開発と復興支援に取り組む草の根活動
〜コソボから学べること〜
「国際仕事人に聞く」第7回では、Youth with a Missionのコソボ代表をされている小野寺ふみさんにお話をうかがいました。小野寺さんは7年間コソボに駐在されており、同地で開発と復興支援に取り組んでいらっしゃいます。特に、草の根活動を通してできること、アルバニア人とセルビア人の和解、女性問題の重要性、日本人として国際社会に貢献できることなどについてお話頂きました。今回は小野寺さんの活動について、国連開発計画(UNDP)コソボ事務所の近藤哲生副代表にお話を聞いて頂きました。(2009年1月13日於プリシュティナ)
近藤:国連開発計画(UNDP)コソボ事務所で勤務している私は、2年前よりコソボに駐在していますが、ミッショナリーのお仕事を通して、開発と人道支援の活動に長く携わっておられる小野寺さんがいらっしゃることを、とても心強く感じます。国際機関も、小野寺さんの活動も、同じようにコソボの開発と復興支援に取り組んでいますが、まずは、小野寺さんの従事されているYouth with a Missionについて教えていただけますか。
小野寺:Youth with a Missionは1960年にアメリカで設立された、ミッション系のボランティア団体です。現在では世界171ヶ国で約1万6千人のボランティアが活動をしており、キリスト教系の団体としては世界で最も大きなものの一つです。伝道、教育、慈善という3つの柱にもとづき、世界各地で活動をしています。
小野寺ふみ(おのでら ふみ) |
活動内容は、地域の状況により異なります。たとえば、北欧ではアルコール中毒患者のリハビリをしたり、オランダでは農園を作って人々の生活を支援したり、ブラジルではアマゾンの少数民族の人たちと生活しながらいろいろな技術を教えたりしています。他の地域では、医療船に乗って島々をまわり、病人を問診して薬を届けたり、 学校を設立して教育活動を促進したり、機械整備や美術など特殊技術の専門家たちが技術を伝授したり、というようなことをしています。
Youth with a Missionがコソボで最初に活動を始めたのは1999年にコソボ紛争(※語句説明1)が終わった直後です。アメリカを中心に寄付を集め、世界中から募ったボランティアをコソボ各地に送って、人道支援として毛布を配ったり、戦争未亡人の家の再建を手伝ったりしました。近藤:小野寺さんは、Youth with a Missionのコソボ代表としてご活躍されていますが、ご自身の活動について教えてください。
小野寺:私が2000年にコソボに来た当時は、Youth with a Missionからも10人ほど来ていました。戦争未亡人や貧しい人に衣料品や食料を届けたり、2001年と2002年は女性を援助するためのセンターで、200人ほどの夫を亡くした女性たちが少しでも生計の足しにして自立できるように、お菓子の作り方や、クラフト、手芸などを教えました。もともとコソボの女性は、私などが教えられないほど手芸が上手で、よく編み物をするのですが、それに少し違うアイディアを入れて加工し、カードやしおり、かばん、クッションのカバーなど、すぐに商品化できるものをつくりました。
また、このすぐ後に、刑務所で女性受刑者の人たちに手芸を教えました。この仕事も2年間続けました。こうしているうちに、Youth with a Missionの世界の活動を通して、地元の教会にアメリカやヨーロッパからたくさん人道支援の物資が届き、村の戦争未亡人や他の地域の人たちにも活動が広げられるようになりました。今では、首都プリシュティナの教会での活動とこういった地方での活動の両方をしています。
近藤:コソボに来ることになった経緯を教えていただけますか。
小野寺:コソボに来る前、私は日本の商社のOLとして勤めていました。来ることとなったきっかけは、実はコソボの紛争ではなく、ボスニアの戦争(※語句説明2)でした。ボスニア戦争の直後に友人がサラエボに渡り、戦争の傷跡にショックを受け、レポートを私に送ってくれました。その頃、私はだんだん会社の勤務条件がよくなり、給料も上がってきたので、いろいろなところに旅行に行って、好きなものを買って、のうのうと暮らしていました。地球の反対側では、そういう悲惨な戦争が起こっているにもかかわらず、全然興味がなかったのです。ボスニアで起きたことを知ったとき、そんな自分がとても恥ずかしくなりました。そして、コソボで紛争が起こるかもしれないと聞いたときは、注意を払ってバルカン半島について勉強しました。
