第34回 津田加奈子さん (パート1)
JICA技術協力プロジェクト パレスチナ母子保健リプロダクティブヘルス向上プロジェクト(フェーズ2)
母子保健/パートナーシップ調整 専門家
よき相談役、UNICEF保健担当チーフ、Dr. Samson Agboと
津田加奈子(つだ かなこ): 兵庫県神戸市出身。大阪外国語大学地域文化学科アフリカ地域文化(スワヒリ語)専攻卒業後、日本の民間企業にて3年間勤務。横浜市立大学大学院医科学研究科にて医科学修士号(国際保健・HIV/AIDS・母子保健専攻)取得。その後、日本の国際協力NGOに所属し、JICA草の根技協プロジェクトマネジャーとして、ヨルダン農業省との「住民参加型による環境保全型節水有機農法普及事業」やJPF「イラン・バム震災緊急支援」の現地統括などに従事。2006年からJICAジュニア専門員として人間開発部母子保健課業務に従事し、2007年より現職。著書:「国際協力用語集第3版(国際開発ジャーナル社、2004)国際保健分野用語、解説執筆担当」
果てしない希求と探求の「“国”づくり」
パレスチナという地域の特殊性については、第14回児玉千佳子さんが丁寧に詳細を書いてくださっているので、ぜひ、そちらをご参照いただきたい。
2007年の児玉さんの記事以降の大きな出来事は、以下の4つ。
1)2007年3月、ハマス・ファタハ統一内閣組閣
2)2007年6月、ハマス、ファタハ、政権分裂
[ハマスによるガザ武力制圧、西岸ファタハ緊急内閣→暫定内閣(現在に至る)]
3)2008年12月、イスラエルによるガザ攻撃(2009年1月18日まで)
4)2009年2月、イスラエル総選挙、政府右傾化
2009年1月のガザ攻撃終了から2日後に米国オバマ大統領就任となり、イスラエル統一選挙の行方も注目され、再びパレスチナ統一内閣への期待も高まった。ただし、この原稿を書いている時点では、イスラエルの連立政権右傾化が確定し、パレスチナ統一政権への道程は、まだまだ暗中模索状態であり、二国共存に対する方向性は必ずしも楽観視できない状況である。
パレスチナに対する援助を考慮するにあたって、いくつかの基本条件を確認しておく必要があるといわれている。パレスチナに対する援助を開発援助の概念から見る時、一般的な開発援助の枠組みにはない特殊性がある。[1]
- パレスチナがまだ暫定自治の地位にあるということ。このような被援助国の政治的不安定は、援助の効果を計りにくくする要素である。
- パレスチナはこれまで歴史的にも国家経営の経験を持たず、将来完全自治が達成された場合、パレスチナ人は近代初めて国家経営に取り組むことになるということ。
- 伝統的にパレスチナ人はモビリティが高く、教育水準も高い人が多いこと。
特に、2の国家経営の経験を持たないということは、同じアラブ諸国でも、例えばエジプトとは根底で違う 。[2]
私は最近、特に、1987年からの第1次インティファーダから引き続き、パレスチナ自治政府樹立後の第2次インティファーダ以降も乱世の感のあるパレスチナの現況を、我が国の「幕末〜明治維新」と照らし合わせて考えることがある。同じ物差しに収めるつもりはないが、比較対照すると興味深い。このフィールドエッセイでも少し引用しながらパレスチナの状況をレポートしてみたい。
パレスチナ人の母子(ヘブロン)
我が国の徳川300年の幕藩体制時代の「藩内の身分制度」と「藩閥」のしがらみ社会から、当時誰もピンとこなかった「日本」という統一意識と新・近代国家体制への脱却を遂げたこの時代を観察する時、パレスチナにおいても、相当以上の改革、さらに異質なものに変貌していくための時運とイニシアティブと忍耐と柔軟性や受容性が政府および人民の間になければ、実現は困難であることが多少なりとも想像できる。
日本が、内部分裂泥沼化による国家自滅も、英国・仏国・独逸(プロシア)・墨(アメ)夷(リカ)などによる植民地主義の流れに飲み込まれることも回避できた大きな一歩は、観念(原理)主義的勤王攘夷論の長州藩と、現実主義的佐幕開国論の薩摩藩の手を握らせる「薩長同盟」であったと言われている。そして、誰もが不可能と思ったこの第一歩を、外国列強でもなく、幕府方でも双方の藩出身者でもない、身分の低い土佐藩出身脱藩浪人、坂本竜馬らが、時勢や価値観に揺るがされることなく客観的視点に立ち、当時二極化していた「勤王攘夷派」でも「佐幕開国派」でもなく、誰も気づかない「勤王で開国すればよいではないか」という第3のベクトルへの論理を信念としながら推し進めたという特徴がある。あくまで「藩益ではなく、日本人として一つになることの重要性」を説き、相いれないままに瓦解しかかっている二極論理を再構築し、歩み寄りの具体策を講じ、最後の最後に残った「対立する感情の処理」までをもやってのけたという功績は、日本の近代国家樹立の歴史にとって大きい。私には、長州藩がハマス、薩摩藩がファタハと重なる。ガザと西岸に二極化しているパレスチナを見る時、第3のベクトルへ動く「きっかけ」が現れ、「ハマ・ファタ同盟」の奇跡が起きないかと、私は秘かに待望するのである。
