第120回 功刀 純子さん UNICEF東京事務所代表
プロフィール
功刀純子(くぬぎ・じゅんこ):2009年2月から現職、日本政府および韓国政府とのパートナーシップ構築および資金調達を担う、ユニセフ東京事務所の代表を務める。ユニセフのベトナム事務所およびバングラデシュ事務所で広報官として勤務した後、ニューヨーク本部事務局長室での勤務を経て、湾岸諸国(バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア、アラブ首長国連邦)を統括する地域代表、ボスニア・ヘルツェゴビナ事務所代表を歴任する。
Q 国連やUNICEFを目指したきっかけを教えてください。
父が国連で働いていた、ということに遡ります。私の一番古い記憶は、イスラエルのエルサレムの記憶なんですよ。父が国連休戦監視機構(UNTSO)の法務官をしていたものですから。当時は父がどのような仕事をしていたか、すべて理解できていたわけではありませんが、国連とは何か、何を目指しているのかといった概念の少なくとも一面(平和の構築、推進など)には幼いころから親しんできました。
ユニセフ(UNICEF)に勤めるようになったのは、巡り合わせです。キャリアのスタート時点ではもっとコミュニケーション寄りで、朝日イブニングニュースで働いていました。その後、ジャーナリズムを学びにコロンビア大学の大学院に進学したのですが、在学中にニューヨークで開催された「子どものための世界サミット」(当時のUNICEF事務局長、ジェームズ・グラントが音頭を取って71か国の首脳を集めた)を朝日ウィークリーの記者として取材して、とても感銘を受けたんです。毎日4万人の子どもたちが、防げる病気や栄養失調で亡くなっていること、世界には解決策や資源があり、必要なのは実際に対処するための政治的意思だということを訴えるビデオが衝撃的でした。どうにかできるかもしれない重大な問題があるのだ、ということに目を開かされたのです。
この取材を通じ、主催団体だったUNICEFのコミュニケーション部門の人たちと知り合う機会があり、大学院を卒業したときに1か月程度の臨時編集者のポジションにたまたまお声をかけていただいて、そこで働きました。その仕事が終わるころに広報部門で人材募集があり、2年間のコンサルタントとして、政策提言や「アフリカ子どもの日」のような特別企画の担当をしました。この仕事を得られたことはとても幸運だったと思います。でもUNICEFの現場はフィールドですから、UNICEFの活動に対する理解を深めるためにも、フィールドに行きたいと思いました。
そこでJPOに応募し、合格。実に多くの邦人職員がJPO出身ですよね。日本政府がこの制度を長年続けていることはとても素晴らしいと思います。私はUNICEFの広報官補としてベトナムに行き、その後空席に応募してバングラデシュで働きました。UNICEFでは自分の専門分野を持っていると非常に役立ちます。保健、教育、子どもの保護、ないし広報やオペレーションといった専門を持っている人が多いですね。
バングラデシュでの勤務が終わるころが2000年だったのですが、「子どものための世界サミット」から10年ということで、振り返りを実施しようという動きがあり、フォローアップ特別総会の開催も予定されていました。これをUNICEFの新事務局次長補佐として統括するポジションの募集があり、応募。合格したときは、私のUNICEFにおけるキャリアの原点である「子どものための世界サミット」のために働けるのがとても嬉しかったですね。世界の首脳たちがさらなる行動計画を約束した最終文書、「子どもたちにふさわしい世界」起草チームの一員にもなりました。
本部で3年半勤務して、再びフィールドに行きたいと思いオマーンにUNICEF代表として赴任しました。1年半後、他の湾岸5か国(サウジアラビア・アラブ首長国連邦・カタール・クウェート・バーレーン)を担当してみないかと言われて引き受けましたが、政策と政策提言を組み合わせた、非常に面白い仕事でしたよ。裕福な国々で、乳幼児死亡率はや教育水準は良好ですが、それぞれいくつもの問題を抱えていて、次なる発展の段階に移行するには何をすべきか、政策的アドバイスを求めていました。
例えば、アラブ首長国連邦ではラクダの騎手として平均9才から10才くらいの子どもが搾取されているという問題がありました。パキスタン、バングラデシュ、スーダン、モーリタニアなど、より貧しい国々から連れてこられた子どもたちがラクダ牧場や市場で生活し、教育も受けられず、親とも引き離され、子どもらしい生活を奪われていました。搾取をやめさせ、子どもたちを適切な施設で保護し、母国へ帰還させるUNICEFの活動に対するアラブ首長国連邦からの出資を受けて、私たちは他国のUNICEF事務所、政府やNGOと協力し、子どもたちの社会復帰を推進しました。ゼロから始めて持続可能な段階まで活動を持っていき、子どもたちの置かれた状況を大きく改善できて、非常に達成感がありました。その後、また違った環境を求めて、ボスニア・ヘルツェゴビナでUNICEF代表として2年間働き、現在のポストに就きました。
Q お父様以外に大きな影響を受けた方はいますか?
