仲川美穂子さん
国連児童基金(UNICEF)東京事務所
広報官
仲川美穂子(なかがわみほこ): 山梨県甲府市生まれ。高校時代にアメリカ・テキサス州の公立高校に留学。上智大学比較文化学部比較文化学科卒業。株式会社フジテレビジョンに入社し、国際ニュース・ドキュメンタリー番組の制作と営業部門に携わる。その後、アメリカ・コロンビア大学国際関係公共政策大学院及び公衆衛生大学院より修士号取得(MIA / MPH)。JPOプログラムでユニセフ・フィリピン事務所とベトナム事務所に派遣され、HIV/エイズのプロジェクトを中心に担当。帰国後、結核研究所での勤務を経て、ユニセフ東京事務所で広報を担当する。2006−2007年にかけては、国際協力機構(JICA)の契約でガーナとシエラレオネの現場で保健プロジェクトの形成・実施等にあたる。現在、ユニセフ東京事務所で広報官として勤務。好きなものは、ビール、牡蠣、ハーブの効いた料理、大正・昭和時代の着物、ピカソの絵、マリア・カラスの歌声など。 |
Q. 現在の仕事に就くまでの経緯を教えて頂けますでしょうか。
ジャーナリスト・松井やよりさんの「女たちのアジア」を大学の授業で読んだのが、そもそものきっかけだったと思います。結婚持参金が少ないがために殺されるインドの花嫁、海外の出稼ぎ先で虐待されるフィリピン人メイドの話など、「世界にはこんな現状があるんだ」と大きな衝撃を受けました。貧困や人身売買、森林伐採の影響など、途上国の人々の生活に焦点をあてた本を夢中で読んでいるうちに、「そうだ、途上国に行ってみよう」と思い立ち、大学の単位を取り終えたときに数ヶ月間、タイとマレーシアをバックパッカー旅行しました。それが初めての途上国経験です。
実際に見た人々の生活は、自分が考えていたよりもずっとたくましいものでした。それまで深刻な本ばかり読んでいたので、暗黒の世界を想像していたのですが、明るい笑顔が何より印象的でした。もしかしたら日本人より幸せなのではないかとさえ思いました。ただ、不衛生な環境や栄養不良が原因で病気になったり、病院にも行けなかったりという現状を目の当たりにし、何かできることはないかと考えました。こんなことで命を落してしまうなんて・・・と。途上国の現場で仕事をしてみたいと思った瞬間です。
Q. そんな仲川さんがテレビ局に就職されたのはなぜでしょう?
テレビ局から就職の内定をいただいたのは、アジアへバックパッカー旅行をする以前でした。入社予定日を目前に、テレビ局に就職すべきか、途上国で仕事を探すべきか、ものすごく迷いました。
私自身、「人間模様」にとても興味があります。いわゆる、ヒューマンストーリーです。些細な日常生活の中にも模様があって、それを見出し切り取っていく作業です。そして、「なぜ」、「どうして」といった素朴な疑問を社会へ問いかけていきたいと思いました。テレビ局への就職を決めたのは、それができる職場だと考えたからです。
実は、この「人間模様」という着眼点は、途上国の仕事にも共通していることが、後になって分かりました。途上国の現場ではハートが熱くなるようなドラマがあって、「なぜ」があります。そして、その「なぜ」が、現地の人々の協力でプロジェクトに繋がります。
テレビ局には数年間勤務し、それからアメリカの大学院に進学しました。進学を決めたのは、途上国で仕事をしていく上で自分には専門知識やスキルが必要だと感じたからです。
Q. 仕事を辞めて行かれたのですね?花形職のフジテレビ勤務を辞めるのに抵抗はありませんでしたか?
周囲には、「あとで後悔するんじゃないの?」とか、「人生そんなに甘くない!」とか、いろいろ言われましたが全く戸惑いはありませんでした。頭もハートも既に別の次元に向かっていたのでしょうね。
ただ、テレビ局時代に学んだことは今まで非常に役立っていて、私のコアスキルのひとつにもなっています。現在は広報を担当していますが、「こういう切り口にしたら、メディアはユニセフの活動を取り上げてくれるのではないか」という発想に繋がります。ユニセフ・ラオス事務所でインターンをした時は、教育省との協力で乳幼児ケアのビデオ制作をしましたし、フィリピン事務所では、メディアを使いながらHIV感染予防に向けた若者たちの意識改革と行動変容を目指しました。この他にも、メディアやコミュニケーション関連の仕事をちょこちょこといただいてきましたが、いろいろな段階でメディア経験をツールとして生かせることは、私の強みになっていると思います。
テレビ局勤務は、プレッシャーに負けない根性とテンションの調整方法を身に付けるという点でも有効でした。これは大きな財産です。テレビの仕事はオンエアの枠が決まっていて、穴を開けることができません。時間との戦いです。オンエアに向かって、ジェットコースターのようにゴォーッと走ります。この目標へ向けてのテンションの持っていき方やメリハリの付け方に磨きをかけることができたと思います。
