第157回 高須直子さん 国連開発計画(UNDP)駐日代表事務所プログラム・マネージメント・スペシャリスト

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プロフィール

高須直子(たかす・なおこ):神奈川県横浜市出身。神田外語大学英米語学科卒業後、株式会社日本国際協力機構(JAIDO)勤務。世界銀行グループ国際金融公社(IFC)への出向を経てアジア経営大学院にて開発マネージメント修士号取得。その後JPO試験に合格しUNDPパキスタン事務所にて貧困削減に携わる。JPOの任期終了の後、帰国直後にパキスタン地震が起こり、支援のため被災地へ。災害直後のパキスタンでUNVの活動をゼロから立ち上げる。その後UNDPイラク事務所勤務を経て現職。

Q. 国連開発計画駐日代表事務所でのお仕事についてお聞かせください。

日本政府と国連開発計画(UNDP)の戦略的なパートナーシップの強化と、資金調達が主な仕事です。わかりやすく言うと「営業」です。日本政府に対して、「国連開発計画」という商品を売り込みます。例えば、フィリピンでの台風被害であれば、UNDPの瓦礫撤去のプロジェクトに資金をくださいと日本政府に売り込む。この他にも「アイディア」や「国連開発計画という組織や仕事の内容」も売り込みます。

私が着任してから再開されたものですが、毎年秋に日本政府と戦略政策対話の場を設けています。ニューヨークのUNDP本部からは10名ほど来日し、外務省の各部局の方達と対話をします。大体1日から1日半で、日本とUNDPでお互いに重要と認識している課題の検討と、今後1年間どういう点で協力体制を強化していくかといった方針を話し合い、行動計画を作成します。連携協定を結んでいるJICAとも同様の定期協議を実施しています。

議題には毎回必ず、ミレニアム開発目標(MDGs)、ポストMDGs(2015年以降の国際開発目標)や防災などの国連開発計画が強みを持つ分野であり、同時に日本政府も重要と考えている分野があがりますが、特に2013年は小島嶼国や中央アジア支援を議題に織り込みました。近年日本政府にはアフガニスタンにかなり支援をしていただいているのですが、周辺国の中央アジア全体の支援もしていだだきたいと売り込みました。

とにかくUNDPの日本との関係はすべてやる、「企画・営業」ですね。職場のチームには1名広報官がおり、彼は「民」を担当し、私は「官」を担当しています。つまり、全世界、全分野、私が担当しています。

幅広く仕事をしており、先週はミャンマー事務所長が来日したのでミャンマー漬けでしたし、直後の金曜日に防災に関しての会議があったので、防災のことも考えなければなりませんでした。また数週間後にはアラブ局の局長が来日するため、アラブ諸国に関してもフォローしてなければいけません。日々勉強が追いつかず、自転車操業です(笑)。そのため、基本的に平日は夜遅く、夜10時、11時まで仕事をしていることはよくあります。色々な地域の課題をすべて考えなければならないのは大変ですが、世界中の同僚とのやりとりをし、ある国での日本との成功事例を他の国に紹介したり、日本とパートナーシップ強化のための施策を考えたりするのは、面白い仕事です。

Q. 大学卒業後すぐに国際協力の仕事を選ばれていますが、学生の頃から国際協力にご関心があったのですか?

高校生の時に進路を決める際、何か国際的な仕事がしたいと思い、漠然と国際機関に就職したいと考えていました。当時は国際機関といえば国連しか知らなかったので、国連で働きたいなと思いました。そこでとりあえず英語くらいは話せないと、と思い神田外国語大学の英米語学科に進学しました。大学へ進学すると、周囲には高校時代に留学をしていた学生が多く、自分も早く英語を話せるようになりたいという思いで夏休みの1か月間ニューヨークへ語学研修に行きました。私にとって二十歳で初めての海外でした。

これがまったくの偶然なのですが、語学研修の時に書いたレポートのテーマが「国連開発計画について」でした。そこから実際に国連開発計画に入るまでは紆余曲折ありますが、あの時から何か呼ばれるものがあったのかもしれません。ただその時、クラスメートは一体国連に何ができるんだ、と冷めた見方をしていて、私自身何も知らず、考えずに、ただ漠然と憧れていたことに気付かされました。

