第35回 津田 加奈子さん (パート2)
JICA技術協力プロジェクト
パレスチナ母子保健リプロダクティブヘルス向上プロジェクト(フェーズ2)
母子保健/パートナーシップ調整 専門家
プロジェクトフェーズ2の日本人専門家メンバーと
津田加奈子(つだ かなこ): 兵庫県神戸市出身。大阪外国語大学地域文化学科アフリカ地域文化(スワヒリ語)専攻卒業後、日本の民間企業にて3年間勤務。横浜市立大学大学院医科学研究科にて医科学修士号(国際保健・HIV/AIDS・母子保健専攻)取得。その後、日本の国際協力NGOに所属し、JICA草の根技協プロジェクトマネジャーとして、ヨルダン農業省との「住民参加型による環境保全型節水有機農法普及事業」やJPF「イラン・バム震災緊急支援」の現地統括などに従事。2006年からJICAジュニア専門員として人間開発部母子保健課業務に従事し、2007年より現職。著書:「国際協力用語集第3版(国際開発ジャーナル社、2004)国際保健分野用語、解説執筆担当」
パレスチナ保健医療の変遷と複雑な現状
パレスチナ保健庁の歴史的背景を紐解いてみることは、パレスチナ保健医療事情を知る一つの鍵となる。古くはオスマントルコ統治時代→英国統治時代→ヨルダン(西岸)&エジプト(ガザ)分割統治時代→イスラエル軍政府時代を経て、1967年以来27年間にわたるイスラエル民政府統治下での保健医療政策実施とサービスの提供。この変遷をみるだけでも、現在にいたる複雑な背景に驚愕する。パレスチナはこれまで歴史的にも国家経営の経験を持たず、たった15年前の1994年に、制限付きの自治権をもって、近代初めて国家経営に取り組む事になっている。戦後の独立国の多くはかつて植民地だったが、多かれ少なかれ植民地統治下において宗主国の行政手法を学んでおり、独立後はその行政手法を応用している国が多い。パレスチナの場合、歴史的にはシリア、エジプト、トルコの影響を強く受けており、法体系や各種制度面ではヨルダンの影響も混在している。西岸とガザがなかなか「パレスチナ」として統一できないことも、こういった背景があるからだ。もともと、第1次中東戦争(1949年)から第3次中東戦争終了(1967年)までの約20年間は、西岸はヨルダン政府、ガザはエジプト政府に属していたため(通貨もそれぞれヨルダンディナールとエジプトポンド)、異質な遺産を抱えたままなのである。[余談:第1次中東戦争前の1927〜1947年の20年間の英国統治下時代に、milという単位のパレスチナ通貨(アラビア語、ヘブライ語併記)が、歴史上一瞬存在したが、その後は統治国の通貨に置き換わり、パレスチナ貨幣単位は廃止されている。現在は、敵対国通貨ニュー・イスラエル・シェケルが主に使用されており、商用ではヨルダンディナール(西岸)とエジプトポンド(ガザ)も使われている。]
医療分野に話を戻す。1996年に西岸内の大学に初の医学部が創設されるまで、国内の医療従事者は約60カ国にわたる諸外国にて医学を修得、また実践してきた人たちである。医療人の質はまちまちで、医療現場の混乱は依然として存在しており、医療技術プロトコール統一化も分野毎に整備される過程にある。
現在の保健庁の中核は、1967年以来、27年間にわたるイスラエル民政府時代にイスラエル官僚および技官と共にパレスチナの保健医療を担ってきた人たちである。イスラエル民政府が供給していた一次医療制度やシステムはそれなりに機能していた。例えば、イスラエル側には「ミルクのしずく」と呼ばれる母子保健センターがいたる所(国内1200か所)にあり、産前健診や予防接種などのサービスが供給される。現在も公衆衛生活動の「誇り」として最前線に位置付けられている。現在西岸やガザに380か所程ある母子保健センターは、民政府による同様の政策の名残ではないかと推察する。
パレスチナの政府管掌ラマッラ病院(二次レベル)
一方、三次医療はイスラエル領内のみに投資されたことが一目瞭然である。イスラエルでは、世界最高レベルの医療を受けることが可能で、病院施設の立派さに驚かされる。パレスチナには三次医療施設がそもそも存在しない。存在するパレスチナ二次病院施設とイスラエルの高度な病院施設は比較にならない。民政府が、パレスチナ領内において最低限の感染症対策などの公衆衛生事業を実施するために一次医療整備は行ったが、二次医療以上のところでは、主にイスラエル領内に集中して開発した政策が伺い知れる。1970年代のイスラエル保健省は「病院省」と呼ばれるほど、近代的設備を有する政府管掌病院建設に力を入れていたようである。分離壁のなかった民政府時代は、パレスチナ領内の人たちにも行動の自由があったため、イスラエル側の高度医療へのアクセスが可能であったが、第2次インティファーダ後の分離政策以降は難しくなった。民政府時代、「パレスチナ領内の病院建設には力を入れない」という戦略があったとしたら、現在のパレスチナ自治領内の「自立的保健医療サービス供給能力の不足」や「健康に関する決定因子」に直接影響していることは想像に容易い。