Q. 大学院では何を専攻されたのですか?
コロンビア大学の国際関係公共政策大学院に進学し、政治経済開発を専攻しました。ニューヨークという地の利から外交やビジネスの第一線で活躍する著名人がゲストスピーカーとして講義に迎えられることもあり、非常に興味深いカリキュラムでした。しかし一方で、理論に重点を置きすぎているという印象がありました。開発分野での職務経験がない私には、卒業時には即戦力となるような実用的なスキルが必要だったのです。そこで同じコロンビア大学の公衆衛生大学院で並行して勉強を進めました。自分が将来どれだけ役に立てるかと考えた時に、きちんとした専門知識やスキルを取得したかったのと、「これならできます」という看板になるような具体的なアイデンティティを確立したかったのです。今振り返ると、焦燥感でいっぱいの時期でしたね。
Q. 大学院卒業後、国連児童基金(以下、ユニセフ)を希望された理由は何でしょうか?
「子どもが好き」、「笑顔が見たい」というのが、何よりの理由です。それは今も変わりません。
Q. 初めて現場に入った時の印象はいかがでしたか?
ユニセフは、現地政府をはじめ、NGO、学術団体、メディアなどとパートナーシップを組んで事業を展開しますが、自分たちの支援が最終的にどのような形で子どもたちに届くのかという仕組みを理解するのに時間がかかりました。要するに、ユニセフは活動を直接に実施する組織ではなく、協力プログラムに基づいてパートナーたちのアクションを技術的、資金的に支援していくということです。
それでは、ユニセフで働く自分は何をしたらいいのか? これは大きな課題でした。初めての赴任地はフィリピンでしたが、技術支援をする立場とはいえ、現地政府関係者の方がはるかに長い時間をかけて問題に取り組んできたわけですから、知識も経験ありますし、第一、その国のことをよく知っています。また、活動内容や資金付けに関する政府関係者との交渉はデリケートな部分が多く、私には大役でした。毎日の業務を続けながら、自分の付加価値は何だろうと悩みました。
そんな中、私に出せる自分らしさは、「若者の視点」と「メディアのバックグラウンド」だと思いました。当時、若者と子どもを対象にしたHIV 感染予防のプロジェクトを担当していたのですが、HIV/エイズというのは非常におもしろいテーマでマルチセクターでの取り組みを要します。感染予防には医療分野だけではなく、危険行動を回避するための教育やコミュニケーションも重要な役割を果たすのです。どのように伝えれば、「若者や子どもたちに感染のリスクを理解してもらえるのか」、「意識改革と行動変容へ結び付けてもらえるのか」と考えました。ユニセフは、「子どもの参加」というアプローチを推進していますが、まさに彼ら自身のインプットが必要だと思いました。そこでNGOの活動に参加していた若者グループと相談を重ね、その結果、地方政府の支援も受けてコミュニティレベルでのメディアキャンペーンを張ることになりました。活動の先頭を切るのは若者グループです。ポスターやメッセージも手作りで、彼らの目線で「かっこいい」というものを使用しました。当時、自分の年齢が若者グループに比較的近かったからこそ、共有できる場面が多々あったと思います。プロジェクトを通じて、強い仲間意識が芽生えました。
Q. フィリピン事務所での一番の思い出は何でしょうか?
よく一緒に仕事をしていたHIV感染者人権擁護団体のメンバーがエイズで亡くなった時のことです。末期で命が危ないとの連絡を受け、私はすぐさま病院に駆けつけました。すると、何の医療設備もないガランとした空間に彼が横たわっていました。皮膚は大きくただれ、一瞬、誰だか分からないほどにやせ細った姿でした。元気に活動していた時の彼しか知らなかった私は、弱々しく横たわる彼を目の前に、自分でも心臓の音が聞こえるほど動揺しました。HIV/エイズに関しては文献をいろいろと読み、感染者の知り合いも増えて、知識レベルにもようやく自信がついてきた頃のことです。
彼はその時、「人生って、こんなものさ」とポツリと言いました。私はHIV/エイズの問題を全然理解していなかったのではないかと愕然としました。ショックでした。さらに、ショックを受けている自分が、またショックだったのです。自分は何も分かっていなかったのではないかと。この仕事を辞めようかとしばらく考えました。