貧困削減に関わる仕事がしたいと思うようになったのは、大学4年生になる前の春休みに一人でインドへ行ったことが大きかったと思います。マザーテレサの家に行き、そこでヨーロッパからのボランティアの人たちを見ながら、自分は単なる旅行者でしかなく何もできないという事実にショックを受けました。今でも覚えていますが、マザーテレサの家から帰る時に歩きながら泣いていました。無力感を感じると同時にやっぱり自分で何かやりたいという気持ちが強くなりました。

とはいっても途上国でいきなり何かできるわけではないので、帰国後、母の紹介で、横浜の寿町で日雇い労働者の方たちのために炊き出しのボランティアを月一度することにしました。「インドでできなかったから、日本で何かやらなきゃ」という気持ちがあり、貧困削減や格差の是正という仕事に関わりたいと思うようになりました。その後、学校の掲示板で株式会社日本国際協力機構の募集の知らせを見て、学校推薦を受け一般職として就職することになりました。

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Q. 日本国際協力機構に就職されて3年目で米ワシントンDCの国際金融公社に行かれていますが、きっかけは何ですか?

入社して、主にサウジアラビアに投資をする中東チームに配属になりました。大企業からの出向者で50代くらいの男性が6名ほどいるチームに私一人女性がぽんと入って、出張の手配や書類作成など彼らの業務のサポートを行いました。ただいつか総合職になりたいと考えていたので、自分の120%の力を出してとにかくがんばりました。

金融の仕事でしたので、簿記の資格を取得したり、時間がある時は本を読んで勉強したりしていました。これもまた不思議なのですが、私がのちに行くことになる国際金融公社(IFC)について書かれた本がたまたま会社にあったので、どういう仕事をしているのか読んで勉強をしていたのです。

当時の社長の方針で、年に2名の若手が選ばれて、男性は途上国へ、女性は先進国へ1年間研修に行かせていただいていました。3年目の私がなぜ機会を得たかというと、1つ上の一般職の先輩が一般職として初めて海外研修に行きなさいと勧めを受けていましたが、その方が断ったため私に話が舞い込んで来たのです。

当時まだ25歳で、金融のことも経済のこともわからず、本来であれば不安を感じるところだったかもしれませんが、その時はただ「やった」と大喜びしていました。IFCでは9か月働き、帰国後、IFCの経験を活かして元の会社に戻り、晴れて総合職として金融の仕事をすることになりました。

Q.国際金融公社で印象に残ったお仕事は何ですか?

一番思い入れがあるのは、ラオスのホテルの改築のための融資です。国際金融公社はそれまでラオスに投資をしたことがなく、初めての案件を任せてもらえることになりチャンスだと思いました。

同国の他のホテルをまわり、値段設定や稼働率などの市場調査やリスク評価、そして財務モデルを使った収益分析まで初めて一人で取り組みました。さらに審査のための書類を作成し、それを審査会にかけ融資の決定まで見届けることができました。実は、国際金融公社に入った当初は財務モデルも作ったことがなかったので、まったく何もできずに最初は上司に呆れられました。

あまりにも悔しいので、仕事の後で財務の勉強をしたり、同僚に教えを請い財務モデルの基礎を勉強しました。だからラオスの案件ができたことで自信に繋がりました。

Q.国際金融公社での経験から大学院へ進学しようと思われたのですか?

そうですね。国際金融公社では同僚達が経営学修士(MBA)を持っていたので自然に思いました。またこの時に、女性でも男性でも年齢や肩書きにとらわれず自由に意見を言えるといった国際機関で働く面白さというものを感じました。国際機関で働くには修士号が必要で、国際金融公社に戻ってきたいという思いもありMBAを目指しました。

ただ、お給料を払って研修に行かせてくれた日本の職場には、その知識を使って貢献したいと思い、大学院を受ける準備をしながら4年間働き、その後大学院に進学しました。

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Q.先進国のMBAへ進学する方が多いなかで、なぜフィリピンにあるアジア経営大学院を選ばれたのですか?

