田中敏裕さん
国連開発計画(UNDP)パキスタン事務所長
田中敏裕(たなかとしひろ):鹿児島県出身。中学生から卓球を始め、早稲田大学では体育会卓球部で活躍。卓球で実業団も志すが卒業後は青年海外協力隊で国際協力の道へ。しかし赴任先のペルーでは再び卓球でナショナル・チームを全米オープンに導く。その後シチズン時計、ドミニカ共和国にて協力隊調整員、JICA国際総合研究所に勤務し、コロンビア大学SIPAにて修士取得。UNDPの公募に合格後、1994年にUNDPミャンマー事務所代表補を務めたのち、中国、ブータンを経てミャンマー事務所の所長となる。2009年より現職。ブータン勤務時はUNDP のGlobal Staff Awardなどを受賞。四児の父。 |
Q.田中さんが今関わっている事業について教えていただけますか。
私はUNDPパキスタン事務所長としてUNDP の事業全般を見ています。現在は特に洪水の早期回復支援で忙しいですね。瓦礫と化した自分の村に戻った避難民が生活基盤を再興し、絶望の淵から未来に一縷の希望を見いだせるようになるよう、NGOと連帯しながら支援事業を指揮しています。防災対策を取り入れることも重要ですね。
洪水復興支援以外にも、カイバー・パクトゥーンハー州では平和構築やアフガン難民支援などの事業を実施中です。洪水支援も含めて、日本からは多額の支援をいただいています。私が日本人であることもあって、3月の東日本大震災の時には村の人たちからキャンドルサービスや励ましのメッセージが届けられて、タリバンのテロの脅威にさらされている人々からの国境を越えた真心には、すごく胸打つものがありました。
また、ガバナンスや環境保全、MDG達成促進に向けてのプロジェクトなども力をいれています。そうした諸事業のための資金調達も大事な仕事の一つで、日本の支援はとてもありがたいですね。帰国の際は、必ず日本政府、外務省への報告を欠かさないようにしています。
バロチスタン州に行った時、村のリーダーたちに「日本が成功した秘訣は何なのか」と聞かれたことがあります。私は、三つの秘訣:「勤勉であること」、「教育第一主義」、「同じ目標に向かってみんなで努力する」、ということが社会、庶民の中で徹底して行われたからでしょう、と答えました。パキスタンは個人としては優秀な人がたくさんいますし、国際派も多いですね。しかし、一つの目標を共有できていないことが国の発展を遅らせている要因ではないかと思います。州、言語、宗教宗派、部族、政党、それに社会階級など、異なる立場の人々が異なる利害を追求していて、みんなが一つの方向に向かって進んでいけない。そこがこの国の独立以来抱えている基本的問題なんじゃないかなあと。歴史的にも根強い厳しく哀しい現実ですね。
Q.田中さんは青年海外協力隊で卓球指導員としてナショナルチームを指導するほど、卓球がお上手と聞きましたが?
