第13回 税田 芳三さん 国連難民高等弁務官事務所 ジュネーブ本部拠出国関係部 上級関係調整官
プロフィール
税田芳三(さいたよしみ):宮崎県生まれ。上智大学卒。オックスフォード大学、自然災害及び戦争災害に関するマネジメント・コースを終了。1980年、JVC(日本国際ボランティア・センター)東京初代総括、1983年、JVCソマリア代表を歴任し、1986年、UNHCR入局。ソマリア、スリランカ、カンボジア、旧ユーゴスラビア等での勤務を経て、2003年3月より現職。
Q.国連で勤務することになったきっかけを教えて下さい。
大学時代、インド、ネパール、東南アジア諸国を2年間放浪しました。その旅で実際に目にした貧困の格差に驚き、人間は生まれながらにして平等ではない、日本人として生まれた以上、何かすべきことがあるのではないかと思い知らされました。それが僕の出発点だったと思います。
1979年、150万人のカンボジア難民が周辺国に流出した頃、旅を終えて日本に帰国しました。「難民」というまだ聞き慣れない言葉が日本の新聞紙上に現れ始めた頃です。自分の中に、「このままでいいのか」という疑問が芽生え、1980年2月、「何かをしたい」という情熱だけを頼りにタイに飛びました。その頃はまだUNHCRの存在すら知りませんでしたね。タイにやって来た学生を中心とする若者とバンコクで社会福祉活動に参加されていた主婦の方々が結びついて難民のためのボランティア団体(現:JVC 日本国際ボランティア・センター)を立ち上げました。愉快な仲間達との出会いや底知れぬ市民パワーに支えられて難民支援活動を続けていきましたが、インドシナ難民の問題が終結すると同時に 、日本人の難民に対する熱が冷めていくのを実感しました。その頃ケニアの飢餓民の問題があり、アフリカに駒を進めたかったのですが、支援者の方の中には「ベトナム戦争に加担した罪悪感があったからインドシナ難民支援に協力したのです。アフリカなんてとんでもない。第一、日本と何の関係も無いじゃないですか」という声も多く、打ちのめされる思いになったことを今でも覚えています。「人道支援」という概念は、ごく最近のものだと思います。
1983年、JVCはエチオピアのオガデン地方から逃げてきたソマリア難民を対象とした「農業に根ざした定住計画」を実施することになり、そのプロジェクト・リーダーとして3年間ソマリアに赴任しました。85年「We are the world」が巷で歌われていた頃、日本の国連大使がジュネーブからUNHCRの執行委員会の議長の立場で視察に来られ、国連で働く事を薦めて下さったことがUNHCRで働くきっかけとなりました。NGOとは違った視点で難民を見る良い機会になると思いましたし、なにせこの分野の現場で働く日本人はまだ数えるくらいしかいなかったので、やりがいがあると思いました。初めての赴任地は、経験を買われて再びソマリアということになり、ソマリア北部、第2の都市、ハルゲイサに行きました。都市と言っても電気もガスも水も無いところで、ロバが運んでくるドラム缶から飲み水を買っていました。
Q.国連で働く魅力はなんでしょうか。
一番の魅力は、UNHCRの仕事は現場重視で、難民と呼ばれる「人」を対象にしているということですね。難民キャンプでは、治安の維持管理、土地の確保、キャンプの設営に始まり、食糧から教育まで、人々の生活を支える要素を全て担当します。村の村長さんのような役割ですね。こういった現場で、難民の声を聞き、やらなければならないことを、同僚達と協力して即実践する。緊急事態の現場ではいつも自分の体力と精神力の限界点に近いところで仕事をします。そういう、オペレーションを達成した時の充実感が、今の僕の原動力になっているのではないでしょうか。ある意味、中毒かもしれませんね。
また、国籍を問わず、同じような考え方を持つ仲間と出会えて、現場で一緒に働けるというのも大きな魅力です。どんなに離れていても、再会した時に、肩を叩き合ってお互いが一瞬で分かりあえる同僚がいるというのは、僕にとってはまさに「財産」です。そういう職場は少ないのでは、と思います。
あまり知られていませんが、国連では、日本の官庁とは違って「辞令」は出ません。常に自分を売り込んで、ポストに申請していきます。自分でキャリアを切り開いていけるということも、国連で働くことの醍醐味ではないでしょうか。
Q.これまで一番印象に残ったのはどんなお仕事でしょうか。
