第93回 杢尾 雪絵さん 国連児童基金(UNICEF)次期ウクライナ事務所長
プロフィール
杢尾雪絵(もくお・ゆきえ):大学卒業後、建築事務所に都市計画建築コンサルタントとして就職。1987年から1990年まで青年海外協力隊員(JOCV)としてフィジーに赴任。1991年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の国連ボランティア(UNV)として4か月間トルコ・イラク国境にて難民援助に従事した。1991年から1994年末までは米コーネル大学地域計画学科に留学。1993年国連食糧農業機関(FAO)ローマ本部インターン、1995年~1997年はUNICEFのJPOとしてモンゴルに赴任、1997年、UNICEFコソボ事務所に事務所長、1999年には同モンテネグロ事務所長。2001年より2008年まで同タジキスタン事務所代表として勤務し、現在この任務を完了し出産のため休職中。2009年6月からUNICEFウクライナ事務所代表となることが決まっている。
Q. ご出産を間近に控えて帰国されたときにこのようなインタビューに答えてくださってありがとうございます。
ありがとうございます。初めての出産なのですが、今回はタジキスタンの勤務が終わって帰国したところでちょうどタイミングが合いました。
Q. 久しぶりの日本はいかがですか?
帰ってきてみたら、なんか東京ってエネルギーがちょっと低いみたいで心配しているんですが、そんなことありませんか? 電車に乗ってもなんだかみなさん疲れたような顔をしておられるし。先日ニューヨークに行ったときと比べるとだいぶ元気がない、溌剌としていない気がしてしまいます。それにね、妊婦が電車で立っているのは日本ではそれほど珍しくはないかもしれませんが、タジク人の主人はびっくりしています。タジキスタンなんて小さいコミュニティですからね。特に若い男性が目上の人や女性に席を譲ったり荷物を持ったりというのは、とても自然なことなんです。
でも、一方で元気な若い人たちもいることに励まされています。特に国際開発や国際協力への関心は自分が学生の頃より遥かに高まってきていますね。先日東京女子大学の講座で将来英語を使って仕事をする人たちに向けたお話をしたところ、200人くらいの学生さんが集まってくださいました。終わったあとも関心の高い人たちが10人くらい質問にきてくれたりしたんですよ。かなり突っ込んだ質問もあって、私にとってはちょっと意外なことでしたが同時にとても励まされました。
その意味では女性のほうが男性よりも元気がある気がします。日本では大学を卒業したら企業に入ってリスクの低い安定路線を取る人がほとんどだと思いますが、国連職員や国際協力要員になる人は最近は圧倒的に女性のほうが多いのではないでしょうか。おそらく日本の男性には安定路線への社会的なプレッシャーが強いのでしょうね。例えば男性で20代に青年海外協力隊を経験しても、帰国して30歳前後になると安定路線を目指してしまう人が多いような気がします。女性のほうがリスクを取りやすいのかもしれません。
Q. 杢尾さんが国際協力に関わり、ロシア語圏で勤務されるようになったきっかけは?
大学院に行っていたのが1990年代の初頭で、その頃ちょうど旧ソ連が崩壊して社会主義国家が市場経済に移行しようとする過渡期でした。私の修士論文はルーマニアの市場経済化についてだったのですが、格差をなくすための社会主義が現実には崩壊していった、そういう状況に強い興味を抱きました。それで大学院卒業後にJPOになったときにも東欧を希望したのですが、当時は東欧にポストはなく、モンゴルに派遣されました。それがきっかけで今日まで中央アジアに関わるようになったのです。
Q. これからどちらに赴かれるのですか?
育児休暇が終わったらウクライナ共和国でUNICEF事務所の代表になることになっています。タジキスタンが中央アジアの中ではアフリカの状況に近いような貧困国だったのに比べると、ウクライナは中所得国には達していないけれどもいろいろな意味でかなり欧州に近いし、子どもたちの状況とユニセフの抱える課題というのはまったく違うところだと思います。政治的に難しいところだし、政策提言や広報などでもいろいろと新しい課題があると思っています。
