第11回 日本の発信する文化交流~地球規模の課題に対する役割の追求~ 小林立明さん

小林立明さん

「国際仕事人に聞く」第11回では、国際交流基金ニューヨーク文化センター副所長を務めておられる小林立明さんにお話を伺いました。小林さんは国際交流基金職員として、アジアやアメリカで国際文化交流に長い間ご尽力されてきました。今回は、現在の国際社会を取り巻く状況と問題、そしてそれに貢献でき得る国際文化交流の役割と可能性について伺いました。(2010年2月8日 於ニューヨーク)

小林さんが国際交流基金に入られたきっかけを教えていただけますか。

私が学生時代を過ごした1980年代は、まだ冷戦が終わる前で、日本は「国際化」をスローガンとして掲げていました。今のようなインターネットもなく、国際的な舞台で働く機会も少なかったのですが、そんな状況でも、私はとても国際分野に関心がありました。特に国際交流基金に入ることを選んだ理由はいくつかあります。

一つは、とても映画が好きだったということです。今では考えられませんが、80年代にアジアやアフリカの映画を見る機会は非常に限られていました。ちょうどそのとき国際交流基金が南アジア映画祭を開催しており、面白そうだと思ったのがきっかけでした。

また、大学院時代に読んだベン・アンダーソンの『想像の共同体』で分析されていた「ナショナリズム」の概念に関心を持ち、国際関係の中でもそれは大きな影響を持つだろうと漠然と感じました。ナショナリズムを国際分野の中でどのように取り扱うかという問題を考えるうちに、開発協力ではなく国際交流を行なう方がより面白いのではないかと感じ、国際交流基金に入りました。

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小林立明(こばやし たつあき)
国際交流基金ニューヨーク日本文化センター副所長
東京大学(教養学部相関社会科学コース)卒。1990年より国際交流基金勤務。在韓国日本大使館(出向)、アジアセンター、組織改革推進室、企画評価課などを経て、2007年より現職。本部では、日本アセアン多国籍文化ミッション(1997)や日モンゴル文化フォーラム(1999)などの事務局を務めたほか、国際交流研究会による報告書「新たな時代の外交と国際交流の新たな役割」(2003)の取りまとめなどを行なう。主な関心事項は、アジア太平洋地域の知的交流・市民交流の推進、パブリック・ディプロマシー論など。

国際交流基金が文化交流を通じて目指しているものについてお聞かせいただけますか。

国際交流基金(※語句説明1)の設立当時(1972年)、基金の設立に尽力された福田赳夫外務大臣(当時)は国会での設立趣旨説明で以下のようなことをおっしゃいました。「アメリカのフルブライト・プログラム(※語句説明2)が日米交流に果たした役割はとても大きく、これにより日本も国際社会に入ることができた。60年代の高度成長により、日本もある程度の経済的水準に達した。よって、日本もフルブライト・プログラムにお礼がしたい、国際社会に貢献したい。そのために日本が何をもって貢献できるかを考えると、対米交流だけではなく、アジアに対する交流もできる国際交流基金のような組織が必要になるのではないか。」と。それが国際交流基金の出発点です。単に相互理解を深めるだけではなく、「世界の文化の向上および人類の福祉に貢献する」ことを基本目的のひとつとしています。

現在、ニューヨーク日本文化センターで携わっておられる活動や日米センターについてお話いただけますか。

アメリカではニューヨークとロサンゼルスに国際交流基金の日本文化センターがありますが、ニューヨークは日本研究、知的交流、地域草の根交流、ロサンゼルスは日本語教育を担当しています。文化芸術交流については、両センターで手分けして実施しています。国際交流基金はまた、対米交流を強化するために1991年に設立された日米センター(※語句説明3)を通じて、安全保障などのグローバルな課題の解決のため、研究者、政策担当者、NPO・NGOの方々の共同研究の支援や人材育成に携わっています。

現在私がプログラム・ディレクターとして担当している分野は、地域・草の根交流です。これは、日米関係は、政府レベルや研究者レベルの交流だけでなく、国民レベル、地域・草の根交流のレベルでお互いにうまく理解し合ってはじめて、幅の広い交流や共同作業ができるという考えに基づいています。具体的には、たとえば、日本のボランティアの方々にアメリカの中西部や南部地域のコミュニティに2年間滞在していただき、日本の文化を紹介してもらう、ジャパン・アウトリーチ・イニシアティブ(JOI)というものがあります。また、日米協会(※語句説明4)という、アメリカで日米交流を中心的に支えている団体をより機能的でアクティブなNPOにするためのキャパシティ・ビルディング支援なども行なっています。

