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岡 智子さん
国連児童基金(ユニセフ)東京事務所
パートナーシップ構築調整官

Q. 国際協力に関わろうと思ったきっかけは何でしたか?

岡智子(おかともこ):神奈川県出身。7歳よりガールスカウト運動に参加。英国ケント大学で心理学を学び、卒業後、ロンドンのガールスカウト研修センター勤務。ガールスカウト日本連盟本部職員を経て、青年海外協力隊員としてエクアドルに派遣。その後、ハーバード大学教育大学院で教育学修士号取得。帰国後、開発コンサルタント会社に就職したのち、ユニセフ米州カリブ諸国地域事務所教育部勤務。2007年7月より現職。

小学校2年生からガールスカウト運動に参加していました。活動の一環として、街頭に立ち「ユニセフ募金をお願いしまーす」と人々に声をかけていました。当時は、ユニセフで将来働くとはまったく思っておりませんでしたが、ユニセフというのは子どもの頃からとても身近な存在だったのです。

高校2年生の夏休みに、川崎市の海外派遣でガールスカウトの代表として旧ユーゴスラビアのクロアチアに行く機会がありました。それまでは地元の県立高校に行き、外国に行ったこともない普通の高校生でした。行ってみるとクロアチアのスカウトはすごく歓迎してくれとても楽しかったのに、こちらから言おうと思うことは英語ができないから通じない。心は通じたと思ったのですが、言葉ができればもっと楽しかっただろうにと思いました。そこで英語を学ぼうと決意しました。

当時の私は青少年の自殺問題などにも興味があったので、心理学と英語を両方一緒に勉強するにはどうすればいいか考えました。そして色々な人に話を聞いたところ、ガールスカウトの団委員長のお嬢さまが英国留学をしていて、「イギリスはいいわよ、人々はシンプルな生活をしていて、日本のような消費社会ではないし、Queen’s Englishという英国流の美しい英語が学べるわ。」と言われました。そうなのかと憧れて、英国大学に行くことを決意しました。そこで、高校卒業後、日本の大学は受験せずに英国国立ケント大学に入学し、社会臨床心理学を専攻することとなりました。

でも、実際に行ってみると勉強は死ぬほど大変でした。1年目は留学生向けの特別コースで、これには留年制度がないので、進級できなければビザが切れてしまい日本へ強制送還だと思い必死でした。ところが、3年目くらいになると少し慣れてきて、余裕が出てきました。そこで英国のガールスカウト運動にも参加しました。英国は何といってもガールスカウト発祥の地ですから、留学前から本場の活動に携わりたいと思っていましたし、実際の活動もとても魅力的でした。

そんな中、ある時英国版青年海外協力隊(Voluntary Service Overseas: VSO)のスポンサード・ウォークにガールスカウトの代表として参加しました。これは、各人がアフリカの最貧国の人たちが一番近い水汲み場に、または医療施設まで歩く距離(約6マイル)を歩き、それを達成したらスポンサーになってくれた人にお金をもらい、それがVSOの派遣費用になるというものでした。雨の降る森の中、転んで泥まみれになりながら、2〜3時間程歩いてようやくゴールにたどり着きました。

そのときです。あー終わったと思った瞬間でした。途上国の人たちにはこれが日常で、毎日水を汲んで歩いて、あるいは病院まで足を引きずっていくことの繰り返し。それなのに私はこれ一回で終わり、このあとはシャワーでも浴びて食事でもしようかと思っている。この格差に愕然としました。これが世界の貧困などの問題に心が向いた瞬間でした。思えば大学3年生、21歳か22歳くらいだったと思います。私もVSOに参加したいと強く思いました。

Q. それから国連にたどり着くまでの経緯は?

そこからです。どうやってその世界に入ろうかと思って調べると、ユニセフなどの国連職員になれば世界規模の問題に取り組めますが、そのためにはまず途上国での職歴や英語以外の言語を習得する必要があると思いました。その第一歩として青年海外協力隊に興味を持ち、応募要領を見ると、「青少年活動」という職種がありました。これにはガールスカウト経験者は歓迎と記されていて、私にも合格の可能性があると思い、その方向へ自分の将来を向けていきました。

大学卒業後は青少年活動の経歴をつけるために、まず半年間はロンドンにあるガールスカウトの研修センターで働きました。そこには世界各国の人たちが集まっていて、多文化の中で働くのはすごく楽しくて、おもしろいものだと実感しました。国連もこんな感じであれば是非働きたいとの思いを強めました。帰国後、青年海外協力隊につながる仕事を探したところ、今度はガールスカウト日本連盟の本部で職員にならないかというお誘いがあり、快諾しました。ここでは教育部企画出版、主に対外広報を担当することとなりました。そこでも仕事の傍らボランティアでガールスカウトを続け、高校生担当のリーダーとして子どもたちの支援をしていました。そして一日24時間ガールスカウトに携われるという恵まれた職場を2年半ほど経験したのち、青年海外協力隊に合格することができ、いよいよエクアドルに派遣されることになったのです。

