第91回 渡部 正樹さん 国連事務局人道問題調整事務所(OCHA) 調整対応部 人道問題担当官

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プロフィール

渡部正樹(わたべ・まさき):大阪府出身。早稲田大学政治経済学部卒業(米国ジョージタウン大学交換留学)。英国ロンドンスクールオブエコノミクス(LSE)修士課程修了。1997年、海外経済協力基金(OECF、後の国際協力銀行/JBIC、現国際協力機構/JICA)に入行。中国及びバングラデシュ・スリランカ向け円借款担当を経て北京事務所駐在員。2004年、外務省JPO試験に合格し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)ザンビア・ルサカ地域事務所、同ジュネーブ本部勤務。現場及び本部にて難民の定住・帰還や開発援助機関とのパートナーシップ促進を担当。2006年、国連競争試験に合格し、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)ジュネーブ本部にて国連人権理事会の特別報告者(独立専門家)をサポート。2008年5月より、国連人道問題調整事務所(OCHA)調整対応部・アジア大洋州課人道問題担当官(スリランカ担当)。

Q. 国連で勤務なさることになったきっかけを教えてください。

私は国際協力を志していたので、まず日本の政府開発援助(ODA)実施機関に就職し、さらに、キャリアを発展させるために国連に移ったという経緯があります。そもそも国際協力の仕事を志すようになったのは、大学3年生の時に、交換留学生としてアメリカで国際関係を学んだことがきっかけでした。初めはアメリカの外交政策などに関心があったのですが、様々な国からやってきている学生たちと一緒に学ぶうちに、非欧米人としての自分を強く意識するようになり、貧困や民族紛争など、主に途上国の抱える問題に関心が移っていきました。

日本に帰国してからは、まず国際的な分野で実務経験を積んでいければ、という思いで就職活動をしました。そして、最初に内定をいただけたのが海外経済協力基金(後の国際協力銀行/JBIC、現国際協力機構/JICA)で、国際協力に携わることができるのでちょうどいいと思って就職を決めました。実際その後の6年間で、道路、発電所、浄水場の建設から農業、貧困対策、環境保全、高等教育、マイクロファイナンスまで幅広く経験し、開発援助の基礎や、国際協力に携わる上での心構えを学ぶことができました。海外経済協力基金に入った直後は2年半ほど中国向けの円借款案件を担当し、そのあと留学して社会開発論を勉強しました。開発の過程を通じて脆弱者を護り、彼らが社会から疎外されるのを防ぐという観点から、単に経済便益だけでなく、貧困削減や人々のエンパワメント(能力強化)などの社会効果をもたらすにはどのような方法論や考え方があるのかを学びたかったからです。留学から戻ったあとは、スリランカとバングラデシュ向けの円借款を1年半経験し、そのあと中国の北京事務所に2年4か月間駐在しました。

北京事務所に駐在していたときに今後のキャリア形成についてより深く考えるようになり、JBICを退職する決断をしたのですが、それには二つ理由がありました。一つは、当時のJBICは、案件担当以外に人事、財務などいろいろな分野で経験を積みながら昇進していくジェネラリストの育成を想定していたということです。私はそれまでの貴重な体験を通じて、国際協力の分野でプロフェッショナルとして成長していきたい、という思いを固めていました。しかしそのためにジェネラリストとしてのキャリアを積むのか、それとも特定の分野での専門家を目指すのかと考えたときに、自分の場合は、後者の方が合っているのではないかと思いました。

もう一つは、現場主義の大切さを実感していたことです。私は北京に駐在し、ほかの国にも度々出張していましたが、それでも現場は遠く、自分の現場経験はまだまだ足りないと感じていました。JBICに残った場合、定年までに途上国に駐在できる機会は多くても三回くらいですし、それ以外はずっと東京で勤務することになります。国際協力で一番大切なのは現場だと考えているので、たいへんなことも多いのですが、もう少し現場に近いところで経験を積み、また現場主義を体現できるようなキャリアを歩みたいと思いました。こうした観点から、国連でのキャリアが視野に入りだし、幸運にもJPO試験に合格したため、JBICを退職することになりました。JBICを辞めたのは決して嫌になったからではなく、むしろいい思い出ばかりが残っていて、特に新人時代以来育てていただいたことにとても感謝しています。

