第161回 橋本直子さん IOM(国際移住機関)* プログラム・マネージャー
(*International Organization for Migration(国際移住機関)は国連機関ではありませんが、国連機関と密な関係をもちながら、世界的な人の移動(移住)の問題を専門に扱う国際機関です。)
プロフィール
橋本直子(はしもと・なおこ):国際移住機関(IOM)駐日事務所プログラム・マネージャ-。オックスフォード大学院難民研究所「強制移住学」修士号取得。日本政府ニューヨーク国連代表部・人権人道問題担当専門調査員、IOM本部人身取引対策課プログラム・オフィサー、国連難民高等弁務官(UNHCR)北部スリランカ事務所・准法務官、外務省総合外交政策局人権人道課・国際人権法人道法調査員等を経て、2007年より現職。同時に2010年7月から2013年6月まで法務省入国者収容所等視察委員会西日本委員。
Q. IOM駐日事務所では主にどのようなお仕事をされていますか?
IOM駐日事務所の業務は主に2つの車輪で成り立っています。一つは他の駐日国際機関事務所と同じで、資金集めや広報を行っています。実はIOM駐日事務所ではそれをたった一人の職員が担当していているんですが、それは珍しいことなんです。他の国際機関と同様、IOMにとっても日本政府は本当に重要なドナーで、過去10年くらいで考えると、常に上位5位くらいに入っています。例えば、中東やアフリカの緊急人道支援やシリアでの活動、また直近ではアンダマン海でのボートピープルの支援にも貴重な資金を頂いており、年間にすると何十億円という額に上ります。
そしてもう一つの車輪はとてもユニークで、日本国内で様々な事業を展開しています。これは、あまり知られていないので今回ちょっと詳しくお話したいと思います。私は主にそれら国内事業の取りまとめをしていて、過去8年間で数多くの事業を手がけました。まず、その中で一番長く続いているのは、人身取引の被害者の帰国支援と彼らが母国に帰った後の社会復帰支援で、この事業はすでに10年続いています。2005年から日本政府の拠出金を受け、250人以上の人身取引被害者の方々を支援してきました。
Q. それは日本人の被害者ですか?
いい質問です!日本政府から拠出を受けている人身取引被害者支援事業は、安全で自主的な帰国ということが主な目的の一つなので、私たちが日本政府のお金を使って帰国を支援する人は基本的には外国籍を有する方々です。日本国籍を持ち日本国内で人身取引の被害に遭った方々は国内にとどまるので、この方々については私たちが直接何かをするというよりも、自治体など様々な支援スキームと連携する形を取っています。
でも、例えば日本人とフィリピン人の「ダブル」の子どもが人身取引の被害に遭い、日本に連れてこられている場合など、彼らはフィリピンの国籍に加え日本の国籍も持っているのです。だから「○人ですか?」という質問はとても核心をついています。ただ日本政府から委託を受けてやっている人身取引被害者支援は、基本的には外国から連れてこられた方の母国への安全な帰還を支援するためのものです。
また政府資金以外でも、トヨタ財団から支援を受けて新日系フィリピン人の支援をしました。彼らJFC(Japanese-Filipino Children)達は、得てしてブローカーなどに騙されやすい立場にいるのですが、彼らが安全に日本に移住できるようなスキームを立ち上げました。この2つの事業は人身取引を考える上でとても重要な活動だと思っています。
3つ目に、実はものすごく大きい事業を2009年に始めました。おそらく日本にある国際機関が平時(東日本大震災関連事業を除く)に国内で直接的にやってきた中で金額的には一番大きい事業なのではないかと思います。それは、37億円以上という大きな予算を日本政府からお預かりして実施した「定住外国人の子どもの就学支援」(虹の架け橋事業)です。
