第54回 熊谷 有美さん 国連ハビタット(国連人間居住計画)アジア太平洋事務所(福岡)

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プロフィール

熊谷有美(くまがいゆみ):福岡県出身。米国で1年間のボランティアののち、ウィスコンシン州の大学に編入。模擬国連全米大会の経験から国連本部の図書館で研究生、その後職員として採用される。1995年より2001年まで朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)に勤務。2001年3月より国連ハビタット(人間居住計画)アジア太平洋事務所(福岡)にて広報担当。

Q. 国連で働くようになった経緯を教えて下さい。

長いですよ(笑)。興味を持ち始めたのは中学生の頃でした。その頃は電子メールなどありませんでしたけど、「海外文通は自分の国のことも相手の国のことも知らなくてはならないから、民間外交官になるようなことだ。」というようなことをどこかで読んで感銘を覚え、一時期は36人と英語で文通をしていました。南アフリカとか、統合前のドイツとか、ポーランドとか、コロンビアとか。国と国、人と人をつなぐ仕事をしたいというのが中学生の頃の夢でした。

それが、受験の失敗を含めて目先のことに囚われ、だんだんと小さくなっていってしまいました。その頃は人生こんなものだと悲観していた。それが、あるとき新聞広告で「あなたも民間外交官になりませんか」というボランティア広告を見て、あ、これだと直感したときから変わったのです。もう仕事もしていましたが、アメリカに1年間ボランティアに行き、そこからアメリカの大学に編入することができました。

編入した大学はウィスコンシン州のOshkosh(オシコシ)というところにあったのですが、私がここを選んだのには理由があります。それは模擬国連全米大会で二十年以上にわたってトップ5に選ばれていた強いチームがあったこと。小さな大学だけど、それに賭けているチームがあったからです。そのことを聞いた瞬間に「ここだ」と思いました。私はいつもうやって直感で行動を決めるんですよ。

私がそのチームに入ったときは外国人は1人もおらず、アメリカ人と一緒に国連を勉強しました。そのころは大学の勉強より模擬国連サークル中心の生活でしたね。でも、最初の頃はまったく貢献できないばかりか、まずチームに入れてもらえない状況でした。弁の立つアメリカ人の中でディベートで渡り合うということは未熟な留学生の自分にはとてもできることではありませんでした。

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それが、あるとき担当の教授から「お前は頭の中では分かっているのに全然チームの役に立っていない。もっと自分を主張しなくてはダメだ」と言われたときから変わっていきました。自分がチームの中で役に立つためにはどうすればいいか、どのように機能するのが一番いいのかを必死で考えた。そうすると、自分のことがよく分かってきたように思います。それまでの自分は、大勢の人をスピーチ一つで惹き付けられるカリスマとリーダーシップのある人がすばらしいのであって、それ以外はだめだと思っていた。そしてそれができなかったから強い劣等感を抱いていたわけです。ところが、チーム全体を考えるとカリスマだけでは成り立ちません。一対一で人と話をして、納得させ同意を形成していくような役割の人間も必要です。そして自分にはその方が向いている。そのことに気付いたときから道が開けました。

最後の年の地域大会で、私は個人賞を頂くことができました。表立ったスピーチの回数は少なかったのでどうして自分が入賞したのか分からないでいると、審査員の方から「起案された書類のほとんどに君の名前が入っている。それだけで君の考えにどれだけの人間が同意したか、君がどれだけの人間に影響を与えたかが判る。だから賞を出さないわけにはいかないんだ。」と言われた。ああ、自分のやり方でも通用するんだなと思いました。自分は受験にも失敗しているし、いわゆる「勝ち組」の人ではない。出発点は変えられない。自分の性格も変えられない。その中で、どうやって最大限に生きていけるか、活かしていけるのかを学ぶことはできました。これがこの3年間の最大の成果だったと言えます。