さて、JPOを受験するにあたって、私は初めから国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で働くことを強く志望していました。その理由は大学時代に遡ります。大学を卒業する前に卒業旅行に行こうと考えていたのですが、ただ単に旅行に行くのではなく、既に就職が決まっていた国際協力の仕事とも関連性があり、かつ時間が自由になるこのタイミングでしかできないことをしたいと思っていました。そんなとき、本屋でNGOの一覧が載っている本を見ていて、クロアチアのボスニア難民キャンプにボランティアとして学生を派遣しているNGOをみつけたのです。ボスニア紛争については留学中に勉強して関心を持っていたので、実際に難民キャンプに行ってみたいという気持ちになり、クロアチアの首都ザグレブに1か月間滞在しました。この間にしたことといえば、戦禍を逃れてきた子どもや若者たちとただ遊ぶだけです。言葉が通じませんでしたが、一緒にお絵かきをしたり、鬼ごっこをしたり、筆と墨を使って漢字で子どもたちの名前を書いてあげたりもしました。時には現地の人に通訳をしてもらって、未亡人のおばあさんの話し相手にもなりました。いわゆる心理・社会的ケアに少しだけ貢献していたことになりますね。

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このときの難民キャンプでの経験が、自分にとっての原体験になりました。国際協力の分野に就職するということは既に決まっていましたが、難民と呼ばれる方たちとふれ合い、個人レベルでの交流ができたことで、今後も機会があれば、難民の方たちの力になるようなことをやっていきたいと思ったのです。具体的にどういう機会があるのかそのときはわかりませんでしたが、とにかく何らかの形で、難民問題に関わっていきたいという思いが芽生えていました。

こういう背景がありましたから、国連に移る際には、せっかくなので難民支援に携わる仕事をやってみようと思いました。JBICでは大規模なインフラ建設の仕事を中心にやっていたので、今度はそれとは対照的な、コミュニティに一番近いところで人道援助をやってみたいという気持ちもありました。JPOは、それまでの経験に必ずしも引きずられることがなく、方向転換が比較的しやすいので、今こそがチャンスだと思ったのです。

UNHCRでの初めの2年間はザンビア事務所に勤務し、JPO期間を延長していただいた3年目にはジュネーブで働きました。JPOとしての期間が終わったあとのことも考えなければいけないので、JPO派遣中に人道問題の分野で国連競争試験にも応募しました。幸いJPO3年目のときに競争試験に合格し、国連事務局の職員候補者としてロスター登録されたのですが、その後空席ポストに埋めてもらえるまで紆余曲折がありました。まず、これまでの業務上の繋がりのなかからいろいろな人に自分の履歴書を見てもらえるようお願いし、また拾ってもらえそうな空席を探しました。その過程で、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)から経済社会分野の人権に関する仕事のお誘いがあり、一旦は採用される運びになりました。しかし、途中OHCHRの予算の関係で私が採用されるはずだった空席自体がなくなってしまい、代わりにとりあえず3か月単位の短期雇用で計6か月間働くことになりました。具体的な業務内容は国連の人権理事会が任命した特別報告者(Special Rapporteur)の補佐をすることでした。特別報告者は様々な国やテーマごとに任命されるのですが、私が担当していた特別報告者は二人いて、いずれも独立専門家の呼称を用いていましたが、一人は極度の貧困と人権の関係について、もう一人は経済改革及び対外債務問題が人権に与える影響について報告する職責を負っていました。

OHCHRでの仕事も面白かったのですが、そもそも競争試験の合格者はこうした短期雇用契約で働くことが想定されていないので、より長期の空席を探す必要がありました。そんなとき、以前から連絡を取っていた人道問題調整事務所(OCHA)から空席公告について知らされたので、応募することにしたのです。ちなみに、競争試験のロスターは国連事務局にあるP2もしくはP3レベルの空席を埋めるためのものですが、P2レベルの場合は合格者リストから直接採用される一方で、私が該当したP3レベルの場合は、ほかの応募者と競わなければなりません。そのため一般の応募者と同様にギャラクシーという国連の人事システムを通じて応募し、電話面接を経て採用が決まったのが2008年の2月末でした。その後、契約手続きなどを済ませ、実際に赴任したのが5月末のことで、これが私の現在のポストです。