Q. それでも思い留まったということは、新たな決意が生まれたのでしょうね。さて、続いてフィリピン事務所の次はどんな仕事をされましたか?
2年間のフィリピン事務所勤務を経て、ベトナム事務所に赴任になりました。子どもの保護という部署で、再びHIV/エイズのプロジェクトを中心に担当しました。HIVに感染した子どもや親の感染により差別を受けている子ども、親が亡くなって経済的な理由で学校に行けなくなった子どもなど、HIV/エイズの影響により社会で脆弱な立場に置かれている子どもたちの保護を試みていました。そのプロジェクトは当時始まったばかりで、コンサルタントの協力で現状分析をしたり、コミュニティレベルでのモデル構築を模索したりしました。
同じアジアでもおもしろいことに、フィリピンでは市民の力によって革命が起きたくらい、NGOをはじめとする市民社会が元気なところです。一方、ベトナムは社会主義国で、国家の体制としてはトップダウンの体質が強いところでした。国家の体制や社会の基盤が異なると、現地政府との協力プログラムの内容や実際の仕事のまわし方も異なります。ベトナムに赴任してしばらくの間はフィリピンで養ったレンズで物事を観察していたので、その違いに戸惑うこともよくありました。でも、ベトナムのスタッフとは異なる視点を持っていたことが私の強みだったのかもしれません。その頃になってようやく、自分が日本人として日本で生まれ育ったことにも素晴らしさを感じるようになりました。
Q. ベトナムでの仕事の次はどこへ行かれたのでしょう?
日本に帰国し、結核研究所で研究報告書をまとめるお手伝いをしました。HIV/エイズと結核は非常に密接に絡んでいて、世界のHIV感染者の約3分の1は結核にも感染していると言われています。エイズ患者の死因の半分は結核です。つまり、エイズによる死者を減らすには、結核対策も重要なわけです。結核という角度からエイズに迫り、専門性の幅を広げようと思いました。そして数か月間の仕事を終えたところで、今度はユニセフ東京事務所から広報の仕事をいただきました。
Q. 色んな仕事を経験された仲川さんの集大成とも言える仕事ですね。
そうですね。途上国の現場を経験してきたからこそ、伝えられることもあるのではないでしょうか。ユニセフの支援やスタッフの活動を紹介することは大きな誇りですが、言葉だけがひとり歩きしないように心がけています。
日本政府からの資金調達業務をサポートする広報活動が基本ですが、実際は非常に多岐に渡ります。100名を上るユニセフ議員連盟の先生方の協力を仰いだり、黒柳徹子さんのユニセフ親善大使としての活動を支援したり、シンポジウムやワークショップの開催に協力したりと、文字通り走り回っています。世界の子どもたちの現状を幅広く知ってもらうために、メディアにも積極的に働きかけをしますし、報告書やパンフレットなどの出版物も発行します。
ここの事務所は東京に所在していますが、組織図ではニューヨーク本部の一部です。そのため、本部や世界各地からシニアスタッフが次々と来日し、日本政府への成果報告やパートナーシップ強化を図ります。そのための事前準備や調整は簡単なものではありませんが、ユニセフのいわゆる「リーダーたち」の仕事ぶりに直接触れられるのは大きな魅力だと思います。
Q. おもしろい経歴でいらっしゃいますね、色んな経験をされていて。
落ち着きがないですよね(笑)。ひとつハードルを越えると、また次の目標がほしくなってしまいます。走っている感覚がたまらなく好きです。ただ、最近は、「ちょっと寝かせておく」ことも大切だと思うようになりました。