小林さんはこれまで、東京本部とニューヨーク日本文化センター以外に、ソウルでも勤務されましたね。アメリカと韓国では日本に対する考えも違うと思いますが、それに合わせて、文化交流の活動にはどのような相違があるのでしょうか。

ソウルには1993年から1997年までいたのですが、当時はまだ基金の事務所がなかったので、日本大使館に文化担当官として出向していました。この頃は、北朝鮮の核危機が表面化し、日米韓を軸とした地域の安全保障をいかに確保するかが政策的な課題として浮上していました。また、日韓間で大量に人の行き来があり、経済的にも日韓の経済相互依存が非常に進んだ時代でもありました。日韓がアジア全体と協力し、いかに東アジア共同体を形成していくかということが政策的な課題になっていたのです。その反面、韓国では反日感情が強く、日本文化が規制されていました。ここでも草の根レベルで相互理解がなければ日韓の協力が進みませんので、どうすれば反日感情を解消できるか、それをどのように進めるべきかを考えながら仕事をしました。

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具体的には、1992年と1994年に日韓で文化通信使の交換を行いました。日本政府が韓国から文化通信使を招き、日本で大々的に韓国文化を紹介した上で、そのお礼として日本の文化を韓国で紹介してもらったのです。日本の国宝級の作品を紹介する伝統工芸展や、現代美術を紹介する現代日本美術展を開催しました。日本が普通の国であること、文化や美術の質も高いことをまず認識してもらい、これを踏まえてどのように更なる交流を進めていけば良いか政策的に論議したのです。同時に、韓国人の知日派の育成・支援にも努力しました。80年代から、韓国人の研究者が、日本の政治経済を研究するために来日し始めていたことを踏まえ、現代日本研究グループの立ち上げや日本研究センターの設立支援などを行ないました。こういう作業の過程で、日本の過去の歴史問題を巡って、韓国の方々と激しい言い合いになるという場面も経験しました。国際交流とはある種、美しい世界と思われがちですが、韓国と日本の場合は決してそれだけではありません。日本の歴史認識問題を常に念頭に置きつつ、これに起因するナショナリズムの対立をどう乗り越えるかを考えながら国際交流の仕事を行なえたことは、とてもよい経験になりました。

アメリカには2年半前からおりますが、アメリカと日本は共有するものが多い国だと思います。たとえば、我々の世代の日本人がアメリカ人と話をする時、ローリング・ストーンズやマドンナ、映画の俳優など、共通の話題がたくさんあります。アメリカ人も日本のことをとてもよく知り、日本の文化を受け入れています。具体例としては、大林宣彦監督の『ハウス』という、日本人にもあまり知られていない映画がありますが、これが現在ニューヨークで一般上映公開されています。これはほかの国ではちょっと考えられません。

今、私が携わっている仕事は地域・草の根交流ですが、国際交流基金全体としては、文化芸術、日本研究、日本語教育、知的交流などの多様な分野で事業を行なっています。アメリカの人たちに日本のことを理解してもらうことはもちろん重要ですが、私たちはもはやアメリカのジュニア・パートナーではありません。日本が持っているものを対等に提供し、日米共同で様々な課題の解決に取り組んでいくグローバル・パートナーとしての関係を追求していきたいと思います。

小林さんのされているお仕事はなかなか数値化できないものだと思いますが、これまでで最も達成感の強かった企画について、お話しいただけますか。

おっしゃる通り、数値化できないのがこの仕事の難しい部分です。私の韓国での経験談を紹介させていただきます。私の仕事の一つは、韓国で知日派のパブリック・インテレクチャルを育成することだったのですが、その一環としてソウル大学に韓国全体の日本研究を促進するためのセンターを創設したいと考えました。ソウル大学は国立大学ですから、もしもセンターができれば韓国全体の日本研究者が恩恵を受けることができますし、ソウル大学の国際的なネットワークを通じて、韓国における日本研究がより国際的に開かれたものになることも期待できます。

