第25回 池上清子さん 国連人口基金 東京事務所長
プロフィール
池上清子(いけがみきよこ):国際基督教大学大学院修了(行政学修士)。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)定住促進担当、国連本部人事局行政官、家族計画国際協力財団(JOICFP)調査計画部長、同企画開発部長、国際家族計画連盟(IPPF)ロンドン資金調達担当官などを経て、2002年9月より現職。外務省ODA評価有識者会議委員、内閣官房長官諮問機関アフガニスタンの女性支援に関する懇談会メンバーなどを歴任。著書に『有森裕子と読む 人口問題ガイドブック』(国際開発ジャーナル社)、共著に『シニアのための国際協力入門』(明石書店)など。
Q.いつ頃から、また、なぜ国連を目指されたのですか?
私が幼い頃、父が蚕糸の遺伝子の研究をしており、父のもとに学びにきていたアフガニスタンやインド、パキスタン、そしてイタリアなどからの留学生を身近に見ていたことが最初のきっかけかもしれません。国籍に関係なく、共同でひとつのことに打ち込む彼らの姿を目にする中で、国境を越えた 地球規模の課題に関心をもつようになったのだと思います。
大学生の頃、指導教官であった横田洋三先生の影響もあり、国連で働くことを具体的に考えるようになりました。しかし、一度私企業を経験してみたいと考え、大学卒業後は、一旦出版社に就職しました。出版社の仕事は興味深いものでしたが、次第に、一生仕事に打ち込みたいという自らの思いと、会社が女性に求める役割との間にギャップを感じるようになりました。そこで、改めて横田先生に国連を目指したい旨を打ち明け、先生のアドバイスを受けて大学院に入学、修士論文のテーマも国連に関連するものを選び、国連への準備を始めることにしました。
Q. 国連におけるこれまでのお仕事について教えてください。
大学院卒業後は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の東京事務所で難民の定住促進担当として働くことになりました。当時はベトナムからのボートピープルが最も多い時期だったのですが、一方で、日本はまだ難民条約を批准しておらず、難民を日本に定住させることができない状況でした。
ですので、UNHCRでは、各難民の調書をとり、定住国を探し、無事出国先が決まると、難民が航空運賃などの費用を借りられるよう国際移住機関(IOM)との調整の上、パスポートをもたない彼らを飛行場での出国まで見届けるといった仕事をしていました。当時は、成田や関西の空港まで足しげく通ったものです。しかし、中には何年間も行き場をみつけられない難民も多くいたため、後に日本が難民条約を批准し定住が可能になった際に、結局日本に定住する人々もいました。その後、日本に定住してベトナム料理店を開いた人がいて、レストランが成功した後、お礼にとお店に招待してもらったことを印象深く覚えています。
その後、NYの国連本部人事局にて行政官として働くことになりました。これは、大学院の2年生の夏頃に送った履歴書が、国連人事局のポストの選考ショートリストに残ったためで、履歴書を提出したことすら忘れた頃に人事局長から突然国際電話がかかってきたのです。電話にでてしばらくは、何のことかもわからず、「どなたですか?」、「どうなさったのですか?」とかみ合わないやりとりをしたことを懐かしく思い出します。UNHCRの仕事もやりがいがありましたが、結局より大きなチャレンジをしてみたいと考え、NYにいくことにしたのです。
NYでは、その後の人生を決定づけるできごとがありました。子どもの出産です。妊娠中の検診では医師から順調にお産ができるだろうと言われていたのですが、いざ陣痛が始まり病院にいくと12時間たっても産まれない。レントゲン検査などの結果、急遽帝王切開を行うこととなり、ようやく無事に子どもが産まれました。最新の設備が整った病院で、産婦人科医に加えて、麻酔科医、小児科医、そして看護師たちに助けられての出産でした。その時、強く実感したのです。これが開発途上国であった場合、私も子どもも死んでいたのではないかと。たまたま私は運がよく先進国で出産をしたため、急に帝王切開をすることになっても3人の医師が他の医療スタッフとともに、最新医療機器を使って対応してくれた。しかし、国によっては同じような状況で、毎年何万人もの女性が亡くなっているということを身をもって認識するようになったのです。
その後、日本のNGOである家族計画国際協力財団(JOICFP)や国際NGOの国際家族計画連盟(IPPF)でも働きましたが、この体験以降、一貫して「女性が自らの健康について自分で決められるようにすること」を自分の軸に据えて働いてきました。現在の仕事を進めていく上でも、これらのNGOを通し開発途上国で働く中で出会った現地の女性たち一人ひとりの顔が思い出され、彼女たちの役に立ちたいという思いが原動力となっているように思います。
現在は、国連人口基金(UNFPA)東京事務所長として、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)、国勢調査などをはじめとする人口と開発、そしてジェンダーに関する政策提言を行っています。また、UNFPAのNY本部やフィールドの活動を、日本の人々やメディア、そしてNGOなどに伝えることも重要な仕事の一つです。また、若者を重視しているUNFPAとしては、東京事務所を通して、日本の若い人に国連のことを知ってもらったり、ボランティアやインターンなどの機会を通し、若い人が国連に触れる機会を増やすようにしています。
