第129回 沼田隆一さん 国連開発計画・上級調達顧問

写真①

プロフィール

沼田隆一(ぬまた・たかかず):大阪府出身。学習院大学卒業。合衆国国際大学MBA取得、博士課程所属。1981年スミスクラインに入社。1987年にJPO試験に合格。国連開発計画(UNDP)パプアニューギニアにてプログラムオフィサーとして勤務。その後1989年にニューヨークに異動し、UNDP内の国連資本開発基金(UNCDF)へ。以来20年以上ニューヨークにてUNOPS、UN、UNDPで勤務。現在はシニア・アドバイザーとしてUNDPの調達に関する業務を行っている。

Q. 現在のお仕事をすることになったきっかけを教えて下さい。

当時としては珍しかったと思うのですが、私は日本の大学を卒業後、経営学修士号(MBA)を取得するためにアメリカに渡りました。これには私自身が戦後世代であったこと、また当時の日本がアメリカ進駐軍の影響を強く受けていたことも関係していると思います。私は当時としては背が高い方でしたし、髪の毛もカーリーだったせいか「本当に日本人か?」と思われたりもしていたんですよ。そのほかにも親戚に英語教師がいたり、当時ジャズの音楽を聞いたり演奏したりしていたので、アメリカに自然と興味が湧く環境で育ったんだと思います。

そのような戦後という社会状況と個人的な関心が重なり、中学生ぐらいの時から将来はアメリカに行こうと決めていました。今となっては不思議なのですが、中学入学時のタイムカプセルに入れた作文に「将来は国連で働く」ということも書いていたみたいなんです(笑)。もちろん、その時はまさか本当に国連職員になるとは思ってもいませんでしたが。大学では経済学を専攻し、その後の進路として周りからMBAを取ることを勧められたこともあり、アメリカの大学院で経営学を専攻とすることに決めました。

MBA取得後はアメリカの医薬品会社で働きましたが、暫くすると東京に転勤することになりました。プロダクト・マーケティングなどを主に担当していましたが、日本に移ってからは3年ほど非関税障壁(アメリカの商品を日本で売るための関税以外の制限)などに関する業務も行いました。その後アメリカ本社への転勤願いを出したのですが、会社からはもうしばらく日本に残ってくれと言われてしまいました。そこで将来について悩んでいた時に、外務省に勤めていた旧友から「国連でも受けてみたら」と勧められたんです。当時は国連について何も知りませんでしたが、とりあえず受けるだけ受けてみるかというような気持ちでJPO試験を受けてみました。

試験を受けた後は日本で以前と同じように仕事をしていました。ところがある日、突然外務省の人事センターからJPO試験合格の知らせが届きました。そして派遣機関も正式に国連開発計画(UNDP)に決まり、初任地としてパプアニューギニアに派遣されることになったのです。両親は戦争体験があったので、パプアニューギニアと聞いてかなりビックリしていましたけどね(笑)。私には「どうしても国連で」という強い思いがあったわけではありませんが、結局はこれ以上日本にこのまま埋もれたくないという気持ちとJPO試験という機会が一致して、国連で新たな挑戦をしてみようと決めたんだと思います。それ以来もう20年以上国連に勤めています。

当時はJPOから現在の正規職への移行の際に試験(Management Training Programme)があり、それはかなり厳しいものでした。面接では面談のほかに課題を渡されて、1時間のうちにプレゼンテーションを用意をしなければなりませんでした。といっても、考える場所を探しているうちに時間が随分たってしまいましたけどね。私のような元サラリーマン組の人間は、もしこれでだめだったら別の就職先を探さなければいけません。つまり後がないわけです。そこで必死に取り組んでみた結果、幸いにも試験に合格し、その後はニューヨークに移りました。最初はUNDP内にある国連資本開発基金(UNCDF)で評価と渉外の仕事し、その後UNOPSで調達の仕事に移りました。後で聞いてみたら、当時のUNDPの総裁が民間出身で、私のようなバックグラウンドを持った人を採用するよう強い意向を示していたようです。

写真②

Q. パプアニューギニアではどのようなお仕事をされたのですか。

パプアニューギニアではプログラムオフィサーとして第一次産業(農・漁・林業)と観光などを担当しました。といっても希望して行ったわけではなく、着任したら「じゃあこれで」という感じで突然仕事を任されました(笑)。その当時は研修も1年間が過ぎるまでまったくなかったんですよ。それに職員数人の小さい事務所でしたので、上司が出張で外している時などは大きな責任を任されたりもしました。それでも僕は人に恵まれ、当時はエジプト人とフィンランド人の上司の下で働いたのですが、彼らには非常によく面倒を見てもらいました。小さいオフィスのお陰で何かあったら周囲にいつでも質問ができ、私は非常に良い環境にいられたのだと思います。

