第136回 緒方亜紀さん 国連事務局・PKO局
プロフィール
緒方亜紀(おがた・あき):兵庫出身。大阪府立女子大学(現大阪府立大学)で言語学(英語)を選考後、オレゴン州Portland State Universityで日本語教師の資格を取得、その後同大学院でPeace & Conflict Studiesの修士号を終了。2001年軍縮局でのインターンの経験を経て、2002年国連事務局総会・会議管理局採用以来、2004年から3年間シエラレオネでの平和維持活動、軍縮局軍事部、後方支援部、PKO局と多岐に渡って活動し、2010年1月~4月までハイチの平和維持活動に参加。現在はニューヨーク国連本部PKO局の管理・分析職
Q. いつ頃から国連勤務を意識するようになりましたか。
漠然とではありましたが、テレビで湾岸戦争関連の同時通訳者の姿を観て、国際関係論に興味を持ち始めたことを覚えています。本格的に国連を意識し始めたのは、紛争解決を勉強するためにポートランド州立大学院に入ってからです。大阪で通っていた大学では言語学と文学の勉強をしました。私の家族は全員医学系の仕事をしており、当然私にも同じような期待が寄せられていたのですが、数学と化学の成績があまり好ましくなかったという事実があり、高校1年生のときの家族会議で「医学薬学は無理か」という結論になり、文系に進むことになったのです。高校一年のときの短期留学の経験も結果としては影響しているかなと思います。それと、昔からいろいろな国の文化や習慣に興味がありました。
本来、渡米したきっかけは日本語教師になるためでした。日本語教師の資格を取るための課程で勉強しながら、大学の教壇にも立っていました。そうこうしているうちに、もうちょっと勉強を続けたいという気持ちが膨らんで、「日本語」を教えることをすぐに職業として続けていくより、大学院に行ってずっと興味のあった「国際関係」に繋がる分野の勉強を始める決意をしました。いろいろあった選択肢のなかで紛争解決を選んだのは、渡米後改めてアメリカと日本の個人間及び国家間の問題解決方法の違いを見せつけられて、この分野に興味を持ったためです。人々が紛争に至る軋轢の根源っていうのは一体何なのだろう、そういった事を深く追求していきたかったのです。日本語教師から紛争解決の専攻へは大きな変化でした。それが今から約10年前ですね。
Q. その後国連勤務に至るまでの経緯を教えて下さい。
大学院のカリキュラム内でインターンシップ経験が必須だったので、そのときに国連に応募してみようと思いました。当時は国連の採用事情を全く分かっておらず、答えをもらうまで6か月近くかかりました。実のところ、結果が届いたとき既にはもうオレゴン州に事務局を構えるMercy CorpsというNPOでのインターンが終わっているという状態でした。ただ、せっかく合格結果をもらったので、国連のインターンシップにも挑戦してみることにしました。
ちょうどそのインターン内容が軍縮局が担当する第一回「小火器および軽火器の不正取引に関する国連会議」に関わるものだったため、同会議に参加するという名目の下、大学の研究費から助成金を出してもらい、ニューヨークに来ることができました。何だか降って湧いたような感じの機会でしたが、この経験が本格的に国連という組織への勤務に結びつく大きなきっかけとなりました。このインターンシップが、後々の総会・会議管理局での採用に繋がったというわけです。
Q. 国連でのインターンシップ経験について教えてください。
結構たいへんなものでした。このインターンシップを頂けたのはとてもありがたかったのですが、実は専門にしていた紛争解決の中でも、私はコミュニティ、地域レベルの問題解決に焦点を置いていました。それがこの小火器問題との出会いがきっかけで突然、国際紛争関連のとても特殊な分野に関して経験を積むことになったのです。
いざインターンが始まると職場は人手が足りない状態で、とにかくいろいろな事に参加させていただきました。会議に参加するのはもちろんのこと、会議記録をつけたり、関連書類を作成したり、その他必要に応じて会議にまつわる事務など、とにかく何でも。最終日は翌朝まで調整が続きました。「インターンじゃない、奴隷だ」というジョークがたびたびインターン仲間の間でとんでいたことを思い出します(笑)。けれど同僚と上司にはすごく恵まれていました。インターンだからお金がなくて毎日たいへんだろうと、ご飯を食べにつれていってくださったり、帰りのタクシー代を恵んでくださいました。この経験を通して、仕事やプロジェクトを潤滑に成し遂げていく上での人間関係の大切さを学びました。