私のことをはじめに「役立たず」だと言った教授が、ニューヨークの国連図書館の人と話をして、独自のインターンシップをこしらえて下さいました。つまり、学部生は普通はインターンとは言えないので国連側では「研究生」として受け入れてもらう、しかし学校の側では国連でインターンをしたという実績にしてもらう、そういうシステムを作ってくれたのです。こうして自分を支えてくれた人たちには心から感謝しています。お金はありませんでしたし無給という条件でしたが、やるかと聞かれたときは、一も二もなくやりますと答えました。これで「次につながる」と思いました。

こうして、学生最後の学期は卒業を延ばしてニューヨークで過ごしました。無給でしたから、ニューヨークに行くためにウェイトレスのアルバイトもしましたし、いろんな苦労はありました。でもそこまでしてもやりたかった。最後の数か月間、図書館に通っていろんなものを見て、いろんな人と話をしてすごくいい経験になった。その中で図書館の人たちが、数か月でポストが空くけど興味があるかどうか聞いてくれた。そこにmission replacement(臨時職員)という形で入ったのです。それが国連人生の関わりはじめでした。ね、長いでしょ(笑)。

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Q. それではその後、ハビタットに勤務するまでの経緯は?

図書館で働いているとき、食事はなるべくスタッフ・カフェテリアで食べることにしていました。あそこは相席でいろんな人が来るので、いろんな話をすることができます。自分はもともと引っ込み思案で人と話をするのが苦手です。でも、そのときは心を決めて本当にいろんな人と話をした。話すことによって、更にいろんな人に紹介していただくこともできました。この一歩を踏み出せたことが自分にとってはとても大きかったと思います。それが次へとつながっていったんだと思います。

95年、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が設立され、日本人を探しているという話があり、興味があるなら面接を受けてごらんというお話を頂きました。42丁目とファースト・アベニューのあの国連の敷地にせっかく入ったのにまたここから出るのかと思いましたが、さまざまな方とお話をしてみると、新しい国際機関の立ち上げというのは滅多にないことだし、面白い機会でありある意味ではチャンスだと思いました。それで面接を受けて、心地よい「塀」の中から出ることを決意しました。

そこからの5年間は本当にいい経験をさせてもらったと思っています。国際機関というのは一国一国がそれぞれの国益を持ち寄りつつ、一つのものをめざしてまとまろうとする場です。その形成過程に携わることができたのはとても自分の中では大きな経験でした。実は入る時に職場のPCに日本語のソフトを入れないでほしいというお願いをして聞いてもらったのですが、それは国際機関の職員として分け隔てなく職務に当たりたいという意思でした。それで5年後には一般職(General Service)から専門職(Professional)に上げて頂きました。

福岡に国連ハビタットが設立されたのは97年の8月で、そのことはKEDOにいたときから知っていました。ああ、自分の故郷に国際機関ができたんだと知ってとても嬉しかったのを覚えています。当時は私を故郷に戻したい家族からも新しくできたポストに応募しろと言われたのですが、その頃の自分はきちんとしたキャリアを積み上げていきたかった時期でもあり、ころころと仕事を変えることにも納得がいかなかったので、受けませんでした。でも、KEDOでの5年間を全うしたあとの2001年、自分の中での心の整理もでき、また新しいことにチャレンジしたいと思えたので、こちらに移ることを決めました。

周りからはニューヨークの方がいいのではないか、せっかく専門職になったのにまた一般職に戻るのかと反対もありました。でも、私は自分で決めたらやる人間なんです。周りに話したのも実は荷物を送る手配をしてしまったあとでした(笑)。ほかにも選択肢はあったかもしれません。でも、何度も言いますが、自分は直感というか運命を感じるというか、「これだ」と思ったら即行動の人なのです。それに自分で決めないと人のせいにすることになる。それは自分で許せませんから。こうして私は、2001年の3月に福岡にある国連ハビタットに来たのですが、ここは予想を見事にうれしい方向に裏切ってくれました。すごく忙しい活気のあるオフィスなんです。それがとてもありがたかった。

