第156回 吉村麻美さん 国連開発計画(UNDP)プログラム・スペシャリスト (国際保健分野)

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プロフィール

吉村麻美(よしむら・まみ):米ワシントン大学・地理学部卒業。ボリビアでのインターンシップをきっかけに情報科学の仕事に興味を持ち、日本IBMに就職。3年半の勤務の後、カナダのウォータールー大学大学院地理学部に進学。台湾原住民・タイヤル族の観光開発に関する研究に従事。その後一般財団法人民際センターにて、ラオスの小学校建設と図書館事業を担当。2008年のJPO合格を経て、2010年~2012年までUNDPレソト事務所にて勤務(HIVとジェンダー担当)。JPO3年目にNY本部に転勤。2013年より現職。

Q. まず、現在の国連でのお仕事に就かれたきっかけや経緯を教えてください。

最初に発展途上国を意識したのは7歳か8歳くらいの時でした。当時、エチオピアで大飢饉が起こっていました。ある日、国連児童基金(UNICEF)から募金を呼びかけるパンフレットが送られてきたのですが、自分と同じくらいの年齢の子どもたちがやせ細った姿で写っていて、強い衝撃を受けました。日本で何の不自由もなく暮らしている自分と、生きていくのが精一杯のエチオピアの子どもたち。生まれた場所が違うだけで、なぜこんなに境遇の差があるのだろう?もし自分がエチオピアに生まれていたら、逆の立場にいたのかもしれないと思った時、何の迷いもなく募金をしました。大事に貯めていた自分のお小遣いを「貧しい人たちのために使いたい」と思ったのはこれが初めてで、今思えばこれが私の発展途上国に対する最初の思いだったと思います。

子どもの頃、実は画家になりたいと思っていました。高校まで絵画を習っていたので、両親は私が美術の道で生きていくものだと思い込んでいたようです。しかし、私が中学1年の時に、当時父の部下だった小田大善さん(現国連ボランティア(UNV)ニカラグア・コーディネーター、国連職員NOW!第109回にご登場)に出会って、人生ががらりと変わりました。彼は日系三世のペルー人で、私がこれまで見たことも聞いたこともない南米の様々な話をしてくれました。世界にはこんなに知らないことがたくさんあるのか、と思ったことを鮮明に覚えています。「英語を勉強して海外に出たら、世界のいろんな人たちと出会えるよ」という小田さんの言葉を聞いて、高校卒業後は海外留学したいと思うようになっていました。そして大学3年の夏、UNDPエクアドル事務所に転職された小田さんを頼って初めてエクアドルを訪問し、この時国連で働きたいと思うようになりました。

Q. ジェンダーに関わるお仕事をされていますが、いつ頃から関心を持たれたのですか?

ジェンダーについて興味を持ち始めたのは、大学に入って開発学を学んでからでした。それまで「女の子はそんなことをしてはだめ、女の子だからこうしなさい」という言葉には、なんとなく疑問やある種の窮屈さを感じていましたが、それが社会通念や習慣など社会的・文化的に形成される「女性らしさ」や「男性らしさ」に基づく発言であり、社会を築く基本的構造の土台となっていることを知りました。そこから社会を見る目が変わり、いつかジェンダー分野で仕事がしたいと思うようになりました。

Q. 海外の大学では何を学ばれたのですか?

ワシントン大学では地理学部で国際開発学と地理情報システム(GIS)を学んでいました。当初、国際関係学部に在籍していたのですが、なぜか私が興味をもった授業は地理学部の教授が教えていることが多く、思い切って地理学部に専攻を変えることにしました。地理学部を卒業して就職先があるのか?という不安もありましたが、進路指導の教官の「好きなことを思う存分勉強できるのは学生の醍醐味なのだから、君の情熱に従いなさい」という助言もあり、学部を変更することにしました。それからは、地理学部の必修科目であるGISの授業で地図作成を学びながら、国際開発についても学ぶことにしました。

大学3年時には、ボリビアのチュマでGISのリサーチアシスタントをする機会に恵まれました。ボリビアでは、地図のない中、GPSを使い4,000メートル級の山々を歩きながら村の境界線を地図に記していくというプロジェクトに関わらせて頂きました。