実際にコソボの紛争が起きたときは胸がつぶれるような思いがしました。1999年、紛争のあった年に会社から休暇をとり、コソボの難民がいると言われていたアルバニアの首都のティラナまで行きました。でもそれは9月で、そのときには難民はもうコソボに引き上げていました。また、アルバニアからコソボへの交通の手段もありませんでした。ある団体がヘリコプターを飛ばしているということを聞いて、それに乗せてもらえるように何日も待っていたのですが、最終的にだめになりました。でも、どうしてもそのまま帰るわけにはいかなかったので、無謀にも、民間のバスでティラナから19時間かけてコソボの首都のプリシュティナまで来ました。言語も分からず、山の中で何回も車がエンストする中、一人で泣きながら来ました。知人に紹介してもらった地元の人たちとも連絡がつかず、どこに地雷があるか分からないので、アスファルトのしっかりしているところだけを歩きました。こうして、周りの状況を見て、本当にここで働きたいと思ったので、翌年の2000年には仕事を辞めてコソボに引っ越しました。
近藤:国際問題に関心を持つことは、ある程度勉強したり問題意識を持っていたりすれば比較的楽だと思いますが、それまでの生活を整理して実際に現場に行ってみようと思うのには相当大きなきっかけが必要だと思います。特に、アルバニア人とセルビア人の民族対立を、学校で習う歴史や国際政治で得る知識としてではなく、自分で問題と捉え、そこに行って両民族の和解を自分で進めたいと思われたのは、何が原動力だったのでしょうか?
近藤 哲生(こんどう てつお) 東京都立大学卒(経済学)。フランス・ポワチェ大学法学部在籍、米国ジョーンズ国際大学(UNDP開発アカデミー)開発学修士号取得。1981年外務省入省。条約局法規課、在フランス大使館、在ザイール大使館、国連局社会協力課、海洋法本部海洋課、日本政府国連代表部などに勤務。その後、2001年2月に UNDPに出向し、本部資金パートナーシップ局上級顧問、イラク復興支援信託基金(IRFFI)ドナー委員会事務局長・国連イラク支援派遣団 (UNAMI)特別顧問を歴任。2005年3月に外務省を退職し、UNDPアジア太平洋地域センター資金パートナーシップ担当上級顧問、2006年6月か らはUNDP東ティモール人道支援調整・資金担当上級顧問。2007年2月から現職。 |
小野寺: アルバニア人とセルビア人の両方と働きたいとは思いましたが、あまり深くは考えていませんでした。ただ、1999年に訪問したときに現状を見て、とても心を痛めました。そのとき、プリシュティナ市内では、破壊されて天井が宙吊りになった郵便局の建物や、全て閉まった店、あちこちに停められた国連と北大西洋条約機構(NATO)の車などを見ました。プリシュティナ市内は主要な建物が空爆にあっただけだったのですが、バスでアルバニア国境からコソボに向けて来るにつれて、街道沿いに数多くの焼けた家を見ました。なぜこんな村までセルビア人が来てこういうことをしたのだろうと思いました。アルバニア人も同じことをしてきたのですが、NATOの空爆とは違い、民族間の互いへの憎しみが感じられました。
こうしていろいろなものが破壊されたときに、街は直せるが人の心は癒されないと思いました。時が経てば壊された物は修復されて、まるで破壊がなかったようになるかもしれませんが、戦争で傷んだ人の心はそうはいきません。そんな大きなことは期待していなかったのですが、やはり戦争を経験した日本人として、コソボの人たちを励ましたり、何か役立つことがあればしたいと思って来ました。
7年もいるつもりは全くなかったのですが、個人的には、コソボに来たことによって違う角度から自分を見つめることができたと思います。コソボは自分を成長させてくれたところでもあり、その意味で私はとても感謝しています。