世間のメディアが、特に911以降、パレスチナでも起きている「自爆テロ」などの行為を「異常視」する傾向があるが、これも少し静観してみる必要があると思う。我が国の幕末において、既存の体制の腐敗を哀しむ結果、原理主義が台頭し、「勤王の志士」が「佐幕側の新撰組」と刀を交えたことと、第二次インティファーダ後のパレスチナで今、武装するハマスがファタハに銃を向け、ファタハがハマスを捕えて罰している姿が重なる。幕末、多くの若い志士たちが「革命」を求めて、今で言うところのゲリラ戦のような奇襲と自爆テロのような腹切りで命を落としていった。聖戦(ジハード)に賭けて、日々エジプト国境の地下トンネルから弾薬を運び、カッサムロケットを手作りしては放つハマスの若者たちも同じように見える。幕末の志士もハマスの若者も、高い志から命をなげうつ場合もあれば、「とにかく現状に我慢ができず」落とさなくてもよい命を落としていることも事実である。パレスチナが抱えるカオスは、起こるべくして起こっている現象であり、なにもパレスチナに限った現象ではないと思う。成功・失敗(泥沼化)は別として、革命の経験を持つ国は、そういった経緯を経て今に至っているわけである。
一方、イスラエル・パレスチナ問題は、この地域にユダヤ、アラブにとっての父祖アブラハムが「神との契約に基づいて他地域から」やってきて族長時代がはじまって以来5000年にわたり、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に基づく大義と経済的利権と相反する歴史認識が複雑に絡むものである。徳川300年や鎌倉・源平争乱からの700年のしがらみどころの話ではない。しかも、この地域ほど、当事者同士間のみならず、世界中の外野からの宗教的イデオロギーやアイデンティティー等の「排他的思い入れ」が一点に渦巻き、対立構造が助長されている地域は他にはない。一概に、我が国の歴史を、パレスチナを取り巻く環境や現代の時間軸に当てはめることは憚られるが、我が国の徳川300年からの幕藩体制からの脱却を遂げるのに、幕末〜明治維新は40年近くかかっている。いわんや、5000年以上にわたって抱えてきたこの地域の複雑な経緯からの脱却には、どのぐらいの時間を要するのであろうか。過去たった60年のイスラエル建国以来の歴史の流れや、ましてや過去10年のイスラエル側の分離政策の中だけで、感情的な「和平」や「正義」が語られること自体が難しいし、不自然であると思っている。むしろ、この60年間は、大局の歴史の中では、何かがドラスティックに動き始めた戸口であるとも言える。そして、第2次インティファーダ後、数年おきに情勢が変わっているように見えても、よほどの「機運到来」と、相いれない2つの政権であるファタハとハマスがひとつになり、その上で、さらに相いれない2つの国家としてのイスラエルとパレスチナが握手を交わすための「奇跡的(スーパー)英雄(ヒーロー)存在」がなければ、小手先の外交や支援で、この地の実質的な「和平」というものは、そう簡単に変わるということはないであろう、と、私は思料する。
ビジネス書籍「7つの習慣」の著者コビー博士(ユダヤ系アメリカ人)は著書の中でこう言っている。「私たち家族は、世界で最も一触即発の危険性をはらんでいる三つの国―南アフリカ、イスラエル、アイルランド―で生活した経験がある。これらの地域が抱えている根本的な問題は、アウトサイド・インという社会のパラダイムにあると、私は確信している。これらに関係しているグループは、それぞれ問題は「外」にあると考えており、彼ら―敵視している人々―が態度を改めるか、あるいはいなくなりさえすれば問題は解決すると考えている。」
果たして、イスラエル・パレスチナに、「問題は内側にある」というインサイド・アウトの認識転換が訪れることがあるのだろうか。「那由多」の時間を要するか、「一瞬」の気づきと機運で比較的短期間で状況が変わることがあるのか。双方、果てしない希求と探求の国づくりへの想いだけは募ってやまないのであろう。
実は、「果てしない希求と探求の国づくり」は、パレスチナだけに当てはまるものだけでもない。それはイスラエルにもそっくりそのまま当てはまる言葉である。建国以来60年しか経っていないのだから。日本と違って、国の維持と発展には必死さがにじみ出ている。イスラエル人と結婚してこちらで子育てしている日本人の友人は言う。「うちの子が大きくなるまで、この国があるかどうかわからないですからね。」と。