Q. ウクライナを希望されたのはどうしてでしょう?
今回私にとっての課題は、仕事上のプロフェッショナルなものよりもむしろ、仕事と私生活のバランスだと思っていることがありました。今までは仕事中心で、赴任地を決めるのに何の制限もありませんでしたが、今度は初めての家族同伴の赴任になるので、家族が暮らしやすく、また自分でも興味を持てる仕事ができるところを希望しました。夫が英語よりもロシア語のほうが得意ということもありましたし、小さな子どもを連れて行くので紛争地のように危険度の高いところは避けたいと思っていました。一方私はやっぱり現場型の人間なので、同じ地域内での異動を希望してウクライナに決まりました。ただ、同じ地域といってもウクライナと中央アジアは大きく違うと思いますから、いろいろな意味で新しいことにチャレンジできるのではないかと思っています。
それから、タジキスタンは寒いんです。気温はそれほどではなくマイナス5度くらいで日本とそれほど違うわけではありません。ただ、昨今のエネルギー危機で燃料がない、電力が来ない、そうした中での寒さは人々にとってはとても過酷だと思います。それに加えて今年の冬は例外的に寒くて、中国やアフガニスタンがそうだったようにマイナス20度くらいまで下がった日がありました。妊娠していたこともあり、思い切って休職することにしたんですよ。
Q. これからもロシア語圏での勤務を希望されますか。また、将来的には本部勤務の可能性もありますか?
職場としては、やはり現場にはやりがいがあります。責任は全部自分で取らなくてはならないけど、その分、全部任される。事業の成果を直接感じ取れるという醍醐味があります。だからもうしばらくは今回のウクライナのように現場にいようと思っていますし、例えば全然ロシア語圏とは違うアフリカに行ってみたいなと思うこともあります。しかし、将来的には全体の政策が見える部署での勤務もいいかもしれませんね。いまは子どもが大きくなったらニューヨークの本部なんかもいいかなって考えることもありますよ(笑)。
ちなみに夫の出身はパミール高原というところで、中国との国境付近でなあーんにもないところなんですけど、彼はそこにうちがほしいと言ってます(笑)。ドゥシャンベからさらに車で二日くらいかかるところなんですよ。そこで仙人のような生活をすることが彼の夢なんだそうです。ちなみに彼はタジク語とロシア語とパミール語ができて、私は日本語と英語で仕事をしていて、夫婦の間ではロシア語と英語の半々で生活しています。子どもがどんな言語体系で育つのか楽しみなような、不安なような…でもどこにいても、子どもが生まれたら日本語はきちんとできるように教育したいですね。
Q. 結婚されてお子さんがいらっしゃるといろいろなことが変わってきますね。
結婚したのもタジキスタンに来てからで、それもだいぶ晩婚でしたからね。それまでは残業もあり、昼食なんて食べたり食べなかったりで、仕事に合わせて一日が回っていた感じだったし、赴任地などもまったく一人で自由に選ぶことができました。それが結婚したときから生活のパターンや考え方がずいぶんと変わりました。もうタジキスタンには7年越しで住んでいて、そういう意味ではなんでも知っているし、夫の家族や親戚を含めて助けてくれる人たちもたくさんいます。でも医療サービスのこととか、先ほど申し上げたように厳冬でのエネルギー危機を考えると不安に思うことがあるのも確かで、育児などのことも含めて考えて、周りは知らない人ばかりですがウクライナに決めました。
Q. ユニセフの職員はいい親であることも求められますね。
それがユニセフ内でも大きな課題なんです。本部でも地域事務所でもどこでもユニセフの職員は異常に働くし、仕事からのプレッシャーも高くて、かなりワーカホリックな感じがします。その結果高齢出産も多くて、国代表が年に一度くらい集まると、40代で出産する人や子どもを養子として迎えた人などが多い。私もそれに仲間入りしたのかなって思いますが、仕事ばっかりで子どもを放ったらかさないようにしたいですね。
