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岡部万里江さん

国連ワシントンD.C.事務所 副所長

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岡部 万里江(おかべ・まりえ):米国ワシントンD.C.生まれ。タフツ大学で学士、コロンビア大学で修士を取得後、ニューヨークUPI通信に記者として入社。1992年に緒方貞子難民高等弁務官の下、UNHCR広報部の立ち上げに関わる。その後コフィ・アナン事務総長の次席報道官を務め、2010年より現職。二人の子どもの母親でもある。

Q. 国際協力に興味を持ったきっかけを教えてください。

両親が戦後日米関係の構築に努めていたことや、日英のバイリンガルだったことから日米の橋渡しのようなことをしたいと思うようになりました。父親がアメリカの国務省で戦後経済技術援助の一環として日本の議員団・外交団派遣の調整役をやっており、また母親が戦後初期の客室乗務員として日本航空で働いていました。私はアメリカのワシントンD.C.で生まれました。ちょうど今働いているオフィスの向かい側のビルが病院だったんです。タフツ大学で学士を、コロンビア大学で国際関係の修士号を取りました。大学卒業時は報道の世界で働き、日本への特派員になりたかったのです。日本のことをアメリカそして世界に知らせることができますから。

Q.初めは国連でお仕事をされようと思われていたわけではなかったのですね。

当時は将来自分が国連で働くとは思っていませんでした。最初はUPI通信という通信社で記者とエディターの仕事をしました。大学院卒業後のインターンを終え、正式にニューヨーク支部の海外デスクの職に就きました。そして25歳くらいのときには日米の橋渡し役になるという仕事についていました。

Q.国連で働くことになったきっかけは?

緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に就任された際に、彼女の報道官に抜擢されたのが私のUPI通信の元上司でした。彼女が私を国連に誘ってくれて、ジュネーブで本格的な国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の広報部の立ち上げに関わったのです。元上司に誘われたときは、緒方さんのことを存じ上げていませんでした。 元上司からいきなり電話がかかってきて、調子よく「国連難民高等弁務官の日本人女性のところで働く気はない?」と聞かれたのです。緒方さんはその頃60歳くらいで体も小さい方だったのですが、実際はとてもパワフルな方でした。私の印象に深く残っているのは、内戦時のサラエボへ赴きヘルメットを被って、屈強な軍人さんと交渉をしている姿です。恐れを知らないというか、ああいう日本人は珍しいと思います。

Q.緒方さんの報道官として、具体的にどのようなお仕事をされたのですか。

プロの報道官として難民に関する情報を発信したり、様々な任務で世界各地を出張しました。当時は冷戦の直後、各地で難民の問題が山積みでした。その問題に緒方さん率いるUNHCRが革新的に取り組んだのです。それまでUNHCRは難民の権利を法的・政治的交渉によって守ることに重点を置いており、職員も弁護士が多かったのです。しかし、緒方さんは難民の権利に対する国際社会からの支持を集め、政治への圧力を高めることで難民を保護する以上に難民問題を解決する方針を打ち出しました。そのためには、難民問題を報道し、広く市民社会の理解を求める必要がありました。

Q.その後、事務総長の報道官になられてプレッシャーはありませんでしたか?

私はそもそも報道する者としてそういうプレッシャーが好きなので、上手くやってこられたのだと思います。UNHCRに勤めていたときからプレッシャーはありました。しかし、逆にそういうのが好きじゃないとやっていけないでしょう。24時間世界のどこかで起きている国連関連のニュースに対応することが仕事ですから。

Q.子育てとお仕事の両立はどのようにされていたのですか?

子育てと仕事の両立は大変でした。事務総長の報道官は事務総長に同行しての出張も多く、家を空けることが多々ありました。そういう中で大事だったのはプランニングだったと思います。誕生日、学校行事や家のことを前もって計画を立てて行うこと。もちろん子どものことですから予想外のことも起きます。でもそういう時でも一歩引いてみて、臨機応変に受身になって対応すると意外と上手くいくこともあります。病院の緊急外来のように目の前のタスクをこなしていくようにしていました。

Q.報道官としてのお仕事のやりがいはどのような時に感じましたか?

一番やりがいを感じたのは、2010年8月の潘基文事務総長の訪日に同行し、彼の平和への願いを報道できたことです。彼自身、朝鮮戦争の時代を経験し、戦争について親身になっています。また、核の脅威についても深く考えています。2010年は原爆が落とされてから65年目で、事務総長は広島と長崎を訪れました。広島では平和記念式典に参加し、被爆者との対話に多くの時間を割いています。核廃絶の道に進むためにもいい機会でした。また、その時の日本の事務総長に対する対応も素晴らしいものだったと思います。日韓の様々な感情の垣根を越えて、何かを達成した瞬間に立ち会うことができました。

Q.国連ワシントンD.C.事務所での現職ではどういうご苦労がありますか?

アメリカ政府や議会に国連の活動、理念といったものを理解してもらうことに苦労しています。日本では国連によいイメージを持っており、よい団体として受け入れられていると思います。しかし、アメリカでは若干違っています。アメリカと政治や人権の分野で問題がある国と共同で何かを行うということに違和感を感じるなど、国連の活動のすべてを簡単には歓迎してくれません。 また、アメリカは国連に対して加盟国のうち一番多くのお金を出しています。自国の経済状況が思わしくないときに、税金で外国を助ける必要がないという批判の声もあります。イメージのギャップを埋めるために、しっかりと国連の活動意義をアメリカの政府や議会に伝える。また事務総長や国連の幹部たちがD.C.を訪れる際には、アメリカ政府の人に直接国連の「生」の声を聞かせ、協力要請できるよう調整します。ワシントンの国連事務所は「国連大使館」の様な存在なのです。そして、もちろんワシントン特派員の様にアメリカ政治の「ニュース」を事務総長や本部に送るのも、大切な仕事なのです。

Q.ワシントンD.C.はアメリカと世界の政治の中心部ですが、同時に国連事務所はビジネス界とのやり取りもされているのですね。

もちろん、あらゆるパートナーシップが大切です。ビジネス界との連携が国連の取り組みを促進する上でますます重要になっています。グローバル・コンパクトという取り組みがその例です。参加一般私企業活動には人権、労働基準、環境、腐敗防止に関する10つの国連の理念を採り入れてもらっています。アメリカだけで何百という企業に協賛が広がっており、持続可能な企業活動を促しています。国連ワシントンD.C.事務所ではその他に、大切なパートナーであるアメリカ議会、国務省やホワイトハウス、世界銀行(World Bank)や国際通貨基金(IMF)、シンクタンクやNGOコミュニティーに国連の方針及び活動に関する情報を提供しながら国連との関係をもっともっと深めていくことが仕事なのです。

Q.国際機関で働きたいと思う若い人へメッセージを。

まず国際貢献をしたいという気持ちは大事です。ただ国連は大学を出てすぐに何かをできるというところではありません。仕事や学業を通してスキル・専門を身につけ、そして国連という舞台で活かすことがベストでしょう。また、NPOや他のさまざまな機関で先に経験をされることもいいと思います。あとは語学力が重要です。世界中の様々な文化的背景を持った人たちと仕事をする事になるのでせめて英語はしっかり勉強して欲しいです。また最近の若い子たちは国内にこもりがちなので積極的に海外に出て視野を広げてほしいです。

国連ワシントンD.C.事務所
http://www.unicwash.org/UnicPage.aspx?pid=118


2012年2月3日、ワシントンD.C.にて収録
聞き手:松原勝也
写真:上田浩平
プロジェクト・マネージャ:松原勝也・高橋沙織
ウェブ掲載:柴土真季

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