これは、基本的に日本の学校に通えていなくて、なおかつ他のエスニック・スクールなどにも金銭的理由などで通えず、ドロップアウトしてしまった外国につながる子どもたちの学習・就学支援です。例えば、日系ブラジル人やペルー人の方の中には日本に長くお住いの方々がおいでです。もし彼らが日本語を話せないと、彼らも私たちも困りますよね。日本語が分からない、また日本に居場所のないティーン・エイジャーはいろいろな意味で不安定で、日本社会で不良みたいになってしまう場合があるので、それを防ぐという意味合いもあります。
この事業でIOMは基金の事務局として機能して、2009年度の補正予算から37億円強の税金をお預かりし、年間最高2,000万円という予算で、全国の自治体・NGO・学校法人などの「虹の架け橋教室」を実施して下さった団体にお金を委託していました。居場所がなくなっている子どもたちが虹の架け橋教室に半年ほど通うことで、その後に一般の公立の小中学校や、高校、エスニック・スクールなどに転校できるように支援したのです。
そういう子どもの親御さんたちは仕事が忙しかったり、自身も「移民」として日本に来たので日本の教育制度に不慣れだったりで、子どもの教育の面倒を見られない方が多いんですね。なのでその代わりに虹の架け橋教室でお世話をして、「学ぶということがどういうことなのか」も教えています。また、日本語を学んでもらって日本の学校に転校できるようにするというのが主目的ではあるのですが、家庭にも社会にも居場所がない子どもたちの中には多動性障害、つまりじっと座っていられない子も多く、それも以前からそうだったのか、日本でのストレスや成長過程の中でそうなってしまったのか見分けることが難しいお子さんもいたようで、そういった大きな意味での子どもの支援にも繋がったようですす。
このプロジェクトは6年間継続され、今年の3月で完了しました。この6年の間に8,000人を越える子どもたちが虹の架け橋教室に通ってくれて、そのうちの約4,000人が小中高校に転校できたのです。政府予算のうちの37億円は全て血税ということで、すごく身の引き締まる思いで運営をさせていただいたのですが、結果として目に見える成果を残せたので、この事業は本当にやって良かったなと思います。実際に地元で「虹の架け橋教室」を運営して下さった方々には毎日大変なご苦労があったと思いますが、本当に感謝しています。
国内事業でここまで大規模の事業に関与させていただくのは初めてだったのですが、実はそれをチーム3、4人、しかも全員現地職員で回していたんですよ。国連の感覚だったら、この規模のプロジェクトは、P4(初級管理職)スタッフを何人も雇ってという感じの規模なんですが(笑)。のべで180件位の教室事業を扱いました。今年の4月からは、それぞれの自治体が音頭を取って、自治体のお金と中央政府からの補助金で継続することになりました。IOMの事務局としての関与は終わりましたが、良い意味での「発展的解消」だったと思っています。
IOMが行っている4つ目の国内事業として、難民の第三国定住の支援があります。この事業は、主にミャンマーのカレン族の難民を日本に受け入れるというもので、2008年の閣議了解を基に、実際の受け入れは2010年から始まりました。タイの難民キャンプにいるカレン族を含むミャンマー難民を2010年~2014年で18家族86人、日本に受け入れました。
もともとIOMは、1951年に設立されたんですが、第二次世界大戦直後に欧州にいた多数の難民・避難民の第三国定住を目的に作られた国際機関なんです。難民条約と同じ年に創られ、それまではIRO(International Refugee Organisation)があったのですが、それをUNHCRとIOMに分割したのです。難民の受け入れとしては当時、ソ連から逃げてきた人たちを欧州が受け入れていたのですが、スターリンは「彼らは難民ではなく背信者だ」って言ってたわけです。だからソ連は国連が第三国定住を支援することを良しとしなかったんですね。こうした背景からIOMは、主にアメリカの意向を受けて、ソ連の拒否権が届かないよう国連外の機関として設立されたのです。そこで、共産圏から逃げてきた人たちや欧州で過剰な労働力となりつつある人々を南米や北米などの新大陸に第三国定住させてきたのです。
