第7回 橋本 直子さん UNHCR スリランカ北部・ワウニヤ事務所 Associate Protection Officer*1
略歴: はしもと なおこ 日本において大学まで教育を受けた後、英国オックスフォード大学院にて難民学修士号( Master of Studies in Forced Migration )取得。(財)日本国際問題研究所を経て、在 NY 日本政府国連代表部において人権・人道問題担当専門調査員として勤務、加盟国・締約国としての立場から国連決議交渉、政策立案、人権条約体等に携わる。その後、 JPO として、 IOM (国際移住機関)本部ジュネーヴの人身売買対策課( Counter-Trafficking Service )においてプログラム・オフィサーとして勤務、アジア・アフリカにおける人身売買対策政策・事業立案を担当。 2005 年 8 月より、スリランカ北部の UNHCR ワウニヤ事務所において Associate Protection Officer (法務・人権問題担当)として勤務。海外勤務の傍ら、日本国内における庇護申請者の保護支援にも関わっている。
- *1 本稿は、筆者の私的個人的な意見・考えをまとめたものであり、本稿のいかなる部分もUNHCRの公式見解を代表するものではない。
<始めに>
本拙稿においては、まず簡単に、スリランカにおけるUNHCRの活動の概略に触れた上で、北部ワウニヤにおけるUNHCRの活動を紹介したい。その上で、筆者がUNHCR職員として最前線で携わっている任務について説明する。最後に、牛の嘶きや時には地雷や手榴弾の爆発音を遠近に聞きながら、筆者が日頃感じ考えている諸問題・今後の課題について触れ、本フォーラムにご参加の諸先輩方からご示唆を頂きたいと思う。もしそれが、本フォーラム上の議論の更なる活発化の一助となれば、大変幸いである。
<スリランカにおけるUNHCRの活動概要*2>
そもそもUNHCRは、1987年にインド・スリランカ平和協定の締結後、スリランカ政府よりの要請を請け、南インドに避難していた難民の帰還支援という文脈でスリランカにおける活動を始めた。その後数年間に約10万人のスリランカ難民が帰還を果たしたが、90年代半ばからの紛争再発により新たな難民が発生し、2006年6月現在で約7万人強のスリランカ難民が南インドの難民キャンプで生活している*3。と同時に、20年来に渡る長期的内紛は約80万人の国内避難民(IDP)も生み出した。UNHCRはスリランカ政府からのIDP支援要請に基づき、また国際社会及び国連事務総長よりの正式な承認を経て、1991年より本格的にスリランカ国内でのIDP支援活動に乗り出した。その後も、断続的に続く紛争によりIDP支援は一進一退を続けているが、政府=「タミール・イーラム解放の虎」(LTTE)間で休戦協定が締結された2002年から2005年末の間に、約40万のIDPが出身地に帰還したり新たな地で居を構えたり、何らかの形で解決の途についている。
その一方、2004年12月26日のスマトラ島沖津波の被害で、新たに約80万人が家を追われた。本来、自然災害によるIDP支援はUNHCRのIDP支援枠組み諸原則 *4から外れるものではあるが、津波被災者の中には紛争が原因で既に家を追われていた「紛争IDP」もおり、また実際、UNHCRは諸国際機関の中で最も長期且つ大規模の活動をスリランカ国内で既に行っており、直ちに動員できる経験と資源があったため、人道的見地より津波IDP支援にも貢献している。具体的には、緊急物資の供給、一時的シェルターの提供、人権保護、及び国際機関間の調整などが、主な活動である。
更に、極少数ではあるものの、スリランカに来る庇護申請者もいる。
上記をまとめると、インドからの帰還民(約2万人)、自立の途に付き始めたIDP(約40万人)、解決策の見つかっていない紛争によるIDP(約35万人)、庇護申請者(200-300人)を合計すると、約80万人がスリランカ国内でのUNHCRの「伝統的な」支援対象者(「津波IDP」を除く)ということになる*5。
- *2 スリランカにおけるUNHCRの活動の詳細については、www.unhcr.lk をご参照。
- *3 但し、06年初頭からの紛争再発により国外に難を逃れる者が増えており、南インドにおけるスリランカ難民数は日に日に増え続けている。
- *4 UNHCRのIDP支援枠組み諸原則とは、1)事務総長及び当該国政府からの要請、2)難民発生事由とIDP発生事由に明確な関連性があり、UNHCRの専門性が発揮できる状況にあること、3)IDP支援活動に十分な資金が確保されており、それが難民保護活動に悪影響を与えないこと。