国家存続の危うさと隣り合わせで存在する国と民族。この複雑でピリピリした感覚は、私を含む戦争を知らない平和馴れした世代の日本人にとって、近隣国との緊張関係があるとはいえ、なかなか分かりづらい感覚なのである。
イスラエル人の父子(テルアビブ)
このようなところでJICA技術協力プロジェクトとは
周りが決死盛んに血の気も多くなっているところで、座して鼻毛を抜いている坂本竜馬。 司馬遼太郎の「竜馬が行く」の中で、なかなかコミカルに描かれているこの中心人物が、私の「ロールモデル」。坂本竜馬のような人格と手腕を持ち合わせた人には、ひっくり返ってもなりようもないのだが、自分の中に客観性が失われそうになる時に、思い浮かべてバランスを取り戻すようにしている。
パレスチナのJICAの技術協力プロジェクト(以下、技プロ)は2005年に始まったばかり。本来、開発的役割を担うJICAの技プロは、準紛争地のようなところでは効果を発揮しづらいのである。どうしても、何か有事が起こるたびに、緊急人道支援的活動が優先されてしまう。「国づくり」に役立ててもらいたい、而して自立発展性を促すようなキャパシティディベロップメント的活動を現場で粛々と行うということは困難を極める。ましてや、その効果を測るということは、実は大きな課題である。
保健分野でいうならば、USAIDとJICA以外の支援は、ほとんど緊急援助のスキームで「1年もの」の支援ばかり。これでは、パレスチナ自治政府保健庁もなかなか中長期的視野での仕事ができない。計画―実施―終了のサイクルが短すぎて、しかも案件数は小さいものが数多くある状態で、それらの調整だけに追われ、結果「断片的成果の山積み、未整理」という、ある意味「有難いけど、少々迷惑」の支援が多いことも現実である。
プロジェクトカウンターパートである保健庁スタッフ
被占領地域であるパレスチナでは、何かが起こるたびに「反応」が各方面に広がる。世界中のマスコミから始まり、政治、経済、ドナー、地元のカウンターパート、知人友人等。こういった紛争地で活動する時には、時として過剰に出現する「反応」に「反応しない」ことが肝要。反応的になる代わりに、もっと根本を見つめて、時機を待つ。この姿勢が基本だと私は考えている。
そのような中で、JICA技プロ「母子保健・リプロダクティブヘルス向上プロジェクト(フェーズ2)」は2008年11月から4年間の計画ではじまったところである。私の担当業務は、「母子保健/パートナーシップ調整」専門家として、主に、プロジェクトのフェーズ1(2005年8月〜2008年7月)で開発され、パレスチナ全域導入されている「母子健康手帳」の運営実施体制の強化と、効果的な母子健康手帳の使用により母子保健の改善を目指すこと。後述するが、この案件は、ステークホルダーが多いことが特徴である。保健庁よりも歴史と実績を誇り、主義主張を発するパレスチナ保健セクターを担う各団体(UNRWA、医療NGOなど)が、これまで諸事情により、あまり整理されずに、独自のサービスを展開している。これはいわゆる民間セクターとは別の公的セクターに準ずるものであり、第2、第3の保健庁と言ってもよい。母子健康手帳に関する活動については、パレスチナ保健庁を冠とし、そこに連なる保健セクター他団体が、同一ツールを用いることにより結束感を作り、サービスの標準化を図っていこうとしている。アクターはそろっているため、私の役目は、保健庁の調整機能が強化されるための支援を行うとともに、関係者同士がいかに手を握って協調の具体策を講じ、相乗効果を発揮していってくれるかということを触媒することである。
この触媒者(カタリスト)であるが、「老獪」と「純情」をうまく使い分けた坂本竜馬のように、懸念事項があろうと寝る時には寝る、必要な時には、唾でも涙でも飛ばしながら説得する、皆が怖く暗い顔をしている時に、ユーモアを混ぜて乗り切る、逃げた方が良い時は「おれはマッコト知らんぜよ」と、とぼけてさっさと立ち去る、というような渡世戦術は、ここではとても大事だと思っている。ユダヤ人であったイエス・キリスト(イスラム教では預言者の一人)も「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と説いている。古今東西、同じ作戦が通じるのなら、そこが触媒者としての「技術・技量」の一部であり、こちらはそれなりに努力せねばならないわけである。
現場はトライ&エラーの毎日である。あせりは禁物。だからこそ、「座して鼻毛を抜いて」みたり、「寝っ転がりながら、作戦練って、にやにやしてみたり」ぐらいでちょうど良いと私は思っている。
母子保健・リプロダクティブヘルス地域啓発ワークショップ
パートナー国連機関