ですから、第三国定住自体はIOMにとっては新しいことではないですが、日本にとっては非常に新しく画期的な取り組みだったので、この事業には特に注力してきましたし、私はIOM駐日事務所の中ではフォーカルポイント的な役割を果たしてきました。色々あったのですが、18家族86人を日本に迎えることができたことはとても嬉しかったです。私、難民の方々が到着するときにはいつも空港にお迎えに行くんですけど、毎回感極まって泣いちゃうんですよね(笑)。泣いちゃったら仕事にならないのですが。
ある人の運命って普通は、その人の生まれた国、そしてその人のお父さんお母さんの国籍である程度決まってしまいます。それが、国境線を持ち国籍を付与する専権的権威を持つ「国家」を構成単位として成り立っている現在の国際社会の現実だと思います。それが第三国定住っていうのは、例えばミャンマーの少数民族で迫害されてた人が日本人になるということなんですよね。SomaliがSwedishになる、AfghanがAustralianになる、つまり、ソマリアで生まれた人がスウェーデンで、スウェーデンで生まれた人と同等の権利を得て、例えば公務員にもなれる。
その意味で第三国定住って、国家からなる国際社会の不条理でアンフェアな部分を劇的に変える方法なのです。そしてその人の人生を大転換する瞬間に立ち会えるっていうのは本当に感動的ですね。正に「劇的!ビフォーアフター」です。私はそうした、人の運命を変えるような仕事に関与していることがとても嬉しいし、英語でいう「humbling」な気持ちになります。「支援している」ではなくて「お手伝いさせていただいている」、何かやってあげてるという気持ちではなく、人生の貴重な瞬間に立ち合わせてくれてありがとう、と。自然に謙虚な気持ちになりますね。
5つめの事業として、日本で非正規滞在になっている外国人で長期収容されていたり、法的に不安定な立場にある人たちの帰国支援をしています。非正規滞在の人たちはなかなか母国に帰ろうとしません。一方、国境管理ってそれぞれの国がして当然だし、入管法に違反したら母国に帰らざるを得ない人もいます。でも帰りたくない人、病気などの人道的理由で帰れない人、母子家庭でお金が無い人もいるので、私たちは彼らに対して日本からの帰国支援を行っています。
帰国支援は欧州では70年代から始まっていて、年間何億円という予算で行われています。結局、外国の収容所に何年も何年もいても、その人の人生に何のメリットにもならないし、収容所に不必要に滞在させることは、税金の適正な使用でもありません。なので、長期収容と退去強制に変わる措置として、そのような外国人の自発的な帰国と社会復帰の支援をしています。2013年から法務省からお金をお預かりして実施していて、これはこの先多分大きくなっていくのではないかと思います。
6つめはいわゆる事業ではないですが、法務省が所管する入管収容所という閉ざされた世界をオープンにするという仕事です。2010年、法務省が「入国者収容所等視察委員会」という委員会を立ち上げたのですが、私は2013年までその初代委員にならせていただきました。収容所やその関連施設は全国に数十か所あり、そこでは非正規滞在者が収容されていて、刑務所と同様極めて閉鎖的で内情がどうなっているか判らないため、不祥事も起こりやすいのではないか、という懸念がありました。不透明であるためにその中で何が起こっているか判らず、それは国連の人権関連の委員会からも指摘されていました。
それで2010年に法務省が入国者収容所等視察委員会を立ち上げたのです。委員会は医師や弁護士、学者など10人の独立した専門家から成っていて、私は国際機関職員という枠で入りました。全国にある収容所や関連施設を回り、そこで収容されている方々にインタビューを行ったり、施設が人権基準に合致しているかなどをモニターさせて頂きました。