- *5 上記の数値は全ておおよその値。執筆現在、政府=LTTE間の停戦協定は非常に危うい状況にあり、2006年初頭より新たな難民・避難民が断続的に発生している。
<北部・ワウニヤ県におけるUNHCRの活動>
ワウニヤ県は、北部中央に位置する人口約15万人の田舎町で、4つの群から成っている。そのうち、北群はLTTEの事実上支配下にあり、県の中心部に政府とLTTEの間の「前衛線」(Forward Defence Line)と「中間地帯」(No-man’s Land)が存在しているので、政治・軍事的に機微な位置にあると言える。ワウニヤ県から北に行くと、全域LTTEの事実上支配下にあるムライティヴ県、更にLTTEの「司令本部」があるキリノーチ県がある。ワウニヤ県の民族構成に関して言うと、2001年の政府人口統計資料に因れば、86%がタミル人で、その残りをシンハラ人とムーア(ムスリム)人が分けている*6 。これが、南隣のアヌラダプラ県に行くと、約9割がシンハラ人と全く逆の様相を呈し、更にそこから南西のプッタラム県に行くと、約半数がムーア(ムスリム)人になるので、民族間の棲み分けがかなり色濃いと言える。
約15万人のワウニヤ人口のうち、約4万人がIDPで、そのうち3万人強が家族や親戚と一緒に暮らしており、残りの1万人弱が「Welfare Centres」と呼ばれる政府運営のIDPキャンプでの生活を続けている。ワウニヤ県にはIDPキャンプが4つあるが、かなり劣悪な状況にあると言える。これはワウニヤ県だけでなく、北東部の殆どのIDPキャンプに共通しているが、その惨状は、スリランカ南部のビーチ・リゾートの豪華さに鑑みても、UNDPの人間開発指標でスリランカが93位と(復興中の国にしては)高く評価されていることに鑑みても、信じ難いものがある。UNHCRとしては、IDPキャンプ内の環境が少なくとも最低限の生活必要条件を満たすよう政府の努力を引き出すと共に、一日も早くIDPが恒久的解決と自立へ向かってキャンプ外生活への一歩を踏み出せるよう支援している。具体的には、出身地に帰ることが可能なIDPに対しては、帰還地において基本的生活物資や住居再建物資を提供したり、他の機関との連携を通じて生活の再建を肌理細やかに支援している。また、出身地が依然として「軍事用地」(High-Security Zone)に指定されている、地雷除去が未完了である、或いはその他の治安上の理由等から、出身地に帰ることが難しいとされる場合には、政府による新たな転居地の指定を促すと共に、転居先における家屋の建築や職の確保に向けた支援などを行っている。長期化する避難生活を送っているIDP支援の上で特にUNHCRが重視するのが、「コミュニティー・サービス」や「コミュニティー・エンパワメント」と呼ばれる活動である。例えば、キャンプ内の住民間で様々なグループ(例えば、女性団体、青年会、子供会、老人会など)を形成しそれぞれ活動計画を作らせたり、キャンプ内の環境改善や問題解決に向けて自分達にどのようなことが出来るか発案させ実行を支援している。これらの活動は、「援助依存症」(Dependency Syndrome)を防止し自助努力を促進し、人間としての基本的尊厳や自らの人生に対するオーナーシップを回復し、キャンプ生活からの脱却と自立を導き出すのが最終的な目的である。IDPの中には、過去20年間で15回も家を追われたり、紛争で家族や友人の多くを亡くしたり、生計を立てる術を持たない者や多くの子供を抱える未亡人もおり、「自助努力の促進」や「基本的尊厳の回復」は口で言うほど現場では簡単ではない。それでも、キャンプ内の女性に対する暴力事件や児童虐待が減ったり、アルコール依存に対する住民活動が始まったり、キャンプ外への新たな生活に関する会合が開かれたりと、少しずつ成果が見え始めている。
また、帰還民(Returnees)に関して言えば、2002年の休戦協定以来、約5,000人の難民が南インドからワウニヤ県に帰還してきている*7。そのうち約2割がUNHCR支援を通じて飛行機で帰還しているが、大多数は敢えて自力で、南インドからスリランカ北西海岸に舟で辿り着く。これには主に二つ理由があり、一つには、UNHCRが南インドの難民キャンプに自由に出入りすることを許されていないため、UNHCRの帰還支援の存在と諸手続きを難民間に周知徹底させることが非常に困難ということがある。またより大きな理由としては、UNHCRの帰還支援はインド政府及びスリランカ政府二カ国それぞれの正規手続きを経る必要があり、最長で2年という長期間がかかるので、何らかの理由で急いで帰還する必要のある難民は待ちきれずに、密輸業者に費用を払い敢えて危険を冒して舟で帰る路を選ぶのである(より詳しくは後述)。
