第33回 黒田 順子さん 国連事務局管理局本部契約委員会勤務 上級管理分析担当官
プロフィール
黒田順子(くろだみちこ):北海道出身。1974年津田塾大学国際関係学科卒業。1977年ベルギーのルーバン大学ヨーロッパ研究所で学位を取得。1978年ジョージタウン大学大学院で修士単位を取得。1980年筑波大学地域研究科で国際学修士号取得。ジュネーブ大学国際高等研究所で国際関係論と国際法を修学中に、1980年よりアソシエートエキスパートとして、ジュネーブのILO(国際労働機関)に勤務。正規職員採用後、1985年より国連の合同査察団(Joint Inspection Unit)に勤務、1992年より、ニューヨークの国連本部に転勤。管理局、内部監査局(OIOS)、PKO 局、オンブズマン室を経て、東ティモールの平和維持活動(UNMISET,UNOTIL,UNMIT)に官房長官として勤務。2006年11月より現職。著書:「早期警報と紛争解決」(共編)
Q. 国連や、国連で働くことに関心を持ったきっかけを教えて下さい。
高校時代に歴史の授業で第二次大戦後の国際社会及び国連組織について学び、日本のためだけでなく、国際社会のために理念を持ち、働くという道もあるのだと知り感動しました。大学では国際関係を専攻しましたが、国連で働くことを具体的に考えたわけではなく、卒業後一度企業に勤めました。しかし、国際社会のために働くという想いが強くなり、会社を辞め、国連で働くことを目標に修士を取得するため日本の大学院に入学し、その後奨学金を得て海外の大学院に留学をしました。
国連で働くことになった直接のきっかけは、ジュネーブに留学中、外務省が募集するアソシエートエキスパート試験に合格したことです。その頃国際人権問題を勉強しており、希望していた国際労働機関(ILO)で働き始めたのがきっかけです。
Q. 現在のお仕事の内容を教えて下さい。
今は現場勤務から帰ってきて間もなく、一時的な配属ですが管理局の本部契約委員会にいます。仕事は各契約、調達事案を決め、推薦、勧告をする部署です。私はその内容や、検討と決定過程、さらには、ビジネスプロセスを分析することを担当しています。不思議なことに今までは各事案を分析するということをしてこなかったようです。私は平和維持活動の経験から、現場業務の必要性が身にしみていますので、本部契約委員会の効率性を高めることの重要さがわかり、大変有意義だと思います。私はもともと本部での勤務が長いのですが、現場から戻ってみますと、今まで気がつかなかった側面が見えて、国連本部の官僚的な業務が新鮮に思えます。以前も様々なプロセスを日常的に分析、検討する作業を行っておりましたが、この2、3か月の実績は同じ部署のほかの人たちに驚きを与えたようです。この調達と契約部門は、現在、国連事務局のなかでも深刻な問題を抱えている最中ですので、私の分析結果がこの部門の改革に貢献できると思います。
Q. 昨年11月までいらっしゃった東ティモールでの仕事内容を教えて下さい。
いわゆる官房長として2年間東ティモールにおりましたが、今までで一番やりがいのある、また最もたいへんな仕事でした。仕事は国連事務総長特別代表(Special Representative of the Secretary-General)の補佐と内部統括、監督の役割があり、常に最新の情報を入手し、すべてを把握しておく必要がありました。また現地の大統領、首相、外務大臣たち、さらには各国の駐在大使や、他の国際機関の代表の方々と話し合いをしながら政策を進めていくため、今まで培ってきた能力、知識をすべて使い、最善策を練り上げそれを実行へと移していきました。私が現地に派遣されたときは既に国連の任務縮小を始めた頃で、スタッフの士気が低下し始めており、私は彼らを宥めながら、かつ仕事を頑張ってもらえるように士気を高める必要があり、その部分でもたいへんでしたが、現場にいると計画、実行された政策はすぐに結果が見え、現地の人々から感謝されるなどとてもやりがいのある仕事でもありました。最も厳しかったのは、昨年の4月、5月の暴動と武力闘争をきっかけに治安が悪化した際です。外部に対しては特別代表と副代表と一緒に何とか東チィモールが平和な状況にもどるようにと案を練りながら全力投球しました。この機会に現地の高官や外交団との連絡が密になり、連帯感が培われたように思えます。現場では状況がどんどん変化するにもかかわらず、国連の本部になかなか現状を理解してもらえず、説得するのにたいへん苦労しました。また、現地で勤務している職員たちにとっても、治安の悪化する中で精神的に苦しいときでした。半分以上の職員を隣国オーストラリアのダーウィンに一時避難させることもありましたが、私自身は船が沈むまで居残る覚悟でしたので、結構平静でした。