先に述べた緊急支援のみならず、日頃の「援助協調」は、援助を受けるパレスチナにとっても、援助する側の各国にとっても、パレスチナでの大きなテーマである。以下の表は、JICA母子保健・リプロダクティブヘルスプロジェクト(フェーズ1)における連携ポイントである。
表1.パートナー国連機関とJICA母子保健・RHプロジェクト(フェーズ1)との連携ポイント
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JICA母子保健・RHプロジェクト(フェーズ1)との連携ポイント |
1.UNICEF(国連児童基金) |
・母子健康手帳12万冊の印刷 |
2.UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関) |
・母子健康手帳をジェリコ県3か所の難民クリニックでパイロット使用。(約1年間) |
3.UNFPA(国連人口基金) |
・家庭訪問研修の共同実施 |
4.WHO(世界保健機構) |
・WHO新成長曲線普及ツールとして母子健康手帳を活用 |
特にフェーズ1(2005年8月〜2008年7月)での成果の鍵は、上記国連機関との積極的連携があった故であると評価されている。ユニセフ東京事務所はJICA終了時評価調査に合同評価参団し、以下の評価項目を挙げている。
1. 透明性を保った対等なパートナーシップがオーナーシップを醸成した。
プロジェクト初期段階から、多岐にわたるステークホルダー(保健庁、国連機関、NGO)を巻き込み、特に母子健康手帳開発という作業において、協働により母子手帳を誕生させたことが健全なチームワークを育成した。JICAの相手の立場を尊重したトップダウンではないアプローチが、国連機関でも好意的に受け止められた。
2. 協調のインセンティブとしての日本政府無償資金協力が効果を発揮した。
初期段階では、日本政府の無償資金協力による予防接種拡大計画および母子健康手帳の印刷支援が、JICAとユニセフが協調しようとする大きなインセンティブになった。国際機関経由の無償資金協力事業でも、効果的にバイの案件と連携できれば、よりビジビリティーや費用対効果の高い支援が実施できることを証明した事例と言える。保健庁は5年後を目指して母子健康手帳の自主財源化を考慮している。
3. 相互補完的連携が功を奏した。
JICAにとっては「WHO、UNICEF、UNFPAと協調することにより、母子健康手帳に世界基準を取り込み、保健庁が進めようとしている国家政策とも深く結び付いた。各国際機関のネームバリューがお墨付きともなり、普及の足が速まった。」という利点があった。他方、UNICEFやUNFPAからは「JICAと協調することにより、国連機関同士の立場の違い(活動対象:UNFPA=女性・母、UNICEF=子ども)により協調が進んでいない『連続した母子保健サービスの供給』という、抜け落ちてしまいがちなグレーゾーンに寄与することができた。」という評価があった。
これらフェーズ1での国連機関との協調経験は、2008年11月に開始したフェーズ2プロジェクトの活動でも引き継がれる。ただし、フェーズ2での動力は同じかそれ以上でも、どこに力を入れるかという力点は「引っ張っていく」から「去るために移譲する」という逆方向にギアを入れ替える必要がある。フェーズ2の課題は、フェーズ1でJICAが積極的に作り、動かしてきた協働体制を、徐々に冠である保健庁を中心とした調整メカニズムが機能するような実施体制に転換させる必要がある。よって、保健庁がその役割を実質的に担うことができるような母子健康手帳にかかわる基本的中央マネジメント能力の強化やステークホルダー間の信頼醸成なども含めたキャパシティディベロップメントを促す「引き立て役」として、引き続き国連機関やNGOとも協力しながら「触媒者(カタリスト)」を担っていきたいと願っている。最近は、仕事で行き詰まって疲れた国連パートナーたちと、ガス抜きも大事だと、我が家でオフ会を企画してみたりしている。実は、これが功を奏することもあるのである。
UNICEF, WHO,WFP, UNRWAと共催の新成長曲線&母子健康手帳、指導者研修(2007年10月)
<パート1 完>
[1] パレスチナに対するODA評価ミッション 平成12年3月(財)中東調査会http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/oda/shiryo/hyouka/kunibetu/gai/plo/th99_01_0500.html
[2] エジプトは紀元前3000年頃には中央集権国家を形成していた。その後、列強帝国により征服されたが、第一次世界大戦後は、エジプト王国として独立を勝ち取っている。現在は王国ではなく共和国であるが、国家経営の経験は深い国である。
(2009年9月11日掲載 担当:高浜 ウェブ掲載:秋山)