IDP、帰還民、いずれに対する支援の場合でも、その第一義的責任はスリランカ政府当局が負っているので、UNHCRの活動の全ての局面において、現地政府の能力開発、現地政府との協議、調整、対話が最も重視されている。
- *6 より新しい人口統計は公表されていないが、2005年末以来の紛争再発に伴い、タミル人はよりタミル地域へ、シンハラ人はよりシンハラ地域へ移り住んでおり、民族構成は昨年来より変化している可能性が高い。
- *7 但し、2005年末以来の紛争再発に伴い、多数のスリランカ人が南インドに難民として流出しており、06年6月末現在で、3,500名が難民として南インドに到着している。
<筆者の日常任務>
上記のような地政学的位置関係と支援対象者の中で、筆者の日常業務は主に以下の3つに大別できる。
1)帰還民に対する保護と支援*8
時系列的流れで説明すると、まずUNHCRの在チェンナイ(南インド)事務所から、難民よりUNHCR帰還支援の要請があったという知らせを受け、個々の難民が帰ろうとしている出身地の安全状況を確認し、その情報はチェンナイ事務所を通じて個々の難民に提供される。難民の帰還旅程が確定すると、再度出身地を訪れ受け入れ家族や親戚に帰還家族の旅程を知らせる。帰還後、個々の難民をインタビューしてデータベースにその詳細な個人情報を入力すると共に、帰還民としてどのような権利があり、政府を含めどの機関からどのようなサービスを受けられるのか説明する。特に、避難の途中で身分証明書を無くしている場合や難民キャンプで生まれた子供については、どのように身分証明書を再発行しスリランカ国籍を取り戻せるのか詳細に説明し、必要な場合にはUNHCRの実施下請け機関等を紹介する。また、帰還地における生活の再建を助けるために、基本的生活道具を含む「Non-Food Relief Item(NFRI)」を1家族につき一パッケージ提供する*9 。帰還後3-6ヶ月以内に再度個々の帰還民を訪れ、再統合がスムースに行っているか査定し、問題がある場合には、しかるべき対処をしている。また、出身地の土地が他の者に占拠されていたり、軍事基地に指定されている、或いは地雷が埋まっている等の理由から帰れない場合には、政府が行っているIDP転居計画に当該帰還民も含めるように働きかけている。そのようなプロセスを通じて集めた個々の帰還民情報を全てデータベースで一括管理し、傾向や問題点を分析した上で、定期的に首都コロンボ事務所に送付している。それらの情報と分析はUNHCRの南インド事務所との定期会合で更に検討され、難民帰還支援の改善へ向けたインド・スリランカ各政府との協議にも役立てられている。
また、帰還民支援に携わっている他の機関とも月例会合を開き、個別ケースを紹介しあうと共に、活動の重複を防ぎ、共同活動を促進している。*10
- *8 帰還民保護と支援の一般的枠組みについては、’Handbook for Repatriation and Reintegration Activities’, UNHCR, Geneva, May 2003(改訂中)をご参照。因みに、UNHCRとしては、「スリランカ国内の現段階での情勢は、安全且つ尊厳ある帰還を可能とする状況ではない」という見解であり、大規模な組織的帰還(Organised Return)を行うに至っておらず、あくまでも個々人の情報収集に基づく自発的帰還の要請を受けて右を側面支援する「支援された帰還(Facilitated Return)」を行っている。但し、それも、スリランカ国内の治安の悪化に伴い、06年1月より中止されている。
- *9 食糧支援は、WFPの資金を通じて現地政府が統括している。
- *10 ここでいう帰還民とは、その大多数を占める南インドからの帰還民のみを指しているが、帰還後の保護・支援サービスは、どの国から帰国したのかに関わらず全ての帰還民に提供される。
2) IDP及び帰還民に対する法律相談
上記で触れた身分証明書の問題があるのは帰還民だけでなく、IDPも同様である。度重なる避難生活の途中で、多くのIDPが出生証明書や身分証明書、土地登記書等の法的文書を紛失しており、政府の食料配給や国内の自由な移動、また資産の回復の上で大きな障害となっている。UNHCRとしては、日常的に個々のケースに対応し、各種証明書の重要性について啓蒙活動を行う傍ら、定期的に政府やその他の機関と共同で「証明書発行・相談出張サービス」を企画し、特にIDPキャンプや遠隔地に住んでいるIDPや帰還民が手軽に身分証明書を入手できるよう努めている。このような活動は、UNHCRが無国籍問題に関して法的任務を負っていることにも因る*11。また、スリランカでは土地所有権を証明する上での土地登記書の重要性がほとんど認識されておらず、また土地登記手続きが私有地・国有地でかなり複雑多岐に渡るので、これに関する対策を強化している。