Q. 東ティモール以外でも様々な部署をご経験されていらっしゃいますが、その経緯を教えて下さい。
私の専門は国際法・人権ですが、各5年以内には部署移動してきました。現在国連は業務の流動性に力を入れ、同じ部署に5年以上留まることができなりましたが、私はそれ以前から率先して部署・仕事を換えてきました。色々な部署・仕事を経験するのはたいへんよいことで、自分の専門以外の知識・能力を身につけることができます。
簡単に経緯を申しますと、まず1980年に国際労働機関(ILO)で人権の仕事を始め、本当に満足していましたが、徐々に内部の紛争に巻き込まれ、情熱が冷め始めました。もともと国連に勤務するのが目的でしたので、国連に応募して、1985年からジュネーブにある合同査察団(JIU)に移りました。ここでの仕事は国際労働機関(ILO)時代とまったく異なったものでしたが、国連機関やその活動を知るのに最適でした。また人権や政治的要素のある早期警戒や予防外交の仕事にも携わり、これが後に本の出版にもつながりました。
その後、ニューヨークの出張の時に訪れた部署がとても画期的で、勤務したいと願い応募して、国連本部に転勤になりました。感激してニューヨークにきたところが、機構改革によりその部署が2年足らずで廃止され内部監査室に統合されました。私は監査の専門資格がなかったのですが、苦労しながら少しずつ仕事を覚えました。そして平和維持活動の監査出張団に入れられました。これをきっかけに平和維持活動について学ぶことになりました。理解のある監査官になるように努めたことが評価され、PKO 局に勤務するように誘われました。
ところが、アナン氏が事務総長になり国連改革のプログラムを提唱し、改革を担当する部署が管理局に設定されたのでそちらに移りました。2-3年して改革が波に乗り、新らしいことをしてみたいと思っていた頃、平和維持活動に関するブラヒミ報告書が提出されました。PKO 局は日常業務に多忙で、改革関係の仕事をする人がいないので手伝うように要請され出向し、多彩な役割を任され、貴重な知識と経験を得ました。そしてその仕事が定着し始めた頃、人事が変わったのをきっかけに、私の分析能力が買われ、オンブズマン室に移りました。そのうちに応募した東チィモールから通知を受けとり現場に行くことになったわけです。
Q. 2月6日に行われた治安組織改革(SSR)・統合ミッションの勉強会にて日本国際問題研究所 研究員藤重 博美氏に東ティモールにおける治安組織改革の有用性について提起されていらっしゃいましたが、実際現場で指揮され感じた国連の警察と軍隊の改革について教えて下さい。
安保理決議にて国連はなるべく早く撤退することが決まっていましたので、現地にいる私たちとしてはまだ改革途中だとわかっていましたが、暴動など特に大きな問題もなかったので決定に従うべく撤退の準備を進めました。しかし警察はある程度の中長期的な訓練が必要ですし、警察を組織として確立するためにももう少し時間が必要だったと思います。例えば警察が政治的に動くことがあってなりませんが、まず現地の警察にそれを認識させることから始まります。現地では大臣が命令すると警察がそれに従ってしまうことがあり、彼らの意識を変えるだけでもたいへんです。
また私たちの任務は主に警察の能力開発、国・政府機関の設立及び能力開発、人権訓練の三つでした。この与えられた任務に関しては、かなり成功を収めたと思います。警察を訓練してもそれ以外の例えば統治の問題などがあり、複合的、統合的に機関と能力の開発、開拓を進める必要があり、それらすべてが完了した段階が最良の撤退時期です。東ティモールについては撤退の時期が残念ながら早かったように思います。紛争展開の芽を摘むことができずに、状況が悪化してしまったのでしょう。
軍隊の改革についてですが、国連の軍事部門は個々の政府の軍隊の開発、訓練や指導に携わらないというのが原則です。これは、国連の中立性を維持するためでもあり、国連にはこの分野の政策も存在しません。このようなことから、国連は、軍事部門が治安組織改革(SSR)に参加するという要請を受けていませんでした。ですから、安保理はこのことを検討しなかったし、平和維持活動の任務に組みこまれていませんでした。東チィモール政府も二国間契約による軍隊(FDTL)訓練に満足していたわけです。但し国連の市民のアドバイザーが、法律部門などに関与することはありました。幸いにも現在の東チィモールの平和維持活動の任務として、SSR が少し組み込まれています。SSRは平和構築でも重要部門ですので、国連の軍事部門の意見を取り入れながら、もっと積極的に関与するべきではないでしょうか。
Q. 東ティモールにおける早期撤退について現地と国連本部との温度差を感じられたのではないでしょうか。