Q. 今まで仕事をされていて一番嬉しかったことは何ですか?
チームスピリットが高まって、一緒に何かを達成した時ではないでしょうか。開発の仕事は性質上、ひとりでは何も達成できません。活動を実施していくためにはパートナーたちの協力が必要です。これは対外的にだけではなく、ユニセフ内部に対しても同じことが言えると思います。
例えば、つい最近、国際衛生年を記念して水と衛生のシンポジウムを東京で開催しました。日本の外務大臣が政策演説を発表し、その後にユニセフを含む国際機関や二国間援助機関、民間セクターの代表が世界各地から集まりパネルディスカッションを展開するという大規模なものだったのですが、準備期間は3週間しかありませんでした。講演者の選出、プログラム調整、イベント告知、会場手配、進行台本や配布資料の作成など事前にさばかなければならない業務は山ほどありますし、シンポジウム当日の会場運営にも人員が必要です。外務大臣が政策演説を発表となればメディアの注目もさらに集まり、ますますテンションは高くなります。連日連夜シンポジウムの準備に追われましたが、わずか10人ほどのユニセフ東京事務所のスタッフが日常業務もこなしながら一丸となって、結果的にシンポジウムを成功に導いたことは大きな成果だと思います。他組織のスタッフやボランティアさんも快くサポートしてくれました。このような仕事は終えた時は、「醍醐味がある」の一言に尽きます。
あとは、やはり、担当プロジェクトの現場を訪問する時です。みんなが元気そうにしている姿を見たり、感謝の声を聞くことができたりという時は本当に嬉しいですね。
Q. 最近のユニセフの動きを教えて頂けますか?
最近おもしろいと思うのは、「One UN」や「Deliver as One」といわれる国連全体の動きです。国連改革の一環の取り組みとして、国連機関がお互いの強み生かしながら活動を補い合い、効率よく効果のある援助をしていこうというものです。実はかなり前から導入は試みられていますが、いざ実践となるとそれぞれの機関によってミッションや戦略、予算立てが異なるため、なかなか協力が進みませんでした。
しかし、最近になり、大分前進したと思います。例えば、ユニセフは日本政府から資金調達をするにあたり、今年度は他の国連機関と共同で一部のプロジェクト企画書を作成しました。現場ではそれぞれが補完的な役割を担うことで、プロジェクトのさらなる効果を上げるという内容になっています。
広報の分野でも、他の国連機関とシンポジウムやイベントを共催するなど、「One UN」の意識が高まっています。以前は、「どれだけ自分の組織を対外的に売るか」という意識が強かったと思いますが、今はひとつの国連として力を合わせていくことに重点が置かれています。他機関との企画ミーティングでも、「One UN」の切り口は必ずと言ってよいほど出てきます。広報担当者もお互いに密に連絡を取り合うようになり、「ちょっと隣の課まで相談してくる」というような感覚で、他機関のオフィスへ行き来したり、一緒にランチに出かけたりします。風通しがよくなると、「One UN」に向けた協力体制はますます強化されますよね。一方、こうした動きは私たちの業務を工夫していかなければいけないという意味では、大きな挑戦でもあります。
Q. 仲川さんの今後の夢を教えて頂けますか?
正直なところ、今はモラトリアムです。これまでのキャリアを整理すると、大きく分けて3つの柱があります。1つ目はメディア・広報、2つ目は保健一般、3つ目はエイズです。今後、どのようにしてそれぞれの専門性を深めていくのか、また、いかにうまく組み合わせて幅を広げていくのかが課題です。さらに、家庭を持つのかといったプライベートな材料も含めて、自分なりの人生を料理していかなくてはなりません。10年後、20年後の自分を描けると、その目標に向けてコマを進めていけると思いますが、今はその将来像を模索している時期です。
昨年、初めてアフリカ勤務を経験し、二国間援助の現場にも携わりました。「アフリカ」と一口で言っても、大きな大陸です。実際、私が勤務していたガーナとシエラレオネ、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんの視察で同行したアンゴラ、研修や旅行で訪れたザンビアとタンザニアは、歴史的背景も発展のステージもそれぞれ異なりました。それに、ひとつの国の中でも多様性に富みます。私がガーナで担当していた保健プロジェクトは首都から車で12時間の距離にありましたが、その道中の景色を眺めるだけでも、人々の生活様式やレベルが地域によって特色があることが分かります。直接肌で感じるからこそ学べることが、現場には多くありますよね。所属組織や活動の拠点の選択など、オープンな気持ちでこれからも経験を積んでいきたいと思います。
Q. それでは最後に読者の皆さんにメッセージを頂けますか。
ユニセフに30年以上勤務して昨年末に退職したシニアスタッフが残してくれた言葉で非常に心に残るものがあります。それをご紹介させて頂きます。「政治に関係なく、世界中の子どもたちに手を差し伸べるユニセフの活動は、ジョブ(仕事)ではなくミッション(使命)だ」というものです。忙しく日々の業務に追われていると、ついつい忘れがちな視点です。でも、ユニセフの活動に携わる限りは、それだけ大きな責任を負っているという意識と緊張感が大切だと思います。
(2008年1月11日。聞き手:桑原りさ、コロンビア大学国際公共政策大学院、幹事会広報担当。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネータ)
2008年3月8日掲載