Q. 今はどのようなお仕事をなさっているのですか。

OCHAの中には、調整対応部(Coordination and Response Division)といって各国で起こっている人道課題に取り組む部があり、私はスリランカを主に担当しています。OCHAの役割は、自然災害及び紛争下で人道援助に携わる国連やNGO等の間を調整することです。たとえば2004年に起きたインド洋津波のときのように、緊急事態にいろいろな機関が一度に入ってきてそれぞれに人道援助活動をすると重複や空白が生まれてしまうので、OCHAではそのようなことがないように調整する役割を担っています。また、各機関が現地政府や武装勢力等と交渉する際にも共通のルールをつくっておかないと、混乱することもあります。深刻な緊急事態にあたっては、非戦闘員の保護など人道課題についての啓発活動や、共通となる人道援助戦略の策定、情報の管理と共有、効率的な資源動員も不可欠となります。OCHAには、こうした分野でリーダーシップを発揮することが期待されています。

スリランカにはOCHAの現地事務所があり、私の仕事は基本的には三つあります。一つは、OCHAの長である事務次長が、スリランカの人道問題に携わる際の補佐をすることです。たとえば、事務次長が声明を発表したり、国連加盟国や国連諸機関、NGOと協議したりする場合には、そのための準備をし、また事務次長が深刻な状況に対して効果的に対応できるよう、様々な判断を下すことができるような情報を収集・分析しています。

二つ目は、スリランカにいる国連人道調整官を支援することです。通常、各国で実施されている国連の活動を調整するために常駐調整官が派遣されていますが、国によってはその国での人道援助活動を調整するための人道調整官も派遣されています。スリランカでは常駐調整官が人道調整官を兼務していますが、緊急事態において常駐調整官もしくは人道調整官がリーダーシップを発揮できるよう、OCHAがこれを支えます。また、スリランカの常駐調整官兼人道調整官と事務次長との意思疎通が円滑に行われるよう補佐することも重要です。

三つ目は、OCHAのスリランカ現地事務所を支援することです。具体的には、スリランカ事務所が現地で行っている、特にクラスターアプローチと呼ばれる人道援助機関間の調整業務や、常駐調整官/人道調整官への支援で課題となることを本部レベルで解決したり、現地事務所の予算や人事管理の支援をしたりします。また情報管理、啓発活動、資源動員などについて本部や様々な専門部署やほかの国連機関・NGOとの橋渡しをしたりしています。

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Q. 日本でのお仕事を退職されて国連に入られていますが、国連で働くことの魅力は何でしょうか。

JBICを退職するにあたって、不安はゼロではありませんでしたが、それよりも、やってみたい、今やらないと後悔するだろう、という思いの方が強かったですね。もちろん、国際協力のプロフェッショナルとして6年間働いてきて、それなりに場数も踏んでいたので、無鉄砲に飛び出したというわけではありませんでした。確かにJPO期間が終わったあとの職は保障されていませんし、私自身JPO直後が一番厳しい時期でしたが、国際協力の業界にはコンサルタントやNGOなど多様な職場がありますから、国連で働くことができなくてもなんとかやっていけるのではと、ある程度客観的な目でも自分を見ていました。その一方で、日本のODAに育てていただいたご恩もありますし、これから国連で経験を積んでいく中で得られるであろう知見を、日本で国際協力に携わっている方たちにいかに還元できるかということには、ちゃんと取り組んでいきたいと考えています。その意味で、JBICと旧JICAの統合で誕生した新JICAの今後に、OBの一人として大きな期待を寄せています。

日本の組織には似たような価値観や背景の人が集まっていることが多いので、仕事をしていても、だいたいどういう方向に進むのかということが予定調和的に見えてくることがよくあるのではないかと思います。仕事も円滑に進みますし、お互いへの配慮もあります。他方、国連では集まっている人間の背景が違いすぎて、何をするにも議論を一から積み上げていかなければいけません。確かに消耗することもありますが、その分、自分にはない発想に出会うこともあり、そんな中で日本人らしさを発揮して仕事に貢献するのもまた面白さですね。また、日本の組織が細部にこだわる傾向があるのに対して、相対的に国連は、それほど細かいところまでは気にしません。その意味で、大雑把な性格の私には国連という組織は合っていると思います。ただ、誰もが合っているとは思わないので、それは一人ひとりがそれぞれの体験を通じて判断していかなければいけないのではないでしょうか。