恐らく今の社会の趨勢として、悪いことをしていなければ情報を閉ざす必要はない、オープンにして公共の眼が届くようにすることが重要だ、という認識が広がっているのではないかと思います。また政府としても、第三者による適正な運営の認証を得ることができるわけですから、この活動も責任ある仕事としてやらせて頂いていました。刑事施設視察委員会は前からあったのですが、入管収容所は日本でもタブー視されていたこともあり、そこに第三者を入れたのは大きな一歩だったと思います。
最後に、東日本大震災関連で、東北でも少し事業をやっていました。被災された方々の中には外国に繋がる方もいらして、お金がなくて帰国できない方を支援しようという事業でした。が、実際に帰ったのはわずか100人くらいでした。東北にいらっしゃった外国につながる方々は、自分も辛いけれど、でもやっぱり東北の復興に一緒に関わりたいから残りますという方がほとんどで、それはとても嬉しかったです。何万人も帰ってしまったらどうしようという不安とともに事業を立ち上げたので。アメリカの赤十字から3億円の予算をお預かりしたのですが、お金の7割くらいはお返ししました。嬉しいサプライズでしたね。
IOM駐日事務所は、所長を入れて10人しかいなくて、その中で所長が1名、広報・資金調達が1名、財務や庶務が2名なので、残りの6人でこれらの事業を回していたんですよ。凄いでしょ(笑)。 これだけの事業を自分の国で関わらせていただけたのは、すごく楽しかったし、毎日やりがいがありました。
そうこうしているうちに8年も経っちゃいました。私はしばらく日本ベースで、ポストの椅子取りゲームに煩わされることなく腰を落ち着けて仕事そのものに専念したいと考えていたので、(ローテーションの無い)ナショナル・スタッフとして雇ってもらっていました。アフガンやシリアなど厳しい生活環境で活動しているわけではないので、国際組織の中での昇進という観点からはあまり良い選択とは言えないけれど、家族とも一緒の時間を過ごすことができ、それでいて私にとっての夢の仕事「Dream Job」をやらせていただけたのは本当にラッキーだったなぁと感謝しています。
Q. 一日のスケジュールはどのような感じですか?
何で鳴るんだ!と目覚まし時計を睨みながら7時過ぎに一応起きるフリをします(笑)。ただ出勤は10時までにすればいいので比較的ゆっくりです。良しきにつけ悪しきにつけ、メールは家でも見られるので、家でもメールチェックをします。日本はタイムベースで行くと世界で時間が来るのが早めなので、そういう面で有利だと感じています。「その日」ということに限れば、出遅れて目覚めることはないので良いですよね。
あと、実は私はかなりの数のトレーニングや講演や研修でお話させて頂いています。人の移動や移住関係の分野は日本の専門家の層はとても薄いのです。例えば、安全保障の専門家は日本に何百人もいるけれど、移住の専門家って本当にいないんですよ。だから、講演などはこんな私が呼ばれちゃうんです。多いときは年に50回とかあります。一週間に1回のペースです。多いときは土曜の午前に1回、午後に1回、日曜の午前午後に1回ずつ、1週末だけで4回の講演とかもありましたよ(笑)。平日は、朝オフィスに行かないで講演会場にそのまま向かうことも頻繁にあります。
また、今一番活発なのは第三国定住と帰国支援なので、それは一日の中で大きなウェイトを占めますね。今年の第三国定住はマレーシアから来る予定ですから、それについてIOMのクアラルンプール事務所と電話会議をしたり、これからパートナーシップを組もうとしている組織との契約書のチェックなどの、いわゆるオフィスワークをします。メディアからの問い合わせも結構あります。この前のアンダマン海のことでしたり、地中海で船が沈んだことについてはメディアから取材を受けます。電話インタビューもありますね。
本当にルーチンワークがないです。私たちは常に「case」、一人一人の方の人生を扱っているので、対処方針については同僚と常に議論しています。身内を褒めるようでアレですが、駐日事務所のスタッフは本当にみな非常に優秀なので、本当に助かっています。そうでなければ、この人数であれだけの事業は回せません。
