第52回 野田 順康さん 国連人間居住計画(国連ハビタット)アジア太平洋事務所長

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プロフィール

野田 順康(のだ としやす):1979年旧国土庁入庁、防災調整課長、内閣府参事官、国交省総合計画課長などを歴任。国連経験は、1983年に国連人間居住センター居住専門官、1989年国連人道問題局救済調整専門官、2002年国連人間居住計画・アジア太平洋事務所長(福岡事務所長)。専門は地域計画学、開発政策一般、災害・防災。

Q 国連にお入りになった経緯は?

私はもともと日本の国土計画を担当していた人間です。まさかこのように国際的な仕事をするとは思っていませんでした。ただ、昔から新渡戸稲造を尊敬していたので、1982年にナイロビの国連事務局に行かないかという話があったときには、直ちに試験を受けてもいいと返事しました。その後一年くらいの選考過程を経て選任されましたが、当時そんなところに行きたいという職員はほかに誰もいませんでした。私の人生は、ここから国連とのつながりが生まれました。

進んでこうした道を選んだのは、日本の国土計画の策定にあたっても、国際的な視点やバックグラウンドがないと、世界を見据えた計画にならないと考えたからです。特に、国連に勤務してみて、経済大国と呼ばれていた日本が国際社会では必ずしも十分な影響力が無いことを痛烈に感じました。第二次世界大戦の影響もそう簡単にはぬぐい去れないということにも気付かされました。

つまり、日本の国際社会での地位は、日本人が国内的に考えているようなものではないということを実感させられたのです。また、当時欧州出身者が多かった国連職員と自分がいた日本政府の職員を比べると、比較にならないような国際感覚の違いがありました。しかし、尊敬する新渡戸が国際連盟に入ったときには、おそらくもっと苦労したのだと思いましたし、今の日本政府からも、このような経験をする人がもっと出るべきではないかと思います。

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ハビタットの二年半の勤務のあと日本に戻り、防災分野の仕事を担当しました。ここでも日本政府と国連の隔たりは大きかったです。日本の国土計画をつくる国内官庁ですから、英語で電話しているだけでも奇異な目で見られ、英語力を維持するだけでも大変でした。その後、1989年に再度、国連人道問題局に派遣され、1990年には湾岸危機を経験します。この時にも日本と国際社会との間の大きなギャップを痛感することになりました。私はこの第一次湾岸危機が、日本にとって、さまざまな意味でのターニングポイントになったと思っています。特に災害援助、緊急人道支援、エネルギー安全保障、そうした問題に向き合わざるを得なくなった日本。この結果、その後の10数年で日本の緊急援助等に関わる法令は急転換することになりましたね。

この四半世紀の間に日本政府と国連の間を4回往復しています。福岡勤務は二回目。UN-Habitatのアジア太平洋事務所(福岡)を設置するに当たっては、日本の窓口を私がやっていました。そのためこの事務所には特に思い入れがあります。平和構築や人道支援などが一般的に国際社会への貢献だと考えられている中で、日本の福岡にある国連事務所は地元との関係においてどのような貢献ができるのか?国土計画屋の自分としては、将来の日本のことを考えながら国連と日本、福岡との連携を考えています。これからの日本は高度成長時代のように浮揚していく国家ではありません。そのような状況下で、アジア太平洋地域に対してどのような貢献をし、一方、日本、地元に対してどのように協力していくのかを考えなければなりません。自分の仕事のうち3割位は日本、地元への貢献を考えているという点で、私は一般の国連職員の方とはかなり異なるかもしれません。

去年まで新しい国土計画を作っていたものとして、九州北部というのは二十一世紀に向けた戦略拠点ということができます。明治維新以降、日本は脱亜入欧という流れの中で国家建設を行い経済的にも成長していくわけですが、高度成長以降は経済的にも人の交流を見ても、明確なアジアシフトが起っています。そのような状況の中で九州北部の戦略的重要性は非常に高まった。その意味で福岡に国連のオフィスがあることには意味があると考えています。UN-Habitatがアジア太平洋事務所を開設するにあたって、阪神淡路大震災直後の神戸とここ福岡が最終的な候補になったのですが、福岡県の対アジア政策を重視して福岡に決まった、という経緯がありました。

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Q これまでの国連勤務の中で、いちばんたいへんだった、苦しかった仕事はなんでしたか?

やはり湾岸危機ではないでしょうか。1990年8月にイラクがクウェイトに侵攻します。当時ジュネーブ勤務で、その日はジュネーブ祭の花火を見ていました。たまたま緊急対応担当であったために呼び出され、その時から巻き込まれました。私は日本と国連の間の調整をすることとなったのですが、当時の日本社会の意識と国際社会の意識の間には大きなギャップがありました。それまで日本は、第二次世界大戦の教訓もあり、戦争や紛争といった事態について議論すること自体が、社会のタブーといった側面がありました。何が平和主義であるかを正面から議論することなく来てしまった。そのような日本には、イラクの侵攻自体が当初信じられないことであったし、戦争の準備や緊急事態への対応といった措置を現実として考えることが難しかったわけです。