しかし、私がいた1993年から1997年は反日感情が高まり、特に1995年は「光復50周年」(韓国が日本の植民地支配から独立した50周年)として盛り上がっていました。ソウル大学は当時、反日の拠点のひとつで、大学の日本研究の先生は会ってもくれませんでした。日本の政府機関の人間と会っているというだけの理由で大学内で批判されるような時代だったのです。でも、いろいろ手をまわして何とか会ってもらい、センター設立に向けて交渉しました。3年くらいかかりましたが、最終的にはその先生が所長となって、日本研究の情報センターを創設することに同意してくれました。

これが韓国時代で一番、達成感のあった事業です。その後、ソウル大学のそのセンターでは期待通り世界レベルで日本研究の情報を集約・発信し、これによりいろいろな新しい研究者が出てきています。このような結果は数値化できません。もちろん、日本のGNPが上がったわけでもありません。しかし、実感としてはやはり、確実に日韓関係の何かが変わったと思います。

国際交流基金は20ヶ国に事務所がありますが、その中には、エジプトやメキシコ、フィリピンなどの中進国もありますね。そういった国々における、国際協力も含めた活動をご紹介いただけますか。

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国際交流基金は文化を通じた国際貢献を1990年代から開始しています。当時の事業の柱は、有形・無形の文化財保存への協力でした。たとえば、私は1997年から2000年まで基金のアジア・センターで、文化を通じた国際貢献の一環として、「ベトナムの京都」と呼ばれるフエで、町並み保存のために日本の専門家を派遣したり、ニャニャックと呼ばれるベトナムの宮廷音楽の復興支援などを行ないました。また、ベトナムの古文書保存にも協力しました。国際交流基金はこれ以外にも、伝統文化の保存・復興、及びこれを通じたコミュニティ支援を様々な分野で行なっていました。フェア・トレードを通じたコミュニティ支援なども実施しています。「人間の安全保障」をテーマの中心においた「アジアの明日をめぐる知的対話」というプロジェクトへの支援も行なっています。

2000年以降は、より政策的に文化を通じた国際貢献を進めるため、平和構築や復興支援に於ける文化の役割に着目しています。こういった支援の多くは、日本の経験をもとに形づくられています。たとえば、アチェの民族独立運動(※語句説明5)で紛争に巻き込まれた子どもたちの心の回復のために、演劇を通じたセラピーを企画しました。日本から専門家を派遣して現地でワークショップをしてもらい、子どもたちと1つの作品を作ってもらった上で、日本でも紹介しました。

また、アフガニスタンでは、1979年のソ連の侵攻以来続いた戦乱でかなり失われてしまった、イスタリファ焼きという伝統的な陶芸の保存に携わっています。イスタリファ焼きの専門家を、同じく陶芸の盛んな日本に招き、陶芸の基礎を再度学んでもらい、様々な研修を受けてもらうということをしています。

災害からの復興支援の分野での事業もあります。ニューオリンズのコミュニティに非常に大きい打撃を与えたハリケーン・カトリーナ(※語句説明6)が良い例です。国際交流基金は復興支援の一環として、阪神大震災の被害からの復興の経験を交流を通じてニューオリンズの方たちと共有してもらい、復興支援においてコミュニティがどのような役割を果すか、どのように行政がこれを援助するのかといった問題の解決策を探りました。また、関連事業として、このような災害復興の事例をデータベース化、マニュアル化し、ウェブ上で共有するというプロジェクトにも支援しています。

現在の経済状況の中で文化外交を続けていく難しさについてお話いただけますか。また、今後このような不況下で、文化外交に充てられる資金をこれまで通り、あるいはそれ以上に維持するためには、どのような努力が必要だとお考えですか。

経済危機については、短期的な影響と長期的な影響の2つを考える必要があると思います。

短期的には、経済危機(※語句説明7)により、アメリカで我々が支援している大学やシンクタンク、NPOなどが持っている資産価値が大幅に減少し、結果として各機関が事業規模を縮小せざるを得なくなったり、場合によっては経営危機に陥ったりという事態が発生しています。我々はそこで厳しい選択を迫られています。今、経営の危機に瀕しているこれらの組織がなくなると交流全体が途絶えてしまいます。他方で我々の資源も限られていますから、経営危機に瀕した団体のみを支援すると、次代に向けた革新的な試みにはお金が振り分けられなくなります。最終的には、つぶれそうなところを下支えすることを考慮せざるを得ませんが、現存のものを支援しているだけでは新しい領域が出なくなりますから、そこはある程度将来を見据えて考えていかないといけません。