更に、IDPや帰還民による個別相談の中には、失踪、非合法的逮捕・拘留、海外に居る家族との再統合要請、庇護申請、性的暴力、人身売買被害など、ありとあらゆる問題が持ち込まれるので、UNHCRの法的任務を加味しつつ個別相談に応じたり他の機関を紹介したりしている*12。
- *11 「1954年無国籍者の地位に関する条約」及び「1961年無国籍削減に関する条約」をご参照。
- *12 スリランカ国内の人権状況に関して、より詳しくは、United Nations Commission on Human Rights, 62nd Session, ”Civil and political rights, including the question of disappearances and summary executions: Extrajudicial, summary or arbitrary executions”, Report of the Special Rapporteur, Philip Alston, Addendum, Mission to Sri Lanka (28 November to 6 December 2005), ECOSOC, E/CN.4/2006/53/Add.5, 27 March 2006をご参照。
3) 政府当局及び現地支援機関の能力強化、及び草の根レベルでの人権啓蒙活動
上記1)、2)の活動は、現在はUNHCR主導で行っているが、究極的目標は、これら全てを政府当局や現地NGOなどが自力で行えるようになることである。と同時に、UNHCRとしては、スリランカにおける長期間の活動を通じて得た知識と経験を他の国際機関に移転することが重要と認識している。これは、近年討議されている、人道支援機関と開発援助機関の間の「ギャップ」問題にもつながっている*13。そこで、活動のテーマ毎に定期的に国連機関や国際NGOを招き関係機関間会合を開いて情報交換と活動の調整を行うと共に、共同活動の可能性を模索し、重複を防ぎ、資金・資源の最適利用を促し、更には緊急人道支援から中・長期的開発支援へのスムースな移行を目指している。また、それらの会合のいくつかは地元政府や現地NGOも出席するので、現地機関による地元民への自発的対応の促進と問題解決能力の強化にも役立っている。
また、IDPの人権保護に関するバイブルともいえる「国内避難に関する指導原則」(Guiding Principles in Internal Displacement)やその他の一般的人権条約に関して、警察官や弁護士、現地NGOを対象に研修を行ったり、一般市民や中学・高校生とも対話の場を設け、一般的な人権意識の助長に貢献すると共に、IDPや帰還民と受け入れ側コミュニティーの間の融和促進も行っている。
- *13 そのような「ギャップ」を埋めるために前高等弁務官が特に推進したのが「4R(Repatriation、Reintegration、Rehabilitation、Reconstruction)事業」であり、スリランカはそのパイロット国の一つである。
<今後の議論への提言>
上記のような日常業務を通じて、筆者が感じ考えていることについて、4点ほど触れてみたい。
1. 国内避難民への支援と難民封じ込め政策(Containment Policy)
欧米の学会などにおいては、IDPへの人道的支援が潜在的難民の封じ込め策の一つとして利用されているという「難民封じ込め政策(Containment Policy)」の議論がなされてかれこれ10年が経とうとしているが、日本においては、極少数の論文を除いて、殆ど議論されずに来てしまったように感じる*14。「封じ込め政策」を振り返るにあたり、筆者が現地での経験に基づき気が付いた二つの点に触れてみたい。