大学院の卒業論文のための資料集めにも、このインターンは役立ちました。インターン終了後、大学院に戻り小火器問題に関する論文を仕上げました。その後、卒業式を待たずにニューヨークへ拠点を移し、 OPT(Optional Practical Training: 米国の大学卒業後、学んだ事を実践するために与えられる職務期間)を利用して、生活を成り立たせるためにもあり、ニューヨークの日系の会社で派遣社員として仕事を始めました。10月の半ばに、国連から採用してもらえるとの通知をいただき、思い立ったが吉日と、その日のうちに会社に退社の意思を伝え、オタワに飛び、OPTからG4ビザ(国連機関職員用のビザ)に切り替えを行って二日後に、「いざ鎌倉へ」とのように舞い戻ってきました。
Q. これまでで印象が一番残っている経験を教えて下さい。
やはり震災後のハイチでの経験は貴重なものだと思います。突然の出向命令だったので、支援のため現地入りする各国連職員の仕事内容すら明確化されていませんでした。職員はそれぞれ、現状において「自分には何ができるのか」を考え、動く必要がありました。私も事務総長からUnited Nations Stabilization Mission in Haiti (MINUSTAH: 国連ハイチ安定化ミッション)の職員に対して送られた手紙を壁に貼って仕事に臨みました。
初めの3日間はそれこそ寝場所と働く場所を確保するという作業から始まりましたね。以前、シエラレオネで同じように働いたことのある後方支援部門の現地勤務支援業務(ミッション・サポート)に配属になり、オフィス内での仕事が始まりました。もちろん震災後の現地住民の緊急支援活動に関する活動が最も大切な国連としての役割だったわけですが、まずはそれを現実化させるためのミッションサポート側の活動の基盤づくりも大切な役割のひとつでした。震災により国連組織そのものものが十分に機能していなかったなか、通常のミッションの運営からは異なった非常事態での活動でした。また、現地の国連職員の宿営の場所、オフィススペースをどう確保するのか等、とても現実的な問題があり、国連カントリー・チームとの調整会合は開かれるのですが、結局すべての組織や機関にはやはりそれぞれの優先事項があり、なかなか答が出ないまま調整が続くことも多々ありました。そんなときには、私は地道に自分一人で決められる範囲内の仕事を着々と探して上司と相談したりしました。
仕事の延長線上にある自分自身の健康面・精神面の管理も重要な問題でした。現地入りし、その日のうちにハイチでの勤務歴が長い、シエラレオネ時代からの友人のところにすぐに足を運び、いろいろな現地生活が長い人にしか判らない情報の収集活動をし、サバイバルのための導線を敷きました。現地入りする前、どんなものが揃っているか検討がつかなかったので、寝袋、枕、毛布、パワーバー等々、とりあえず必要最低限のものをスーツケース1つにまとめて来ていました。
はじめのうちは買い物ができる状態ではなかったので、必要な物を仲間内で分け合ったり交換したり、ドミニカ共和国から陸路で移動する職員に買い物を頼んだり、後から続いてニューヨークから来る職員に届けものをお願いしたり。ニューヨークにいる上司がフランスワインを届けてくれたのはとてもうれしく思いました。また最低限の持ち物に加えてもう一つ、好きな作家の一人である宮本輝さんの作品「月光の東」を1冊、読書用に持って来ていました。 特に、2週間の滞在のはずだったのが、予定していた期間よりずいぶんと長くなると分かった時点では、自分が力つきて倒れて荷物になってしまったら支援に来た意味がないと思い、ある程度のところで仕事を切り上げて精神面で意識的に仕事のオンとオフの区別をつけるように心がけました。
今回震災後のハイチを訪れて、ハイチ国民は意外とこの一連の災害被害を、たくましく静かに受け止めているとも感じられました。これまでも貧しさに耐え、たいへんな思いをしてきているので、哀しいことなのですが国民は物事が上手くいかないことを許容できる、という印象を改めて受けました。 残念ながら、今回の地震からの回復、復興は一朝一夕にできるものではなく、長期を要する問題だと思います。 そういった状況のなかで、国際機関に、私たちに、何ができるか、とても大きな課題ですね。
Q. ニューヨークの国連本部での仕事と生活のあり方は、おそらくハイチで経験されたそれとは正反対に位置すると思うのですが、いかがでしょうか。