当時のUNDPは現在とはその目的や役割が違い、資金供与機関として業務を行っていました。ですので、私たちは受益国と他の国連機関と共に協力しあいながら三つ巴で仕事を進めました。私たちはお金を出す側で、直接の執行は国連の専門機関に任せている、というような役割分担です。

Q. 民間企業でも働いたご経験がおありですが、国連の仕事と比べると違いなどはありますか。

国連に入ったときの印象では、一番大きな違いは意思決定のスピードですね。国連はどうしても物事の決断が遅くなりがちです。特に当時のフィールドオフィスでは本部の地域局に相談しなければならないことも多く、意志決定までに時間がかかる傾向が顕著でした。通信手段も当時は電話回線かテレックスしかなかったので非常に大変でした。今では想像もつかないかもしれませんが(笑)。

また国連においては、上司との人間関係が非常に大切です。特にフィールドオフィスのような比較的少人数のスタッフで仕事をする時には、高い対人スキルが必要不可欠です。例えば、職員が5人しかいないようなフィールドオフィスでは、皆で協力して仕事をしていかなければ業務を達成することは難しいですよね。フィールドはある意味において陸の孤島のようなときがありますから。その上で羞恥心を捨てて分からないことは周りにどんどん聞く。民間出身の私としては初めてのことだらけでしたので、恥を感じずに上司にどんどん質問をしていくことで仕事を覚えていきました。

Q. 現在は国連開発計画の上級調達顧問としてお勤めですが、具体的にどのようなお仕事をされているのですか。

現在は、調達に関するUNDPの方針作成などに主に携わっています。UNDPでは調達活動は各事務所で行われますので、組織全体としての方針などをつくりそのフォローに努めています。また、本来の目的とは違った形で転用される可能性があるものに関しては細心の注意を払って調達をするようにしています。私の事務所はそうした際の方針や規則の作成、サポート業務も行っています。

写真③

Q. 国連が一般企業からの入札を行う際、公平さを保つために気をつけていることは何でしょうか。

一般企業からの入札を行う際に特に気をつけていることは主に二つあります。まず一つは、入札の方針や入札手順をしっかりさせることです。私たちの組織のように物事の決定が各事務所で行われている場合は、全体としての方針を確立することが非常に大事です。もう一つは、独立した委員会を設立して第三者の目で見て公平な取引であることを確認することです。国連は公的機関ですから、各国の拠出金、もとはといえば皆さんの税金で運営を行っています。よってこれらの方法を通して、入札や調達の透明性を高めながら、公平な競争と入札を行うことが重要だと考えます。

Q. 今までで一番思い出に残った仕事は何ですか。

国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)にいたとき、非常に複雑な調達を行いました。事業はウクライナのチェルノブイリに関するもので、原発事故が起こった後の現地における放射能の影響を調査するモニタリングシステムを調達するものでした。資金自体はアメリカから来ていたのですが、国連がその間に入って入札と調達を行う、というものです。非常に複雑なプロジェクトで、アメリカとウクライナ両国からの多くの関係者が関与していました。

チェルノブイリという国際的な問題に携われているということが面白かったですし、アメリカ政府からお金が出ているということでUSAIDやEPAなどアメリカ政府の国際援助機関、専門機関、そしてウクライナ政府の人々と一緒に働いたこともいい経験になりました。アメリカ政府の調達の仕方を知りつつも、受益国のウクライナの反応や1年以内に調達を完了させて欲しいというよう要望にも応えていくという意味で、複雑でしたがやりがいがありました。それだけに、プログラムの最後にテープカット・セレモニーを行ったときは非常に達成感がありました。また各国の方々と協力し合って完成することができたプロジェクトだったので、終わってその喜びを皆で共有した瞬間は「これこそが国連だ」という醍醐味を感じました。まったく分野の異なる仕事をする人たちが一緒に何かを創りだそうとする強い想い。そして、その強い想いを汲んでプロジェクトを調整していく喜び。これはこの仕事ならではの経験だったと思います。その意味でも、このウクライナに関する案件は僕の中一つの大きなできごととなっています。