また、国連の仕事内容には多国間機関だからこそできるものが多いと思います。たとえば難民や人権に関わる問題は、二国間援助で前面に出すのは難しいけれども、国連という多国間の枠組みだからこそ取り組んでいけるということもあります。私はいわゆるグローバルイシューである人道援助や平和構築に携わっていきたいと思っているので、実際にそういう仕事ができるのは国連の魅力の一つですね。国連憲章の定めるコスモポリタン(世界市民的)な価値観を大切にしつつ、リアリスト(現実主義者)として具体的な課題に取り組んでいきたいと思っています。

それから、これは特に国連に限ったことではなく、国際協力一般での魅力になりますが、いろいろな国に行って、いろいろな人との貴重な出会いがあるということです。大学時代に訪れたクロアチアでの例になりますが、ボスニア難民の方たちは、いずれも家族の誰かを亡くし、皆がそれぞれにつらい記憶を抱えていました。私が話をした難民の中には、人生で三度戦争を経験したというおばあさんもいました。一度目は第二次世界大戦、二度目はユーゴスラビア独立のパルチザン戦争、ようやく何とかこのまま人生を終えられると思った矢先その最後の最後に、ボスニア紛争で再び家族や孫を亡くしてしまったのだそうです。

それでも精一杯生きていこうとする、そういう人々とふれ合う中で強く感じたのは、いざというとき人間ってこんなに強いんだ、強くなれるんだということです。同じことは、ザンビアにいたコンゴやアンゴラ難民の方たちに出会ったときにも思いました。自分にはどうにもならない大きな力に翻弄され、苛酷な状況を経験し、それでも希望を捨てないで、家族を守り生活を続けて行くため、過去の経験を抱えながらもなんとか這い上がっていこうとする、自分と何も変わらない普通の人びと。そうした人間の強さに心を打たれ、この強さこそ美しいと感じました。人間は強く、人生は続いていきますから、結果的には多くの人たちが、たとえ以前とすべて同じということはなくとも、なんとか自分たちの生活を再建していきます。そこで自分にできることがあるとすれば、その再建が少しでも楽に、そして少しでも早く実現するように後押しすることではないかと思っています。そういう意味で、国連は最も助けを必要としている人を対象とした活動を実施していく組織なので、その点に大きなやりがいを感じています。

Q. 逆に、国連で働くことのご苦労などはありますか。

どうすれば少しでもスリランカの人道状況を改善できるのか、ということで今は頭がいっぱいです。私はスリランカという現場とニューヨークにある本部を仲介する役目を果たしていますが、ただ単に現場から送られてくる情報を本部に伝え、本部の指示を現場に送るというだけでは意味がありません。どうすれば現場と本部との間に立って付加価値を提供できるのか、その方法を模索しています。たとえば、事務次長が声明を出すときや国連総会で各国の首脳が来て会合があるときなど、事務次長がどういう発言をすれば現場にとって一番支援になるのかをよく考えて、現場と相談しながら原稿をつくっています。また、人道問題は一日で状況が大きく変わってしまうので、すぐに反応しなければいけないという緊張感もあります。

ほかに苦労した経験といえば、UNHCRで国連人間の安全保障基金をいただいて、ザンビア・イニシアティブという事業を担当したときのことですね。当時、ザンビアにはアンゴラからの難民が何十年も滞在していました。紛争状態が終結したあとも、難民の方たちは皆が故郷に戻れるわけではありません。現地の人と結婚する場合もあれば、故郷に戻っても迫害に遭うおそれがあるので戻れない、という場合もあります。そこで農村開発を通じて難民と受け入れ地域の共存を促すことで、こうした母国への帰還を望めない人々の定住を支援することを目的として、ザンビア・イニシアティブが始まりました。アンゴラからの難民が滞在していた地域はザンビアの中でも最も貧しくて、中央政府からの開発投資も少なく、半ば見捨てられた地域でした。地方政府の実施能力が必ずしも高くない上に対象地域は広大でしたので、そのような地域で、農業普及、灌漑、教育、医療、職業訓練等複合的な要素を持つ事業を実施し、かつその成果をてこに上位目標である難民の定住を達成しようというのですから、今振り返ればかなり難易度の高い事業だったと思います。その上、UNHCR、ザンビアの中央政府、地方政府と、利害の異なる様々な立場の人々の協力を得るのが非常に困難でした。