近藤: 草の根活動の良いところの一つは、人々の反応をその場で測れることではないでしょうか。特に、民族間の紛争のあった地では、人の触れ合いが大事だと思われます。アルバニア人とセルビア人、或いはロマ人といった少数民族(※語句説明3)が、過去の歴史を乗り超えて協力し合ったエピソードはありますか。
小野寺:異民族の人たちが互いに協力しているのを見ることはあります。たとえば、以前、刑務所で手芸を教えていたとき、そこはアルバニア人とセルビア人が一緒に住んでいる村だったので、アルバニア人とセルビア人、そしてアシュカリの人たちが同じところで働いていて、タバコを分け合ったり、雑談したりしていました。また、その同じ村には、スポーツセンターを作って、若者たちの活動を促進している他のNGOも活動しています。実は、私の友人であるアルバニア人、そして別の友人であるセルビア人がそのセンターにそれぞれ雇われたのですが、初めはお互い嫌っていたのが、今では親友なのだそうです。それにはとても励まされました。また、このようにして、いくつかの場面でアルバニア人とセルビア人が和解できていますので、まだ表面化はしていないものの、草の根レベルの和解が少しずつ進んでいると思います。
近藤:では、逆に、異なる民族がなかなか一緒に活動できないという難しさを経験されたことがあれば、教えていただけますか。
“街は直せるが人の心は癒されない。” |
小野寺:そもそも私は、アルバニア人とセルビア人の和解を促すことを目的としてコソボに来ました。ですから、私は両方の民族と働いていることを日頃から強調するようにしています。私がセルビア人を助けていると聞くと傷つくアルバニア人もいますし、アルバニア人を助けていると聞くと嫌な顔をするセルビア人もいます。でも、私自身、たとえばアルバニア人の中に入って、セルビア人との活動を何もしていないようなふりはできませんし、そのときの反応は別としても、両方を助けていることを声を大にして言うことが大事だと思います。少し大変な部分もありますが、そう言ってきたことは後悔していません。
もちろん、日本人の私には分からないこともあります。日本は厳密には単一民族ではありませんが、民族の違いがあまり表面化していないので、コソボの人たちの心情は理解しにくいかもしれません。でも私はよく、この状況を家族の図にたとえています。たとえば、兄弟が家族の中で争っているように、同じ国の中で違いを争っていると受け止めています。コソボはアルバニア人が大半なのでアルバニア人の国のように思われていますが、セルビア人と話をすると、セルビア人たちも、コソボ人としての自覚をしっかり持っています。海外にいる人たちは、よくセルビア人が少数民族としてコソボで苦労するのなら、なぜセルビアに引っ越さないのかということを言います。しかし、セルビア人にとってもここが自分の国なのです。紛争や民族対立があるからといって、自分の国を出るわけにはいかないのです。近藤:コソボでは、去年2月の独立宣言(※語句説明4)以降、人々の生活は徐々に改善されてきたと思いますが、アルバニア人のセルビア人に対する思いは変わったと言えますか。また、ロマ人やアシュカリ人といった、他の少数民族に対する理解や寛容性も変わってきたと思いますか。
小野寺:それは地域によって違うと思います。プリシュティナでは、国際機関がアルバニア人とセルビア人を一緒に雇用していることによって、街でセルビア語を聞くことがもはや日常的になりました。レストランにもお店にも、アルバニア人もセルビア人もいて、そういう意味ではプリシュティナは大きく変わったと思います。寛容かどうかはまだ分かりませんが、ここではアルバニア人はセルビア人の存在を受け入れるようになりました。