Q. 海外・国内出張はおありですか?
具体的な事業を展開しているので国内出張は「これでもかっ」ていうくらいあります。新幹線に飛び乗り乗車できるようになりました。一方、海外出張は年に1、2回くらいしかありません。全世界にIOMの事務所は400か所以上あり、完全に現地型なのです。職員が全世界で約9,000人いるのですが、本部のジュネーブにいるのはたった200人くらいなんですよ。
さらに、国際スタッフの比率もとても低くて、ほとんど現地国で雇用されるスタッフです。IOMは現場型だから、現地語ができないと話にならないわけです。それで、現地語ができることを国際スタッフに求めることは酷でしょう? そうすると、現地で英語がかなりできて優秀な人を雇った方が色々な意味で効率が良いんです。現地語ができて現地のネットワークもある人が活躍しています。
先ほど紹介したような事業を回しているので、日々その事業に追われています。一時期は終電駆け込み乗車の時もありましたけど、最近は特別な時以外は大体19時くらいにはそろそろ店じまいかなという感じですね。
Q. IOMに入った動機と22歳で「強制的移住」という分野に決めた理由は何ですか?
私、22歳までずっと日本にいて帰国子女でもないし留学もしたことなくて、それこそ初めての海外旅行は16歳の時家族で行った「JTBで行く香港5日間の旅!」だったんですよ(笑)。ただ、初等科から大学まで通っていた学校がカトリックで、校風として色々なボランティアをすることが推奨されていたのです。それで、学生時代に様々なボランティアをやっていた関係で、たまたま1998年の1、2月に旧ユーゴスラビアのセルビアに行って、難民孤児と遊ぶ機会を頂きました。
あの当時、旧ユーゴスラビアは混乱していて国境そのものが不安定だったため、彼らは難民なのか国内避難民なのかも複雑になっていたんです。そこで、避難民の方や、クロアチア人とセルビア人のダブルで生まれたけれど両親がどちらも殺されてしまった子どもたちを訪ねたり、家を追われた人々から直接話を聞く機会があったのです。そうしたなかで、1枚の絵に出会いました。それは一緒に遊んでいた難民孤児だった女の子が描いた絵なのですけれど、家が燃えてて人が死んでいて戦闘機から爆弾が落とされている、という絵で・・・。こうしたことが原体験となりました。
また、一番覚えているのが「collective house」という避難所、それも納屋みたいなところなのですが、そこで生活をしている方々が、明日の自分の生活も分からないのに、わざわざ日本から私たちが来たということで大きなパンを用意してくれたんです。フォッカチャの固くて大きい版をイメージして頂ければと思うのですが、彼らがいた避難所に入る前にそのパンをもぎって、お塩に付けてかじるという儀式をさせてくれました。自分たちが明日どうなるか分からないのに、しかも私たちは単なる学生ボランティアでお金などの寄付をしに来た訳でもないのに、生活がギリギリにも関わらずとても歓迎してくれて、また、彼らとしては多分話したくないようなことも話してくれたのです。
その経験を通じて私は彼らにたくさんのことを教えてもらいましたから、大きな意味で恩返しがしたいと思ったのです。また、冬のセルビアってものすごく寒いんですよ。最低気温マイナス20度くらい。そこで彼らは避難所でなけなしの薪で暖をとっているのですが、私たちが帰る時には冷暖房完備の豪華なバスが迎えに来て。彼らがそのバスを驚いて見上げた表情を今でも覚えています。そこでやっぱり不条理なものを感じずにはいられませんでした。私には帰る場所がある、パスポートがある、安全な日本に戻ることができる。一方で彼らには帰る場所がない、アイデンティティがない、難民なのか国内避難民なのか、国境を越えたのか越えてないのかも分からない、守ってくれる人も国もない。そういうことを学ばせていただきました。
つまり「持つ者と持たざる者のギャップ」というのは、金銭の差ではなく、パスポートを持っているか、自分を守ってくれる国があるか、そうした差なのではないかと考えます。だから、そうした意味で「持たざる」人たちを少しでも助けたい、そう思うようになりました。
あとは単純に、この分野を勉強してみたらすごく面白かった!当時大学卒業後はイギリスの院に行くことが決まっていて、国際関係論を学ぼうと思っていたのです。けれど、ユーゴでの経験を受けて大転換して、強制移住学や難民学を専攻にしたんです。それで、実際に学んでみたら思っていたより遥かに面白かった。「国境」という極めて厳格な制度に、国を越えて移動する人たちが立ち向かっているように見えたのです。
なので、たった2か月の経験でしたが、このセルビアでの経験で人生の方向性が定まりました。難民学や強制移住学、これしかない!って。だから専門調査員としてニューヨークの国連代表部に行った時も分野は人権・人道でした。早い段階でキャリアの方向性を決めることができたのは幸運だったと思っています。