Q. 吉村さんの境界線づくりの仕事の結果次第では、村同士の争いが始まってしまいかねませんよね。

そうなんですよ(笑)。政府がその地域に下水道を引こうとしていたので、境界線が必要だったようです。

ボリビアでのインターンシップ後、エクアドルを訪れ、先程お話した小田さんを通じて、当時ドイツの国際開発機関GIZが関わっていたアマゾン地域における先住民のエコ・ツーリズム・ビジネスの立ち上げ作業に立ち合いました。

ちょうどインターネットが台頭してきていた時期で、エコ・ツーリズムに携わっていた先住民の方々に「観光の宣伝をするためのウェブサイトを作る技術を持っていないのか」と聞かれましたが、そのような技能を持っていなかったので、先方をがっかりさせてしまいました。「僕たちは君に与えるものがあるのに、君は僕たちに与えるものが何もないんだね」と言われてショックを受けたのを覚えています。学生だから学ばせてもらう、という受け身な姿勢で開発の現場に行きましたが、現場では学生かどうかは関係なく、役に立つ技能を持っている人材こそが現場で必要とされる人間なのだということを痛感しました。そこで、大学卒業後は、情報科学が学べる会社に就職しようと思い、日本IBM株式会社(IBM)に入りました。

Q. 非常に多彩な経験をされていますね。

私の経歴を聞くと、地理学部で国連に入れるのかとか、IBMから国連に入れるのかと驚く方が多いです(笑)。

Q. IBMではどのようなお仕事をされていましたか?

インターネットについて勉強したくて会社に入ったつもりだったのですが、IBMではシステム管理部門に配属されました。ハードウェアとソフトウェアの構成管理や、顧客情報に関するセキュリティー管理、処理能力の低下を監視する性能管理など、顧客のニーズに合わせたシステム構築と管理を担当していましたが、最初の一年間はシステムで使うコマンドを勉強する研修に苦労しました。また、この時期にプロジェクト管理の経験を培いました。

IBMで3年経った頃には、システム管理が自分の適正には合っていないことも分かっていたので、大学院進学を考え始めました。JPO*1プログラムの参加には修士の学位が必要、ということを聞いていたので、いつか修士課程に進むことを考えていました。そこで、かねてから関心を持っていた観光開発専門の教授に師事するため、カナダのウォータールー大学大学院の地理学部に進学しました。在学中は台湾の烏来で台湾原住民のタイヤル族のご家庭にホームステイさせてもらいながら、タイヤル族の観光開発について調査をしました。

Q. 大学院卒業後は、どのようなキャリアを積まれたのですか?

国連に勤務されていた小田さんの「多様な視点を養うために国連に入る前にいろんな職を経験した方が良い」という助言もあり、卒業後は日本の非政府組織(NGO)で仕事がしたいと思うようになっていました。

ただ、いくつもNGOに応募したのですが、私には発展途上国での職務経験がなかったため、採用には中々至りませんでした。結果的に、途上国経験が必須要件ではなかった一般財団法人民際センターでの採用が決まり、晴れてNGOで働くことになりました。

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Q. 民際センターではどのようなお仕事をされていましたか?

主にラオスの小学校建設と保健事業、図書館事業に携わりました。小学校を通した健康保健システム設立のプロジェクト立ち上げを担当し、保健分野の仕事に初めて関わりました。プロジェクト・マネージャーとしての事業管理だけではなく、資金調達や組織の能力強化を主に行いました。また、寄付提供者の方々向けのスタディ・ツアーとして、ラオスの小学校で現地小学生との交流を企画したこともあります。

たくさんの事業がある中、小学校の建築事業と保健事業は今でもとても印象に残っています。このプロジェクトでは、日本の建築学科の教授と協力しながら建設・施工管理に関わる傍ら、小学校を通したコミュニティ・ベースの健康保険システムの設立に携わりました。この事業を通して、ジェンダーの観点からコミュニティとどう関わるべきか考えさせられました。というのも、プロジェクトチームと話をするのは男性陣の役割で、女性陣は部屋の隅の方で話を聞いているだけ。しかし、個人々々の女性と話をすると家族の健康管理に関する様々な意見が出てきました。女性たちの意見を男性主体のコミュニティの意見にどう反映させるか、思考する日々が続きました。

