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ポスティル 恭子 さん
国連開発計画(UNDP) ウズベキスタン事務所副所長

 

 

ポスティル恭子(ぽすてぃるきょうこ):
千葉県出身。青山学院大学国際政経学部卒業後、ロンドン大学School of Oriental and African Studies(SOAS)で開発経済修士、1998年からJPOとしてUNDPルーマニア事務所で3年勤務、その後2001年よりUNDPニューヨーク本部開発政策局(BDP)に配属、2002年より3年間はUNDP欧州CIS局(RBEC)の局長特別補佐官を務めた。2006年よりウスベキスタン事務所副代表。

Q. 国連で働くようになったきっかけを教えて下さい。

留学していたインディアナの高校で、エチオピアの飢餓問題について調べてエッセイを書いたことがあったんです。高校2年生の私にとって、自分のように親にお金を出してもらって海外留学などできる人がいる一方でこんなに厳しい暮らしをしている人たちがいるという世の不平等がショックでした。そのころから自分の人生を開発に注ぎたいと考えるようになり、大学も大学院も開発を学ぶという観点から選びました。高校から海外に留学することには父などは反対でしたが、結果的にはこれが自分の人生の最初の転機だったと思っています。

大学は全般に政治と経済を学べて、その上授業の半分くらいが英語で受けられる青山学院大学の国際政経学部に進みました。学部在籍中もアフリカに対する興味は持ち続け、貧乏旅行でケニアやガーナ、コートジボワールなどに行き、開発に対する情熱はさらに深まっていきました。そして、大学院ではアメリカ以外、そしてアフリカ経済の研究が活発なところ、ということでロンドン大学のSOAS (東洋アフリカ研究所)で、開発経済学の修士を取得しました。

修士を取得後はすぐに結婚をしたのですが、夫は文化人類学者だったので、彼のフィールド・ワークに参加してマレーシアのボルネオ島に行くことにしました。そこに住んでいるかつての首狩り族・イバン族の研究で、私は調査のデータの処理と、趣味の写真で貢献しました。イバン族はコミュニティー全体がロングハウスという一つの屋根の下に住んでいるのですが、そこに私達も住みこんで、私は川で洗濯したり、地元のおばちゃんたちと一緒に昼寝をしたり、ほとんど現地化して専業主婦でしたね(笑)。娯楽も何もないところで、時間が恐ろしいくらいゆっくり過ぎていく。首都からロックバンドなどのお客さんがくるとなると1週間前くらいから村中その話で持ちきりになるし、おじいちゃんもおばあちゃんもおめかしして出かけていく。途上国の田舎生活ってこんなんなんだということを知る上ではたいへん貴重な経験になりました。

その後1998年にJPO試験に合格し、UNDPに配属になりました。そこでどこに行きたいか聞かれた時に、アフリカか東南アジアを希望したのですが、ふたを開けてみるとルーマニアに行けと言われました。そのときの私はルーマニアについてはチャウシェスクとコマネチくらいしか知らなかったのですが(笑)、職務内容をよく見ると、自分がしたいと思っていた中小企業の育成などが含まれており、何も知らないながらがんばってみようと思って赴任しました。自分は運がいいと思っていたのでこれも縁だと思って最初のオファーを取ったんですけども、それがこれまで続いている東欧、CIS(独立国家共同体。かつてのソ連邦を形成していたRepublicsのこと)との関わりのきっかけだったのです。もう9年この地域に関わっているわけで、人々のメンタリティも分かっているし、自分の中では第二のカルチャーというくらい身直に感じています。でも国連で長く働くにはそろそろほかの地域の仕事をして視野を広げるのもいいかもしれませんね。

Q. 今のお仕事について教えて下さい。

東欧・CISのUNDP事務所はアジアやアフリカの大きな事務所と違って小さいところですから、副所長も一人でプログラム(政策)とオペレーション(事業・実働)の両方をやることになります。事務所長は国連全体の運営を主に担当しますから、副所長である私がUNDPの業務を監督します。政策面での運営、資金の動員、事業の管理・監視、調達行為、人事など同時にやらなければなりません。私自身はそういう「縁の下の力持ち」というか「黒幕」というか(笑)、そういう仕事に向いていると思っているので、とても楽しんでやっているし、ずっと副所長の仕事をして「完璧副所長」を極めたいと思うほどです。