エクアドルでは市役所の青少年課に配属になりました。こういうと青少年の健全育成が仕事だと思われるでしょう? ところが、行ってみるとそこは子どもを政治的に使ってやろうというところでした。エクアドルでは選挙権は18歳から。つまり青少年は市長にとっては貴重な票田なわけです。配属はアマゾン奥地のナボ州テナ市というところでしたが、ここでは先住民差別が残っていて、ラテン系の生徒が優遇されている。また、国全体が経済危機に直面していた時で、薄給でも情熱を持って働いている先生たちに3ヵ月以上給料が払われないということが起きていました。あまりの状況に、なんでこんなことが起こるのだ、こんなことではダメだと本気で思いました。

また、テナ市の青少年問題について調査をしてみると、10歳から19歳までの女性の死亡原因の約8割が妊娠と中絶に関するものだということも判りました。エクアドルのようなカトリックの国では中絶は禁止されているため、望まない妊娠をした場合、隠れて中絶するか、シャーマン(祈祷)とか薬草とか、そういう非科学的なものを使ってそれを試みます。それで、これに対して助産婦さんと母子保健についての啓蒙活動をしたり、夏休みに子どもたちを対象とした柔道や、栄養などの講習会をしたり、とにかくその町の子どもたちと話し合い、必要とされていることを実施しました。子どもたちが楽しく参加できそうなことを選んで、他の協力隊員の力も借りて実行しました。

そこで思ったことは、そういう小さい村に入って現場を踏むことももちろん重要なことだけれども、これをやっていると何百年かかるか分からない、ということでした。こうした状況を解決するには、やはり政策面で何か働きかけをしないといけないのではないか。もう少し大きな視点から問題に取り組まないといけないのではないか。そんな時に惹かれたのがユニセフでした。各国にあって、現場でも活動しているけれども政府への働きかけも行っている。それに多文化の組織環境がある。ロンドンのガールスカウト時代から感じていたものが自分の中で少しずつ固まってきて、だんだんと国連を目指している自分に気付いたのです。

その頃になると、本気で国連職員になることを考え始めていました。まずは大学院に行かなければ。語学は幸い英語もできるようになっていましたし、スペイン語は音がかわいいのでとても好きでした。協力隊の任務が終わる頃には奨学金について調べ、帰国して大学院を調べ、大学院入学共通試験の準備をして、10校以上受けましたが、最終的には第一志望のハーバード大学教育大学院に行くことが叶いました。また、伊藤国際教育交流財団から奨学金を、帰国隊員支援プロジェクトから研修費を得ることができました。

大学院では教育政策を学びましたが、驚いたことに丁度私がエクアドルにいた頃に現職だった大統領が客員研究員として来ておられて、一緒に研究する機会もありました。当事国の元大統領と一緒になぜ学校の先生に3ヵ月も給料が払われないのか考察するのはいい経験でしたよ(笑)。1年間で修士号を取得し、その後JPO(外務省主催で行っている国連機関への派遣制度)を受験し補欠になったので、企業での経験も必要と思い、1年間は日本で開発系のコンサルタント会社に勤務しました。そして翌年JPOを再受験し合格、在パナマユニセフ米州カリブ諸国地域事務所に配属となります。ここで3年間の勤務を終えて、今は国連職員としてユニセフ東京事務所で働いています。

Q. 目標に向って一直線ですね。学生時代なにか挫折はありませんでしたか?

ガールスカウトのほかには、高校時代にロックバンドをやっていたのです。スタジオ代を工面するためにマクドナルドでバイトもしていました。勉強せずにバンドとバイトに夢中になっていたら、なんと英語の成績は学年でビリ。途方にくれていると、英語がご専門の担任の先生から「あなたこれからどうするの? 補習してあげるから毎週残りなさい。」と言っていただき勉強し始めました。今思うと、先生のお陰で国連職員になれたと感謝しています。好きなことに夢中になっていた、すごく楽しい学生生活でした。

それからは、大学時代に英語ができずに苦労しているときでも、ガールスカウトやバンドの経験を思い出し、友人に支えてもらいながらベストを尽くすことができました。基本的には向こう見ずな性格で、こうと決めたら本当に一直線なのです。迷いを感じたことはほとんどありません。

Q. 協力隊やJPO時代に一番大変だったことはなんですか?

強烈なこともありました。協力隊時代に配属になった市役所は子どもたちを政治的に利用しようとしていて、市はパーティやバーベキューに子どもたちを無料で招待していました。あるとき子どもたちの集まりが悪くて、私のカウンターパートである市の職員が首になったのです。市長に「後任は誰がよいか」と聞かれ、私は公平に実力主義で人選したいので公募したいと市長に申し入れ、聞いてもらいました。筆記試験、面接、子どもたちとの対話、試用期間まで経てすばらしい女性が選ばれ、私は日夜この人と一緒に現場での調査や啓蒙活動にあたっていました。