コソボ危機の時のモンテネグロ、9・11事件の後のパキスタンと色々ありますが、15年前のカンボジアでの仕事が一番思い出に残っています。2002年にバクダッド国連本部を襲った自爆テロによって亡くなった当時の上司、セルジオ・ビエイラ・デメロ氏を始め、素晴らしい同僚に恵まれました。セルジオは、現場の声を聞き、それを全体の政策に反映する能力は本当に長けていましたね。あの事件さえなければ、次期国連事務総長になれる人だと信じていました。
カンボジアでは、タイからの37万人の難民の本国帰還(Repatriation)を担当しました。大規模な本国帰還としては初めての成功例ではないでしょうか。 もう会えないだろうと諦めていた家族との感動の再会の場に日々居あわせることが出来たことが、何よりの思い出です。再会の喜びのエネルギーこそ、国が復興していく過程で大きな原動力になるだろうと感じましたね。
1979年、タイに避難してきたカンボジア難民との出会いが、元々難民を知ることになったきっかけでしたから、彼らの本国帰還という仕事は、まさにそのきっかけに戻るものでした。ですから、カンボジアでの仕事が終わったとき、正直「これで僕の仕事は終わった。何か他の事を探そう」とすら思いましたよ。
Q.では逆に国連に入って一番つらかったお仕事はなんでしょうか。
スリランカ北部、タミール地区での仕事です。1988年当時、インドに避難していたスリランカ難民の本国帰還と、破壊された住宅の再建設や職業訓練を担当していました。砲弾が飛んでくるような状況下に、生まれたばかりの息子も連れて赴任しました。当時は Non-family Duty Station と言う、赴任地のカテゴリー分けは無かったのです。コロンボから北部の現場へは軍用ヘリコプターを使って移動していました。何が一番辛かったかといえば、そのような悲惨な状況下に、政治的なプレッシャーで、インドから難民が帰って来ざるを得ないという現実と、それを止めることができない国連の無力さの渦中に居たことです。 国連の無力さは直接自分の無力感に繋がりました。これでいいのだろうかと、自問自答を繰り返し、罪の意識に苛まれ、その時にUNHCRを一度辞職しました。
Q.現在はどのようなお仕事をなさっているのでしょうか。
今は、ジュネーブ本部で資金拠出国との折衝に携わり、アジアの拠出国を担当しています。各国の貢献には、テントや毛布などの現物支給も含まれますし、資金調達のほかにも、拠出国に対する報告書提出や情報交換、政治的な介入を依頼するときもあります。
時には、拠出金に反映されないような情報をまとめて、他国に伝えたりもします。例えば、タイには、ミャンマーから避難してきている難民が多数いますが、難民条約に加盟していないタイ政府は難民の受け入れに伴う負担を国家予算内で賄っています。実際には負担をしていても、UNHCRに対する拠出金としては目に見えないのです。今年の初め、ミャンマーから来ている子どもたちにもタイの小学校が門戸を開いたことなどは、数字には表れませんが、もっと広く知られてもいい、良いニュースだと思います。
Q.国連で日本ができる貢献についてはどうお考えでしょうか。
今やっている仕事の関係からいうと、どんなに国内の財政状況が厳しくても、日本政府には拠出金を減らさないで欲しいですよね。僕の仕事の評価も下がってしまいます(笑)。拠出金を減らすのであれば、誤解を生じさせないための、きちんとした説明が必要だと思います。UNHCRの場合、98%が任意拠出に頼っている訳ですが、残念ながら日本からの拠出金は今年、昨年に比べて30%近く減ってしまいました。緒方さんが高等弁務官になられる以前に戻ったという感じです。「難民数が減少したから拠出金を減らす」という論理もあるようですが、UNHCRは難民以外にも、本国に帰った後の帰還民や国内避難民も支援しており、その受益対象者総数はここ10年間ほとんど変化していません。そのような状況を日本政府にもっと理解していただきたいです。
日本のNGOはゆっくりとですが、着実に伸びてきています。例えば、3年前までは7つのNGOが UNHCRのパートナーとして、11のプロジェクトを展開していて、UNHCRから供与された予算は約4億円でしたが、今年は9団体、19のプロジェクトに対して、12か国で11億円もの予算を取ってきています。NGOの活躍は、世間にアピールし易いですし、実際どれくらい日本が国際化しているかを計るバロメーターでもあると思っています。現場で僕らと一緒に働いてくれる日本のNGOが今後、質的にも、数の上でも増えていくことを期待しています。