もちろんです。上司には良き相談相手となってくださった人もいましたし、役職やレベルを問わず、同僚も私に影響を与えてくれました。「子どもたちのために」とUNICEFに集まり一生懸命働いている人々は、よい刺激になります。みなさん例外なく、語れるものをお持ちですしね。お手本になるような人も、そうではない例もありましたが(笑)、でも人は何事からも学ぶものですよね。
とりわけ、子どもたちへの影響を最大化することに集中し、優先順位や資源を戦略的に配分することができる組織のリーダーたちからは、学ぶところが大きかったです。また、部下たちもそれぞれリーダーシップを発揮できるように支援することができる、マネージメントに長けた管理職の方々…本部でお世話になったネパール出身のクル・ゴータム事務局次長(当時)は、非常に戦略構築能力の高い人でしたが、人間としては偉ぶったところのない、とても良い方で、良き上司でした。
Q 現在のお仕事について教えてください。
UNICEF東京事務所はUNICEF本部公的資金調達部に属しており、公的資金調達が重要課題ではありますが、国際協力や開発協力分野における日本の役割を増進させることにも注力しています。国連システム全体への日本政府の関与を支援し、社会問題―特に支援が必要である脆弱な子どもたち―への資金配分を増やすことも主眼としています。UNICEF東京事務所は日本と韓国を兼轄していますが、日韓両国政府とのパートナーシップを強化して資金調達を図るために、両国の外務省などを含めた省庁に働き掛けています。特に韓国では相当額の援助が北朝鮮へなされているため、外交通商部以外にも統一部と協力関係を築いています。
政策立案や予算配分の過程で大きな影響力を持つ両国の国会議員とも協働関係にあります。UNICEF職員として、差し迫った状況に置かれている世界の子どもの権利や問題について日々取り組んでいますが、その一方で日韓両国における子どもの権利に関わる疑問や問題も色々と出てきて面白いです。
Q 今までのお仕事で一番大変だったことは?
広報部門で働いていたので、難しい対応を迫られる機会は比較的多かったと思いますが、なかでも大変だったのはバングラデシュの地下水ヒ素汚染問題で騒がれた時ですね。このプログラムはUNICEFが草分けとして始めたもので、長年支援を行っていました。当時最新の調査技術を用い、細菌、鉄分、塩素などの水質汚染を調べて安全な水であるという結果が出ていました。また、地質学者など専門家によれば、ヒ素については通常、山間部や商業区域に見られ、プロジェクト実施地域にはみられないとのことでした。ところが、実際にはヒマラヤ山脈から数世紀前にヒ素が流れてきて、地下数百メートルに地下水として溜まっていたのです。つまり、UNICEFが誇りに思っていたプログラムが皮肉にも害毒をもたらす結果になったわけです。
この問題が明るみになって、私たち職員はプログラム運営上の課題と広報上の課題に忙殺されることになりました。バングラデシュは水源が豊富なのですが安全でない場合が多いので、まず取りかかったのは代替水源の確保です。雨水の貯水や湖水などの表面水をろ過する作業を行い、できるだけ多くの水資源を得られるようにしました。その頃、メディアではニューヨーク・タイムズが特に厳しくUNICEFを批判する記事を掲載したり、クリスティアン・アマンプールが番組「60 Minutes」の取材に訪れたりしました。UNICEFのように通常ならば好印象を持たれている機関で働いていると、立場が急に変わって以前のプログラムを弁護しなければならない場合には大変難しいのです。この時のように何か問題があった場合には、プログラム上の適切な対応を行い、それが報道されるようにしなければなりません。
私は一年以上にわたって大変苦しい立場ありましたが、難しい局面での広報活動について学ぶことができ、よい経験になりました。個人的にメディア関係者とのコミュニケーションで困ったことはありませんでしたが、一般市民が受けた衝撃と怒りは強く感じました。「UNICEFは長年、ポンプを提供したり、井戸採掘をして飲料水を我々に提供したりしてくれたのに、それが汚染水だったなんて!」という怒り。もちろん、これは十分理解できるものですが、UNICEFとしてはこのプロジェクトへの対応で手いっぱいだったにも拘わらず、外からは絶えずマスメディアなどから突き上げられて、大変でした。UNICEFは長らくメディアから肯定的に扱われてきていますが、だからこそ、このように批判にさらされた場合に対処する広報体制が課題だと思います。
Q 国連で働くことの良さはなんでしょうか。
平和や開発、人権保護のために働く、これ以上やりがいのある仕事があるでしょうか。特に家族がいる場合は、お金を稼ぐことも大事ですが、人生は短いものです。人生を振り返ったときに、意義のあることに時間を費やした、と思いたいじゃないですか。そして、人の役に立つこと以上に有意義なことがあるでしょうか。特に子どもたちに関しては、教育や保護への投資が長期にわたってその後の人生に効果をもたらすので、本当に大切だと思います。
途上国への開発支援、そして世界経済や持続可能性などより大きな問題に対応する手段として、人と生産力への投資はとても重要です。UNICEFは日本を含む多くの国が長年取り組んでいる開発教育を、(財)日本ユニセフ協会など各国の国内委員会を通じて支援していますが、幼い子どもたちが国際協力や開発協力の大切さ、他国の子どもたちのニーズについて理解する様子を見ていると本当に嬉しくなります。現在のように相互依存が強まっている世界では、これは子どもたちの将来にとって大きな意味があると思いますし、子どもたちの心に平和や寛容さを養う基盤を築くことにも繋がっていきます。こうした活動をしているUNICEFで働けることを、本当にありがたく思っています。
Q 国連の問題点は?