両親が卓球をやっていたということもあり、私は卓球とは長い付き合いがあります。小学校の頃から遊び始めて、中学校の部活動から本気で打ち込みました。個人で九州大会3位になって、卓球の強豪高校からも誘いがあったのですが、結局地元の進学校を選びました。片田舎の高校ですが県代表で九州大会にも出場したんですよ。個人でも鹿児島県では常に上位だったのですが、二年の時には三冠王の選手に決定選で敗れ、三年の時には受験もせまり練習相手もいなくて、結局インターハイ出場の目標を果たせなかったことが、何よりも悔しかったですね。
早稲田大学に政治経済専攻で入ったんですが、ちょうどその頃早稲田は卓球部が苦しい時代でした。部の方から声がかかったので2年の終わりから3年,4年とレギュラーとしていろんな大会に出ました。初めて本格的に高いレヴェルで鍛錬させてもらいましたね。幸運にも日本や世界のトップレベルの選手と対戦したり、実業団に入らないかとも言われたんですが、卒業後は新聞記者になりたいと思っていたこともあって、卓球でずっとやってゆく考えはなかったですね。
大学でやっていたもう一つのこととして、1年生の頃にインドシナ難民の現状を知って、自分も難民支援をしたいと思い始め、「難民を助ける会」のメンバーとして募金活動をしたりしていたことあります。大学時代を通じて新聞記者になるか、難民などのために働くか迷いましたが、最終的には青年海外協力隊に参加することになりました。
しかしここでまた卓球と関係することになります。というのも、協力隊は技術がないといけないということで、卓球隊員としてなら大丈夫だろうと考えたんです。その時ちょうど協力隊への卓球指導員の要請がモルディブとペルーから来ていて、レベルの高いペルーを選びました。ペルーでは、国内を卓球指導をして回ったり、小学校を巡回して教えたりもしました。自分のほかに、世界チャンピオンを育てたような中国人コーチが3人もいて内輪の競争などもいろいろとありましたね。私がスペイン語に堪能だったのと、選手の練習相手としても重要だったということもあり、国際試合には必ずコーチとして同行していました。USオープンは、私が計画して、男女、同伴者合わせて20人近い代表団で2回出場することができました。自分もコーチ・選手として登録して、クラブチームで優勝したり、個人で一度ベスト16まで入って、いい思い出になりました。
卓球は、技術や戦略、精神面の強さが重要です。技術も用具も進歩が早く、常にトップレベルで多様なタイプの選手と切磋琢磨する環境を追求することが大事です。日本はプロスポーツを育てるシステムを整えるのがかなり遅かったですよね。僕自身は一番伸びる時期に独力で練習するしかなくて、その限界を中国選手と試合をした時に特に痛感させられました。私の憧れの当時の世界チャンピオン、江加良選手と試合をして、1セット取ってUSオープンの会場を沸かせたことが、忘れられない思い出です。
Q.ペルー派遣の後から今までの経歴を教えていただけますか?
青年海外協力隊で2年半のペルー派遣を終えた後は、日本のシチズン時計で2年間お世話になりました。国際協力の分野で働きたいと思っていたのですが、協力隊での経験の中で、ただ、資金や機材を供与するだけではだめだと思ったんです。自分に何か技術がないといけないと思っていました。なので民間企業に入って、その中で企業の社会貢献を重要視する形で自分を活かせないかと考えました。でも実際入ってみるとそんなふうに考えるようなゆとりはない状態でしたね。86年から87年にかけてだったのですが、円高がすごい勢いで進んでいた頃でした。シチズンは卓球の実業団トップリーグの伝統チームを持ち、私も仕事の合間に練習に加わって実業団大会に出場させていただきました。ペルーで知り合った妻と結婚したのもその頃ですね。
お世話になったシチズンを辞めてから、今度は協力隊の調整員としてドミニカ共和国に行きました。NGOや他の国際機関との連携を図って、新分野を開拓するのが楽しい目標でしたね。協力隊Japaneseバンドを結成して、メレンゲやサルサを歌って踊るのが、卓球に加えていい余暇になりました。しかし長男も生まれて、2年半で任期を終えてからさて次またどうしようと路頭に迷うのですが。毎回約2年ごとに人生を区切って常に仕事探しをしているような感じでその頃は先の見えない苦しい時代でしたね。帰国後は嘱託研究員としてJICAの調査研究課・国際総合研修所で雇ってもらい、「ブラジル国別援助研究」、「オセアニア地域援助研究」そして「参加型開発と良い統治分野別援助研究」を1年半くらい手伝いました。