一方で、村などの地方では、人々がいまだに戦争の傷跡を引きずっています。たとえば、私がアルバニア人地区でセルビア人の話をすると、すぐに拒絶されます。村では、民族間の関係は紛争後それほど変わっていないと思います。近藤:先ほど、戦争未亡人や女性受刑者のお話をされましたが、小野寺さんの活動は女性の側に立った支援がとても多いですね。いろいろな職業技術を持っている人が地元の人たちに技術を伝授すると言うプロジェクトは国連でもよくしていることですが、こういった戦争や災害を経てきた地域で共通して言えることは、女性と子どもが一番苦しんでいるということだと思います。今、ニュースで毎日取り上げられているガザの状況をとってもそうですが、子どもたちのいる学校や、家庭を守る女性たちがいる民家が攻撃対象となり、平和な世界で生きている私たちには想像できないような非人道的なことが起きています。特に経済開発の遅れた地域では、家庭の中で女性が男性に依存する形で暮らしている場合が多い分、戦争などに直面すると、所帯そのものが崩壊してしまいます。戦争で苦しんだ末、何もかも失った女性は、生計を立てる道もなく、何をしていいか分からない状態にあると思います。更に、組織犯罪などがそういった無力で貧しい女性につけこみ、人身売買や売春などに若い女性を利用しようとします。そういうこともあって、刑務所に服役している女性も多いと思います。
小野寺:そうですね。刑務所で手芸を教えていたときは、手芸をしながら皆いろいろな話をしてくれて、女性の心情を知るという意味でとても勉強になりました。
刑務所には人身売買の犠牲となった人や、何かの支払いができなくて経済的な理由で投獄された人など、様々な問題を抱えた女性がいました。夫を刺した人もいましたが、そもそもの発端は宗教でした。コソボのアルバニア人はイスラム教徒ですが、イスラム教では、正妻の同意があれば、第二夫人をめとることができます。子どもがいなかったり、何か正妻に至らないところがあるとされたりすれば、なおさらそうです。ところが、私が知っている事例は、子どもがすでに4人いて、一番下の子どもが数ヶ月で小さいにもかかわらず、夫がもう一人女性を家に連れ込んできました。こうして半ば追い出された奥さんが、感情がたかぶったあまり夫を刺したということでした。
近藤:社会が困難な状況に直面しているときに、苦しんでいる女性をどのように支援するかということは、国連でも大きな課題の一つです。UNDPでも、女性を主たる受益者としたプロジェクトをいくつか持っています。手芸やクラフトといった地道なものでも、共同で事業を立ち上げれば経済的に十分立ち行きますし、女性の職業組合などという形で組織化されればより強くなります。実は、UNDPの事業において、女性を力づけていくプロジェクトは成功しています。これは、女性の支援が家庭の支援に直接つながるからです。統計的に見ても、男性と比べ、女性の方が得た収入のうちのより多くの割合を子育てや家族の安定のために使っています。女性に光をあてていけば開発は成功するというのが、私の個人的信念の一つとなっています。
また、経済的な理由で、あるいは他人に強要されて、やむを得ず人身売買や売春に関わっている女性をどう取り締まるかというのも大事な課題です。やむを得ず売春に従事している女性たちは、刑事責任を負いながらも、同時に、最大の被害者だともいえます。このような微妙な立場に置かれた女性をどう助けていくかということは難しい問題ですが、これを重視しなければ、社会が仮に豊かになっても、自分の人生を台無しにしてしまう女性を助けることができないと思います。UNDPでは、人身売買や売春の被害にあった女性の保護や更生のために警察の訓練もしていますが、コソボで苦しむ女性たちとじかに接してこられた小野寺さんから、私たち国際機関で働く者に対する助言などはありますか?小野寺:やはり、いろいろな機会を利用して、この問題に対するまわりの意識を高めていくことが大事だと思います。たとえば、コソボでは売春は軽犯罪で、あまり重く見られていません。一方、モラルはとても重視されています。娘が結婚をして、初夜に処女ではなかったことが分かると、家に帰されることがありますし、こうして帰された後、実のお兄さんに殺された女性もいました。表ではモラルが重視されている一方、社会的には軽犯罪となっているこの矛盾を解決するには、国際社会が声を上げて問題の深刻さを示していく必要があると思います。社会的地位が低いコソボの女性を守り、保護するためには、外にいる私たちが応援しなくてはなりません。
近藤:1999年の紛争後、日本がコソボにたくさんの支援をした結果、日本に親しみを感じているコソボ人が多いと感じます。小野寺さんは折り紙や習字など、日本の文化を紹介されることもあると伺いましたが、日本はコソボにとってどのような国だと思われますか。