人材が多く揃うニューヨークでは、各個人のやるべきこと、仕事内容がほぼ完全に決まっています。毎日朝起きて職場に行くと、大体自分の仕事の流れを頭に描くことができますが、フィールドでは毎日、予想していなかったことへの対応をその場その場でするという感じですね。その日その日で違う仕事内容が毎日待ち構えているわけです。このような経験から、独立心や責任感が培われるので、自然と決断力や忍耐力がつきます。また、安全面、ロジ等においてもニューヨークのようにいかず、集団行動を行う事が多くなります。車も全員が持っているわけではないので相乗り、仕事場も生活する場も皆一緒、という感じです。単独行動ができなくてもどかしいときもありますが、逆に共同生活を行うことで助け合いの精神を学べます。そういう意味ではニューヨークでの人間関係の在り方とまったく違います。またハイチという今回現場に足を運んだおかげで、ニューヨークでの生活レベルのありがたさに改めて気づくことができました。
Q. 現在ニューヨークで従事されているお仕事に関して教えて下さい。
国連のPKO局において、 各国政府から一時的仮解任され国連に派遣されている軍人が 大部分を占めるのがいまの職場です。基本的にPKOの軍事部隊の活動を監督、管理する軍事組織ですが、私はここで、国連職員として、人事関連、予算組み、会計監査、また国連の規定を民間人のスタッフの立場から助言する、といった軍事組織の運営サポートをする立場にあります。オフィス内にいる135人中、現時点においては専門職員の民間人は6人というちょっと風変わりな環境ですが、 平和維持活動の中でも、より良いCivil-Military Co-operation (CIMIC: 民間と軍の協調)の必要性が問われるなか、軍人と民間人の文化が共存しているオフィスは象徴的であり、その環境での仕事はとても貴重な経験だと思います。
上司や同僚として配属される軍人たちは、任期2−3年をめどで配置換えが常にあり、任期を終えると職場を離れていってしまいます。こういった環境では、組織としての安定性をどう保っていくかということが重要点となります。国連組織に長く勤めている民間人スタッフとして、私は国連の規則・規定に関して彼らに助言をするという立場にあります。職場で使用する言語は主にフランス語と英語です。2004年-2007年にかけてUNAMSIL(United Nations Mission in Sierra Leone: 国際連合シエラレオネ派遣団)とUNIOSIL (United Nations Integrated Office in Sierra Leone: 国際連合シエラレオネ統合事務所)で平和維持、平和構築、両方の活動に参加してニューヨークへ戻ってきて以来、本格的にフランス語の習得に力を入れ始めました。現在でも国連で、「フランコフォン文学」や「フランス語と外交」など、フランス語の特別講義の授業を受講しています。
Q. シエラレオネにいらしたときのことも、教えて頂けますか。
現地業務支援 (ミッション・サポート)事務所での勤務でした。当初は査問委員会の運営を担当し、その後現地業務支援に移り、マネージメントに直に関わることになりました。具体的にはUNAMSILというPKOオフィスを閉め、UNIOSILという統合事務所を立ち上げる変遷時に現地業務支援の仕事に携わりました。統合事務所になってからは、カントリー・チームとの仕事を行うようになったのですが、事務所一つ統合するにしても、例えばWFPにはWFPの予算拘束があり、私たちPKOにはPKOの予算拘束や規定があるなど、難しい部分が多く調整に時間と労力を費やしました。未来図を掲げて統合事務所を立ち上げるのは効率が良く、理論的には理にかなっているのですが、実際現地でそれを実践することは、なかなか難しいということを学びました。また、2007年に行われた大統領選挙支援活動の準備にも参加させていただきました。
Q. そもそも総会・会議管理局から、シエラレオネ、ハイチなどの現場、また現職のPKO局でのお仕事にはどのように繋がったのでしょうか。
インターンから始まって、総会・会議管理局で働いてその後は繋がったというよりも 契約が切れそうだという現実的な問題に直面していて、結果としてフィールドに出る事になったといったほうが正しいほど、かなり行き当たりばったりな変化だったのですけれど。総会での会議運営の仕事はいろんな国連議題を世界的視点から知ることができるのはとてもよい経験だったのですが、経験を積むために、総会や安保理で決められたことが実践されるフィールドにも勇気を出して出た方がよい頃かもしれないと思い、PKOの空席に応募しました。確かシエラレオネではない別のところに応募したはずだったのですが、シエラレオネでのPKO活動が終焉に近づき、軍撤退が着実に進む中、急遽人手が足りなくなったシエラレオネに採用されることになった、というわけです。その後、スーダンかコンゴ共和国のPKO活動に参加するという選択肢があったのですが、フィールドと本部での見解両方を、バランス良く兼ね合わせるのが大切だと思案した結果、とりあえずニューヨークの本部に一度戻ってこようと決めました。