国連が役割を果たすには各国の協力が欠かせないのに、(安全保障理事会の関係など)政治が絡むと、必要な支持が取り付けられないこともあって、これは問題です。イラク侵攻のときに、国連の妥当性を疑問視する声がありましたね。国連は非常に幅広く、さまざまな分野で功績を残しているのに、この一件でそのような認識を持たれてしまったのは残念ですが…。
開発分野の協力において、国連などを中心とする多国間協力こそ推進されるべきだと思います。それぞれの国が優れた人材、技術やアイディアを持ち寄ることができるのですから。二国間援助と多国間援助を上手に組み合わせて相乗効果を上げるための効率的な方法を見出していくことが、今後の課題だと思います。
また、問題というわけではありませんが、一般的の人の参加を促す仕組みがあるといいですね。国連は人々のものなのに、一般の人々と国連との心理的な距離感がある気がします。私は長年ロータリークラブのメンバーなのですが、この組織の場合は会員が毎週顔を合わせて組織の目指す方向を話し合ったり地域のボランティア活動および世界保健機構やUNICEFと連携した国際的な活動を行ったりすることで、全員がオーナーシップを感じています。このような多くの人を巻き込む取り組みが国連にはみられません。国連ボランティア(UNV)という仕組みがありますが、技術系の専門家を途上国に派遣するケースが多く、「自分は国連に参加している」と感じながら国連の理念ために毎週地域に根ざした活動を行う人が何百万人もいる、などということはありません。国連協会や模擬国連、ユネスコ協会、ユネスコクラブもありますが、国連全体としてはそういった仕組みがありません。あったらいいですよねえ。何百万もの人々が国連の理念を地域で実践し、国連のプログラムに出資するようになったら…。でもとにかく、一人ひとりが国連にオーナーシップを感じ、国連の存在意義を理解するということが重要で、それがいま足りないと思います。
Q 国連において日本ができる貢献について、どうお考えでしょうか。
日本は邦人職員や国民、また政策をとおして国連に多大な貢献をしてきていると思います。また、ODAをアフリカで増やすと決めたら必ずやりとおすというような、日本の約束に対する強い責任感は、大切にすべきだと思います。
融資制度を持つようになった新生JICAにも期待しています。特に長期低利貸付は、今のところごくわずかしか社会セクターに流れていませんが、これが増加するとよいなと思っています。世界銀行はすでに途上国の社会セクターに融資していますが、今後社会セクターに焦点を当てたJICAの融資が増えることを願っています。UNICEFとJICAには、一次医療や衛生分野で長い協力関係があり、そこから生まれた、パイロットプロジェクト実施済で事後評価までできているような取り組みが、JICAの融資によって発展していくと素晴らしいですね。
Q グローバルイシューに取り組もうと考えている人々にメッセージをお願いします。
若者が途上国の厳しい環境で職務経験を積むということは、開発に対する理解が広まるという点でも良いことですし、個人的な経験としても大切です。このような経験を通して、開発や国連に対する関心が高まり、理解が深まっていくことは、良い傾向だと思います。
Q 週末はどのようにお過ごしですか。
まだ東京に引っ越してきて1か月しか経っていないのですが、家族との時間を楽しんでいます。実は17歳のとき以来、両親と同じ国に住んだことがありませんでしたし、祖母も104歳という高齢なので、なるべく一緒に過ごすようにしています。今回は家族のそばでできる、面白くて好きになれる仕事を得ることができてよかったです。ボスニア・ヘルツェゴビナではハイキングやスキー、ドライブなどを楽しみ、オマーンでも海岸線をドライブして砂漠や山の写真を撮ったりと、どの国でもその国独自の美しさを楽しんでいました。日本を再発見することを楽しみにしています。
2009年4月1日 東京
聞き手・写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:鹿島理紗
ウェブ掲載:渡辺哲也
(今回のインタビューは英語で行われました)