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ザンビア政府としては、他国からの難民が自国民として定住するのを認めることの政治的な影響が大きかったために、当然及び腰になっていた面もあったのでしょう。ザンビア・イニシアティブという事業の目標を達成するためには、定住する人々に市民権や就労・居住権を付与すべく、法的措置なども必要だったのですが、なかなかそこまで至りませんでした。私は当時、事業が実施されている地方を中心に走り回っていたのですが、担当者として事業監理やレポート作成などをこなすだけではなく、UNHCRの内部に対してももっとザンビア政府への働きかけを強めるように、あるいはほかの国連機関との連携を進めるようにと、始終呼びかけなければいけませんでした。難民とその受け入れ地域に対して開発型の支援を行うという点で、短期的な人道援助に慣れた関係者に発想の転換と仕事の仕方の革新が求められたため、相手にしなければいけないものが、当時の自分ひとりには少し大きすぎたと言えるのかもしれません。

それまで私は国際協力銀行で援助資金を提供する側にいたのですが、国連は援助資金をドナー国に提供してもらい、時には現地の実施パートナーを監督しながら、また時には現地の実施パートナーと共同で、活動を実施していく立場です。そういう仕事をぜひやってみたいと思って国連に入ったものの、ザンビアでは実施者としての現実的な困難も味わいました。特に初めの一年間は、UNHCRではなくザンビア政府内のオフィスに机を置いて働いていましたので、そういう意味でも難しさがありました。政府から見れば私はよそ者ですし、私の方にも政府の仕事振りをチェックしなければいけないという意識があるので、なかなか信頼関係を築くことができなかったのです。また、UNHCRとしては援助資金の使い道をきちんと監理・報告しなければいけませんが、ザンビア政府としては、もらった資金はできるだけ好きなように使いたいわけです。そうしたせめぎ合いでも苦労しました。

Q. 将来はどのような分野でキャリア・アップされていくおつもりでしょうか。

今の仕事には競争試験の合格者として採用されたので、あと1年後に試用期間が終われば、正規職員として身分が安定します。ですから、今はそれを基礎にして国連システムの中でのキャリア形成を考えています。現在、OCHAにいることでもありますし、次は現場で人道援助の調整業務をやってみたいと思っています。やっぱり現場に戻りたいですね。中長期的には、UNHCRなどの実施機関に出向する、あるいは国連ミッションや事務局などを行き来しながら、組織を超えた、いわば「One UN」を体現するようなキャリアを積んでいくのもいいかなと思っています。

分野の柱としては、難民・避難民、女性、子どもなど弱い立場にある人々を、様々な法的手段と社会的なメカニズムを通じて効果的に保護し、また、その自立を支援するためにはどうすればよいのか。さらに、こうした人権に基づくアプローチを核心部分として、国連の人道援助・開発援助を組み立てていくにはどうすればよいかということを、もう少し自分なりに掘り下げていきたいと思っています。それから人道援助から開発援助への移行についても思い入れがあります。ザンビア・イニシアティブで人道援助と開発援助のギャップを埋める仕事をさせていただきましたし、その後ジュネーブに移ってからは、UNHCRの政策としてそのギャップを埋めるためにどのようにパートナーシップを強化できるかという仕事に取り組んでいたので、いわゆる早期復興(Early Recovery)や平和構築といった、人道援助と開発援助をまたぐ分野の仕事をもう一度やってみたいと思います。

UNHCRでの経験を通じて実感したのは、自分のJBICでのキャリアが思った以上に評価されたということです。人道援助機関であるUNHCRの中で、パートナーを組む相手となる開発援助機関の仕事の仕方を理解している人は限られていたので、私のような人間は案外重宝がられました。他方、OHCHRには法律家はたくさんいましたが、世界銀行や国際通貨基金(IMF)のような国際金融機関や開発援助機関と人権の話をするときに、両方の分野をわかって「通訳」ができる人はあまりいませんでした。対外債務がその国の人権状況にどのような影響を与えているのか、人権に配慮しながら経済改革を進めるにはどうすればいいのかという話は、法律の専門家だけでも金融の専門家だけでもできません。私はJBICにいたので、債務管理や経済改革を支援するにあたっての基本的な議論や実務上の問題点についてはだいたいの土地勘がありますから、人権の専門家と一緒にワシントンDCに行った際にも、間に入って国際金融機関の方と話をすることができました。国際協力の世界で生きていくためには専門性も大事なのですが、一方で、開発援助もわかる、人道援助もやれる、あるいは人権に基づくアプローチも知っている、というように複眼性を持つことも実は評価されるのではないかということに、自分のキャリアを通じて気がつきました。そういう意味でも、人道援助と開発援助をつなぐ移行期の仕事などは大事にしていきたいと思っています。