Q. 今後はどんな方向に進もうと考えていらっしゃいますか?
しばらくはいまの職場での仕事を続けて行く予定ですが、その後はまた機会があればハイチに帰るか、もしくはアフリカのフランス語圏のミッションに行ってみようか、と考えていますがまだ決めていません。 最近、PKOの活動だけではなく、平和構築に関心があり時間があるときにはいろいろ関連書類に目を通したりしています。今後の具体的な設定はまだできていないというのが実情ですけれど、時間は着実に過ぎていくので、具体的に積極的に動かなくてはならない思っています。
Q. 国連で働く魅力は何でしょうか?
母国の日本という国には「日本人」ばかりですが、国連には文化的・民族的な多様性があります。そんな中で、世界レベルで見解を広げながらも、日本にいないからこそあらためて、日本の良さを実感できたりもします。その多様性の中でやっていくのが、難しくもありでも楽しくもあり、それが一番の魅力です。
Q. 緒方さんの考える、国連で働く上で大切な要素は何だと思いますか?
組織としてのビジョンや活動の枠組みを理解した上での自主性が大切だと思います。 自分の長所短所を確実に把握して、人を頼りにするのではなく自分でできる仕事を探して、自分で問題を解決する、という姿勢が大切ですね。そういった自主性はキャリア活動でも役立ちます。 でも、そういったなかでの、チームワークも同等に大切な要素だと思います。仲間とのコミュニケーションはかかせません。公私の両立も大切だと思います。そのために、仕事がさほど多くないときはさっさと切り上げて早めにオフィスを出て、昔から好きなテニスやバトミントンといったスポーツで心も身体もリフレッシュしています。
Q. 話は飛びますが、現在取り組んでおられる分野で、日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。
そうですね、やはりもっと多くの自衛隊、警察要員を派遣して頂いて人的貢献を高めていって頂きたいです。まず第一に、日本の部隊の活動は仕事が確実で信頼度が高い評価をされています。今回のハイチへの派遣は閣議決定をはじめ、要請されてから早く決断が下されて、よい意味でとてもびっくりしました。ただ国内ではまだまだ平和維持軍の活動に参加することに、どういった利点があるのかというレベルの論争が続いているみたいですね。やはり、言語の壁も現実問題としてあります。まず、利点に関しての論争に決着が着かない限りその次のレベルであるPKO活動に向けてのトレーニングなど実践的なことには着手されないなどとの現実問題もきいています。でも、やっぱり参加する日本人の数が増えれば国際社会に対して日本の取り組み姿勢が意欲的、協力的だという証明にもなりますし、結果的には、日本の国際社会における立場の向上にもつながり、影響力も高まっていくと思います。それと同時に、現地にいってみないと見えてこない現実もあります。実際に足を運んだ人が見たもの聞いたこと感じたことも、今後の政治指針や方針を決めていく上での大切な情報源のひとつです。
Q. 最後に、これからグローバルイシュー・国際協力問題に取り組もうと考えている方々へのメッセージをお願いします。
「国連で働きたい」という漠然とした目標を持つのではなく、自分がどの分野に興味があるのか、貢献できるのかを具体的に自信を持って言えることは大切です。 様々な国際問題があるようにその解決に協力する手段、方法はひとつだけではないと思うので、学術分野でもいいし、医学分野でもいいし、航空学分野でもいいし、専門性と高めていってください。自身を持って自分の専門を言える人は強いです。
もうひとつ、協調性。自主的に仕事もできるけれど、それと同時にいわゆる「チームワーク」ができることは、とても大切だと最近、痛感します。あと、とても基本ですが、言語はできて不利になることはやっぱりないです。 鮮明に覚えているのですが、仕事を初めてすぐの頃、ある面接で「あなたフランス語はできますか?」という質問が一番に飛んできたんです。これまでの経歴のことを聞くわけでもなく、履歴書を見るわけでもなく、「はじめまして」の次の質問が「フランス語ができますか?」だったのです。そんなにも 言語能力というのは大きな要素を持っているのか、と思いました。また、もしそれが理由で仕事があげられないと思われないように、できるようになろうと思いました。
最後に、得意だったり好きだったりするスポーツや、趣味を持っていると強いですね。その活動を通じて友達もできるし、人間関係をスムーズに進めることに一役かってくれたりします。私も本格的に写真も始めようかな、と考えているところです。趣味を持つことで、自分自身の仕事を生産的にこなせることに繋がります。様々な分野でいろいろな可能性を秘めた日本人の方々がグローバルに飛躍されていく事に期待しています。
2010年6月18日、ニューヨークにて収録
聞き手:岩崎優
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:堤敦朗
ウェブ掲載:由尾奈美