民際センターでの業務が1年程過ぎた頃に、JPO制度に合格しました。幸運にもジェンダーのプログラム分析官のポストに合格し、JPO第1号としてサウジアラビアに行く機会を頂きました。職場として中東を今まで考えたことはなかったのですが、一念発起し、サウジアラビアで働くことを決意しました。そして、JPO派遣予定の一か月前、前職を辞めるよう国連から通達があり、その一ヵ月後、民際センターを退職しました。しかしここで問題がおきました。なんと、サウジアラビアで働くための労働ビザが下りなかったのです。

Q. JPO派遣の間近でビザが出されずたいへんでしたね。

ビザ申請が却下されたのは初めての経験だったのでとてもびっくりしました。この時、すでに民際センターを退職してから半年間が経っており、UNDPサウジアラビア事務所で働くことを断念するのはもちろん、外務省から3ヶ月以内に新しい派遣先を自分で探すよう通達があり、正直焦りました。というのも、JPOは通常合格した年の翌年から1年以内に派遣先に赴任せねばならず、その派遣期間を超えてしまった場合、派遣断念の可能性もあるからです。当時、UNDPではジェンダーポストの公募が国連本部とUNDPレソト事務所にしかなく、迷った末にアフリカのレソトを選びました。派遣終了期日まであと1週間というところで、レソトのジェンダーとHIV/エイズ・ユニットへの派遣が正式に決まり、急遽中東からアフリカに派遣先を変更し、赴任しました。

Q. どうしてレソトに決めたのですか?

私が国際協力に興味を持った原点にある、幼少期のアフリカとの出会いを思い出したからだと思います。途上国経験が少なかったので、途上国に行きたいという思いもありました。途上国で仕事をした経験がほとんど無いにも関わらず、アフリカに派遣させてもらえるのは、これが最初で最後のチャンスかも知れない、とも思いました。ただ、派遣決定当時は地理学部出身にもかかわらず、レソトのことをまったく知りませんでした。とても小さな国なので、地図で見た時には湖だと思いました(笑)。

Q. レソトではどのようなお仕事をされていましたか?

レソトでは、HIV/エイズとジェンダーの様々な問題解決に関わる部門に入りました。

レソトは四方を南アフリカ共和国に取り囲まれた小さな国です。この国の特色として、女性の初等教育就学率が90%以上の高水準である、というアフリカの中では珍しい側面を挙げることができます。男の子は遊牧の仕事があるため、幼少期から家を留守にすることが多く、初等教育を受ける機会が限られています。一方、女の子は家事を手伝いながら家にいるため教育を受けやすいという背景があります。

地方自治体の役職の約半分は女性が就くなど、女性の社会進出に明るい側面がある一方で、レソトではジェンダーに基づく暴力(GBV)が問題になっています。また、レソトは世界で3番目にエイズの発症率が高い国でもあります。GBVの被害者は主に女性で、HIV/エイズ検査を含む緊急医療、相談・カウンセリングなどの心理的支援、自立して生活するための職業訓練や警察への被害届及び告訴の手続きなど、様々な支援を必要としていました。しかし、当時レソトにはそのような総合的な支援を受けられる施設がなかったため、国連人口基金(UNFPA)とUNDPがジェンダー省と共同で行っていた被害者救済センター(ワンストップ・センター)の設立事業に携わりました。また、HIV/エイズとともに生きる女性たちが、偏見や差別、暴力を廃絶するための政策協議に積極的に参加できるよう、リーダーシップ能力向上のための研修も行いました。

Q. 社会的弱者として見られる女性でありながら、どのようにレソトのコミュニティに働きかけましたか? 苦労したことを教えてください。

女性というよりも、外国人としてコミュニティに働きかけることに苦労しました。レソトは、国民のほとんどがソト族の単一山岳民族です。そのため、島国の日本人にも似たところがあり、やや閉鎖的で、外国人に対して警戒心を持つ人が多かったように思います。また、多くの国際職員は赴任期間が1年~2年と短く、職員の入れ替わりが激しいことから、継続的な信頼関係を築くことは容易ではありませんでした。表向きはこちらに賛同しているようでも、実際は電話に出なくなってしまうことや、プロジェクトに積極的に関わってくれなくなるということもありました。

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Q. それでは、レソトでのお仕事で信頼を得るためにはどのように働きかけましたか?