この文脈でユニセフがここ5年間くらい取り組んでいるのが、P2D(ピー・スクエア・ディー)と呼ばれる考え方です。これは、ProfessionalとPersonalを掛け合わせたDevelopmentが必要だということで、仕事と私生活の両方を充実させることで個人としての達成感を上げることを目指しています。こういう考え方が人事の戦略の中に入ってくることはすばらしいのですが、実際の実践となると、まだ課題は残っているように思います。特に国連では上昇志向の人が多くて、常にいまいるランクよりも上を目指そうとします。でも、同じランクでの横異動も別のメリットがあるかもしれないし、あるいは場合によっては下のランクへの異動だって私生活を向上させる選択肢としてはあってよいかもしれません。
それから、ユニセフとWHOは、出産後6か月は母乳だけで子どもを育てることを推奨しています。これは途上国だけではなく先進国にも共通することで、乳児の栄養状態や健康状態への影響、それから母子間の絆を育むという意味でも大切なのです。ユニセフの職員にもこれは実践が推奨されていて、6か月過ぎたあとも子どもが2歳になるまでは勤務時間中に授乳タイムを取れることになっているんですよ。でも、先ほど申し上げたようにワーカホリックの職員が多くてプレッシャーも高い中、それをどこまで実践できるかは難しい問題ですね。
Q. これまで一番プレッシャーがかかったときはどんなときでしたか?
この仕事ではいつでもどこでもプレッシャーとの戦いという状態でした(笑)。一般的にいう極限状態ということならコソボにいたときの人道状態は修羅場といえるものだったと思います。私は楽観的な性格なのでけっこうきわどいところまで行っても大丈夫なことが多いのですが、コソボの困難というのは、タジキスタンのようにモノがない、インフラがないというようなことではなくて、人と人が憎み合っているところでその間に入って仕事をしなければならないという過酷さです。これはこれまでの国連の仕事の中でやはり一番たいへんだったといえるでしょう。
加えてそのときはNATOによる空爆があったためマセドニアに避難して、コソボ・アルバニア人難民やその中に含まれているUNICEF職員の受け入れなどもしなくてはなりませんでした。こうした状態においては、中立を旨とする国連職員でも相当に感情移入が起こりますし、それは精神的に大きな負担となります。そこでそのときは希望してマセドニアからモンテネグロに移りました。モンテネグロは当時まだ空爆下にあり物理的には危険だった一方、そのときの自分にはマセドニアに留まることのほうが精神的に難しかったのです。もともとコソボには紛争が始まる前に開発の事業のために行ったのですが、この仕事をしていると、こういう厳しい状況で働かなくてはならなくなる可能性がどうしてもあります。
また、通常の開発に関する仕事の中でも、政治的なプレッシャーということは大きな精神的要因としてあります。それも、相手国政府との関係はまだよいのです。非援助国側の政府との関係では国際機関の職員はこちらが寛容になれますからね。そうではなく、問題は例えば他の国際機関に対しては許容度がぐっと下がってしまうことだと思います。他の機関との競争が激しく、何一つするにしても自分の機関の名前が見えないとダメだということになってくるし、タジキスタンのような小さな国に国連機関だけではなくて開発銀行やドナー国の機関がひしめいている状況で、それを調整してやっていかなくてはならない中では、かなり「えげつない」競争も生まれてきます。私たちは国連には純粋な使命があるという信念の下で働いていますが、現実にはそうした圧力にも耐えていかなくてはなりません。