実はアメリカのMBAは3校受けて全部落ちてしまいました。そこで本当にやりたいことは何だろうと原点に戻って考えた結果、開発なんじゃないかと思いました。まだ迷いがあったので、イギリスのMBAとフィリピンの開発の大学院へ出願し両方に合格しました。これでどちらを選ぶかで私の人生はすごく変わるだろうと思いましたね。そこでフィリピンを選んだ理由は、やっぱり自分がやりたいのは貧困削減で、現場に近いところで学びたかったのと、フィリピンや他のアジア諸国の人々と自分が「学生」同士という対等な立場でいることで、支援を受ける側の本音が聞けるのではないかと思ったからです。

当時私は今後国際協力で仕事をしていくにあたり、支援を受ける側の本音を聞くことは絶対に必要だと考えていました。彼らの考え方や感じ方を本音で聞いておいて、それを忘れずに仕事をしていくようにしたいと思ったのです。実際、本音の議論を通して、様々な考え方を知ることができました。先進国からの学生が私一人という中で、時には議論が先進国批判になることもありました。先生もフィリピン人なので63対1で、私ひとりがドナー側の発言をしたこともありました。

そうした本音の議論を通して得たものは友人たちです。年齢も国籍もバックグラウンドも多様な人たちがいて、今でもすごく仲が良いです。アジアの13か国に会いにいける友人がいるというのは大学院で得た一番大きな財産ですね。

アジア経営大学を選んだもうひとつの理由は、実はアジア開発銀行に行けるかなと思っていたからでした。ところが、「アジア開発銀行のヤングプロフェッショナルは30歳まで応募が可能で、ミッドキャリアは10年以上のキャリアが必要です」と言われてしまい、当時職歴7年で30歳を超えていた私には応募ができませんでした。

そこで大学院卒業後はJPO*1へ応募しました。ただ大学院進学に貯金を使い果たしてしまっていたため、JPOに合格するまでは国際協力銀行の専門調査員として働きました。その後、貧困削減の仕事でJPOとしてパキスタンへの赴任が決まりました。

Q. 国連開発計画パキスタン事務所にJPOとして着任したときのことを教えてください。

直属の上司やプロジェクトに恵まれずJPOの1年目はすごく大変で、毎日のように、明日辞めようと思った時期があります。7年の職歴があるので、自分ではある程度仕事はできると自負していたのですが、上司や同僚たちは「JPOは大学院を出たばかりで仕事ができない」という先入観を持っており、あまり任せてもらえなかったですね。ですが、めげずにがんばったところ2年目からは楽になりました。課長の出張中に課長代理を務めたときには、特に財務の書類などを見るときは、細部まで見てからアドバイスしていると徐々に周囲から頼られるようになりました。

今から考えると1年目は仕事ができなくてあたりまえで、2年目に少しずつできるようになるものです。実は2年目が終わる頃、外務省から延長の打診を受けていました。その時は、パキスタンは2年で十分と感じていましたので、他の国へ移りたかったのです。しかし当時はそれが駄目だと言われたので帰国することにしました。

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Q. その後再びパキスタンに戻られていますが。

それはもう本当に運命的な偶然なんですね。私の契約の終了は当初は10月8日でしたが、有給をとって5日程前に帰国していました。そうしたら10月8日に8万人近くが亡くなった大地震がパキスタンで起こりました*2。知人も二人亡くしました。一人の方とは、もうすぐ帰任なのでお互い体に気をつけようとメールのやり取りをしていました。私は帰国し、彼は帰国することができなかった。「この差は何だろう」と思いました。また、亡くなった二人はパキスタンがとても好きだった。彼らなら、きっとパキスタンのために復旧・復興に携わるだろう、とも思いました。

まだ次の仕事が決まっていなかったこともあり、私はパキスタンに戻り災害復旧をすると決め、大使館や国連などパキスタン関係者にメールを送りまくりました。当時国連ボランティア計画はパキスタンにはなかったのですが、その前の年のインド洋津波災害で国連ボランティアが活躍していたこともあり、パキスタンの時にもすぐに資金調達が出来て、ボランティアを送る準備はできていました。現地で統括する人を探していて、できればパキスタンと国連開発計画のこともわかる人が欲しいということで、私はその調整役に就任することになりました。