ところがその後、市長の選挙を手伝ったある学校の先生が仕事を求めてやってきました。エクアドルでは市役所職員は市長が替われば総入れ替えとなり、選挙を手伝った人が採用されるのです。運悪く私が採用した女性以外は市長の選挙を手伝っていたので、市長はこの人を解雇しようとしました。私は何度も説得にあたったのですが、最終的に力が及ばずにこの人は市役所を去ることになります。本人も青少年グループも納得しない結末でした。私にはこれがとてもショックで大学院留学までずっと引きずっていたのですが、先ほどお話しした元大統領が市長をよく知っていて「市長も自分の選択は間違っていると理解していたと思うが、選挙を手伝った人を支援せざるを得ない状況だったのだ」と言って頂き、ようやく自分の中で整理することができたのです。

Q. 逆に嬉しかった瞬間はどのようなときでしたか?

3年間のユニセフ米州カリブ諸国地域事務所勤務の後半に、アルゼンチンに出張したことがあります。地域事務所は本部と現場である国事務所をつなぐ仕事で、現場から少し遠いところにあります。そのため、自分の仕事がどれだけ子どもたちの役に立っているかが見えにくい。ところがアルゼンチンでは即戦力として、初日からたくさんの仕事をこなし、幸いほめてもらい、成果と自分の成長を実感することができました。

具体的には、イグアスの滝の周辺地域で、学校を中退してしまった子どもたちに再度中学卒業資格と職業訓練を提供するという事業で、その第一回目の卒業式にユニセフを代表して出席し、スピーチをしました。ここで、普通の学校は中退したけれど、ユニセフが支援した学校は子育てをしながらでも卒業できたと嬉しそうに語る卒業生や、有名ホテルに就職が決まったと笑顔を見せる卒業生を見て、心から感激しました。事業が子どもたちの役に立っているということと、現場から離れたところで関わってきたことも決して無駄ではなかったと実感できたという二つの意味で、すばらしい経験でした。

Q. 現在のお仕事は?

資金調達(ファンド・レイジング)が主たる業務です。特に日本政府との窓口としてユニセフへの資金を確保します。これまでは教育分野に特化した仕事をしていましたが、いまは新しい分野に取り組めて、かつ同僚や上司にも恵まれて、毎日うきうきしながら仕事をしています。事業提案を書いたり、外務省と折衝したり、その中で現場のニーズをより経済協力のスキームに合ったものに近づけていき、現場に資金が届くようにする。この仕事はとてもおもしろいと思います。

ちなみに米州カリブ諸国にはユニセフ全体の5%程度の資金しか届いていません。いいアイディアがあっても、お金がなければ実現できない厳しい世界です。そこで自分が教育分野における専門性を活かしつつ、しっかり仕事をすれば資金を確保する可能性が高まるので、大変でチャレンジングですがとてもわくわくします。もっと現場の雰囲気や息吹を伝えられるようになりたいと思って全力を尽くしています。

Q. これからのキャリアパスをどう考えますか?

教育担当と資金調達の両方に携わりましたが、自分にどちらが向いているかや今後の方向性について今はまだ判りません。でも、子どもたちに一番役に立つ道を見つけられればと思います。両方できるようになるのがいいのでしょうね。これまで私は諸先輩をはじめとしていろいろな方々のアドバイスを得て学んできました。いまの私はそこにある。ですので、これからも努力していきたいと思います。

Q. ご主人はエクアドル人ですね。職業と両立してうまくいく秘訣はなんでしょう。

しばらく遠距離交際だったのですが、私の場合長続きした秘訣は本当に単純で、毎日メールしていたことです(笑)。電話もしたい時にしていて、インターネットで顔が見えるプログラムを使ったり、お正月に離ればなれでも一緒にカウントダウンしたり。彼はエクアドル人にしては日本的で、時間厳守だし、一度言ったら必ずやり遂げないと気がすまない人なのです。そういう性格にも助けられました。でも、大事なのはコミュニケーション、そしてなにより相手を信じること。

Q. 次の世代の人たちにメッセージをお願いします。

一人ひとり違うので、一言でいうのは難しいのですが、失敗を恐れてはいけないということでしょうか。失敗から学んで、チャンスはまた来ると信じてほしい。申し上げたように、私の人生は失敗続きです。英語は学年ビリ、協力隊も何回か落ちましたし、JPOも補欠で、JPO時代に応募した国連の空席は全部不合格でした。戦略的に動いてみて、だめならだめでほかに道はあります。マクドナルドのバイトから始めても、売れないバンドマンでもいいじゃないですか。失敗があたりまえで守るものがなかったから、挑戦し続けることができました。焦らず、諦めず、めげないことが大切だと思います。

Q. 最後に、週末は何をしていらっしゃいますか?

ガールスカウトです(笑)。

(2007年10月16日。聞き手・写真・編集:田瀬和夫、国連事務局にて人間の安全保障を担当、幹事会コーディネータ)


2007年12月8日掲載

 


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