省庁との仕事では、できる限りカウンターパートナー*2の元に足を運び、話を聞くようにしました。特にプロジェクトの進捗が芳しくない時、何が弊害になっているのか、問題を解決するにはどうすべきか、など根気よく話を聞き、自分には何ができるか相手と解決策を話し合うように努めました。また、コミュニティ・レベルの仕事では、パートナーとなる地元NGOを探し、彼らを通して村の首長に働きかけました。現在、レソトはキリスト教信者が国民の95~96%を占める敬虔なキリスト教国ですが、一方で土着の文化も残っており、コミュニティにおける首長の存在は絶対的です。まずは首長と話し合い、協力を得ることが最初のステップでした。

女性という観点についていうと、レソトでは結婚して子どもがいることが一人前の女性の条件なので、村で女性のリーダーシップ養成に関わる際も、私に子どもがいないことで半人前と思われたことがありました。「外国人で半人前の私」がリーダーシップの話をしても、コミュニティから信頼を得るまで時間がかかりました。女性たちが私に現地の男性を紹介してくれたこともありました(笑)。

Q. 国連での仕事をする中で大切にしていることは何ですか?

コミュニケーションを大切にし、同僚から信頼を得ることにはいつも気をつけていました。相手の信頼を得るためには、自分ができること、できないことをはっきり伝えることが大切だと思います。最初は、会話の中でお互いを知ることから初め、信頼して「この人となら一緒に仕事をしてもいいかな」と思ってもらえるように働きかけるようにしています。相手をがっかりさせないことも大切だと思います。

Q. コミュニティから「これをしたい」という要望がたくさん出てくると、できることとできないことをはっきりさせることが難しそうですね。

レソトでは逆に、事業をする中で「こういうことがしたい」という要望を聞きだすことに苦労しました。国連のプロジェクトは単年度予算なので、カウンターパートナーが積極的に動いてくれない場合、こちらで率先して事業を進めてしまいがちです。しかし、それでは相手の主体性が育ちませんし、持続可能な発展のできる事業とは言えません。

そこで、レソトでは、プロジェクト・パートナーとなる省庁やNGOの能力向上強化に取り組みながら、
彼らを通して、コミュニティと事業をすすめるようにしました。ただ、女性のリーダーシップ向上に取り組んでいるNGOの数やプロジェクトに関わるジェンダー省の職員数と予算も限られていましたので、期待される結果を1~2年という短期間で出さなければならないというのはプレッシャーでした。そのようなジレンマの中で、現地の省庁・NGOの主体性をいかに高めながら恊働していくか試行錯誤の毎日でした。

Q. レソトから本部に移られた経緯を教えてください。

JPOの3年目で本部に移ってきました。レソトは比較的小規模な国連事務所だったため、業務全体を見られる絶好の職場でした。また、ジェンダーを担当していたので、民主的ガバナンスから貧困削減、エネルギーと環境、HIV・エイズと全ての部署と仕事をすることができました。レソトでメンターになってくださった事務所の副代表からは「国事務所全体の業務を理解するには最適な職場だけれども、2年もすると君が学べることは少ないと思う。キャリアアップのためには異動した方が良いと思うけれど異動先が見つからない場合にはここにいても良いよと」言われていました。ところが、その方が異動すると状況が一変。新たに異動してきた新副代表から突然、資金不足のためJPO3年目延長は不可と言われ、急遽異動先を探すことになりました。

その後5か月間、異動先を探し続けましたが決まらず、このままJPOも2年で終わりかなと諦めかけていた時、偶然ニューヨークの国連本部で受け入れてくれるという話が浮上し、2012年4月に本部のHIV、保健と開発(HIV、Health and Development)部に異動して来ました。その後1年半JPOとして同部署に勤務し、2013年9月から正規職員として同部署にて従事しています。

Q. 本部では主にどんなお仕事をされていますか?

今はジェンダー中心の仕事から離れ、日本政府が新しく拠出している「結核、マラリア、顧みられない熱帯病のための新規医療技術のアクセスと供給に関するパートナーシップ(The Access and Delivery Partnership: New Health Technologies for TB, Malaria and NTDs )」というプロジェクトに携わっています。このプロジェクトは世界保健機構(WHO)および米国シアトル拠点のNGOであるPATHとの共同事業で、UNDPは、結核、マラリア、顧みられない熱帯病(NTDs - Neglected Tropical Diseases)のための新しい世界的な医療技術の開発と、これらの疾病に対する新規医療技術のアクセスと供給を改善すべく能力強化に取り組んでいます。