最初は半年のつもりでしたが、災害の規模があまりに大きかったので対応に1年程かかりました。その後も私の後任がなかなか決まらなかったため数か月間任期の更新を繰り返し、体がぼろぼろになりながら最終的には1年10か月パキスタンに滞在しました。

Q. JPO、国連ボランティアと異なる立場でパキスタンでお仕事をされていましたが、違いはありましたか?

JPOの時は職員であっても、責任や権限が限られていました。国連ボランティアの調整役は契約上ボランティア、つまり職員待遇ではありませんが、現場では国連ボランティア計画という組織を代表し、裁量権と責任を与えられました。本当に24時間体制で、50人から60人程のボランティアの方たちの安全の確保を常に考え続けていました。

例えば、夜中の2時に被災地のキャンプ・マネージャーから、降り続いた雨による洪水で二次災害の可能性がある、という電話がかかってきて急遽対応を迫られ、仕事で築いたネットワークを使って国連難民高等弁務官事務所の地域オフィスの所長に連絡をして支援をお願いする、ということもありました。

また、私自身心理学については素人なのですが、ボランティアたちの精神面の健康にも気を配っていました。二次災害の中で通常業務を超えて遺体運びを手伝いトラウマを抱えた倉庫管理担当のボランティアの話を聞くこともあり、自分自身何もできない歯痒さからストレスは相当ありました。またこの間、 A型肝炎にもかかりましたが、ちょうどボランティアを首都に集めてワークショップをやるときだったので、ふらふらしながらファシリテーターをしました。

Q. 何故そのような大変な状況下でお仕事を続けることができたのですか?

やはり、やりがいですね。被災地の人々から「あなたが送ってくれたボランティアのおかげで被災地のキャンプがきれいに整備されて助かるよ」ですとか、国連の方たちからも「ボランティアが活躍して助かる」という言葉をいただくと本当に嬉しくやり甲斐を感じました。また、成果が目に見えました。最初は1人だったボランティアが多い時で60人にまで増えましたし、ボランティアの方が多くのことを学んでゆく様子を見ることで、自分自身も大きく成長できました。

Q.休日はどのように過ごしていますか?

東京では、土曜日に歌のレッスンに行き、日曜日にはギターのレッスンに行っています。ヨガもしています。歌は本当にストレス解消になりますね。あと大事にしているのは、友人と話すことです。私はおいしいお酒とご飯が大好きなので、友人とともに楽しみます。以前赴任していたパキスタンでもヨルダンでも、あまり娯楽が無いので友人宅を行き来しました。

普段、内部の人たちと国連用語で物事を話すのに慣れすぎてしまうと、国連の外で人々が何を考えているのか、何を重要だと思っているのか見えにくくなってしまいます。そういうことを知ることが、仕事をしていく上で大事だと思うので、プライベートではなるべく色々な分野の人と会うようにしています。まったく別の仕事をしている友人たちと会うと色々と気付かされることも多いです。

Q.過去のキャリアの中で、もし別の選択ができたならそちらを選んでいただろうと思うことはありますか?

ないですね。確かに、違う選択をしていたらまったく異なるキャリアを歩んでいたのだろうと思うことはあります。例えば、国連ボランティアとしてパキスタンで仕事をした後、ボンにある本部から仕事のオファーをいただきました。悩みましたが、現場の仕事がしたいという希望があったので、本部からのオファーを断り、国連開発計画のインドネシアのポストに応募しました。結局、落ちてしまいましたがボンに行っていたらまったく違う人生になっていたかもしれません。

その後イラク事務所に決まるまで4か月間仕事が見つかりませんでしたが、後悔はしませんでした。イラク事務所の地雷対策の仕事もやりがいがあり、住んでいたヨルダンで出会った友人たちはかけがえのない人たちですし、ギターという生涯の趣味にも巡り会えたし、本当にイラク事務所に行けて良かったです。人生で分かれ道はたくさんあると思います。不合格通知は沢山もらい、落ち込んだことはあります。でも、あそこでだめだったから、今ここに来たのだと思うようになりました。今は、だめだってことは、もっと良いものが自分には待っていると考える癖が身についています。入試や就職活動で不合格通知をもらった、と落ち込む若い友人にも、「今はつらいかもしれないけど、あの時あそこがだめだったからここに来ることができて良かった、と思える日がくるよ」と言っています。