まず一つには、きわめて一般論ではあるものの、紛争下で国内に取り残される、つまり国内避難民となるのは、得てして最も脆弱な市民であるということである。というのも、国外に逃亡するには、それ相応の知識、資金源、人脈、そして勇気が必要とされるからである。例えば、日本の大学生(つまり紛争下の途上国から言えばかなりの高学歴の者)に「難民申請はどのように行えるか知っていますか?」とアンケートをとって、明確に答えられる学生は少ないのではないだろうか? 言い換えれば、難民、つまり国内での諸問題から上手く逃亡できた者、は、より幸運で裕福で力があり、昨今特に厳しくなっている国境管理政策を乗り越え、非常にややこしい庇護申請手続きを行えるに十分な知識とネットワークを有する者、ということが出来る。従って、純粋な人道的見地から言えば、より脆弱かつ危険な立場にあるIDPを支援するというのは、きわめて理に叶った話といえる。そこで、そのIDP支援を誰が主導で行うべきなのかということが議論されてきているが*15、実際問題として、90年代以来の人道危機において、大規模なIDP支援をすばやく行うために必要十分な知識と経験、人的資源と裨益者へのアクセス全てを現場で兼ね備えている機関は、UNHCRのみという状況が多かったと言えるのではないだろうか。
第二点目としては、避難民のアイデンティーとは、理論で考えるよりも実際は、かなり流動的で、絡み合ったものであるということである。例えばスリランカについて言えば、90年代前半に帰還した者の中には、その後国内で再度避難を余儀なくされ、帰還民からIDPになった者も多い。また、帰還民の多くは、国内で難を逃れていた(つまりIDPである)親族の居住地に戻る傾向にある。更に、北東部では殆どの住人が少なくとも一度はIDPとなっているため、帰還民が戻る地域には殆ど必ずと言ってよいほどIDPが住んでおり、IDPが受け入れコミュニティーになる。このような状況に鑑みると、帰還民のスムース且つ持続的な再統合を促進するにあたり、IDPと帰還民を厳しく分けて支援するのは、実務上不可能であるだけでなく望ましいことでもない。
「封じ込め政策」に関しては、欧米での殆どの議論が理論的観念的なものに留まっているが、もっと具体的数値的にこの議論を再検討するのも面白いのではないだろうか。例えば、過去10年間における、スリランカ国内に注がれたIDP関連の国際的援助資金の総額の推移と、全世界におけるスリランカ人庇護申請・庇護認可・退去強制の数の推移を時系列的に比べたり、IDP支援用資金提供額と強制退去数をドナー国・庇護国毎に比べてみるのも、可能かもしれない。昨年11月、NY国連本部のIASC(Inter-Agency Standing Committee:機関間常設委員会)において、UNHCRがIDP支援活動についてより積極的且つ一貫した関与を行うという方向性を含む「クラスター・アプローチ」が合意されたところ、「難民封じ込め政策」議論をもう一度別の角度から洗い直すのは、必ずしも時機を逸した営みではないと思う。
- *14 「難民封じ込め政策」の要旨を大雑把にまとめると、(1)諸国連機関がより多くIDP支援活動に参加することにより、潜在的庇護国が、庇護申請者の母国における種々の人道支援活動の存在を当該庇護申請者の強制送還の正当化の理由として援用しないか、(2)特に、IDP支援を、本来は国外に難を逃れた難民が他国において庇護を求めそれを享受する権利を保護・促進する法的任務を負ったUNHCRが行ってよいのか、(3)対IDP人道支援には多額の資金が必要となるところ、UNHCRがIDP支援に必要な資金拠出要請を行っているドナー国と、庇護申請者の強制送還を行っている国が同じだった場合、同国に対するUNHCRによる庇護に関するアドボカシーが弱まるのではないか、という懸念である。より詳しくは、以下の諸論文をご参照:Goodwin-Gill, G.S. The Refugee in International Law, Second Edition, Oxford, 1998, pp.264-290 (“Internally Displaced Persons” and “Preventive Protection”); Hathaway, J. “The Emerging Politics of Non-Entre´e”, 91 Refugees, 1992; Shacknove, A. “From Asylum to Containment”, International Journal of Refugee Law, vol. 5, pp.516-533, 1993。 または、Hashimoto, N. “The United Nations and Internally Displaced Persons: at the Crossroads of Human Rights and Humanitarian Affairs”, in Bolesta, A. (ed.) Forced Migration and the Contemporary World; Challenges to the International System, 2003, Libra, Warsaw.