中長期的には経済危機による政府の財政状況の悪化を考慮する必要があります。国際交流は、雇用を創出するわけでもGNPを向上させるわけでもありません。なぜ国際交流に日本の国民の税金を使う必要があるのか、きちんと考えなければいけません。私はもちろん、国際交流には資金を投入する必要があると思っています。日本は資源、食糧のほとんどを海外からの輸入に依存していますし、日本の経済を支えるのは輸出産業です。我々の最大の国益は、このような産業構造の基礎となる国際平和秩序を維持することです。このためには、国際交流を通じて日本がきちんと理解され、諸外国と良好な関係を保っていなければいけません。とはいえ、政府の財政状況が厳しい中では、我々の活動もより少ない資金でより効果のある仕事を行なうことが求められます。また、政府資金のみに頼らず、外部の資金を導入する努力も求められます。このため、我々はどんどん外部のパートナーと一緒に仕事をしていきたいと考えています。今までは、美術館、博物館、文化機関、大学やシンクタンクなどとの協力が主でしたが、今後は企業も視野に入れたいと思っています。

また、今後は新しい資金確保のシステムも考えなければいけないと思います。たとえば、今、フィランソロピーの世界はとてもダイナミックに動いています。ハイチ地震(※語句説明8)の際、ツイッター(※語句説明9)や携帯電話のテキスト・メッセージを使った1口10ドル単位の小口寄附の手法により、米国赤十字が史上最大の寄付金を集めたのが良い例です。これが成功した理由は、米国赤十字がWeb 2.0を使った寄付システムと連携し、同時にヒラリー・クリントン国務長官がテレビで何度もこのシステムへの寄付を呼びかけたことです。ウェブを通じた小口寄附とメディアを連携させたこの新しいモデルにより、今までは考えられなかった規模の寄附金獲得が可能となりました。

また、従来我々財団の世界では、資金支援の方法は、非営利団体に対するグラントという形を取っていたのですが、これも変わってきています。2001年に創設されたアキュメン・ファンド(※語句説明10)は、グラントではなく、長期にわたる投資という形の資金提供を行なっています。支援対象も、非営利団体ではなく社会的企業です。元本も利息も回収するという意味ではビジネスなのですが、その資金は公共財のために使われます。グラミン銀行をモデルとしたマイクロファイナンスの手法も世界的に広まっています。

「非営利に対する無償のグラント」という従来の方法論にこだわらず、社会的なインパクトをもたらすために最も効果的な資金提供の仕方を考え、そのための寄附金集めには積極的に新しいテクノロジーを導入していく、というのが、現在米国で起きている新たなフィランソロピーの動きです。国際文化交流を含め、日本の非営利やフィランソロピーの世界も、そういった新しい仕組みを貪欲に取り入れ、制度化していく必要があると思います。

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近年、パブリック・ディプロマシーやソフト・パワーなどの議論によって、注目を浴びていた文化交流ですが、経済の低迷により、再び政治や経済を中心とした外交が重視されていくようになるのでしょうか。

経済の低迷と国際社会の流動化は、もちろん、軍事・外交を中心としたハード・パワーの重要性を増しますが、そのことがソフト・パワーの役割を減じることにはならないと思います。むしろ、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が主張しておられるように、これらを総合したスマート・パワーの時代に入っていくのではないでしょうか。

この関連でご紹介しておきたいのですが、2000年に国際交流基金は、「新たな時代の外交と国際交流の新たな役割」という報告書をまとめました。そこでは、「世界世論」が国際社会の意思決定過程に強い影響力を持ち始めており、日本もこうした「世界世論」形成過程に参画するための方策を考えるべきだという提言が出されています。このために日本は、「言力(ワード・パワー)」を駆使し、日本が持つ普遍的な価値観を国際社会に提示し、国際的な課題解決に向けた努力を各国と行なっていくべきだという内容です。