当時国連職員として対応していた日本人は僅かでした。私は、日本からの資金協力の調整業務に従事しましたが、侵攻発生からの数か月間は、私にとっても日本側にとっても「修羅場」だったと思います。ちなみに当時は、1988年に国際緊急援助隊法が制定され、カネとモノだけでなく人も出そうとする方向にシフトしていた時期で、日本の対応が変わり始めたときでした。湾岸危機の経験から、1992年にはPKO法も成立することとなりますし、その後も緊急対応や安全保障関連法案が制定されていきます。まさに日本のターニングポイントであり、調整業務としては最も厳しい仕事だったと思います。

一方、フィールドで肉体的に一番きつかったのはアンゴラだと思います。1ヶ月ほど出張した1991年当時はまだ内戦が続いていて、国連の敷地内でさえ水も電気もない状態ですから、市街地はまさに凄惨な状態で、困難の極みでした。当時の常駐代表から「ここで勤務すれば今後どこに行っても大丈夫」と言われたのを覚えています。それから2003年7月、米国の攻撃終了直後に入ったイラクも相当厳しい状態でした。本部の担当官さえ出張をいやがっていましたが、アンマン(ジョルダン)から10人乗り位の軽飛行機で入りました。猛烈にセキュリティが厳しく、また誰も迎えにも来ない状態。この二つのフィールドはとても思い出深いです。

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Q 国連で働くことにどのような使命感をお感じでしょうか。

日本でどんなに本を読んで知識を吸収しても、国際社会に出てみると現実は違います。私も日本文化と国連文化の違いに苦しんだ一人ですが、いまでは日本に飛行機が着陸した瞬間に日本の官僚となり、日本から離陸した瞬間に国連官僚になる。これをやらないと、とても国連と日本をブリッジすることは出来ませんね。国連システムに670人前後の日本人が職員として勤務していると伺いましたが、やはり日本人なのですから日本との関係は大切にしてもらいたいなあと常々思っています。特に日本が二十一世紀に生き残るには、世界への公開性と受容性(acceptability)を高めて行く必要があると思います。

日本は古い歴史と文化を併せ持つ国ですが、現在のような大国になったのはせいぜい明治維新以降の話です。このような国力がずっと続くと多くの人は思っているのですが、そんなことはあり得ません。歴史的に見れば瞬間的なものです。日本の人口は2004年にピークを打ち、2050年には一億人を下回ると予想されています。さらに今世紀末には6千万人を切り、この傾向が続くと2300年には人口がゼロになってしまう。このような国が今後どういう国家になっていくのか、その様なことを考えながら国際貢献のあり方も考えていくべきです。国連職員としても、日本はどこへ行くのか、日本は何ができるのかをよく考えていきたい。

Q 今後のキャリアをどのようにお考えですか?

日本の中央官庁でも十分に仕事をさせてもらったし、いい歳にもなりました。ですから今後はきちんと社会に貢献していきたいと思っています。自分自身では哲学論争を得意とするよりは、現場で活躍する(operationalな)人間だと思いますから、そうした分野で育ててもらった国連に貢献できればと思います。私共のアジア太平洋事務所はとても現場を向いて仕事をしていて、私としては達成感とやりがいを感じます。私はここ福岡から居住政策をいろんな国で主流化していきたいと思いますし、また、福岡という戦略拠点の国際化ということにも国連の視点から貢献していきたいと思います。

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Q グローバル・イシューに関心のある若い世代の人たちにメッセージをお願いします。

私の時代は、経済が成長する中でそのパワーに支えられながら国際協力や国際貢献を考えてきました。残念ながらこれからはそうは行きません。経済が縮小していく中で国際協力や国際貢献を考えないといけない。その意味で、これからは日本の経済力に頼らない国際人が求められると思います。世界が何を必要としているのかを的確に把握し、資金貢献だけではない協力・貢献を考える能力が必要とされます。途上国を上から目線で見るような姿勢では到底だめで、日本の経済力に頼らずに自分のアイディアを世界のイニシアティブに育てあげるような仕事の仕方が必要となってきます。

日本の国際協力の人材は、官民ともに日本の経済力が支えてきたところがあります。莫大な無償資金協力、円借款などが直接的・間接的に官民の人材を育ててきた。しかしこの結果、ODAの減少によって、例えば国際コンサルが仕事を失うような状況が出ています。これからは日本の国際コンサルも、国連等の厳しい競争入札の中で勝ち抜かないと生き残れません。幸い、いまの若い人たちの中にはこうした素質とセンスを持った人たちもたくさんいるように感じます。有能な若者が国際市場で十分に訓練されれば、国際的にも十分通用するようになるでしょう。

また最後に新渡戸稲造の話をしようと思います。彼は南部藩から札幌農学校に進学し、さらに東京大学で勉強するのですが、当時の東大の英語のレベルにがっかりして米国に渡ります。世界からはとても相手にされていない日本の若者が太平洋を渡り、「我太平洋の架け橋とならん」と言ったそのチャレンジングな精神力。そういう人だからこそ国際的なセンスを磨き、最終的には国際連盟の事務次長に任命されたのでしょう。これからの若い人たちには、日本の将来を正確に見つめ、分析し、新渡戸稲造と同じように世界にチャレンジしていってほしいと思います。

(2007年8月16日。聞き手および写真:田瀬和夫、国連事務局で人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター)

2007年10月1日掲載