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Q. 現在のお仕事はどのようなことでしょうか。

仕事の内容としては広報担当ですね。国連ハビタットの活動は福岡県、福岡市と地元の経済界に支えられています。ですから県民とその先の国民のみなさん全体に、ハビタットの活動を知って頂くのが私の仕事です。この事務所で広報の担当は私一人ですから、ウェブサイトの更新やイベントの担当など基本的に一人で幅広くやっています。そのなかで一番考えることは地元にどのように貢献できるかということです。

また、基本一人ですから、あなたの任務はここからここまでという厳格な制約が少なく、自分のアイディアを出すことができます。そのかわり自分でやると言ったら責任を取らなくてはならない。そういうところが自分にはとても合っています。広報イベントはハビタットだけでなく、地元のさまざまな関係機関やボランティアの皆さんとと協力しながらやっていくという形をとっています。

Q. 一番やりがいを感じるのはどのようなときですか?

2001年から毎年10月第1月曜日の世界ハビタット・デーを記念して「まちづくり」に関する絵画コンクールを主催しています。子どもたちの目を通じた「まちづくり」を大人に見てもらうことによってハビタットの活動を広く伝えて行こうという事業です。ある年、優秀作品の展示会中に、おじいさんが孫に、自分が若い頃助け合って橋を架けたり家を建てたりした経験を話していらっしゃった。このように、「自分が言わずしても言いたいことがちゃんと伝わっている」と感じることができる、これが広報の醍醐味ではないでしょうか。正直、大変な労力を要するわけなのですが、言い出しっぺだったから携わった広報の仕事が自分を地域の人たちとつなげることになりました。とても幸運だったと思います。

Q. これからのご自身のキャリアをどう考えますか?

直感で動く人間ですからね。その時が来たら動きますよ。いままで歩いてきた道の中で本当にいろんな人にお世話になってきたので、それを自分のあとに続く人たちにお返ししたい。でも、自分の人生もまだ終わっていないので、アンテナは広げておこうと思っています。その時が来たら来るでしょう。それが国連かどうかは判らないし、日本かどうかも判らない。それが面白いですよ。

Q. 休日は何をされていますか?

私が住んでいるのは福岡市から1時間半くらいの本当に田舎で周りは何もないのですが、無意味な人ごみは嫌いだし、休みのときは自分と向き合いたいので、休日にめったに福岡に出てくることはありません。でも、旅行は好きですよ。特に沖縄。マリンスポーツはしませんが、沖縄本島であれ石垣島であれ、あのゆるやかな風土と人と文化が大好きで何度も訪れています。「なんくるないさー」の世界。すこし前に念願の波照間(はてるま)島に行ったんです。何もない。海と太陽だけ。その中でぼーっとするのは最高です。

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Q. 世界をめざす次世代の人たちへのメッセージはありますか?

基本的にありません(笑)。人がどう言おうと自分がしっかりしていればいいじゃないですか。何かしたい気持ちがあって、それを本物だと感じることができれば、あとは自分を信じてやればよい。思ったようにできないこともありますし、それで諦めちゃう人もたくさんいますが、がんばっていれば道はできる。なければつくればいいんです。できるかどうかはすべて自分次第です。

初めにもお話ししましたが、人を引っぱっていける人がすごくて、自分はそうではないからダメなんだと思っていました。でも、そうでない人間が結局どうするか、自分のやり方でどうすれば機能し、貢献できるか、自分と向き合ったことが自分の中では最も重要な経験で、かつ実社会で最も応用できたことだと思っています。現在の私の職責は一般職ですが、この職責のプロでありたい。私の仕事は、専門職の人が最も仕事をしやすいような状況をつくることです。ある意味では黒子です。でもその仕事をきっちりとやり、自分がその目的に貢献できていると感じられるかどうか、これが一番大切なことだと思います。

(2007年8月19日。聞き手および写真:田瀬和夫、国連事務局で人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター)

2007年10月22日掲載