イスラエルの政府管掌イヒロフ病院(三次レベル)
オスロ合意後、自治政府保健庁が、予算を除く民政府下の保健医療システムを引き継いだ。ここまでヒト・モノ・カネが中途半端に断片化している現状を、経験が浅く財政的に脆弱な体質の自治政府が、統括管理継続、ましてや発展させていくことは非常に困難である。また、特に西岸については、パレスチナ自治政府に100%民政と治安の権限が任されているA地区は全土の3%のみ、民政権限は委任されているが、治安はイスラエルと分割権限とされているB地区は27%、合わせて30%ほどでしかない。自治政府が自治権を行使し得ないコントロール外のC地区が70%という状況である。この制限だらけの状況で、パレスチナ自治政府に統括管理できるはずがない、という分析もある。
私は、パレスチナを取り巻く行政の変遷を沖縄と比較してみた。国を形成していた琉球王国と、国家経営未経験のパレスチナは、その点において大きな相違があるが、特に江戸幕府時代から幕末以降の琉球が、明国、薩摩藩、日本、アメリカによる占領に翻弄されてきたことは、パレスチナの歴史に重なる部分がある。つい30年ほど前の1972年までは、沖縄は事実上米国占領下であった。琉球列島米国民政府下の管理のもとで、米ドル通貨で生業が営まれており、米国民政府・公衆衛生福祉部により基本的保健医療行政が執り行われていたわけで、1993年のオスロ合意前のイスラエル民政府化におかれていたパレスチナと類似の状況ではなかったかと推察する。1972年以降、米国民政府はなくなったが、治外法権となる在日米軍基地の75%が今なお沖縄県内には点在している。そこに暮らす米国人兵士により、そこに悠久に暮らしてきた沖縄の人々が摩擦や被害に苦しむという、現在にも続くこの状況は、パレスチナ西岸内部でイスラエル側が治安等のコントロール権限を持っている入植地、B地区やC地区でたびたび起こるユダヤ人入植者とパレスチナ人との衝突と類似のものかもしれない。
パレスチナ支援に関する一考察 ―ガザ戦争時の観察から―
世界的権威のある臨床医学論文雑誌LANCET2009年3月号「パレスチナ特集」にて、パレスチナにおける「健康に関する決定因子」のひとつとして、「国際援助機関などによる関わり(action)と怠慢(inaction)」が挙げられた。これについて、少し個人的観察から掘り下げてみたい。支援が、健康“阻害”因子となっているとしたら恐ろしいことだからである。
1993年オスロ合意後、パレスチナがイスラエルから“部分的”自治を勝ち取った途端にやってきたドナー支援は、まるで黒船が1カ国のみならず数カ国から一気に押し寄せてきたような脅威になる可能性もある。“脅威が幕府から夷国にとって代わった”という構図にならないように、パレスチナもパレスチナを支援しようとする各国も操縦を誤らないように気をつける必要がある。これは外から見ているとなかなかわかりづらいと思うが、私が顕著に実感を伴ったのは、2008年12月27日〜2009年1月18日のガザ攻撃時の人道支援状況の観察からである。
医学論文雑誌LANCETワークショップ
1月初旬、予定されていた通常ドナー会議議題が急きょ「ガザ緊急支援」となる。保健庁大臣およびWHO所長からの共同声明は、「支援は大原則差し控えること。西岸保健庁内に設置された緊急人道支援調整室との調整なしに支援することを禁止する。」という厳格なお達しだった。それも当然、大臣からの公憤を伴った説明によると、支援物資薬剤の中にパレスチナでは不要の抗マラリア剤が混ざっていたり、救急車2台の緊急支援要求に対して160余台もの救急車が届いたりするという状況。WHO所長からも、「異例ではあるが、各WHO地域事務所長宛てに、各国にパレスチナ向けの支援を当分凍結する旨を伝達するよう正式文書を送った」との報告があった。緊急支援現場の初動では、調整が難航することは多少計算内ではあるが、今回は違った。パレスチナはこういった調整には比較的慣れている方である。実際、WHO所長によると「ガザの医療現場は、能力の高いパレスチナ医療関係者により高度な調整が行われているため、諸外国からの医療人材もむやみに送らないように、かたく注意を呼び掛ける。現場の混乱の元になるから。」とのことであった。パレスチナがよほど世界中から愛されているのか、はたまた言葉は悪いが「好意という名のごみ箱」と間違われているのか、「異常」としか思えない状況であった。パレスチナ側に調整のすきを与えないほどの「支援」の勢いである。