やはり国際協力分野では修士が必要と思ったので、海外研修制度に応募して海外研修生としてコロンビア大学のSIPAで修士を取りました。ちょうど勉強が終わる頃、UNDPで募集があったので受けたんです。1次から3次まで面接があって最終まで行ったんですが、それきり結果が判らない。判らないまま卒業して、日本に帰国後はまた国際総合研修所で開発ジュニア専門員としてNGOとの連携やアジア太平洋や日本の投資と人材育成等に関する援助研究をしました。
それから約1年くらい経ったころでしょうか。UNDPからミャンマーに行かないかと連絡が来たんです。それで1994年の4月からUNDPミャンマー事務所代表補として赴任しました。それ以来ずっとこれまでUNDPなんですが、ミャンマーには5年近くいてその後中国で5年半、それからブータンに4年、またミャンマーに所長として戻って14か月いました。そして今パキスタンというめぐり合わせです。けっこういろいろな国に行きましたが、自分の中では、自分が関わる国を増やしたいという気持ちは実はないんです。何でも見てやろうからしっかり見つめようへの転換というのかな。人生の中で関わりになれる人の数、一生つき合うか少なくとも死ぬまで心に留めておくんだと考えているので、これは限りがありますよね。もう人生半分回ったので、これから関わる国も絞って、初心回帰したいですね。私を友達と思ってくれ育ててくれた人々のいる社会で、もう一度子どもや若者と向き合って未来を創造していく営みに、これからの半生を使えるといいな。人生のターニングポイントを周って、スタート地点を今度はゴールにみたてた、そんな風な感覚で、上を向いて歩こう、と考えています。
Q.今までの事業で一番印象的な事はなんですか?
2004年から2008年に、ブータン王国に勤務している時、かなり奔放な企画を自作自演して、面白かったですよ。ブータンでは政府の晩餐会では、必ず民族音楽とともに輪になって踊る習慣があります。ちょうど盆踊りのようなものですが、当時UNのスタッフはディスコダンスやポップスの方が主体で、伝統民謡や踊りに疎かったんですよね。そこで、これじゃいかんと思って、ブータン王立芸術学校(Royal Academy of Performing Arts: RAPA)に対抗してHappy Academy of Performing Arts (HAPA)という国連舞踊団を創ったんです。UNDPの事業で貧困削減のために女性に機織りを教えていたので「機織りの夢」という詩を私が書いて、ブータン風の曲を書いてもらい、RAPAの人たちに踊りの指導をお願いしました。仕事が終わって5時から練習を始めるというパターンで、みんな自分の時間を使って参加したんです。
私は自他共に認める(?)舞踊団のリードダンサーで、プロモーションビデオも作ったんですよ。その後に、ブータンの自然を愛するということを題材にまた詩を書いて、ビデオを作ったらそっちの方がもっと庶民に大うけして、テレビ番組の合間に放映される定番のMTVになりましたね。ブータン国王には4人姉妹の女王様がいらっしゃって、一番若い女王様が毎年ファッションショーを開催しています。UNDPがサポートしていて、そこでUN舞踊団が踊ると私が女王に約束して、それからHAPA の女王の御前踊りが定着しました。このファッションショーは首相などの閣僚級の人たちも全員観賞していて、私は常に舞台から女王様や閣僚にお目見えしていましたね。
この企画でUNDP内のGlobal staff awardという賞も頂きました。これは世界中のUNDP職員を対象に審議されるものなんですが、私がいた時2年連続で、UNDPブータン事務所はwork life balance賞とspecial talent賞を頂いたんです。圧倒的多数で即決だったという話を聞いています。ブータン国王から感謝状も頂きました。ブータン全国テレビがある家庭はみんな知っているHAPAは、ブータンの国是になっているGross National Happiness を体現化しようという試みで、これがUNDPトシのプロジェクトXみたいになりましたね。
ミャンマーでは、Theater for Developmentという企画で、サイクロン被災地の村々から若い男女を選抜して、演劇の専門家に集中トレーニングをしてもらいました。若者たちは、訓練後村々で様々な問題を聞き取り調査して、それを題材に自分たちでドラマ化して村の集会で演劇にして見せるんです。アルコール中毒がもっとも切実な問題として出てきましたね。若者たちの熱意と迫真の演技に、次代をつくるエネルギーを感じました。AIDS+(ポジティブ)グループともフェスティバルを開催し、ゲイダンサーの中に混じってミャンマー人も良く知っている「乾杯」を絶唱。以来彼(女)らとは強い絆で結ばれましたよね。パキスタンでも、洪水被災地で村人と一緒に踊って歌ったこともありますが、これはとても稀なことで、女性の解放と寛容の文化をなんとか広めたいですね。
Q.ブータンと言えば幸福度指数ですが、田中さんの幸せ度はどうですか?