ただ、これまでは自分で書類を書いていればよかったのですが、これからは部下に仕事を任せるということが仕事の大きな部分を占めてくるので、どうやって仕事を下に落としていくか、部下と対話しながらどうやって仕事の質を高め維持していくか、そして彼らのキャリアの成長をどうやって支えてあげられるか、そのあたりがこれからの課題になってくると思っています。

ウズベキスタンはとても専制主義的な国です。ガスをはじめとする天然資源があるし、最近経済が急成長のロシアとのつながりが強いので、周りの国々や欧州などと協調しなくてもある程度経済は成り立ってしまう。そのあたりが対外的なプライドにもつながってくるし、人権問題などをめぐって欧州諸国などとの摩擦が問題になっています。国連としては中立の立場を強調しながら、そして国家の立場を尊重しながらも、どうやってこういった国がもっと外へオープンになれるように対話と支援を続けていけるか、これが成功の鍵だと思います。私見ですが、このような国に対しては建設的な関与(Constructive engagement)を貫くのが国連の正しい姿勢だと思っています。ただ、ウズベキスタンに来て痛感するのは、国連内でも一つの国に対しての「一つのポジション」が存在しないということで、特に政治状況が複雑な国で実際に現場にいる立場にとっては、このことにフラストレーションを感じることもあります。

ウズベキスタンの国連システムは幸い同国政府からも信頼されていて、他のドナー支援が少ないこともあり、UNDPの活動も他の国ではIFIがやるような、例えば税法改正などの財政改革に関する技術支援などの要請があったりします。2008年の活動の重要なもののいくつかを挙げると、私達の支援で最近できたPRSP(貧困削減戦略)の実施への支援、この国の貧困の70%は地方・農村部にいるわけでもっと地方開発へのサポートに力をいれる必要がありますし、それから、ウズベキスタンの排出量取引への参加も活発に支援していく予定です。

Q. これまで一番たいへんだったことはなんでしょう。

JPOでルーマニアに行ったのですが、副所長ポストもない小さな事務所で、インターナショナルスタッフは代表と私だけ、あとは現地スタッフをいう構成でした。そのうえ、私が赴任すると時すぐに、私の指導に当たることになっていたスタッフが横領容疑でクビになり、代表も3年間で3人替わるという目まぐるしさ。そんな中で誰にも頼らずに、人から学ぶというよりはその状況から自分で方向性を切り開いて、全部自分で学んで自分の所掌業務を切り盛りしていかなくてはならないような状態になりました。仕事中毒だったしかなり辛い経験でしたが、今振り返ってみると、JPOなのに副所長のような仕事を任されていたわけで、なかなかできないことでもあるし、その時の経験が今にとても生きているように思えます。いい状況からはもちろん学べますし、悪い状況からもまた別なことを学べる。私はどんなことからでも学ぶんです(笑)。

ウズベキスタンに来る前にやっていた局長補佐という仕事も、学ぶことが多い一方、ストレスの大きな仕事でした。この局長は素晴らしい人で、とてもいい状態で仕事ができたのであまり苦に感じることはなかったのですが、今振り返ると、よく3年もやったな、と。

基本的にはとても楽天家で、小さいことは気にしないのですが、それでもきりきり胃が痛くなるようなこともありますよ。例えば、ウズベキスタンに赴任した時に、まだ状況がはっきりと把握できていないにもかかわらず、初日から調達関係の契約書類とか、人事決裁とか、そういうものに自分の責任でサインをさせられる。責任があるということはそういうことだと分かっていたつもりでも、自分の判断で大きなお金が動いたり、ある人が仕事を得たり失ったりするわけで、いざ署名をするときはとても緊張しますね。着いたばかりの時によく内容もまだ分からないような、この国のエネルギー問題についてとかスピーチをしなくてはならない時も、閉口しました。