Q. 国連に対して日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。

これについては、スリランカで今起こっている人道問題についての貢献と、もっと大きな次元での人的貢献と、二点お話ししたいと思います。まずスリランカに対する貢献ですが、日本は2003年に開催された「スリランカ復興開発に関する東京会議」の共同議長国となっています。しかし、特にスリランカ北部では、今年の1月に停戦合意が破棄されて以降戦闘が激化し、これに伴い約23万人の国内避難民が今も人道危機に直面しています。国連としては、国際人道法で定められている非戦闘員の保護や人道援助に対するアクセスの確保、及び人道援助要員の安全確保などを戦闘の当事者であるスリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)双方に呼びかけています。治安の悪化により、現在国連及び国際NGOは北部LTTE支配地域内での活動停止を余儀なくされ、週一度程度の政府軍支配地域からの物資輸送を通じて最低限の食糧援助を継続しつつ、状況の早期改善を促しています。他方、スリランカ東部はLTTE支配から「解放」され、地方選挙や国内避難民の帰還が進んでいるものの、民族間の対立や土地問題、人権侵害などの問題が依然として続いています。

こうした状況に鑑みると、日本にもう少し頑張ってほしいと思います。もちろん、現在日本が行っている国連世界食糧計画(WFP)を経由した食糧支援などは非常にありがたいことで、さらなる緊急人道援助への貢献を期待しています。その上で、日本が平和構築を重要な外交方針として掲げるのであれば、ぜひスリランカに対しても、より強力な人道・復興支援と、紛争解決及び平和の定着のための外交的関与を行っていただきたいと思います。特に平和構築の過程は、停戦合意さえあればあとはそのまま状況が直線的に改善していくというものではなく、紛争状態と和平状態を行ったり来たりしながら展開していくものです。そのため、状況が悪化しているときこそひるむことなく、人道援助の維持継続、非戦闘員の保護、政治的対話による解決の促進といった点で、必要な改善を求めていただき、人道原則に立脚した一貫した外交的取組みを期待します。日本は、それだけスリランカにとって重要なプレーヤーであると思います。他方、特に戦闘を免れている地域に対しては、平和の定着の機会が訪れているわけですから、農業支援やコミュニティの再建など、この機を逃さず早期復興努力をもっと支援していただきたいと思います。そういう意味で、スリランカは、一貫した平和構築、あるいは移行期支援の新たなテストケースになりうると考えています。特にインド洋津波以降、スリランカで活動してきた日本のNGOなども多いはずなので、政府だけでなく日本の市民社会も含め、スリランカに対する支援のあり方を、ここで教訓も含め一度総括し、息の長い、そして地に足の着いたオールジャパンとしての平和構築支援へと昇華させていただければと思います。

次に、もっと大きな次元で日本が国連に対してできる貢献は、人材面にあると考えています。以前から言われていることですが、国際協力、そして国連に携わる日本人の絶対数を増やしていかなければなりません。国際協力を志す人は増えており、皆さん努力されていると思うのですが、本人の努力だけでは限界がある部分もあると思います。むしろこうした努力を支える周りの環境作りという点でまだまだ課題が多いのではないでしょうか。

そうした課題の一つとして、日本の大学教育を挙げたいと思います。私も含めて、国連で働いている日本人の多くは海外の大学院で学んでいます。それは語学はある程度できて当然という状況で、国際協力に携わる上で必要となる実質的な部分を学ぶのは多少お金がかかるけれど海外で、と考える人が比較的多いということだと思います。私たち国連職員が、いわば出稼ぎ労働者として国際機関という労働市場で競争し、生き抜いていくためには、それだけの価値を身につけなければなりません。日本の大学もたいへん努力されていることは知っていますが、果たしてそれでも日本の大学は、こうした日本の学生の需要に十分応えられているでしょうか。まずは、国連職員や国際協力の実務家にはどのような素養が求められるのかというマーケティングをしっかりしていただいて、特に語学教育を中心に、学部教育を充実してほしいと思います。また、できるだけ早いうちから国際協力に対する「気づき」に繋がるような体験学習の機会をもっと設けてほしいと思います。他方大学院では、単なる看板の掛け換えや、「流行もの」への表面的追随にとどまることなく、カリキュラムを充実させ、幅広い実務者との交流を通じて、倫理面まで含めた職業者育成が展開されることを期待します。こうした努力があれば、今後は日本でも、国連で活躍できる人材の裾野がより大きく広がっていくと思います。