この報告書の指摘は、今の時代、更に有効になってきたと思います。たとえば今年の世界経済フォーラム(※語句説明11)では、世界的な投資家であるジョージ・ソロスさんが金融機関の規制についてオバマ大統領の政策をサポートする発言をしました。この発言は全世界のメディアで報道され、この結果、世界経済における大きなリスクの要因の一つとなっている投機的な金融取引を国際的に規制する必要があるという国際世論が形成され、主要先進国における金融規制の取り組みに対する追い風になりました。同じことが気候変動問題にも言えます。以前には、気候変動問題の科学的根拠を疑問視する議論がありましたが、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)を中心に国際社会で論議が積み重ねられた結果、いまや気候変動問題は国際社会が持つ共通の課題であるという合意に達しました。このような合意は国や政府だけがコントロールできるものではなく、様々なステークホルダーが参加してはじめて形成されていくものです。そこに関わっていくには、国際交流や知的交流などのツールを使って自分のメッセージを発信し、まわりを説得していく必要があります。政治や経済を中心とした外交は今後も続いていきますが、これからは政策的な課題として、国際交流やパブリック・ディプロマシーがもっと重要になり更に洗練されていくと思います。

今後、国際協力という枠組みの中で文化交流を続けていくためには、何が必要だと思われますか。

グローバル化が進展した現在では、もはや「交流」と「協力」を分けるという考え方は有効性を失っていると思います。たとえば、開発の担い手育成は重要な課題ですが、このために彼らを自国に招聘すればこれは次世代リーダー交流になります。あるいは、この課題解決に向けた政策提言を行なうために研究者や実務家による共同プロジェクトを形成すれば、それは知的交流です。現在のように、国際機関、政府機関、大学、シンクタンク、NGO、企業などの様々なアクターが国際社会の特定の課題の解決のために協力している時代においては、交流と協力を分けて考えることはできません。

国連もまさにこうした時代の変化を体現していると思います。国連は原則として主権国家が構成メンバーです。このため、意思決定が遅い、有効性がないなどと悪口を言われることもあります。しかし、国連の最大の役割は、国際社会が共通課題として対処すべき問題を提示し、この解決に向けて多様なステークホルダーが議論・交渉していく場を提供する機能だと思います。国連は早い段階から、各国政府だけでなく、国際機関、NGO、研究機関とのネットワークを形成してきました。近年は、グローバル・コンパクト(※語句説明12)を通じて企業との協力を広げつつあります。このように、国連自身も、交流と協力を統合した、多様なステークホルダーの対話と協働の場へと変容しつつあるのではないでしょうか。

国際交流は、直接的に開発協力に携わるわけではありませんが、多様なステークホルダー間の対話を促進し、課題解決に向けた政策提言を行ない、さらに、交流を通じて、このような課題の解決に向けた国際世論を形成していくという形で、国際協力・開発分野と相互補完的な関係を持つことができます。国際交流基金は、主として日米センター事業を通じて、気候変動問題、難民問題、民族紛争、エネルギー問題など、様々な課題の解決に向けた知的交流事業を支援してきています。今後は、国連などでの議論を念頭に置きつつ、さらに、研究機関のみならず、NGOや企業などの多様なステークホルダーを巻き込んだプロジェクトを開発していく必要があると思います。