Q. これまでで一番印象に残ったのはどのようなお仕事ですか?
先ほど、お産のお話をしましたが、その際に病院につれていってくれたのは、国連で働いていたザンビア人の友人でした。彼は、国連事務局の法務局で働いていましたので、職場も異なり、また国籍も異なるわけですが、友人の紹介で仲良くなりました。その後、今でも家族ぐるみのお付き合いが続いています。国境に関係なく、素晴らしい人々と出会え、同じ目標に向かってともに仕事をしたり、プライベートでも友達になれることは、国連の醍醐味の一つであると思います。
また、国連を含む私の人生や仕事において、最も印象に残り、影響を与えてくれているのは、加藤シヅエ先生の存在です。加藤先生は、104歳で亡くなった日本で最初の女性国会議員として有名でいらっしゃいますが、大正デモクラシーの頃、アメリカから日本に家族計画の理念と実践を紹介された方でもあります。1920年代、NYのハーレムで、多くの女性が貧困に苦しみながら望まれない妊娠をし、その結果、針金を使ってみたり、2階から飛び降りたりすることで子どもを堕ろそうとしている現状を目にされ、マーガレット・サンガーという後のIPPFの基礎をつくったアメリカ人の保健師などと協力して、家族計画を推進されました。時は、コムストック法というセクシュアリティーに関する情報の流通を制限する法律のもと、家族計画に関する活動が全面的に法律で禁止されていた頃のことです。
日本に帰国すると、加藤先生は、日本でも欲しい時に子どもをつくる、つまり女性が自分で自分の体や妊娠や出産の調節をするということを推進されました。それまでは女性の自立というと、教育、労働、政治、法律上の平等といったいわゆる社会的な話が多かったのに対し、まず自分の体を調節できずに女性の自立は語れないと考えられたわけです。自分の体を知り、自ら人生設計をすることが自立の基礎となると。その後、加藤先生はJOICFPの会長になられたのですが、その関係もあり、個人的にもたいへんお世話になりました。加藤先生は、明治生まれの女性としては背の高い人で、体型が似ていた私は、生前スーツをいただいたり、亡くなられた後もお嬢さんである加藤タキさんから形見分けをいただいたりしました。今でも大切な行事のときに、大切に着ています。
Q.逆に、どのようなことがチャレンジだと思いますか?