Q. UNDPの役割は何ですか?

HIV/エイズに関してARVという薬が開発された当初、年間何百万円も費用がかかり、発展途上国で薬を本当に必要としている患者さんが払える額ではありませんでした。それが今だと年間に数万円で手に入るようになりました。特許の問題を解決し、患者さんが薬に手が届くようにするために、後発医薬品(ジェネリック医薬品)を作れるようにしたんですね。UNDPの一つの強みは、各国の国内法改正支援やHIV/エイズに関わる法整備支援の実績と専門性だといえるでしょう。その時の経験を活かして今度は、マラリア、結核、顧みられない熱帯病などに対する様々な政策や法の整備を支援しています。

そのほかは能力開発です。特許の問題を解決し薬が製造され、実際に貧しい国に送られて来て患者さんの手に届くまでにはあまりにも色々な組織と人が絡んでいるので、各分野のスペシャリストの能力開発が不可欠です。保健省関係だけではなくて、経済や貿易関係の省庁、法務省や外務省などが全部関わってきますから、UNDPは強みを活かし、多部門アプローチといって保健分野を越えて、省庁をまとめて調整し、能力開発を進めています。

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Q. 毎日のお仕事を具体的に教えてください。

今は国連本部で主にプロジェクトの全体的な事業管理(プロジェクト・マネージメント)と、運営管理(オペレーション・マネージメント)をしています。

具体的には地域事務所の職員とともに国事務所をニューヨークの本部から支援する業務です。ここでは基本的な背景に関する調書や、政策提言などを用いてグローバルな観点から最新の情報を把握し、各国の文脈を理解した上で戦略を練り、事業パートナーや地域・国事務所と共に事業を進めています。

Q. 日本政府は資金拠出をしていますか?

積極的にしていますね。日本政府は、昨年、民間企業、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、UNDPと共同で日本初の官民パートナーシップ(Private Public Partnership: PPP)である、一般社団法人グローバルヘルス技術振興基金(通称・GHITファンド)を設立しました。これは日本が有する新薬開発技術で途上国に貢献し、かつ国際保健分野においてリーダーシップを取っていく上で大変重要な出来事です。今まで日本の製薬会社は国内での技術革新自体は色んなところでたくさんしていますが、彼らが世界へ出るということはあまりありませんでした。また、今までは国際開発援助は援助する側からされる側という一方通行だった印象がありますが、今後はPPPを通して両側のwin-win関係を創っていくことで、お互いに発展していけるようになります。あげる方ともらう方という形ではこれ以上はもう発展しないと思います。

Q. 発展途上国の熱帯病のワクチンを開発するって、時間もかかることだしすごく難しいんじゃないですか?

確かに容易ではありませんが、もうすでに研究開発の部分については医薬品開発パートナーシップ(Product Development Partnership (PDP))と呼ばれる国際的な非営利組織が欧米を中心に存在しています。日本ではGHITファンドが立ち上がり、日本と海外の共同研究開発の促進と支援が期待されています。途上国で必要とされている医薬品・ワクチン・診断薬の研究開発・製品化に向け、GHITファンドは第一回助成案件でマラリア、結核、シャーガス病の治療薬およびワクチンの国際共同研究に対して、助成金を交付しました。その前から研究がずっと続けられて来て、薬の認可まであともう一歩の段階のところに最後の後押しとして資金を注入しているということなので、新薬開発の実現に期待したいと思います。

Q. 民間企業や、民際センターでの経験が国連の仕事に役に立ちましたか?

国連や政府、民間企業、NGOのそれぞれのメンタリティや仕事のスピード感にはかなり違いがあります。特に国連や政府は官僚的で、物事が動くのがすごく遅い。NGOはNGOで別の時間の流れで動いているのでその調整もたいへんです。援助国が日本政府だった場合、彼らも色々な国の支援をしているので、ある程度物事が動かないというのは承知ですが、それでもやはり最大限の努力をしないといけません。今回の事業では特に、日本政府やNGOのスピード感を理解した上で対応していかないといけないですね。協力関係を構築する上で、日本の企業、NGOで働いたという経験があって、それぞれの組織文化が分かっているというのは大きいと思います。