小野寺:いろいろな側面があると思いますが、日本人として自己紹介をすると、まず言われるのは「ハイテクな国」だと言うことです。また、プリシュティナ以外の町や村に行くと、日本政府がクリニックや病院、学校を作ってくれたとか、日本政府に助けてもらったなどということを言われます。そういう意味ではコソボの人たちは日本に感謝していると思いますし、また、日本政府の支援のおかげで、私たちNGOや日本人も活動がしやすくなっていると思います。
日本の文化紹介をミトロビツァのセルビア人地区でしたとき、おっしゃるように折り紙や着付けもしたのですが、第二次世界大戦の話もしました。アメリカと日本が戦争したにもかかわらず、今日では友好関係にあり、経済協力もしているという例を使い、民族が対立しても、将来的に助け合えるようになることがあると話しました。
そういう意味では、日本がコソボに伝えられることは多いと思います。私は日本で戦争があったときまだ生まれていませんでしたが、戦争が日本に与えた打撃や被爆者の苦しみのことは知っています。この経験により、二度と戦争を繰り返したくないと日本人は思っていますが、コソボの人たち、また、バルカンの人たちは戦うことを諦めていません。ですから、日本の戦争の痛みを訴えることが大事だと思います。
近藤:おっしゃるとおりだと思います。日本は西洋と同じように経済大国となり、今では困っている人たちのためにいろいろなことができる立場にあって、国際支援の現場に入る日本人も多くなりました。ただ、コソボの人にとって、西洋人と日本人を見る目は少し違うと思います。日本人はアジアから来ましたし、何より、戦争の被害から立ち直って、戦後の経済成長の中で成功してきました。私たちもいつか、戦争の苦しみを乗り越えて次の時代をつくっていけるかもしれないと、ある意味、希望の象徴のような存在に写ることもあると思います。これまで、私がアフガニスタンや東ティモールなどの現場にいたときもそう感じました。
日本人は、西洋の人に及ばない面ももちろん多くあります。たとえば、コミュニケーションなどはなかなか苦戦することが多いですね。でもそれ以上に日本人にしかできない、あるいは日本人であるがゆえに、よりうまくできることということがたくさんあると思います。
“その人たちの秘めている可能性を |
また、今思い返せば、なぜ日本人の私がここに来なければいけなかったのかと考えたときに、このためだったと思うことが一つあります。コソボに最初に来た頃、人道支援の活動をしていると、どこの団体で働いているのかと必ず聞かれました。キリスト教の団体だというと、アルバニア人には嫌な顔をされました。キリスト教徒はセルビア人、という連想がされてしまうからです。聞いた話では、コソボ紛争の頃、セルビア人の兵士の中にはアルバニア人の女性たちを強姦したあと、女性の胸に十字架を刻んでいった者もいたらしいのです。私はプロテスタントで、セルビア正教とは宗派が違いますが、キリスト教全体が嫌われています。
しかし、いったんは嫌な顔をされても、私が全面的に拒絶されることはありませんでした。西洋人である同僚たちは拒絶されても、日本人の顔を持つ私は、セルビア人のキリスト教徒と同一視することができなかったのです。そのため、アルバニア人にも受け入れてもらったので、日本人であったからこそ道が開けたと思います。
近藤:国際機関に従事する者から見て、NGOの活動は、より人々の生活に密着している点がすばらしいと思います。過去7年間、村に入ったり、街で人々の話を聞いたり、コソボの人々とじかに触れ合ってきた小野寺さんが日頃から心がけていることは何ですか。
小野寺:日本の方が技術的に進んでいる面がありますので、私たちはどうしても優越意識を持ってしまうところがあると思います。でも、私たちはコソボに仕えるために来ているので、地元の人たちをなるべく尊敬するようにしています。また、現実だけに目を留めるだけでなく、その人たちの秘めている可能性を思い描きながら接するように心がけています。