因みに、UNHCRの公式見解は、「スリランカ国内でのInternal Flight Alternative(国内で逃避することで身の安全が確保できる可能性)は無い。」というものである。スリランカ国内の状況についてより詳しくは、UHCR, ‘Background Paper on Refugees and Asylum Seekers from Sri Lanka’, April 2004をご参照。 - *15 具体的には、OCHA、OHCHR、ICRC、IOM等。より詳しくは、世界的IDP問題とそれに対する国際機関の対応を包括的にまとめた報告書として、Cohen, R. and F.M. Deng、Masses in Flight, Washington D.C., Brookings Institution Press, 1998 をご参照。
2. 帰還民の「停止条項(Cessation Clause)」
上記の封じ込め議論と関連して、欧米のIDP議論においては、「いつIDPはIDPでなくなるのか」(”When does internal displacement end?”)という議論が盛んになされた16。これは、1951年の難民条約の第1条C(いわゆるCessation Clause)が、難民の難民性が終わる条件を明記しているのとは対照的に、「国内避難に関する指導原則」は、IDPステータスの終了時について沈黙であることに端を発している。ところが、それと同様に、帰還民がいつ帰還民でなくなるのか、ということも、実はどの法的文書にも示されておらず、特に帰還民について法的な保護任務を負っているUNHCRにとっては、重要な問題に思える17。というのも、IDPについては、その名が示唆するとおり、「避難生活」(Displacement)の状況から例えば出身地に帰還したり新たな場所に移転したりして落ち着いた時点で、一応の終焉を迎えると言えないことも無い。他方、帰還民の帰還民性は、出身地に帰った時点て始まり、その後も理論上では永遠に保持されうるアイデンティーだからである。
UNHCRは2006年度予算で、世界中には約110-150万人の帰還民がUNHCRの支援を必要としており、アフガニスタン、アンゴラ、リベリア、ソマリアなど世界各地で帰還活動が活発化する中、世界の帰還民数はこれからも増えていくものと思われる。従って、UNHCRにとっていつ帰還民が帰還民では無くなるのかは、定義観念上の問題だけでなく、現実問題としてUNHCRの予算やExit Strategyを定める上で重要な意味合いを持つ問題と言えよう。
- *16 例えば、Forced Migration Review Issue 17, March 2003等。
- *17 UNHCRの実務上では、一般的な枠組みとして、帰還後一年未満の者を「帰還民」と呼び、帰還プロセスのモニタリングは帰還後2年間必要とされている。
3. 難民の動きと人身売買・人の密輸
上記でも少し触れたが、南インドの難民キャンプにいるスリランカ難民の大多数が、人の密輸業者に手数料を払い、危険を冒して舟でスリランカに帰還してきている。この背景には、主に上記で触れた二つの理由があるが、見逃してならないのは人の密輸業者が南インドとスリランカという小さな公海上で商売繁盛していることである。UNHCRの正規帰還支援ルートを使えば、運賃を払う必要も無く、一人当たり40kgの所持品を持ち帰ることができ、またスリランカに着いた時点であらゆる文書上手続きが全て整っている。それに引き換え、密輸業者は高額の運賃を要求するだけでなく、当然小さな舟に一度に一人でも多くの人間を詰め込もうとするので所持品はほぼ許されず、また時には暴行を加えられたり沿岸でボートから捨てられ、特に女性や子供は危険な目にあっている。このような帰還民の多くは、スリランカ沿岸警備隊に身柄を保護され、身分証明書不保持、或いは不法入国のために数日間拘留されるという事件も後を絶たない。
密輸業者の網は、南インドとスリランカ北部だけに張り巡っているのではない。帰還民の中には、出身地に一旦は帰ったものの、故郷の荒廃の様子と雇用の機会の無さに絶望し、特に南インドで避難生活の間に高度な教育や職業訓練を受けた者は再度スリランカ国外に脱出を試みる者もいる。実際、筆者が日常業務を行っている間でも、家族や親戚のいずれかの者が中近東諸国に出稼ぎに行っているという話は頻繁に耳にする。そして、未確認情報ではあるものの、彼らの多くは、特に全世界規模での「テロとの戦い」が強化される中で出入国ビザ要件が厳しくなっているところ、人の密輸業者の手を借りて、しばしば非合法的出国手続きを行うと言う。
