第124回 妹尾 靖子さん 国連広報センター
プロフィール
妹尾靖子(せのお・やすこ):津田塾大学卒業、テキサス州立大学オースティン校中東研究所修士。 1988年国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)で渉外・広報官として勤務。その後、1992年より国連薬物統制計画(UNDCP、現在UNODC)で渉外・広報官を務める。1994年 国連モザンビーク活動 (ONUMOZ)国際選挙監視員として参加の後、1995年 国連広報センターの広報官に就任。現在、国連広報センター所長代理。
Q. 国連を目指したきっかけを教えてください
直接のきっかけはアメリカの大学院で中東研究所にいて、その時に中東のどこかに行きたいという想いが漠然とあったこと、そして学んでいたアラビア語を活用したいと思ったことでした。修士論文ではパレスチナ問題を取り上げ、資料を収集する際に、パレスチナ難民を支援している国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)という機関があるということを知りました。勇気を出して手紙で資料を求めたところ、パッケージが送られてきました。返信があるなんて期待していなかったので非常に感銘を受けたことを覚えています。そこから私と国連との付き合いがスタートしたんです。それまでは国連に入って働くということは視野に入っていなかったのですが、それをきっかけに国連というよりもこのUNRWAに入りたいと思うようになりました。
修士論文を書き終えて日本に帰る前に、友人からJPOという制度があることを聞き、日本に戻ってから試験を受けました。志望先の機関名を書くのですが、第一志望のUNRWA以外何を書けばいいかわからなかったんです。ただ、これまで勉強してきたことを活かせる機関に入り、現地に行ってアラビア語も活用したいと思いました。
Q. 中東に興味を持たれたきっかけは何ですか?
中学生の時に父親と古本屋に行ったんですね。その当時はサザエさんの漫画本が好きでそれを買ってもらいたかったんですが、そこで気になる本を発見したんです。タイトルは忘れましたが、パレスチナの紛争について書かれていました。宗教も日本と異なる地域があるということを知り、それがずっと頭の片隅にありました。そして大学で国際関係を専攻し、中東の研究をしている先生の下で学びながら、中東への関心を高めました。
Q. アラビア語も話せるのですか?
アメリカにいるときにアラビア語を学んだのですが、日本語に非常に似ているんじゃないか、もしかしたら日本人が発音する方がアメリカ人の巻き舌よりもうまく聞こえるんじゃないかと思いました。英語で行われる普段の授業に関しては苦労もありましたが、アラビア語を学ぶのはアメリカ人学生たちと同じゼロからのスタートだったので、がんばれば何とかなるという思いがありました。
Q. 実際に中東に行かれた経験はありますか?
JPOに受かって希望通りUNRWAに入れたんですが、当時UNRWAと日本政府との間にJPO派遣の契約ができていなかったので、配属まで8か月待たされ、もう無理かなと思っていた頃に派遣が決まりました。UNRWAの実際の活動場所は中東にある5つの地域の難民キャンプで、そこでクリニックや学校の運営活動をしています。当然私は中東に行けると思っていたのですが、当時はオーストリアのウィーンに本部があったため、そこで働くことになりました。
その当時レバノンでは国連職員の誘拐事件があり、解放に向けての交渉や情報収集などで職員の方は忙しくされていたので、誰も私を気にかけてくれず、ショックを受けた覚えもありますね。無事に職員が解放された後、私は広報と渉外の担当だったのですが、1か月くらいは現場を見てこいということで、ガザ、エルサレム、ヨルダン、シリア、エジプトに行きました。エジプトにはUNESCOとUNRWAの共同オフィスがあって、そこで教科書の選定をしているんですけど、そこにも行きました。
その後は、本部から中東に行くことが何か月かに1回程度あり、ジャーナリストを連れて難民キャンプを訪れて説明をしたり、また欧州の議員の視察についていくなど、本部と中東を行ったり来たりしていました。
Q. 中東というと治安が良くないというイメージがあるのですが、そのことについて考えることはありましたか?
国連の車に乗っている限り危険ということはあまりありませんが、ジャーナリストの視察同行でタクシーを使用するときなどに少し危険を感じたことはあります。またそうした人たちから紛争の現場写真を撮りたいという要求がある時に、現場で催涙弾を受けたりイスラエルの兵士に注意を受けたりなど、常に安全を気にしなければいけないな、というのはありました。しかし、それ以上の危険な状況というのはありませんでしたよ。でもやはり文化が違いますから、例えば朝早く起きて健康のためにジョギングをしようと思っても、女性ひとりで行動するというのは変な感じで見られるんです。そのへんの考慮は必要ですよね。