もう一つの課題は、企業や役所など、組織間での人材の流動性の問題です。国連の仕事の多くは終身雇用を前提としたものではありませんから、万一の場合に日本に戻り、再チャレンジできる機会があることが大切な安全網となります。国際協力に携わる人材が職種で評価され、組織間を柔軟に動けるようにしてほしいですね。それが可能になれば、国連にチャレンジする日本人ももっと増えるのではないでしょうか。

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また、日本で国際協力を担当している主要な組織である外務省やJICAはどこもほぼ年功序列・終身雇用制ですが、これが他流試合を避ける閉鎖性につながっているようにも見えます。日本の援助が世界の経験から学ぶためにも、中途採用を含めた柔軟な人事制度やキャリアパスの多様化は、日本の国際援助を活性化させるために重要だと思います。ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、国際貢献を国是としながら、志ある若者たちが幕末の新撰組のように、時代の要請に翻弄されるだけの立場に追いやられてしまうようなことがあってはならないと思っています。国連に飛び出していく日本人が、単なる変わり者たちとして見られるのでなく、むしろ日本の主流がこうした人々を支え連携する構造をつくり出せるかどうか。つまり日本の国連に対する人的貢献を考えるとき、実は日本がどう変われるか、そして変わる意志があるのか、という問題に行き着くのではないでしょうか。この国連フォーラムでも、こうした議論をぜひ掘り下げていただければと思います。

Q. グローバルイシューに取り組むことを考えている若者への一言をお願いします。

私は、自分自身がこれまで多くの方々にお世話になってきましたので、国際協力を志す方で紹介を受けた場合には基本的にはお会いするようにしていますし、できるだけのアドバイスをしたいと思っています。ただ、そうしてお会いする人の中には、ごく一部ですが、国連や国際協力の仕事を過度に理想化してしまっている人がいて、驚くことがあります。国際協力に対して若い人の関心が高まっている一方、一方的に美化するような情報も多いように思われますし、国連機関のウェブサイトも広報の一環ですから、当然いいことしか書いてありません。ですから、そういう情報を提供している側の意図も含めて批判的に読み解く力をつけて、キャリア選択していただきたいと思います。また、日本社会に漂う閉塞感からの逃避として国際協力のキャリアを志向するというのも考えものですね。相手とする途上国の現実の方が日本よりはるかに厳しいですから。この仕事は、一見華やかに見えるかもしれませんが、実際は地味で泥臭い、あるいは小役人的な仕事がほとんどだと言ってもいいでしょう。組織で働く上での基礎体力をつけるという点では、むしろ国連に入る前にどんな形であれ日本で社会人経験を積むことはとても価値あることだと思います。

私自身はJBICで自分のキャリアを始めたので、国連や世界銀行の仕事振りを間近で見る機会に恵まれ、過度な理想や期待を持たずに国連に入りました。そもそも、国連が扱っている仕事は国家の主権や通常の国家間関係では処理しきれないような難題ばかりで、その上国連は多様な背景を持つ人々からなる官僚組織ですから、成果がほんの少しずつしか挙がらないことも多々あるのではないかと思っています。ですから、これまで国連で仕事を続けてきて、自分の抱いていたイメージと現実とのギャップに苦しむことはありませんでした。これから国際協力のキャリアを目指す方は、できるだけ多くの人に会い、現地に足を運び、活動に実際に関わっている人や受益者とのふれ合いを通じて現実を学び、自分に一番合ったキャリアパスをそれぞれ切り拓いていただきたいと思います。そのためには、今国連で働いている私たちが、いいことも悪いことも伝えていかなければならないと考えています。

(2008年10月25日ニューヨークにて収録、聞き手:大槻佑子、ヴァージニア大学政治学部博士課程。幹事会開発フォーラムとのネットワーク担当。写真:田瀬和夫、国連事務局・人間の安全保障ユニット課長。幹事会コーディネーター。ウェブ掲載担当:田辺陽子、コロンビア大学教育大学院修士課程)

2008年11月29日掲載