近藤:コソボのような民族の対立が激しい地で草の根レベルの奉仕活動をされてきて、この仕事をしてきてよかったと思うのはどんなときですか。
小野寺:まず、村の戦争未亡人を訪れるときです。目に涙を浮かべていまだに紛争のことを思い出している人たちが、私たちが訪問することによって励まされ、笑顔を取り戻すのを見ると、この仕事をしていてよかったと思います。また、紛争の直後と違い、いろいろなことが改善されているにもかかわらず、いまだに自分の家に戻れない難民もいて、狭いバラックやコンテナに住まざるを得なくなっています。そういう人たちを私が訪問すると、まだ自分を見捨てていない人がいると、とても励まされるようなのです。刑務所で手芸を教えていたときも、同じように感じました。刑務所は誰も相手にしてくれないようなところなので、本当にみんな心を開いて話をしてくれました。話を聞くことによって私自身も励まされ、ますます女性に対して強い思いを持つようになりました。何より、このように取り残された人たちを微力でも助けられることは本当に光栄だと思います。
近藤:国際機関を通しての支援とは別に、日本の一般市民一人一人が貧困や紛争に苦しむ他国の人々のためにできることがあれば、それは何だと思いますか。
小野寺: コソボは日本から遠いですが、どこの地域であれ、日々何が起きているかというのは思いにとめるべきだと思います。また、日本はいろいろな意味で恵まれているので、それを謙虚に受け止めて感謝すべきだと思います。そして、もし何かチャンスがあれば手を差し伸べたいという心がけで、世界中で起こっていることに目を留めていけば良いと思います。
近藤:では、そうやって問題意識を持った上で、現場に行って草の根活動をしたいと思う人たちへのアドバイスはありますか。
小野寺:私はコソボに来る前は7年間平凡にOLをしていました。平凡で大きなとりえもない私がコソボに来たのは40代になってからです。そんな私が日本を離れてコソボでこのような生活ができるということは、20代、30代の方にはもっと大きな可能性があるということだと思います。できない、だめだと思っていれば何もできないですし、実際、誰しもできることはたくさんあるのではないでしょうか。自分の生活圏から一歩踏み出すことで、自分を活かすチャンス、そして新しい挑戦ができると思います。
また、現場に向かうにあたり、いつも自分の安全を確保できる状態に身をおくことが大事です。そして、外国人として自分が取る行動により、たとえば日本政府に迷惑をかけたり、大きな規模だと国際問題になるようなことを起こしかねないので、十分注意すべきだと思います。それほど影響力のないことだと思っていても、仕事の仕方によっては大きな問題になりかねず、大変責任が重いと思います。
最後に、語学研修は大事だと思います。国際機関で働いている人たちには大体通訳がいますが、NGOには通訳を雇う余裕はありません。私もコソボに来てから、アルバニア人のお宅でのホームステイとボスニアでの滞在により、アルバニア語と、セルビア語に近いボスニア語を勉強しました。言葉が通じることによってもっと身近に地元の人々と触れ合うことができますし、心を開いてもらえます。
“自分の生活圏から一歩踏み出すことで、 |
近藤:これからのコソボの展望や課題をお聞かせ下さい。
小野寺:これからは女性たちを一方的に援助するだけではなく、彼女らが自立できるように支援したいと思います。また、Youth with a Missionの団体としてもかたちを変えながら、アルバニア人または他の民族の中から、後継者が育つように訓練していければと願っています。
近藤:最後に、コソボには7年間と長くいらっしゃいますが、今後のご予定を教えていただけますか。
小野寺:とりあえず、あと2年間は様子を見ようと思っています。ここでの経験から言えることは、他の人たちでもできることをいつまでも自分でやっていると、他の人たちを育てられないということです。後からコソボに来る人たちや地元の人たちに私の今やっていることをできるだけ引き継いでいければ理想的です。
【語句説明】
1. コソボ紛争