Q. なぜ国連だったのでしょう?
国連にこだわる必要は正直ないと思っています。これからNGOで働くかも知れないし、それこそ大学で教鞭を取るかもしれないですし。ただ、私の分野でいうと「家を追われた人々」とか「難民保護・支援」なので、国境管理ということと切っても切れないんですね。そして国境管理というのは主権国家の専権事項な訳です。ですから、実務家である限り、私が貢献できるのは政府かあるいは政府がやっている国境管理に一定のオーソリティをもって物を言える国際機関だということになります。だからUNHCRかIOMなのです。あ、でも日本の入管への就職も真剣に考えた時期もあったんですよ(笑)。
Q. これからのキャリアプランをどのようにお考えでしょうか。
実は今ちょうど過渡期にいます。9月からIOMはいったん休職して、日本財団の国際フェローとして、イギリスのサセックス大学院の博士課程に進学することが決まっています。日本の難民受け入れについて役立つような研究をしていきたいと考えているんですが、4、5年後に仮にめでたく博士号が取得できたとして、その後は具合的なことは決めていません。きっとその頃は路頭に迷っていると思いますので、このインタビュー記事を読んでいらっしゃる諸先輩方に愛の手を差し伸べていただければ幸いです(笑)。
Q. (田瀬)ニューヨークの国連代表部に専門調査員としておいでになっていた頃から存じ上げていましたが、直子さんは学者になると思っていました。
本当ですか?こんなことを言うと、まだそんなこと言っているのかって思われるかもしれませんが、正直、今でも自分が何に向いているのかよく分かっていないんです(笑)。やりたいテーマは決まっているんですよ。難民とか移民とか、いわゆる「強制移住問題(forced migration issues)」という分野ですね。この分野で生きていきたいっていうのは、22歳からブレていなくて。今までもそう、多分これからもそう。ただそのテーマにどういう立場で関わっていくのかはよく分かってないんです。ただどうであれ、ちゃんと今までやってきたこと、考えてきたことを書き上げたいという思いはあります。経験や学んだことを残さないのは勿体ないですよね。書き残しておくことの価値はとても感じるのです。
Q. 休日はどのように過ごされていますか。
かなり地味です(笑)。修士号を取得してから十年以上も経っていて、人の移動の分野は、特に欧州ではルールも運用もどんどん変わっています。それで、古い知識に基づいて研修や講演をするのはよくないと思い、2年位前から通信教育でロンドン大学の国際人権法というコースで学び直しているんです。お医者さんから10年前の技術に基づいて手術しますって言われたらゾッとしますよね?
この、ロンドン大学の国際法通信教育コースというのはかなり有名らしく、ネルソン・マンデラさんも獄中でなさっていたそうです。その影響もあっていろんな人が受講されていて、例えばイギリスの裁判官でさえ取っているらしく、すごく厳しいんですよ(笑)。このコースを始めるまでは、土曜日の午前中は茶道のお稽古に行って午後は友人と会ったりお料理を作ったり、合唱団にも所属していたし、日曜日はジムで泳いだりハイキングにいったりとか、そんな風な休日を過ごしていたんですけど。最近は土日は勉強時間になってしまいました
働きながらなので進展は遅いですが、正直学び直すことができて本当によかったと思っています。講義は国際人権法とヨーロッパの移住・難民法と国際刑事法と、あとは基礎的な条約法などを取っています。欧州人権裁判所の最近の判決など、知っていないとお話にならないこととかもあります。こうしたことを自分だけでやろうとするのは難しいですからね。効率よく構造的に必須文献や判例を知るという意味でも、教えてもらうというのは逆に早道かな、と感じています。
Q. 若手の読者にメッセージをお願いします。
とにかくご自分が好きなことを見つけて欲しいということです。よく「国際機関で働くためには何を勉強すればいいですか?」と聞かれることがありますが、これは本当に困ります。だって、事務総長になりたいのか、安保理の通訳になりたいのか、WFPの現場で働きたいのか、ITでやっていきたいのか。どれになるかによってそれぞれ道が違うから。私がみなさんが好きなことを決めるわけにはいかないので、まずは自分のテーマ、三度の飯より好きなものを見つけてください!