国連というのは様々な価値観、宗教や文化的な背景を持った人たちが集まって成り立っている組織です。そして、その国連がまた違う国・政府の人たちと仕事をする。このようなことはやはりこの組織でしかやっていけない仕事ではないでしょうか。もちろん、仕事がダイナミックであるがゆえに、一見バラバラに見えるときもあります。企業風土があるようなないような。でもその中で時には喧々諤々と意見を交わしながら、一つのものを目指しまとめていく過程にこそ国連の魅力があるのだと思います。またそういう過程をやりがいとして楽しめる人こそ国連に向いているのだと思います。

写真④

Q. 国連に入って一番大変だったことは何ですか。

そうですね。私はUNDPの人間なんですが、3年間国連の調達部門で働いていました。その時に平和維持活動(PKO)に関する調達を行ったのですが、契約の額が桁違いに大きく、それには気を使いましたね。額が大きくなるとメディアの関心も高いですし、その分リスクも高くなります。そのリスクをどのように回避していくか。また契約そのものの交渉も長期にわたるなど、心理戦のようなところもありました。1パーセントの間違いでも大きな金額になってしまいますし、精神的に大変でしたね。間違いのないように、完璧に交渉を進め、計画を練り上げていくのは簡単ではありませんでした。

またPKOは世界中で展開していて、いつ何が起こるかわからないわけですから、自分の勤務時間というものが実際あってないようなものでした。常に極度の緊張にさらされている感じです。そのような面で体力的にも厳しかったですね。また、PKOの調達は主に食料や燃料が多くを占めるのですが、多国籍から成るPKOは各国から来る兵士の食料にも気を使わなければいけません。イスラム圏出身の軍隊にはハラールなど食肉に制約がありますし、インド出身のPKO兵士にはバスマテライスを用意するなど。そのような宗教的・文化的な制約は難しいですが尊重しなければいけません。細部にわたって考えられるよう注意しました。

また燃料の場合は常に値段が変わりますから、そのリスクをどう分散させていくか、どれくらいの燃料の備蓄をしていくのか等にも気を使いました。年間の消費量はどれくらいのなのか、どのように分配していくのかというような事もしっかり押さえながら仕事をしなければいけません。こういった調達は額も大きいですし、各国軍の問題にもなっていきますから加盟国も非常に敏感になります。

Q. 今までの人生で支えになった言葉やモットーがありましたら教えて下さい。

モットーというか、いつも心に留めていることは三つあります。一つ目は「人生は一度きり。自分のやろうと思ったことを情熱もってやっておかないと後で後悔する」ということでしょうか。自分がどれだけ情熱をもって生きるかということを、常に自分に問いかけながら取り組んでいます。

二つ目は、「国籍も宗教観も違う、自分の周りに居る人たちに助けられて今の自分がある」ということです。逆に言うと僕の周りに居る人を大切にしたい、そういう思いで生きています。だから今までの人間関係は感謝をし、大切にしていかなければいけません。そうするとどんな職業の人々にも尊敬の念を持つようになります。極端な例ですが、ニューヨークには靴磨きをしている人がたくさん居ますが、僕は非常に彼らを尊敬しているんです。だって僕だったらあんなに靴を光らせることはできませんし、やってもらった後は非常に気持ちがいいですよね。彼らはまさにその道のプロフェッショナルなのだと思います。そのような感覚で、どんな人も僕にはできないことをやっているんだと尊敬しています。

また「どんな小さなことにも感動する」ということは僕の大事な信条です。感動する心を持ち続けたいといいますか。仕事に情熱をもって取り組む、そしていろいろなバックグラウンドから来る多くの人に感謝する、感動するという気持ちを持ち続けること。この3つが自分の中の人生観のようなものでしょうか。

写真⑤

Q. 最後に国連を目指す方がたを含め、グローバルイシューに取り組む人たちに一言メッセージをお願いします。

この世界の誰かのために役に立ちたいという思いや、自分の個人的な関心は必ずどこかで人の役に立つものです。そのためにまず躊躇せずに最初の一歩を踏み出してもらいたいです。それは決して難しいことでなくてもいいのです。世界に貢献する形や方法は決して一つではないですし、様々な形があってしかるべきでしょう。そのために、まず自分はどのような形で貢献できるのかということを掘り下げ、またそれをやりたいという情熱を持ち続けることが一番のポイントだと思います。 世界は広いのです。皆さんも是非一度は自分の国から出て、世界の現状や自分なりの貢献の仕方というものを見つめてみて下さい。

2010年5月20日、ニューヨークにて収録
聞き手:入江晴之
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:鹿島理紗
ウェブ掲載:中村理香