第122回 伊藤千顕さん 国際移住機関(IOM)タイ事務所・移住者保健衛生事業調整官

*International Organization for Migration(国際移住機関)は国連機関ではありませんが、国連機関と密な関係をもちながら、世界的な人の移動(移住)の問題を専門に扱う国際機関です。

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プロフィール

伊藤千顕(いとう・ちあき): 東京都出身。大学で国際関係を専攻後、University of Wisconsin-Madisonで東南アジア研究修士号を取得。2007年東京大学大学院医学系研究科国際保健計画学(保健学博士)。Chulalongkorn University(タイ)、University of Washington、国際機関等での研究員・コンサルタントを経て、2007年よりJPOとして現職。将棋五段。

Q.まずIOMについて少しお話下さい。国連機関ではないですがどのような特徴がありますか?

International Organization for Migration(国際移住機関)は国連機関ではありませんが、国連機関と密な関係をもちながら、世界的な人の移動(移住)の問題を専門に扱う国際機関です。「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」 という基本理念に基づき、人の移動に関わる幅広い分野で活動を続けています。 全世界には2億1400万人の移民がいるといわれています。人の移動がますます活発化する中、また、人の移動の開発支援に及ぼす影響が注目される中、これからもIOMの貢献できる分野は増えていくのではないかと思います。

IOMは国連の傘下にない国際機関ですが、「一体となった任務遂行(Delivering as One)*1」 の理念に基づき、国連機関とも密接に連携しています。このため、仕事をする上で国連機関との差異を感じたり、意識したりすることはほとんどありません。実際、テーマ別作業部会やカントリーチームの合同会合などの国連の調整グループに正式に参加していますし、グローバルレベルでの規準策定等にも深く関与しています。

IOMの最大の特徴は現場(フィールド)主義で、世界各地に445以上の事務所があります。現場の組織力が大きいのと同時に現場への分権化も進んでいるため、多くの裁量が現場に委ねられている場合が多く、支援ニーズに対して迅速に動くことができます。実際に、スマトラ沖地震・津波被災者支援(2004年)やパキスタン地震被災者支援(2005年)などの大規模災害では、大きな成果を挙げました。ハイチで起きた大規模地震災害(2010年1月)においても、緊急支援活動を行っています。

このように現場に力をいれていることもあり、本部機能が非常に小さく、人員・予算的にも最小限に抑えられています。ジュネーブの本部に行くと、他の国際機関の狭間にIOM本部がちょこんとあるのがとても象徴的だと感じます。

また、IOMの特徴の一つとしてさらに挙げられるのは、プロジェクタイゼーション(projectization)と呼ばれる、プロジェクト(事業)の実施に基づく、組織の運営方法です。国連機関の中でも一部、このプロジェクタイゼーション方式を採用している機関はあるかと思いますが、IOMのように予算の9割以上をプロジェクトに割いている機関は他にはないと思います。基本的にプロジェクトの実施に必要不可欠な人件費や事務所経費のみで組織を運営しているため、組織の効率化や資金の流れの透明性が確保されています。一方、プロジェクトは時限的な活動ですから、プロジェクトが完了してしまうと基本的には職員を雇う資金もなくなってしまうため、雇用の不安定さや組織の中枢の能力問題が生じ得ます。また、プロジェクトにはなりにくい活動(長期的な活動、調整、政策提言)の困難さもこの方式の短所として挙げられるかと思います。

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Q. IOMで勤務することになったきっかけを教えて下さい。

小さいころから高校生ぐらいまでプロの将棋棋士を目指して将棋の勉強だけをしていました。ただ、実力が足らずプロ試験に通らなかったため、高校を卒業後、心機一転アメリカに渡りました。その後、アジアにもいろいろな将棋があることを知り、その背景にある歴史や文化を勉強するため、修士課程で東南アジア研究を専攻しました。ただ、将棋の研究だけをしても生活できませんので、卒業後は、タイのチュラロンコン大学のアジア研究所で勤務しました。

そこで約2年半、タイ人出稼ぎ労働者に関する4カ国合同プロジェクトを担当することになり、この時に初めて人の移動の分野に関わりました。当時はタイから日本への移住労働者の置かれている労働環境などが問題になっていた時期でした。プロジェクトの管理に加え、自分自身も日本のタイ人コミュニティや出稼ぎ労働者の出身地であるタイの農村地帯などに行ってフィールド調査をしたのですが、その現場で、出稼ぎ労働者が日本国内で置かれている立場や脆弱性に衝撃を受けたんです。特に健康・医療問題が深刻な問題だと痛感したため、研究所を退職して博士課程に進学し、国際保健や医療地理学を学びました。