Q. 文化の違いで困ったことはありましたか?
パレスチナの人たちは欧米人に比べて普段からアジア人をあまり見かけないらしく、関心を持って色々と聞いてきました。パレスチナ人にとって日本人は受け入れ易いようでもありました。黒髪が珍しがられて触りにくる人もいました。困ったことといえば、夕食に招かれた際に、生活が裕福ではないのに家畜を提供してごちそうしてくれたりと、手厚く歓待してくれたことですかね。
Q. これまでの活動で困難だったことはありますか?
パレスチナはとても困難な状況にあり、人々は60年以上も難民としての不安定な状態で暮らしているので、近い将来の展望というのがなかなか開けないんです。新しい世代になってもずっと難民としての生活が続き、経済状況も良くないので、難民たちの話を聞くと、なぜこのような絶望的な状況で何年も生活できるのかと考えてしまいます。やはり国によって空気の重さは異なるもので、国連側の行動にも制限が設けられますし、そのような厳しい状況下でUNRWAのように長期間活動していると困難に遭遇することもあります。
Q. 仕事と家庭を両立するのは難しくありませんか?
私の場合、日本に勤めていて子育てをしていますが、出張で海外に行くことはあっても、いまのポストでは長期的にということはありませんから困ったことはありません。国連職員が現場で働くときには危険度によって制限があって、例えばガザは家族を連れていくことができません。家族とは常に一緒にいたいという人は苦労されていると思いますが、それでも何か月かに1度は会いに戻ることができるようなシステムが国連にはあるのです。しかし、そうしたところにはやはり独身者が行くことが多く、私もウィーンにいたときは独身でしたからそうした職員の一人でした。
Q. 現在のお仕事と中東とのつながりは何かありますか?
現在は直接現地に行くことはありませんが、私が最初に入ったUNRWAが昨年2009年に60周年を迎え、そしてパレスチナ人民連帯国際デー(11月29日)もありましたので、日本でもワークショップを行うなど、現在もつながりはあります。やはり国連が取り組む課題の中でもパレスチナ問題は私の原点であり、最初に自分が志したものというのはいつまでも心に残るので、何らかの形で携わることができるのは光栄です。将来的には、子どもが大きくなればまた外に行きたいですけど、家庭があるので自分の希望だけでは決められないところもあります。
Q. 女性にとって結婚を視野に入れて活動するとなると国連で働くというのは難しいのではないでしょうか?
本部もフィールドも同じだと思いますが、出会いの場は多いので、独身の方が楽しいことは多いんじゃないかなと思います。JPOでウィーンへ行った時も、国連関連諸機関の集いは頻繁にありましたし、スキーやダンスなどのクラブ活動もあって、そのような場で出会う職員も中にはいますよ。フィールドに行けば、朝から晩まで共に活動する時間が増えるわけですから、さらにお互いをじっくり知り合う機会になるので、割と若い人たちは仲良くしている方が多いですね。なので、若い人にとっては不安というよりは、むしろ多くのことをお互いから学びながら刺激を受けるという期待の方が大きいような気がします。私も当時は日本人に限らず多国籍の同年代の人と行動することが多かったので、充実した生活を送ることができました。
Q. JPOから正規職員になるために何か活動はしましたか?
基本的に国連というのは自分から空席ポストに応募しなければならないので、JPOから正職員になるにはうかうかしてはいられませんでしたし、実際非常に苦労しました。ただ、私の場合は少し特殊で、3年目までJPOでいることができたので、最初の2年間はまず仕事に慣れ、フィールドに行くようにしていました。そのうち休暇を使いヨーロッパやニューヨークにある国連機関へ行き、先輩や国連代表部の人事担当者から話を伺ったり、挨拶に行ったりもしました。しかしどの機関でも常に空席があり応募できるということはなく、とにかくJPOが終わっても次はないので自分から何かしなければ、と2年間は必死な思いでした。そういう状況に追い込まれれば人間どうにかやれるものなんですよ。
Q. 将来、国際機関で働きたいと考えている学生へのアドバイスはありますか?
日本にも就職活動がありますよね。基本的には同じだと思います。自分をある程度売り込むこと、自分には何ができて、自分を雇用してくれた場合にはこういうメリットがあるなど、説得力があることを言うことは英語であれ日本語であれ、どこに行っても必要なスキルだと思います。やる気があり、組織のために一生懸命やりますというアピールと、具体的に何ができるかということを訴えることが大切です。日本人にはあまり慣れないことですけど、みなさん国内の就職活動ではやっているのでしょうから、国際機関のインタビューであればなおさら堂々と、そしてはっきりと、自信を持って自分を押すのが好まれると思います。
2009年11月20日、東京
聞き手:中本優太、與古田葵、山崎友紀, 中村哲
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:宮脇麻奈
ウェブ掲載:渡辺哲也