そうですね、本部にいた時は現場のためにと思って働いていましたし、現場を分かっているつもりでしたが、現場に出て初めて本部は現場のことを何も分かっていないということが判りましたので、私は今後本部と現場の温度差をなくす働きをしていきたいと思っています。
Q. 今また本部に戻られて、東ティモールの現状を客観的にどのようにお考えでしょうか。
東ティモールは今ちょうど大統領選挙及び議会選挙の直前で状況が不安定で緊張が高まっている時期です。現在オーストラリア軍がいるので、武力衝突にまで発展する可能性は少ないとは思いますが、いざとなると武器を使用した暴動にまで発展しかねませんので、安全保障の面で危惧しています。また、地元民に法の確立や、政府に基づく国体制という文化がまだ定着していないので、政治的な不安定要素があるのも事実です。私は、今年の選挙の後もまだまだ国連の平和維持活動や平和構築活動をあと2-3年は継続するべきだと考えています。
Q. 東ティモールの他に印象に残っているお仕事があれば教えて下さい。
一つめはブラヒミ改革の一環で、要請を受け3年間PKO局にて改革に携わった際のことです。その間いろいろな改革案を提出しました。ブラヒミ報告を実行するためには各国政府を説得する必要がありましたが、それまでの説得案はことごとく否定されていました。しかし私の作成しプレゼンした速攻展開能力を高めるための案が採用され1億4千ドル支援を総会から取り付けることができました。この時政府と一緒に物事を進めていく重要性を知りましたし、思う存分自分のやりたいようにやらせてもらったということと、それが結果に繋がったということで印象に残っている仕事のひとつです。
二つめは東ティモール国連事務総長特別代表が帰国され、私が後任の方を全面的に補佐していたときでした。昨年4-5月の暴動後の収拾の一環として、調査委員会が設定されましたが、その報告書が発表される直前は、かなり緊迫した状況でした。国民の不安を取り除くためには大統領、首相、議会の議長3名の共同声明が必要だったのですが、グスマン大統領がなかなか賛同してくれませんでした。しかし、長時間の説得の結果、最終的には了承して下さり、さらなる国民の暴動を抑えることができました。斡旋業務が成功したわけですから本当に感激しました。私の長年の研究課題である紛争予防が可能であることが証明できました。
Q. 今後のキャリアアップとしてどのような道をお考えでしょうか。
本部にてもう少し高いポジションに行きたいと考えています。また今私の関心事は平和構築ですのでその分野に携わっていきたいと思っています。平和構築は概念がまだ深く確立されていない部分があります。また平和構築分野では紛争が一時治まったとき、再度紛争に戻らないようにする必要があり、東ティモールでも平和維持活動から平和構築へと順調に進みましたが、また平和維持活動に戻ってしまったわけで、平和維持活動から平和構築への移行がたいへん難しいのが現状です。したがって、国連事務総長特別代表が無理ならば国連事務総長特別副代表として、いずれもう一度現場にて平和構築の業務を指揮しながら、紛争予防の文化を築き上げることに励みたいと思っています。
Q. 日本の市民ができる国際社会への貢献はどのようなものがあるとお考えでしょうか。
まず国連の働きに興味を持ち、支援して頂きたいと思います。支援といっても個々にできることは違いますが、例えばいろいろなアイデアを出したり、金銭的援助をしたり、NGOに参加したり、国際機関で働く事ももちろんそうですがまず国際社会への役割を考え、理解し、積極的に参加していくことだと思います。
Q. 地球規模の課題に取り組むことを考えている若者への一言をお願いします。
国際社会のために私たちができることはたくさんあり、私たちの援助を求めている人々がたくさんいます。したがって自分の興味ある分野で自分のできる貢献を考え、実行に移していっていただきたいと思います。
また、国際社会で働くためにはコミュニケーション能力を高める必要があります。私はトーストマスターというプレゼンや演説の技術を高めるためのクラブに所属しており、演説では何度か優勝し、そのうち一度は英国人相手に優勝をしました。さらに地区長を務め、本部に戻ってからも新たに支部を立ち上げました。こういった経験が現在の仕事で政府相手に説得をするという際に少なからず役に立っていると思います。みなさんも専門性を高めると同時にコミュニケーション能力など、基本能力を高めることで国際社会に対応できる人材になると思いますし、そうなるよう期待しています。
(2007年3月15日、聞き手:横山雅子、コロンビア大学SIPA。幹事会、「国際仕事人に聞く」担当。写真:川守久栄、国連事務局ツアーガイドとして勤務しつつアートを勉強中(2枚目と5枚目)、田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター。)
2007年4月2日掲載