幸せというと人それぞれだと思うのですが、いろいろな統計の結果やはり一番に健康が来るようですね。で、収入や教育が続きます。ブータンでは、幸せって何だっけ、と国家や閣議が常に討議して、その答えを以って国家の政策、開発計画の指針とするということを国是としている。自分だけの幸せだけではいくら増えても、国民総幸福度への貢献は1幸福にすぎませんよ。私はどれだけの人に幸せと感じてもらえたかがそのまま自分自身の幸福度になると感じています。ブータン国王は絶対そう思っています。私は子どもが4人いるのですが、4人の子どもを幸せにできれば私は4倍幸せになれる可能性があります。100人の人達を幸せにできたと思えば幸福度も100倍になります。逆に誰かが不幸になれば自分の幸福度が落ちて、場合によっては崩壊する可能性だってあります。そういう意味でも、人を幸せにする基盤をつくる仕事に携われるUNDPで長く任務を続けていられるというのは、本当に幸せ、ラッキーですよね。このチャンスを活かして、もっとたくさんの人を幸せにできたらもっと幸せエネルギーをもらえる。その幸せを直に肌で感じられるように、常にフィールドにいたいです。
Q.子どもの頃は国連に入ると思っていましたか?
私は鹿児島、南薩摩の田舎で育ちましたが、辺鄙な田舎ならこそ国際的だったともいえます。祖父母が100年くらい前にアメリカに労働者として渡って、父はアメリカで産まれ7歳の時に鹿児島に戻りました。その後父の姉と妹は戦後アメリカに戻ったんですが、父だけは満州で服役していたためにアメリカ再入国を拒否されて戻れなかったそうなんです。今91歳なんですが、去年ロサンゼルスに一緒に行って、83年ぶりに父の生まれ育った所を見て回りましたよ。私の母方は、親戚がブラジルに移民していたので私はペルーにいた時に会いに行ったりしました。その息子さんたちとは私はスペイン語で向こうはポルトガル語で会話しました。国連に将来働くなんて思いもよらなかったんですが、海外に出てみたいという思いはありました。国連に入ってよかったのは、両親がとても喜んでるってことですね。両親が健全なうちは国連職員でいれるといいですね。
Q.国連職員になりたい人へのメッセージをお願いします。
国連に入って一番いいなあと思うのは理想を当たり前のように語れることです。国連というのは平和構築だとか開発だとかというのが理念になっていてそれを体現するための組織なわけです。「私たちは貧困削減するんだ」とか「世界を平和にするんだ」なんてことをマジメに言えるなんてすごいことじゃないですか。それで誰にもアホよばわりされないんですよ。辞表を出した時「お前は熱病に罹っているんだ」と企業の重役に諭されこともありました。キレイゴトだけを言っているだけではないですが。でも地球を救うって、ウルトラマンやジャングル大帝レオの頃から僕らの夢、任務ですよね。
とにかく国連職員になること自体が目的であってはつまらないと思います。こんな開発に携わりたいとか途上国の誰かの役に立ちたいとか、そういう気持ちと姿勢がまず大切だと思います。地球村民として地球村に役に立ちたいという思いがあるなら、国連に入ってきてほしいですね。
2011年7月10日、イスラマバードにて収録録
聞き手:佐藤麻衣子
写真:吉村美紀
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:斉藤亮