現在在籍している国連開発計画駐日代表事務所での仕事に就く前にも合格通知をもらえなかった仕事がたくさんあります。「現場から離れて、なんでここに来たのか」と思う時期もありました。ですが、ここに来たから出会えた人たちがいて、携わることができた仕事がある。東日本大震災の後、現場にボランティアに行くことができたのも、日本に勤務していたからこそですし。今の仕事では、自分の苦手だったこともやらなければならなかったのですが、最初の上司に徹底的に鍛えられ、またさすがに4年もやっていると苦手だったことも楽しんでできるようになりました。日本には組織の長である総裁をはじめとして、幹部が頻繁に出張に来ます。こういった方々のハイレベル会合の裏方を務めることは非常に勉強になり、今後のキャリアを考えると、ここにきて良かったと思います。

ひとつあるとしたら結婚ですね。若い女性にキャリアと家庭の両立はと聞かれることもあるのですが、結婚していないので、両立できていません。20代のときは、結婚は30代にすればいいと思い、仕事に邁進していたのですが、30代からは忙しすぎて。20代に、離れていても大丈夫な人、もしくは赴任地に付いてきてくれる結婚相手を探しておけば良かったです(笑)。

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Q. 国連を目指す人へのメッセージをお願いします。

大学や大学院のキャリアセミナーなどでもお話することがあるのですが、国連という組織を目指すのではなく、子どもの教育、難民支援、貧困削減、ジェンダー平等、都市問題の解決など、これがやりたいというものを見つけた方が良いとアドバイスしています。

組織に入ることを目指してしまうと、その組織が合わなかったときにそこで行き止まりになってしまいます。また、競争もとても厳しい世界です。組織が自分に合わなかったり、または合っていても次の仕事が見つからないことがあります。そういうときにやりたいことさえあれば、どこの組織でも何らかのかたちで自分がやりたいことができると思います。なので、そういうものを持っていてほしい。

よく国連に入るには大学でどういうことを勉強すればいいのか、またどういう大学院へ進めばいいのか、といった質問を受けますが、国連に入ることがゴールではないので、自分がしたいこと、興味があることを学んでほしいです。

一方で、国連に入る日本人が増えたら嬉しいという気持ちもあります。向いている人は、あまりこだわらない人というか、前向きな人ですね。今日すごく大変だったけど、明日は良いことがある、という風に前向きに捉えられる人が合っていると思います。私自身、辞めたいと思ったこともありましたが、組織や環境の悪いところばかりに目を向けるのではなく、まだ国連開発計画でやりたいことができる可能性があると考えて仕事を続けることができました。

あとは、異文化の中で仕事をするのが好きな人ですかね。これは私が仕事で一番好きなことでもあります。意見が通るかどうかは別にして、言いたいことが言えるというのも私には合っています。

また開発や人道支援機関は異動が多いので、異動が好きな人には良いと思います。私は新しい環境で、新しい人に出会うのがとても好きなので、私には合っていると思います。

Q. 最後に、座右の銘を教えてください。

「Today is the first day of the rest of my life」です。

大学時代に、NHKのラジオ番組で聞いて書き留めていたのですが、今でも時々自分に言い聞かせています。すごく落ち込んで自分のことが嫌になったとしても、「自分の残りの人生の中で今日が初日で、今日からやり直せばいい」と思うとやる気がなんとなく出てきます。今日から自分が変われば良いと思えることで、これまでも色々なことを乗り越えることができました。

*1:JPO派遣制度:将来的に国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手邦人を対象に、政府が派遣に係る経費を負担することにより、一定期間(原則2年間)各国際機関で職員として勤務し、国際機関の正規職員となるために必要な知識・経験を積む機会を提供する目的を持つ制度。派遣先機関によりJPO(Junior Professional Officer)、AE(Associate Expert)、APO(Associate Professional )と称されることがある。

*2: パキスタン地震:2005年10月8日に発生したパキスタン北東部を震源とするマグニチュード7・6の巨大地震。最終的な死者は約7万5000人、350万人以上が家屋を失った。

2014年4月19日、東京にて収録
聞き手:赤堀由佳、唐澤由佳、花村百合恵、前田実咲
写真:前田実咲、田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