更には、帰還民のみならずIDPの中にも、欧米での教育や高収入就職の機会を耳にし、高額の手数料を払って息子や娘を海外に送り出したが、中継地点の東南アジアやCIS諸国の入管に拘束されているので子供が無事に戻れるように助けて欲しい、という相談を持ち寄せるものも少なくない。非正規出入国手段がとられた場合は特に目的地における追跡調査が非常に困難であるし、通常故郷で流れるのは「サクセス・ストーリー」ばかりであるので、実際に目的地において人身売買の定義に当てはまるような搾取が行われたかどうかの判断は困難ではある。が、人身売買の問題が世界的規模で広まる中、出稼ぎ先で搾取や暴行を受けるスリランカ人被害者がいても不思議ではない。
上記で触れたような、南インド=スリランカ間の帰還用密輸業者、中近東諸国への出稼ぎ斡旋業者、欧米諸国へ向けた人身売買関連業者については、存在は知られているものの詳細な手口や実態はほとんど知られておらず、詳しい調査が急務である。いずれにせよ、難民の移動と人の密輸・人身売買が複雑に絡み合っているという世界規模の現象の一端は、スリランカ北部でも垣間見られるのである*18。
- *18 難民と人の密輸・人身売買の関連性のもう一方の側面は、人身売買の被害者の中には帰国すると迫害の危険性があるため、難民として保護する必要のある者がある、という点である。人身売買と庇護に関する指針は、UNHCR Guidelines on International Protection: the application of Article 1A (2) of the 1951 Convention and/or 1967 Protocol relating to the Status of Refugees to victims of trafficking and persons at risk of being trafficked, HCR/GIP/06/07, 7 April 2006をご参照。
4. 「Equity」(公平さ)と「格差」
最後に、「Equity(公平さ)」と、スリランカ国内に存在する「格差」に触れて、結びに変えたい。
「Equity(公平さ)」とは、特に津波以来、UNHCRが国際社会に訴えている問題である。津波の被害に対して国際社会から多額の資金が寄せられた結果、津波の被災者となった「津波IDP」が享受する援助金や家屋の質と、20年来の紛争により過酷な避難生活を余儀なくされてきた「紛争IDP」の生活レベルに、大きな差が生まれるに至った。例えば、海岸近くの「津波IDP」は立派な新しいシェルターを手に入れ衣食住が満たされる傍ら、数百メートル奥地に住む「紛争IDP」は食料配給もままならず今にも壊れそうな掘立小屋に住んでいるという状況である。このような不公平を是正するために、UNHCRは他の主要な国際支援機関と協調し、津波義援金のうちの余剰金を、より悲惨な生活を長期間送っている「紛争IDP」のために援用すべきと、国際社会に訴えた。その結果、聊か皮肉ではあるが、津波の被害対策のお陰で、紛争IDPに対する支援の量と質が好転することとなった。
他方で、スリランカ国内にはより根強く存在するもう一つの「格差」がある。コロンボからワウニヤ県を通過しLTTE支配下のキリノーチ県まで6時間ほど車を走らせて見れば一目瞭然なのだが、南の政府支配下地域の豊かさに比べ、北のLTTE支配下地域の貧しさは、同じ国とは思えないほどである。水道、電気、資本、食料、情報など多くの資源が、先に触れたワウニヤ県内の「前衛線」で停滞する。スリランカ南海岸のリゾートに来た観光客には信じ難いことだとは思うが、LTTE支配下では今も十分な食料や清潔な水、安全な寝床の無い生活を送っているタミル人が少なくない。ドナー国政府としては政治的制約から、LTTEに直接公的支援を行えない事情があるのも理解できるし、北部と東部で悪化する治安状況のため民間投資が入りにくいのも分からないではない。しかし、LTTE支配下に援助が届かない結果として一番苦しむのは善良な市民である。国連本部での議論に、「Smart Sanction」(経済制裁を発動する際に、善良な市民への悪影響をいかに最小限に留めるか)*19という概念が紹介されて数年経つが、その恩恵を末端で実感するまでには、まだまだ時間がかかるようである。
- *19 「Smart Sanction」についてより詳しくは、例えば‘Note by the President of the Security Council: Work of the Sanctions Committee’, S/1999/92, 29 January 1999、や “Coping with the Humanitarian Impact of Sanctions: An OCHA Perspective”, 2 December 1998等をご参照。なお、LTTE支配地域への国際的通商禁止は2002年の停戦協定締結時点で解除され、2003年6月に東京で開催されたドナー会合では、合計約45億ドルの資金がプレッジされた。しかし、右プレッジの具体的拠出は、停戦協定遵守が条件となっているため、実施は遅々としている。
2006年7月12日掲載
担当:粒良