国連で働く上では、同僚や上司と文化や価値観が異なることによって悩むことがあります。また、仕事と家庭のバランスについては、もっとこうすればよかったのではないかと後悔することもあります。その他にも、いろいろなチャレンジがあると思います。しかし、人生には、うまくいく時とうまくいかない時の両方があるものです。ですから、嫌なことはくよくよせず忘れることです。忘れられないとしても、今解決できないことは、とりあえず棚上げしておく。少し棚に寝かせておいて、必要な時がきたら、おろしてきて考えれば良い。棚に上げているうちに、しばらく時間がたつと、かつて問題だったものがすっかり問題ではなくなっていたり、逆に自分を支えてくれる力に形を変えていたりする。私はこれを棚上げ方式と呼んでいますが、大事なことだと思います。どうしてもその時にやらなければならないとは思いこまず、少し脇に置いてみたり、時間をおいてみてから取り組んでも良いわけですよね。そして、棚上げしたこと自体を忘れてしまうほど忘れられるようになると、もっと良いかもしれませんね。何か棚上げしたのだけど、何だったかしらって(笑)。
UNFPAの仕事に関して言えば、扱っているテーマの多くが政治的な課題となりやすい難しい問題であるということが挙げられます。例えば「人口」ひとつとっても、国によっては貧困人口を多く報告することで援助をより多く得たいと考える国もあれば、逆に実際より少なく報告したい国もある。また、国内で民族間の争いがある場合、人口にまつわる数字ひとつが民族の存続や国の動向に大きな意味を持つ場合がある。また、女性の人権にしても、女性が自分の健康について自分で決めた結果が、国家や国連の枠組みや決め事と異なるときにどうするのかという問題もあります。そして、家族計画についていえば、文化的に子どもが多ければ多いほど良いとするところもあれば、宗教的に家族計画を良しとしない国もあるわけです。中絶を巡る議論は特に大きく、アメリカは中絶に関する政策を理由に、5年間に渡りUNFPAに対する拠出を中止しています。日本やヨーロッパは、アメリカとは異なった考え方に基づき引き続き貢献してくれており、特に日本は、90年代にはUNFPAに対する拠出第一位の座を維持していました。この点、たいへん感謝しています。
Q. 国連改革の中でも重要な議論の一つである、女性の人権の今後についてはどのようにお考えですか?
国連の文脈では、先般だされた「開発・人道支援・環境分野の国連システムの一貫性に関する国連事務総長ハイレベル・パネル」の報告書において、新たにジェンダーに特化した機関をつくるということが提言されています。国連合同エイズ計画(UNAIDS)のような国連システム内の調整機関をつくることで、ジェンダーの平等をさらに推進していくことになるのかもしれません。
具体的に、リプロダクティブ・ライツについてみてみると、1980年代に、リプロダクティブ・ヘルスの概念よりも先に、リプロダクティブ・ライツという考え方が広まった。1980年代後半から1990年代前半に各国のNGOが連携しながら、リプロダクティブ・ライツをまず勝ち取り、それをもとに、ヘルスにつながるよう市民社会のネットワーキングを行ったんですね。そして、この市民社会の盛り上がりの結果、1994年に国際人口・開発会議(ICPD)が開かれ、各国政府代表がリプロダクティブ・ヘルスを初めて国際文書に明記したのです。この頃までは、権利を勝ち取るため、そして勝ち取った権利をなるべく多くの人が享有し、行使するための、まさに闘いの歴史でした。このICPDを契機に、人口問題は数の問題だけではなく、カップルや女性の人権の問題として新しいパラダイムのもと取り組まれるようになったわけです。この時点でリプロダクティブ・ライツをめぐる闘いは終わったわけですが、次に待ち受けているのは、このリプロダクティブ・ライツという権利は、果たして普遍的な権利であるのか、文化によって中身が変わる権利なのかという問題です。また今後は、女性の権利に対する男性のコミットメントをいかに高めていくかということが鍵になると思います。女性の人権は、女性が主張し、女性に働きかけているだけでは何も変わりません。男性に働きかけ、男性が女性の人権を認め、行動していかなければ決して実現することができないのです。