Q. 国連で醍醐味を感じるときはどんなときですか?

私はこれまでフィールドと本部の両方を経験しましたが、やはり現場で特に大きな成果を感じます。事業現場を訪ねて、国連が助けている人々に直接お話を聞き、どういう風にマイクロクレジットを活用しているとか、生活がこういう風によくなったとか、そういった手応えを感じると、日常ストレスを溜めながらやっている仕事も大きな意味があるんだと気付かされ、またがんばって行こうという気持ちになれます。私はそれぞれの国・民族の文化にとても興味があるので、それぞれのDuty stationで様々な文化を学べるのも貴重な体験です。ウズベキスタンは人種的には色々まざっていますが、農村などを訪ねると時々50年くらい前の日本はこうだったんじゃないかと思うことがあるくらい、共通点があるんです。おじいちゃんおばあちゃんの表情、ちゃんちゃんこにそっくりの着物もあるし、こたつみたいなものもあります。人とのつながりの中で仕事をしていけるのは国連で働いていてすばらしいと思うところです。

Q. これからのご自身のキャリアをどうお考えでしょうか。

自分には組織の運営をはじめとするマネージメントの仕事がとても向いているように思えます。もちろん様々な開発関連のトピックの専門家も必要ですが、それと同じくらいマネージメントの専門家というのは国連のような組織では必要だと思います。ですからそうした方向性で将来も考えていきたいと思っていますが、これまではUNDPにしか所属したことがありませんから、これからは国連のほかの組織で働いてみることもよいのではないかと思っていまし、地域的にも東欧CIS以外に専門性を広げていけたらいいなと思っています。それから、私も日本人ですから、日本の政府や組織との関係も築いていくことができれば理想的だと思います。最近とても強く思うのですが、JICAをはじめとする日本の機関で働くスタッフと国連などで働く日本人スタッフとの人材交流、そしてセカンドメントなどによる人材のフローがもっと盛んになれば、国連にも日本の機関の両方にとって、視野を広げて知識や技術を深めるのに役に立つのではないでしょうか。

Q. 週末の過ごし方は?

普段ものを読んだり書いたりする時間がないので、まとめて本を読んだり、たまった仕事を家にもって帰ってしたりしています。ワークライフをスタッフがきちんと実践するためには、マネージャというのはオフィスに長くいてはいけない、それも週末には絶対事務所に出てはいけないと思っていますから、たまった仕事は土曜日に家でこっそりやることが多いですね。それから犬とねこを飼っているので時間をかけて犬の散歩をしたり、仲間と集まって料理会をしたりという過ごし方が多いです。

Q. グローバルイシューに関わりたいと思っている次世代の人々にメッセージをお願いします。

国連に入りたいと思うより、自分がしたいことに対する情熱を持ち続けることが大切だと思います。国連はたくさんあるうちの選択肢の一つでしかなく、政府でもNGOでもいいから、自分がしたいと思うことを実現できることが重要なのではないでしょうか。自分の中にあるパッション(情熱)を突き詰めていくこと、好奇心を高めてものごとを批判的に分析し行動する目を持つこと、さまざまな選択肢に対して心を開きオープンであること、そうしたことができれば国際社会でも通じる人材になっていけると思います。また、そうした情熱がある上で、コミュニケーションは要です。自分が思っていること、考えていることを相手に伝え、理解させようとする意思と能力は、世界で働く上では必要不可欠な力ではないでしょうか。

日本人は勤勉だし、いろんないいアイディアを持っているし、大きな潜在性を秘めていると思います。でもまだ国際社会でその可能性が開花しているとは言えません。日本人のよさをもっと表に出し育てていくことで、世界に大きな貢献ができると信じていますし、まずは自分がそのような例としてがんばっていこうと思っています。

(2007年12月21日。聞き手:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター)

 

2008年1月17日掲載

 


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