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【語句説明】

  1. 国際交流基金
    国際交流基金は、外務省所管の特殊法人として1972年に設立され、2003年に独立行政法人となった。文化・芸術の交流、海外での日本語教育および日本研究、知的交流の3つに重点を置き、国際相互理解を深めるとともに、文化交流活動を通じて世界の文化の向上および人類の福祉に貢献することを目指している。
    参考:http://www.jpf.go.jp/j/ (日本語)
  2. フルブライト・プログラム
    フルブライト・プログラム(Fulbright Program)は、1946年に当時のアメリカ合衆国上院議員だった J・ウィリアム・フルブライトによって世界各国の相互理解を深める目的で設立された。アメリカ合衆国の研究者、各種専門家、大学院生、学者、教育者を対象とした国際交換プログラムと奨学金制度(フルブライト奨学金, Fulbright Fellowships and Fulbright Scholarships)の総称である。
    参考:http://www.fulbright.jp/ (日本語)
  3. 日米センター
    英語名はThe Center for Global Partnership(CGP)。日米がグローバルなパートナーとして国際社会に貢献することを目的として、1991年に国際交流基金の一部として設立された。CGPは地球規模の安全保障や世界の安定性などを含む様々なグローバル・アジェンダの解決に取り組んでいる。
    参考:http://www.jpf.go.jp/cgp/ (日本語)
  4. 日米協会
    日米両国の友好を深め、より良い相互理解を目指した民間の非営利団体。アメリカにおいては全国32都市で40以上もの日米協会がある。日本での日米協会は、最初のものが1917年に東京で創立されたほか、全国に30箇所の協会がある。経済、教育、文化面での日米両国のより良い理解のために、それぞれ多様性のあるプログラムを企画、運営している。
    参考:http://www.us-japan.org/about/whoweare.html (英語;アメリカにおける日米協会)
    http://www.ajstokyo.org/ajs_j/about_us-j.html (日本語;日本における日米協会)
  5. アチェの民族独立運動
    アチェ州はインドネシア、スマトラ島の北端に位置し、中心都市はバンダアチェで、熱心なイスラム教徒が多い。20世紀初頭までオランダの植民地支配に激しく抵抗した歴史を持つ。インドネシア独立後、政府による北スマトラ州への併合に対し反乱を起こした。1959年、特別区の地位を得たものの、独立運動は1962年まで続く。スハルト大統領による政権は80年代から90年代にかけて独立派の武装ゲリラを弾圧し、深刻な人権問題を引き起こした。
    参考:http://www.indonesia-ottawa.org/current_issues/aceh/aceh_peace/files/MoU%20RI%20GAM.pdf (英語)
  6. ハリケーン・カトリーナ
    2005年8月末に発生し、米国南部を襲ったハリケーン。米国史上最大級の自然災害とされる。堤防が決壊して市の8割が浸水したニューオーリンズ市を中心に、1400人以上が死亡、100万人以上が避難した。
    参考:http://www.un.org/works/sub3.asp?lang=en&id=15 (英語)
  7. 経済危機
    サブプライムローン問題を発端に、2007年のアメリカの住宅バブル崩壊から派生した国際的な金融危機。
    参考:http://www.un.org/News/Press/docs/2008/note6186.doc.htm (英語)
  8. ハイチ地震
    2010年1月12日にハイチ共和国に起きたマグニチュード(M)7.0の地震。単一の地震災害としては、2004年に死者・行方不明者22万人以上を出したスマトラ沖地震に迫った。
    参考:http://www.un.org/News/dh/infocus/haiti/haiti_quake_update.shtml (英語)
  9. ツイッター
    ソーシャル・ネットワーキング・サービスと呼ばれる、インターネットを使った社会ネットワークの一種で、ユーザーが140字以内の「ツイート(つぶやき)」を投稿することで、他人との交流が広がっていく。2006年にアメリカでサービスが開始し、2008年から日本語での利用が可能になった。2009年6月時点では日本国内からアクセスしているユーザーが320万人。著名人の広報戦略やコミュニケーションの一環としても使用され、2010年1月からは鳩山由紀夫総理大臣も公式に使っている。
    参考:http://twitter.com/ (英語)
  10. アキュメン・ファンド
    貧困などの国際問題を解決するために2001年に設立された非営利団体。ベンチャー起業のモデルに基づき、助成金ではなく、ローンを使った投資をし、保健、水、エネルギーなどの重要なサービスや物品を提供する。
    参考:http://www.acumenfund.org/ (英語)
  11. 世界経済フォーラム
    スイスのジュネーヴに本部を置く、国際的な非営利財団。毎年1月に同国のダボスで開催される総会には、世界各国から政治家、学者、投資家、ジャーナリストなどが集まる。元はヨーロッパを中心とした経営者フォーラムであったが、今では中国で毎年総会を開催したり、次世代リーダーを育てるコミュニティを構築するなど、さまざまな活動を行なっている。
    参考:http://www.weforum.org/ (英語)
  12. グローバル・コンパクト
    グローバル・コンパクト(GC)は、各企業が国連と協力して責任ある創造的なリーダーシップを働かせ、持続可能な成長を目指し、世界的な枠組み作りに参加する取り組み。GCに署名している企業は、人権保護、不当労働追放、環境への対応、そして腐敗防止に関する企業の社会的責任(CSR)の基本原則10項目に共鳴するコミットメントのもとに、その実現に向けて努力を続けている。
    参考:http://www.ungcjn.org/aboutgc/glo_01.html (日本語)

2010年2月8日、ニューヨークにて収録
聞き手:岡崎詩織、コロンビア大学国際公共政策大学院・ジャーナリズム大学院、植村亜希子、Harry Winston Inc.、志村洋子、国連日本政府代表部インターン
写真:志村
ウェブ掲載:岡崎
担当:岡崎、桐谷、植村、志村、松本、土田
2010年5月29日掲載