私は神戸の震災やイランの震災緊急支援現場を経験しているためはっきり言えるが、こういう時期の「親切の押し売り」はいけない。ガザ地域人口は神戸市人口とほぼ同じ150万人。ガザ地域面積は神戸市の3分の2。阪神淡路大震災の死者は6000人以上にのぼったが、今回のガザ攻撃の死者数は約1500人。この規模のところに、世界中からどっさり支援が集中することを想像すると、実は恐ろしい。イスラエル軍からの軍事攻撃もひどいが、世界中からの善意の支援そのものも暴力に近いものになる。メディアが騒ぐは必至。果たして、各国、先を越されては、、、という逸る気持ちがあるかもしれないが、本来は、一歩下がって、傍観し、もう一歩先を見据えて「復興」の想定をするぐらいがちょうど良い。緊急支援の初動は、大げさであってはいけない。特に、ロジスティックス上、検問所通過のためにイスラエル側の許可が必要であるというような特殊なケースであるこの国の場合は、保健庁統括の調整下に動くことはもちろんのこと、UN-OCHA、UNRWAなど国連機関との連携なしには支援実施は難しい。
パレスチナ保健庁の中長期開発的改革 −開発体質への脱却に挑戦中―
1994年にパレスチナ保健庁が設立されて以来、中期計画となる「国家保健戦略計画」は3回しか策定されていない。しかも、前2回は十分に評価モニタリングされず、計画も諸事により凍結されるなど、実質的な実施のための「地図」としての役割を果たさないままであった。第三次国家保健戦略計画(2008-2010)と高等教育庁からの同様の中期計画については、パレスチナ自治政府として初めて、サイクルマネジメントの試みが導入されることになった。保健庁では計画局が設置されWHOがアドバイザーとなって進めている。
今後、保健庁は「具体的指標に基づく四半期毎評価(毎年11月、2月、5月)」、「具体的指標に基づく計画策定(毎年5月の評価をもとに6〜7月)」、「それに基づく財務庁への予算請求(8月)」という、開発的戦略作りのサイクルマネジメントへ移行するための初の試みを2010年から実施していく予定。保健セクターに係るドナーや協力団体にも、できる限り上記年間スケジュールを理解した上で、計画的実施に資する協力が求められた。
パレスチナが準緊急援助的体質からの脱却を図り、より「開発的体質」へと、うまく変貌を遂げることができるか、しばらくは見守るよりほかない。そして外国からの支援に関わる一人としては、プロジェクト内で保健庁側の「自立発展性」を期待する活動部分については、十分保健庁全体の動向を見極め、流れているレールがあるのであれば、それにうまく歯車がかみ合うように、関係国際機関などとも連携を図りつつ進めていきたい。
母子保健クリニックのスタッフと母親
これからのチャレンジ、キーワードは「つなげる」
2009年4月20日、第1回・母子健康手帳国家調整委員会が開催された。委員長を西岸保健庁公衆衛生局長が務め、その他常任委員は保健庁、UNRWA、3つのNGO団体、ガザ保健庁関係者[1]という保健サービスプロバイダーから成る。JICAプロジェクトは委員会のアドバイザーとして位置している。非常任委員は、医師会、大学(医学部、看護学部)、UNICEF、UNFPA、WHO、イタリア援助庁(パレスチナ保健セクター調整担当国)、USAIDプロジェクト、日本代表部(大使館)などであり、委員長が議題によって関連非常任委員を召致することとなっている。上記国家調整委員会が今後母子健康手帳に関連する政策決定組織となる。また、上記調整委員会内に「タスクフォース(作業部会)」を設け、実質的な詳細活動は指名された作業部会メンバーが実施するという実施体制である。
この国家調整メカニズム構想は、JICAプロジェクトフェーズ1時代の2008年1月に、日本で本邦研修を受けたカウンターパートが策定した。起草から1年を経て、ようやく実施体制が始動した。もともと「母子健康手帳を開発するという協働作業を通して、つながりはじめた」各機関が、こうして正式に協働で政策決定していくという実施体制が整った。現場の母子健康手帳運用の課題は、まだまだ山積みである。各関係機関の足並みもそろっているとは言い難い。母子健康手帳の意義の理解の度合いも、評価手法も、応用方法も、医療機関によってまちまちである。二次病院や民間クリニック、およびガザでの導入が遅れているため、母子健康手帳が「国家共通のツール」というには、時期尚早である。これら、課題の解決のための「共通の場」ができあがったことは、まずは喜ばしい一歩なのである。
