的に大変でした。身近で働いていた同僚が何人か亡くなることもありましたし。でも、慣れも大きいと思います。もし疲れたら大学に戻ってもよいですし、コンサルタントもあるでしょうし。創意工夫をもってすれば楽しい仕事は沢山あると考えています。

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Q. 学問的バックグラウンドをもって現場に入られましたが,現場と学問のギャップを感じますか。

現場にいないとわからないことはやはり多いです。国連は現場に「いる」ことに意義があるといいましたが、「いる」ということがどれだけ難しいことなのか。その上で、業績を挙げるのがどれだけ難しいかは、現場にいないとわからないと思います。私は学問的バックグラウンドをもって入ってきましたが、学問の世界では国連ミッションの成功・不成功を外形的・理論的に論じていますが、実際に現場で人を採用して働き続けてもらうことや、制度を支え続けることがどれだけ大変か、ということが学問上では捨象されてしまうんですね。

しかも、そこで働いている人がまともな精神状態で働くことができるようにR&Rが必要だとすると、100%の人員を確保できても、実際の稼働率は50%になります。そもそもアフガニスタンで働きにきてくれる人が少ないので、採用率は60%くらいで、その内30%しか稼働していない状態とすると、ミッションに必要な人数の3分の1で活動していると考えたほうがよいと思います。

Q. 学問が現場で役立つことはあるのでしょうか。

やはり、研究していてよかったと思います。現場にばかりいると、現場の視点でしか物を見ることができなくなるので、大きな視点がつかめなくなります。例えば、アフガニスタンの状況を見ても、非常に国際的な文脈の中で規定されています。隣国のパキスタンやイラン、さらに、アメリカ、ソ連、EU、アラブ諸国というどちらかというとマクロの学問的研究に馴染むレベルの動きが国内に影響を与えるので、戦略的なレベルで物事を考えることによって現場で何をしなければならないかをより多角的に見ることができるようになります。

中長期的にマクロ状況とマクロ要因を見ると、大体先の状況が見えてきます。そのような視点をもつように訓練されていない人は、人とコミュニケーションを取ることは得意だけれど、戦略的な視点をもつことが難しかったりする。とにかく、学問的バックグラウンドが役に立たないということはまったくないです。

Q. 尊敬する人、ロールモデルとなる方はいらっしゃいますか。

やはり緒方貞子さんを尊敬します。ご高齢になってもご活躍され、学問的なバックグラウンドをもちながらも現場にしっかり足を運ばれている。そして、今自分が従事している分野で影響を受けたのは、東ティモール時代に直接交流のあったイラクの元国連人権高等弁務官であり元国連事務総長特別代表であった故セルジオ・ヴィエラ・デ・メロですね。イラクのミッションで亡くなってしまいましたが。本当に稀な人格者でした。現場に行ってくじけそうになったときには、このような志半ばで亡くなった方々のことを想いながら「がんばらなければ」と思っています。

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Q. 国連を目指す人へのメッセージをお願いします。

国連に入るには様々なキャリアパスがあります。私の場合はひょっこり入ってしまったけれど、採用する側になって初めて、どのレベルでも国連に入るのは非常に大変だと実感しました。私の場合は、本当にフィールド経験がないのがネックでしたので、フィールド経験はあったほうがよいでしょう。ただ、国連職員になりたいからフィールド経験を積むのではなく、やりたいことをやりながらフィールド経験を積んでいくのがよいと思います。裏を返せば、私はフィールド経験がなくても国連に入ることができましたし。いつから志しても遅くないのではないでしょうか。

専門性についていえば、私自身も専門がないともいえるんです。病気が治せるわけでも、発電所を作れるわけでもない。何でも屋さんみたいなコンサルをしてきました。ただ、長い間情報分析の経験を積んでいきました。特定の分野である程度やっていればそれに見合う分野が国連には必ずあるのです。希望をもって頑張っていると、めげることも多いとは思うけれど、何とかなるかもしれない。やはり運に依るところもありますが。私も略歴だけ見ると順調にいっているように見えるかもしれないけれど、国連に入るまで落とされた数のほうが多いです。それでも、それぞれの分野で頑張ってきた人はその段階から目指せば必ず道が開けると思いますので頑張ってください。

*1:R&R (Rest&Recuperation):海外の過酷な環境の任地で働く職員に与えられる強制移動休暇制度。R&Rのサイクルは勤務地により異なり、例えば、リベリアでは6週間に1度、ソマリアでは4週間に1度取得できる。

*2: ロスタ―:ロスターとは、応募プロセスを通じてすでに適格と判断され、直ちに採用可能な候補者のプールを指す。国連が公募する具体的または一般的求人に対して応募し、筆記試験やインタビュー試験を経た結果として、国連からロスターに候補者として登録済みである旨の通知を受けている場合、近い将来、求人があれば、応募プロセスをやり直さなくても採用される可能性がある。一般に、候補者がロースターに載っている分野で特定ポストの空席情報が出された場合に候補者に直接連絡がくる。

2014年8月24日 東京にて収録
聞き手:赤堀由佳、波多野綾子
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