さっき田瀬さんも触れられましたが私、国連代表部にいた時は長い時で一日20時間くらい働いていて、週末は本当に家でゾンビ状態だったんですが、それでも休日は難民についての新しい記事や論文を多分薄ら笑いを浮かべながら読んでいました。多分国際機関で働こうと思ったら本当にそれくらい好きじゃないとやっていけないと思います。キャリアを積んでいく中で、きっと誰にも絶対に思い通りにならない時ってあるんだと思うんです。その時に「ま、自分の好きなことだからいいや」って思えるか「こんなはずじゃなかったのに!」てなるかで全然違うと思うんです。後者になってしまうと自分が辛いし大変だと思います。「好きこそものの上手なれ」て言葉通りですよね。
あとは、もし好きなことを見つけられなかったら、見つかるまで色々なことをされていったらいいと思います。そのために遠くの危険な場所に行く必要は一切ありません。安全な場所で身近なところからやっていけばいいんです。国際貢献とか国際協力って途上国に行って何かをする、というイメージが強いと思いますが、そうではありません。
私が8年間日本で働く中で出会った方々がいます。それは虹の架け橋教室で、路頭に迷いそうな子ども達を一生懸命支えていた地元のおばちゃん。その方々が地元の小さいプレハブ小屋でやっている日本語教室って本当に素晴らしい価値だと思うのです。目立たないし、誰も彼らをインタビューすることはないかもしれないけど、その地元の力というのはものすごい貴重な国際貢献だと思うのです。
あとは人身取引で保護された方々が保護されているシェルターで働いているおじちゃん、おばちゃんたち。彼らは外国語とかはまったく話せないけれど、暴力を振るわれ命からがら逃げてきた被害者の人たちを、言葉は通じないけれど本当に一生懸命ケアしてくださるんですよ。その素晴らしさを私は学ばせてもらって。ニーズは隣、リソースはその地元にあると思うんです。だからわざわざ遠くに行かなくても、非常に意味のある国際貢献・国際協力は十分にできます。まずは地元から、身近なところから始めていけばいいと思います。
女性の人権を謳っているのに自分のお母さんを大切にできなかったり、人権と言いながら自分の家族を大切にできないのは悲しいことです。だから本当に身近なところから始めて行けばいい。どこで働くかじゃなく何をするかが大切なので、そこを考えていけば自然と好きなことも見つかると思います。
あとは、現場から学べ、ですね。私はJPOで最初本部に配属されたんですけど、あれは間違いでしたね。本部や大きい事務所に行っても、当たり前ですけど、最初から大事な仕事は任されないです。だから現場に行ってみましょう。フィールドという、実際に何かそこでモノが動いているところで学べることってたくさんあると思います。特にJPOになって選択肢があるのなら、極力フィールドを経験していただきたい。
私、今のIOM駐日事務所でのポストについて声をかけて下さった当時の所長にはっきり言われたことがあって。それは、「橋本さんが、スリランカ北部での現場経験を積んでなかったら声かけてなかったよ。」って。私自身もJPOで本部に行った時に、このままジュネーヴに2年いたら頭の勉強にはなるけど、「使えない人」になっちゃうなと思ったので、がんばってUNHCRの外部採用公募試験を受けて、切符を手に入れてスリランカに行ったんです。現場に行けば若くても任せてもらえることが多いし、本当にいろんな経験ができますよ。
2015年6月20日東京にて収録
聞き手と写真:山内ゆりか、田瀬和夫
共同編集長:赤堀由佳&田瀬和夫
原稿起こし等:山内ゆりか、田瀬和夫
ウェブ掲載:田瀬和夫