第1回、母子健康手帳国家調整委員会発足(ガザとはテレビ会議中継、2009年4月)
パレスチナ自治政府樹立以来この15年間に実施してきた保健庁のあらゆる政策は、一歩一歩形作られてくる過程であり、必要最低限の保健医療政策策定やサービス供給などの自助努力はドナー支援とともに、時に外圧や内情により中断されつつも、有効に作用し始めている過渡期であるようにも見える。上記、「パレスチナ保健庁の中長期開発的改革」の取り組みも、その過程の一つであるといえる。
この時間軸の中に存在する本プロジェクトも、これら複雑な背景やこれまで達成してきた取り組みを俯瞰し、何をどのタイミングで実施することが効果的であるのか、大きな歴史の流れを見ながら適切な投入を図っていくことは非常に重要であると思われる。フェーズ1にて、保健庁主導で取り入れられた母子健康手帳の取り組みについても、この長い、しかし経験のない「統一化」への夢路のシンボルとして受け入れられたことが、関係者間で、より一層客観的に理解できてきたところである。フェーズ2では母子健康手帳が一時的なシンボルにとどまらず、しっかりと地に足つけたツールとして、今後のパレスチナ社会に深く根ざし、母子保健政策およびサービス改善の具体的方策につながるように、引き続きできるだけ「触媒者(カタリスト)」的に「つなげる作業」に関わっていきたいと思う。
おまけ −ベツレヘムでのクリスマス(2008)―
普段、西岸へは業務外渡航は禁止されている。よって、毎日業務で西岸に行くことはあっても、プライベートで西岸に行くことはない。
2008年12月23日は、事務所からの許可が下りたので、クリスマス直前のベツレヘムへ自分の車ででかけることができた。ベツレヘムは大きな壁が立ちはだかり、通行幅の狭い検問所で有名。観光客用に「ようこそ、ベツレヘムへ!」というカラフルで陽気な横断幕が灰色の分離壁に垂れ下がっているのが、不気味というか、いつ見ても不自然である。
ベツレヘムには、普段一緒に仕事をしているカウンターパートのひとりである、保健庁公衆衛生局長が住んでおり、連絡をとって一緒に食事をした。ベツレヘム県保健支局長のご家族のところにお邪魔して、お茶を飲みながら、とても楽しいひと時を過ごすことができた。「泊まっていきなさい」「来週もまたおいでよ」と誘われる中、おいとまする時間が来てしまった。
夜であり道が不案内なので、公衆衛生局長とベツレヘム県保健支局長が、車で先導して検問所まで送ってくれるという。私は自分の車を運転しながらついていった。検問所から100mほど手前で二人の乗る車が停まり、窓から手を出して、「さあ、我々が同行できるのはここまでだから、あとはお行きなさい」と促してくれている。私は窓越しに、「今日はありがとう!」と手を振りながら挨拶して、検問所まで車を進めた。バックミラーで、二人の車がまだ停車して見送ってくれているのが見える。
検問所で寒い中公務している若い兵士と、「シャローム」とあいさつを交わす。さっきまで私はアラビア語と英語でみんなと楽しく過ごしていたのに、分離壁を境に言葉も変わる。兵士は礼儀正しく私に微笑んだ。私はイスラエル人が憎いと思わなかった。寒いのに大変だろうなあ。と、説明しがたい気持ちで、分離壁を超えると同時にバックミラーから、Uターンするカウンターパートの車が見えた。不思議な気持ちと止まらない涙があふれた。
なんでなんやろー。数年前まで自由に行き来できたところなのに、あの人たちは私と一緒には出てはこられない。西岸の他地域へ行くには、この検問所を通ることは許されず、Uターンして別の迂回路を使用するしかない。風が吹き小雨の中で、はにかんだように微笑んでいる兵士のにーちゃんだっていい人に違いない。でも、私の後ろの車があれ以上進んでくれば、場合によっては鉄砲を打たなきゃいけないんだ。残念で仕方がない。誰かが憎いわけではなく、心にずしんと、「残念」の重み。赴任して1年半がたち、情けないことに、初めて、「私は、イスラエル人もパレスチナ人も好きやから、お願いやから、平和がほしい。」と、心から思った瞬間である。
ガザ攻撃は、この3日後に始まった。ベツレヘムも当分行くことができないところになってしまった。
<パート2 完>
[1] 2009年6月16日、ファタハとハマスの関係悪化という情勢のため、西岸とガザによる合同の国家母子健康手帳調整体制をしばらく凍結することとなり、当分は2地域別個に調整および関連活動を実施する体制となった。
(2009年10月16日掲載 担当:高浜 ウェブ掲載:藤田)