Q. 前向きで、かつ「肝っ玉の据わった」杢尾さんの性格はどのようにして形成されてきたのですか?
一つあるとすれば、高校と大学が日本の女子校だったのですけれど、これはとてもよかったと思っています。もしかしたら私の偏見かもしれませんが、日本の社会って、どうしても男性が一番で女性が二番っていう前提があって誰もそれを疑わない気がするんです。例えば中学でも、学級委員長は男の子で副委員長は女の子っていう構図を自分を含めてあまり疑わない。それとも今は変わってきているんでしょうか。とにかく私の行った高校はとても自由で、なんでもやらせてくれた。その中でかなりリーダーシップを発揮することができたと思います。
それから、私がこの仕事向きだと自分で思ったところは、楽観的なことと好奇心が旺盛なことです。主人はとても慎重な人なのですが、私は「石橋が壊れてても渡る」タイプ(笑)。年齢とともにリスクを取らないようにはなってきましたけど、若い頃は本当になんでも来いでした。ですから、国際協力、国際開発を目指す人には、夢と希望を大きく持ってほしい。人生に挫折はつきものだし、うまく行くわけがないのが前提なんです。過度に慎重になる必要はないし、おおらかな人材が求められているのだと思います。
Q. 女性が国際協力の仕事をしていく上で考えるべきことはなんでしょうか。
やはり結婚と出産の難しさかもしれませんね。私は40代半ばで結婚していま子どもを産もうとしていますが、もちろんこの年齢での出産はリスクも高くなります。ですから、なかなか仕事と結婚・出産・子育ての両立というのは難しいのです。特に例えば30代でキャリアを確立しようとしているときにはどうしてもそちらが優先となるし、その年代で結婚して子どもがいる人は育児が優先となることが多い。女性というのはいつまでも、いつかは自分は結婚して子どもも産むんじゃないかと思っています。でも現実にこれを仕事をしながらこなすのはたいへんです。例えばユニセフの国事務所の代表が集まると、男性はほぼ100%既婚なのに女性の既婚率は半分以下。やはり日本人に限らず私生活を犠牲にしている人は多いと思います。
国連一辺倒の生活はやはりバランスを欠いてしまう気がします。私は結婚前は、自分ではそうは認識していなかったけれど、ストレスが体調に出てしまってよく病気をしていました。でも、結婚してから精神的に安定して病気にもめっきりかからなくなりました。それは私生活が仕事をする上でも精神的な土台となってくれているからです。その意味で、これから国際協力の仕事を目指す女性たちには、その時の状況々々に合わせて、あとから後悔しないような選択をしてほしい。難しいということを前提にして、しかし自分が信じる選択をしていけば、仕事と私生活の両立は可能です。そして、一つの決断が人生全部を決めるわけではなく、その時々の判断の積み重ねで人生は変えてゆけることも知っておいてほしいと思います。
Q. 世界の問題に関わろうと思う日本人にエールをお願いします。
国連職員や国際協力の仕事にはもっと日本人が多くいていいと思います。もちろん職業上のリスクもあるし、大学を卒業してすぐに国連職員になれるわけでもないし、給料は決して高いとは言えない。でも、続けていれば必ず道は開けます。また、日本人の人材は確実に要望されているのでチャンスはあると思うんです。いろいろな経験がものを言う世界ですから、はじめから国連を考える必要もありません。それから、一度国連職員になっても、さまざまな事情で辞めて日本にお帰りになる人も多くいらっしゃいます。このような方の活躍も大いに期待します。
(2008年9月4日、東京にて収録。聞き手と写真:田瀬和夫、国連事務局・人間の安全保障ユニット課長、幹事会コーディネータ、ウェブ掲載担当:柴土真季)
追記:このインタビュー後、杢尾さんは2008年9月22日に、無事お嬢さんのマリヤム美咲(Maryam-Misaki)ちゃんを出産されました。おめでとうございます。
杢尾さん後日談:こんなに母乳育児が大変なことだなんて知りませんでした。(苦笑)
2008年1月2日掲載