ちょうどその頃、IOMとアジア開発銀行がタイで主催した「人の移動」に関する会議があり、日本へのタイ人出稼ぎ労働者の研究成果を発表させていただきました。会議後、主催していたIOMの職員と話す機会があって、その活動に関心を持つようになりました。その後、いま担当しているプロジェクトを知り、直接携わりたいと思うようになり、IOMに入るにはどうすればよいのかと考え始め、JPOに応募してみたら幸運にも合格したというわけです。

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Q. 今なさっている仕事はどのようなことですか。

タイ政府、特に、公衆衛生省とともに、タイへの移民(移住労働者や避難民等)のための保健・医療支援を担当しています。タイには約200万人の移民がいますが、そのほとんどは隣国のミャンマーからの人たちで、主に非熟練労働者としてタイ経済の根幹を支えています。しかし、移民の中には非正規(undocumented)に入国した人も多いため、法的立場が弱く、影を潜めて生活している実態があります。このため、健康に問題があったり、病気になっても医療機関を含む公的サービスを利用しない、できない状況に置かれています。また、正規(documented)の移民でも、言葉や文化の違い、健康・医療情報の不足、仕事を病欠する難しさなどから、病状が悪化し重篤になるまで受療行動を起こさない傾向があります。

このような背景から、移民の保健サービスへのアクセスの改善や、タイ政府の保健・医療制度の強化を目的として、Migrant Health Programというプロジェクトが2004年に立ち上がりました。当初は移民の人口が特に多い2県のみだったのですが、日本政府を含む複数のドナーからの支援をいただき、徐々に拡大し現在6県延べ約10万人の移民を対象に支援を行っています。

このプロジェクトはタイ政府が移民に対して保健・医療支援を組織的に行った最初の取り組みということもあり、いくつか画期的な活動手法が用いられています。その一つは、移民自身に対し基本的な保健・医療サービスを提供できるように研修・訓練し、コミュニティ内で予防の啓発をし、簡単な診断や処置ができるようにしていることです。一般的に健康問題の多くは予防が可能である場合が多く、たとえ病気になっても、コミュニティ内での基本的な処置で十分対応できます。この体制をつくることによって、初期段階で適切な治療を施すことが可能になり、高度・専門的な治療を必要とする患者を選別することができるため、医療制度全体に対しての金銭的・人的負担の軽減にもつながりました。また、この活動によって、移民の健康状態の改善だけでなく、移民自身や移民のコミュニティをエンパワーする効果も得られています。

プロジェクトのもう一つの特徴として、特定の疾病問題に取り組む、いわゆる垂直的アプローチではなく、特にコミュニティや県レベルのでの保健・医療制度全体の強化に力を入れていることが挙げられます。タイにおける移民への支援では、一般的にHIV/AIDSなど特定の疾病に重点が置かれてきた経緯があります。もちろん、そのようなアプローチも大切ですが、移民のような脆弱な集団においては、さまざまな健康問題が複雑に関係し混在している場合が多く、ある問題だけにうまく対応できても、必ずしも集団全体の健康状態の改善につながる結果をもたらさないこともあります。

また、特定の疾患に集中的に対応しようとしても、それを遂行できる制度自体が十分でない場合は、投下する資源に対して十分な成果を得ることが難しくなります。結局、重要であるすべての疾患に対して可能な限り包括的・総体的に取り組む制度を構築することが不可欠だということです。また、移民は主なターゲットではありますが、IOMは移民のみでなく、その家族、また周辺地域に住むタイ人も同時に支援しています。特に、感染症対策などでは、特定人口だけに対処しても感染拡大を封じ込められないためです。

このプロジェクトは多くの成果を生んだため、今後、このプロジェクトのモデルを、同じような課題を抱えている他の県や東南アジア地域内の他の国に応用できないか、新しいプロジェクトを立ち上げようとしています。

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Q. IOMまたは国連で働く魅力はなんでしょうか。また、これまで一番思い出に残った仕事は何ですか。