資金面では政府からだけでなく、これからは企業や団体といった民間からの資金提供も増やしていかねばなりません。最近、CSR(Corporate Social Responsibility―企業が社会の中で果たすべき責任―)という言葉が企業の中でも定着し始めました。UNHCRの場合、昨年は6億円分の物品調達を日本で行っています。そのほとんどが車の購入費なのですが、事実としてあまり知られていませんね。今年は富士メガネの金井さんがナンセン賞を受賞された輝かしい年です。こういうことをきっかけに、もっと日本の企業にも難民事業への理解を深めて頂きたいです。
ユニセフと言うと「子ども、予防接種、飲み水」、WFPと言えば「食糧」と、身近な生活に照らし合わせて何をしているのか一般に説明し易いですよね。ところが、UNHCRと言うと「難民」。「人間の保護」を援助の対象にしているので分かり辛い上に、しばしば悲壮感が漂っています。日本では見たくない、聞きたくない、という人も多い。その人たちに、難民キャンプ設営のための土地の確保や治安維持に始まり、生活必需品の配布や水の供給、教育に至るまで多岐に亘るUNHCRの活動を説明するのは容易なことではありません。でも、伝えていかねばならないし日本社会もそれに応えていかねばならない。今後、UNHCRとUNHCRの広報や募金活動をして下さっている「日本UNHCR協会」との連携は益々重要なものになってくると思います。
また、国際化が進む中で、「難民の受け入れ」という大きな課題もあります。政府は、日本国内への難民の受け入れに対して、もっと積極的に門戸を開いていくべきで、せめて小さな規模のもので良いですからResettlement Programme (難民のための再定住計画)を真剣に考慮して頂きたいと思います。その時に、マスコミが果たす役割も重要です。
Q.これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。
JPO に応募可能な年齢制限も35歳までに上がりましたし時間はあります。それまでに、色々なことを経験してください。自分の中にあるテーマを突き詰めていった結果、その実践の場が国連であれば、是非国連を目指して欲しいです。何歳になっても国連には入れます。ただ、国連に入ることを目的にして欲しくはないですね。勉強は机の上で終わるものではありません。学問は「人」のためにあると思います。だから、まずは自分が何をしたいのかよく考えてください。焦る必要はないと思います。
次に大切なことは言葉でしょうか。僕自身、英語がNative並に分かる人間ではないので、情報を入手するのに苦労します。僕がイギリス人やフランス人だったらなあ、と何度思ったことか。なので、勉強できるうちに言葉はしっかりと身に付けて下さい。また、現場重視のUNHCRでは、現場で即戦力になれる人材が好まれるということもあります。中国人の若手をリクルートした時に、元トラックの運転手という経歴をもった法律家が優先的に採用されたこともありました。
生活面では、UNHCRはなかなか辛いです。Non-family Duty Station(家族を一緒に連れて行けない赴任地)の比率が全体のポストの約60%を占めていますからね。人道のことをやっている人間が、自分の身近にいる家族を大事に出来ないという葛藤があります。UNHCRは定期的なローテーションがあり、一つの赴任地に平均3年います。ですから、30歳でUNHCRに入った場合は、定年までに最低10カ国は回ることになります。若いうちは身軽ですが、家族を持つようになると段々身動きが取れなくなっていきます。これからUNHCRを目指す人には、人生計画の視点も忘れないでほしいです。色々な現場を転々とするのは、魅力でもありますが、辛さでもありますね。
僕を含めて国連職員は、日本の外で経験したことを日本社会に還元していく努力をしていかねばならない、と最近切に感じています。開発教育のプログラムに僕らを組み込んでもらって、小学校や中学校といった学校教育の場などで、もっと若い世代の人たちに難民の声を伝える機会が増えれば嬉しいですね。
(2006年8月15日、聞き手:小川雅代、ジョージタウン大学外交学部修士課程所属。写真:北村聡子、弁護士。幹事会・人権グループ)
2006年10月9日掲載