Q. 日本と海外で仕事していてどんなところが違うと思いますか?

コミュニケーションが難しいですね。それぞれの時間の感覚に慣れるのが一番たいへんでした。やはり日本の企業で働いていると、会議は5分前には準備して会議室にいることをずっと叩き込まれてきたので、レソトでは苦労しました。

レソトについてから3日目くらいにCEDAW (Committee on the Elimination of Discrimination against Women)という女性差別撤廃条約の実施報告書を評価するために、ジェンダー省の大臣との会合にUNDP代表として行くことになりました。遅れてはいけないと思い、運転手にジェンダー省に連れて行ってほしいと言ったら、「30分後にね」と言われてすぐに動いてくれなかったんです。大臣が出席する大切な会議だから遅れてはまずいので、お願いだから連れてって頼んだらとても嫌そうな顔をしてやっと連れて行ってくれました。

開始時刻の45分後に到着すると、会場には3人しか出席者はおらず、会議が終わってしまったのだと思っていました。すると、「あなたが3番目です。これからだんだんみんな来ます」と言われて。それから1時間くらい待つとようやくみんなが集まりました。

ヨーロッパの職員も数多くいたのですが、彼らも違う時間の感覚を持っているので、彼らとの調整もとてもたいへんでした。でも、色んなペース、職場環境を経験して、それがきっと、国連で働く醍醐味かなと思います。色々な国の文化背景、多様な国籍で、まったく違う環境で生きてきた人たちとプロジェクトを一緒に成功させようとすると簡単ではありません。しかし、できたときの達成感は大きいですね。

Q. ご趣味は何ですか?

趣味は山登りです。日本では山仲間と日本アルプスによく行っていました。今までで一番レベルの高かった山は、大学生の時の実習で行ったボリビアの山でしょうか。5,500mあるので、高山病にもなります。レソトも1,500mから4,000mの山が続くので、レソトに到着した当初、疲れるなと思って他の職員に話したら、標高が高いので最初はみんなすごく疲れるって言われました。すぐに眠くなってしまったり。ニューヨークでは州の北部にハイキングに行きます。ウッドベリーの西の方に綺麗な山があるので先日もハイキングに行ってきました。レソトは山ばっかりだったので良かったです。

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Q. 最後に、学生のみなさんにキャリア・アドバイスをお願いします。

学生の時にしなかったことでしておいた方が良かったと思うことは、インターンシップですね。学生の時は勉強が手一杯で、生活費を稼ぐ必要もあり、学校の中でアルバイトをしていて、単位をなるべく早く取って卒業したいと思っていました。そのため、お金にならないインターンシップに時間をかけられませんでした。ですが、卒業前に興味のある分野で社会経験があれば、自分の適正や将来就きたい職業への展望がもう少し明確になって、人生における寄り道が少なく済んでいたかもしれないなと思います。

今、うちの部署にも沢山のインターンの方がいらっしゃるのですが、どの方も重要な仕事に関わっています。シニア・アドバイザーなどと一緒に政策提言作成にも関わり、出版されるものに名前が出るのですが、それは一つの目に見える成果になりますね。UNDPがどういう仕事をしているのかというのが、一緒に仕事している中ですごくわかるし、学生のみなさんにはお勧めですよ。

*1:JPO派遣制度:将来的に国際機関で正規職員として勤務することを志望する若手邦人を対象に、政府が派遣に係る経費を負担することにより、一定期間(原則2年間)各国際機関で職員として勤務し、国際機関の正規職員となるために必要な知識・経験を積む機会を提供する目的を持つ制度。派遣先機関によりJPO(Junior Professional Officer)、AE(Associate Expert)、APO(Associate Professional )と称されることがある。

*2:開発途上国において実施している専門家派遣、技術協力プロジェクトおよびそのほかの国際協力事業において、技術移転や政策アドバイスの対象となる相手国行政官や技術者を指す。(参考:国際協力用語集 第3版; 2004)

2013年11月18日ブルックリンにて収録
聞き手:逢坂由貴、宮田由香
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャー:田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