IOMの場合、前述したように、裨益者により近い視点で仕事ができるということは魅力的だと思います。また、国連のような機関で国連ではない、という微妙な立ち位置を生かして、政府とNGOの中間でうまく立ち回ることができることも、自分にとっても相性が良いところだと感じています。

思い出に残ったと言いますか、喜びを得たのは、プロジェクトを開始してからある程度の期間が経過した2009年の夏に大規模なワークショップを開催したときのことです。このワークショップでは、プロジェクトの成果やモデルをまとめ上げた報告書を発表しました。このプロジェクトの成果や利点が、参加した多くの関係者に認識されたようで、自分が携わったプロジェクトが今後より多くの人々の健康状態の改善に繋がる可能性があるのはとても嬉しいことです。

Q. IOMに入って一番大変だったことは何ですか。現在のお仕事で悩んでいることなどはありますか。

近年の著しい経済発展によって、タイは自他共に認める「中進国」になりました。そのため、タイに資金支援をする意義をドナーが見出せなくなっています。これまで、多くのドナーがタイ事務所を閉鎖しました。このため、プロジェクトの資金調達が困難な状況です。また、資金が獲得できそうであっても、特定の条件がついたり、斬新さが要求されるという制約がある中で、プロジェクト形成を行わなければならないというたいへんさがあります。とりわけ、極端なプロジェクタイゼーション体制を敷いているIOMにとっては、これらは死活問題です。従って、人の移動における専門性をアピールして、国境を接するタイと近隣の移民の送出国との地域的なプロジェクトを企画していますが、複数国にまたがる話なので調整に時間がかかっている点が悩みです。

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Q. 現在取り組んでおられる分野で日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。

私が携わっている国際保健の分野では、日本はすでに多くの成果を出しており、今後も世界をリードする大きな貢献の可能性が十分あると思います。その理由の一つは日本の保健・医療水準の高さです。国民全員が医療機関へアクセスできる皆保険制度、母子保健や感染症対策、長寿国であることなど、さまざまな支援において日本の経験やノウハウを伝えていくことは有益であり、またカウンターパートに対しても説得力があると思います。

加えて、「人間の安全保障」の理念や、支援が必要とされている人に直接的・草の根的に支援をする日本政府の存在は非常に貴重だと現場で感じています。本当に社会的に弱い立場に置かれた人々にとっての命の綱といえると思います。また、日本の支援は、政府に限らず、NGOなどを含めて、成果が数量的に見えにくい長期的な課題にも積極的に取り組んでいると思います。

ただ、近年、数字で誰もが分かる、しかも短期間で得られる成果が求められていることも事実です。日本関連の支援もその潮流に急速に流れ始めています。使われた資金でどのような成果を上げているのかを具体的に検証することは重要なのは言うまでもありませんが、数字ではうまく計れない質的な成果も当然多くあります。特定の疾病を対策することなどは、見えやすい成果を出しやすい対策だと思います。しかし、保健・医療体制の強化等も、成果が見えにくいにもかかわらず、人の命を直接的に左右する重要な課題です。短期的で数量的な成果ばかりに捕らわれると、短期的で数量的な成果ばかりに捕らわれると根本的な問題の解決につながらず、かえって資源の浪費につながる危険性があることを感じます。今後は定性的データと定量的データをうまく組み合わせ、いかに成果をわかりやすい形でアピールしていけるかが重要になるのではないかと思います。

Q.グローバルイシューに取り組む人たちにメッセージをお願いします。

私自身、いろいろなところをフラフラしてきた移民のようなものなので、もともと国際機関で働くことや、国際保健に関わることなど想像もしていませんでした。従って、具体的なアドバイスやおくる言葉は特にないのですが、グローバル・イシューの多様性やダイナミックさと同じく、流動的で不確定な人生であっても、それをポジティブに楽しめるという人がこの分野で働くのには向いているのではないかと思います。

*1: 2007年から試験的に実施される。国連の事業活動のマネージメント及び連携を強化するため、単一の国別プログラム、単一のリーダー(国連常駐調整官、RC)、単一の予算枠組、単一の事務所を通し、「一つの国連(One UN)」を各国レベルで実現することを目指す。

2010年1月19日バンコクにて収録
聞き手:彼末由羽
写真:宮口貴彰
プロジェクト・マネージャ:堤敦朗
ウェブ掲載:斉藤亮