Q. 国連に対して日本ができる貢献についてはどうお考えですか?
UNFPAの活動分野において、日本は、経済的援助以外にも自らの経験を活かしてできることが沢山あると思います。日本では戦後まもなく、各村に一人ずつ保健推進員という人がおかれていました。彼らは保健所でトレーニングを受け、救急ケアや家族計画について人々に指導をしていました。保健推進員の仕事は人々の憧れの職業で、名誉ある職業とみなされていたんです。公衆衛生の概念そのものではないとしても、戦後間もない時代から、日本には自分たちの健康は自分達のコミュニティで守るという実践があったわけです。母子手帳などの制度も世界に誇ることができます。日本と開発途上国では識字率などに差異はありますが、お母さんたちが自分の妊娠の状態を知り、子どもの健康を守り、子どもの予防接種を管理するといったこのシステムは、世界に発信すべきものだと思います。
また、かつて奥羽山脈の中の山間高冷地である岩手県沢内村では、地理的に定期健診や緊急産科ケアを受けるためにはその都度時間をかけて山を降りなくてはならず、対応が難しかったため、乳児死亡率や妊産婦死亡率が高かった。しかし、ある村長さんが、村の予算を5年間にわたりこれらの問題解決に集中的に使うことを決断し、妊産婦への訪問看護を始めるとともに、リスクのあるお母さん用の共同施設をつくり、お母さん同士が共同で煮炊き・寝泊りをして、出産に備えるようにしました。そこには医師が常駐し、必要に応じてすぐに緊急産科ケアを提供できるようにしたのです。これによって、乳児死亡率や妊産婦死亡率は劇的に低下しました。日本はこのような実践を自ら積み上げてきており、これらの経験は開発途上国に対して大きな意味をもちます。実際に、この沢内村の経験については、私がモンゴルに伝え、現在UNFPAの活動を通してモンゴルの遊牧民達の間で活かされています。
また、日本の高齢化対策について、成功と失敗の両方をきちんと記録し、今後の技術協力に活かせるようにしていくことが重要だと思います。ヨーロッパでは100年かかった人口転換を、日本は約20年という短期間で経験しました。そして、開発途上国も2050年までにはすべての国が高齢化社会を迎えるとされています。2015年を達成期限に定めた国連ミレニアム開発目標(MDGs)とともに、これからの開発援助を考える上で、新たにもう一段階先の世界を見据えるべき時期にあるのではないかと思うのです。日本のように人口転換に合わせて若者が産業を発展させ、経済を安定させられた国は良いですが、アフリカのような国々が貧しいまま高齢化に突入するとどうなるか。特に日本の若い人々には、MDGsの先にあるこういった世界の現実を認識してほしいと思います。これこそ、日本が自らの経験を活かして貢献できる分野であると思うのです。
Q. 地球規模の課題に取り組むことを考えている若者への一言をお願いします。
まず、自分がやりたいことを認識し、その筋を通していくことが重要だと思います。場や機会というのはその後から考えれば良いことです。やりたいことを実現できる場は様々にあります。また、私もそうでしたが、私企業や、NGO、そして国連と、様々な場を経験することが自分の力になります。
加えて、国連では開発や人道援助、そしてPKOといった現場の経験ももちろんとても大事です。しかし、そういった現場の経験をいかに政策につなげていくかということがより大切だと思います。保健の世界で言えば、個々の患者さんだけを診るだけではなく、その一つひとつの経験を、地域全体の保健レベルを上げるための公衆衛生的なアプローチ、つまり政策に転換していくことが重要です。現場を良く知っているからこそ、政策が提言できる、そういう人を目指して欲しいですね。現場を知らずに政策を立てることは不可能ですし、現場だけで終わるのももったいないですからね。
最後に、自分の人生を振り返ってみて、無駄なことは何もなかったと思っています。色々な組織で働きましたし、色々な国を訪れ、色々な人々と働きました。現場の生々しい仕事も、政策をめぐるスケールの大きな仕事もしました。もちろん、良いことも悪いこともありましたし、時には仕事が嫌になることもありました。その中では、子育てを含めた家庭と仕事の両立も、その他の人間としての様々な出来事も経験しました。そして、だからこそ今があると思っています。自分自身の経験から自信をもって言えるのは、すべての経験が仕事面でも個人的にも、今の自分に役立ってくれているということです。そして、改めて思うのは、自分一人では何もできないということです。子育てもそうですし、仕事もそうです。現在も、UNFPA東京事務所の仕事は、ボランティアさんたちに助けてもらっています。若い人から、リタイアされた方までいろいろなボランティアの方が来てくださっています。先日は小学生の方からもボランティアをしたいと問い合わせがあったんですよ。そういうことを若い人には伝えたいなと思います。
Q. 2007年の抱負をお聞かせください。
個人的には、今年娘が結婚をしますので、その準備をして、幸せな結婚をしてもらいたいと思っています。仕事面では、UNFPA東京事務所がUNハウス内の少し大きなスペースに移ることになっていますので、より環境整備をして、皆さまが訪れてくださった際に、より楽しくてアットホームなUNFPA東京事務所を作っていきたいと思っています。
(2006年12月4日、聞き手:井筒節、UNFPA技術協力局専門分析官、林神奈、コロンビア大学国際公共政策大学院。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAにて人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター。)
2007年1月1日掲載