セルビアの自治州 であったコソボ を中心とした 1999年の紛争。14世紀にセルビアがオスマン・トルコに敗れ、イスラム教に改宗した隣国アルバニアの人々がコソボに移住した。1913年、バルカン戦争でトルコに勝ったセルビアがコソボを奪回し、ユーゴスラビアの一部とする。その後もコソボではアルバニア系コソボ人とセルビア系コソボ人が共存していたが、1990年代から、当時のセルビア大統領・ユーゴスラビア大統領のスロボダン・ミロシェビッチの圧政により政治的不安と民族対立が高まる。コソボの独立を求めるアルバニア系住民が非合法武装組織のコソボ解放軍(KLA)を設立し、セルビア政府との武力闘争が始まる。1998年には数十万のアルバニア系コソボ人が難民となり、住民の安全を脅かす人道的な問題として、国際社会の介入が始まる。翌年、NATO軍のセルビア・コソボ空爆により、セルビアがコソボから撤退し、紛争が終わる。アルバニア系コソボ人は帰還するが、逆に非アルバニア系、特にセルビア系コソボ人の多くが難民となり、今でもコソボの民族対立は大きな問題となっている。
参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kosovo/data.html (日本語)
2. ボスニア戦争
ボスニア・ヘルツェゴビナの独立をめぐり、1992年から1995年まで続いた戦争。旧ユーゴスラビアの崩壊に伴い、クロアチアなど多くの国で分離独立をめぐって紛争が起きた。ボスニアの場合は、独立を望むクロアチア系住民とボシュニャク系住民、それを阻止しようとするセルビア系住民の間で3年半にわたって戦いが続いた。死者20万、難民200万といわれ、欧州では第二次世界大戦以来の惨事となった。
参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bosnia_h/data.html (日本語)
3. コソボの少数民族
コソボには、6つの公式に認められた民族がある。アルバニア系、セルビア系の住民以外に(文中の「セルビア人」「アルバニア人」とは、セルビア国籍、アルバニア国籍の人々ではなく、セルビア系コソボ人、アルバニア系コソボ人をそれぞれ指す)、トルコ系、ボシュニャク系、ゴラーニ系、ロマ・アシュカリ系の住民である。ボシュニャク系住民は、もとはボスニアから来たイスラム教徒の人々であり、ボスニア語を話す。ゴラーニ系住民は、コソボ南部の高山に住み、独自の言語を持っている。ロマ系住民は、ヨーロッパの多くの国に住むが、コソボの場合には、もとはエジプトから来たアルバニア語を話す少数民族であるアシュカリ系住民と関連付けて、ロマ・アシュカリ人と呼ぶことが多い。
参考:http://www.ecmikosovo.org/ethnic-composition.214.0.html (英語)
4. コソボ独立宣言
1999年の紛争終結以来、コソボは国連安全保障理事会決議第1244号にもとづき、セルビア政府ではなく、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)に統治される。しかし、アルバニア系住民の不満が高まり、コソボの将来について安保理の議論が滞る中、2008年2月17日、コソボは独立を宣言し、コソボ共和国と名乗る。日本は翌月にはコソボの独立を認め、他にアメリカやEU加盟国のほとんどが独立を認めている。一年後の2009年2月現在、国連加盟国192ヶ国のうち、54カ国が独立を認めているが、国連自体は、UNMIK任務完了に向けて準備を進める一方で、決議第1244号にもとづき、依然コソボを独立国と認めていない。
参考:http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/20/dkm_0318.html (日本語)
(2009年1月13日、プリシュティナにて収録。聞き手:近藤哲生、国連開発計画コソボ事務所副代表。写真:渡邉愛子、国連開発計画コソボ事務所、デモクラティック・ガバナンス、プログラム・アナリスト。ウェブ掲載:岡崎詩織、コロンビア大学国際公共政策大学院・ジャーナリズム大学院)
担当:池田、岡崎、加藤
2009年3月31日掲載
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